最近どうも我が家が暑い。 「我が家」と云っても妻の実家に寄生しているのだが。 我が家は今全国的にもやたらと人口が増えている町にあるが、郊外であるからまだまだ緑は多い。 実際我が家の隣は金持ちの広い畑である。 だから街中のようなヒートアイランド現象とは無
リアル写真で花札を作る20-無知により牡丹札全て欠品-(それでも生きてゆく私294)
2度にわたる撮影によって5月の杜若札4種の制作に成功した私は、次の作業に取り掛かった。というより取り掛かろうとした。 次は6月の牡丹札である。 妻に「県内で牡丹の名所ってどこだろうね?」と尋ねる。 「確か孟子の里(仮名)に牡丹園があったと思ったけど。なんで?」
リアル写真で花札を作る19-杜若札完成-(それでも生きてゆく私293)
人出が少ないうちにと杜若札を事前に撮影した私である。 翌週の最初の休日は危惧した通りの雨。 翌日も雨だったらもう暫定札で決定するしかない。 ところが幸い翌日はスカッ晴れ。 行ってみると菖蒲の名所も満開である。 ところが、「この構図で」と思っていた場所の
取り敢えずリアル花札の杜若札に使える写真を確保した私は、急に田原坂に行きたくなり、まず政府軍墓地に向かったのだった。 政府軍墓地の入口にはまずこの松と説明の看板があるのだが、注意に問題のある私は早速これを素通りしてまず墓碑の方に向かったのだった。 そこ
とりあえずリアル花札の杜若札を暫定で撮影した私は、玉名から熊本までの帰り路、急に「田原坂に行こうかな」と思い立った。 「田原坂」といわれても、他県の人には「え? たはらざか?」くらいの印象しか与えない土地かも知れない。 実際私の棲む熊本県でもこの地名に関
リアル写真で花札を作る18-これだけ雨が降れば保険が必要-(それでも生きてゆく私292)
杜若札は「杜若に八橋」だけになった。 これが撮影できるのはおそらく5月の下旬なのだが、「藤に時鳥」のように肝心な時の雨で欠品をだしてはいけない。「(株)リアル花札本舗(架空) 」は信用第一なので、とりあえず暫定でこの札を作らなければ。 ということで再びやって
リアル写真で花札を作る17-八橋って食べ物じゃないの?-(それでも生きてゆく私291)
私がリアル花札杜若札の撮影地を探したとき候補にしたのは、県北の有名な水辺公園と、県南の有名な庭園であった。どちらも熊本県では菖蒲(杜若ではない)の名所である。 ではなぜ県南の庭園ではなく県北の水辺公園になったかというと、決め手になったのは「八橋」の存在で
リアル写真で花札を作る16-何となくフ〇ドシ臭のする赤短-(それでも生きてゆく私290)
スカ札が割と楽に作れて上機嫌の私はすぐに「杜若に赤短」の制作に取りかかかった、じゃなかった、勢いが付きすぎた、取り掛かった。 まだ咲いていない蕾を避けて葉の部分に傷をつけないように糸を引っかける。Sun TELEPHOTO 38mm F1.9 + PENTAXQ10 うーん。前回の「藤に
リアル写真で花札を作る15-いずれが菖蒲か杜若-(それでも生きてゆく私289)
さて、残念ながら4月藤札では欠品を出してしまったが、めげてはいられない。次は5月杜若札である。 前回も書いた通り今年は全体に花が早いから、うかうかしていると杜若も欠品を出してしまう。 これを書いているのは5月の上旬なのだが、旧暦は新暦より1月以上早いから、
リアル写真で花札を作る14-無情の雨で欠品第一号-(それでも生きてゆく私288)
残念ながら欠品のお知らせである。 5月の藤札のうち「藤にホトトギス」製作は来年に先送りである。 そうなった最大の原因は今年の春の異常な気候である。 春から初夏にかけて日本列島各地では木蓮→梅→桜→桃→藤、と、見どころのある花がまるで約束してでもいるかのよ
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最近どうも我が家が暑い。 「我が家」と云っても妻の実家に寄生しているのだが。 我が家は今全国的にもやたらと人口が増えている町にあるが、郊外であるからまだまだ緑は多い。 実際我が家の隣は金持ちの広い畑である。 だから街中のようなヒートアイランド現象とは無
またまた『徒然草』の師匠モノである。 「またまた」といえば、かつて『パイプのけむり』という随筆があったことを思い出した。 これは正編の評判がよかったのか次々に続編が刊行されたが、これが「2巻、3巻」ではなかったのが面白かった。 『パイプのけむり』『続パイ
古文初学者向けの『徒然草』で忘れていたものがあったので一つ。 それは「公世の二位のせうと」という話である。 これは歴史的仮名遣いの良い勉強になる外に、話としてもなかなか面白い。 まず、初学者は「せうと」が読めない。 これはローマ字で考えると分かりやす
『枕草子』で「春はあけぼの」と並んで定番なのが「うつくしきもの」である。 「うつくし」は例によって先生が、「古文の『うつくし』は『美しい』ではありません。『可愛い』です。」と声を張り上げそうだが、これまた「をかし」や「あはれなり」と同じく生徒に印象付け
久し振りに『枕草子』である。 しかもド定番の『春はあけぼの』。 この段はほとんどの人が中学の時に習っていて、かつ、暗誦させられて今でも諳んじられる人もいるかもしれない。[原文] 春は、あけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎわ、すこし明かりて、紫だちたる雲の
教科書に載っている『徒然草』はなぜか人生訓や説教じみたものが多い。 前回取り上げた「友とするに悪しきもの七つあり」なども教訓と云えなくもない。 これまたよく教科書に取り上げられる52段「仁和寺にある法師」もまた最後は教訓である。[原文] 仁和寺にある法師
青春は悩み苦しむ時期である。 「自分とは何者なのか」「自分はどうやって生きて行けばいいのか」 いわゆるアイデンティティについて、初めて真剣に考える時期だからである。 自分の長所だけではなく、短所をも、これまでそうしてきたような直感的な把握ではなく、初め
久々の『徒然草』である。 古文初学者の教材としてよく用いられるものに109段「高名の木登り」がある。 [原文] 高名の木登りと言ひし男、人をおきてて、高き木に登せてこずゑを切らせしに、いと危ふく見えしほどは言ふこともなくて、降るるときに軒たけばかりになりて、
高校生の古文入門編として、「児のそら寝」と共にもう一つよく使われる『宇治拾遺物語』が「絵仏師良秀」である。[原文] これも今は昔、絵仏師良秀といふありけり。家の隣より火出で来て、風おしおほひてせめければ、逃げ出でて、大路へ出でにけり。人の描かする仏もおは
高校で古文を習う時、入門として最初に教わる教材として、『宇治拾遺物語』が使われることが多い。 特に多いのは「児のそら寝」である。[原文] 今は昔、比叡の山に児ありけり。僧たち、宵のつれづれに 「いざ、かいもちひ せむ。」と 言ひけるを、この児、心寄せに聞
無情の雨で二つの花は散ってしまった。 どういうものか牡丹札の撮影は雨に祟られる。 それでもまだ1個だけ牡丹が咲いている。 これに今年最後の望みをかけて「牡丹に蝶」撮影は休日である4月19日(韓国では学生革命の日である。全然関係ないけど)の午後一杯を使って行わ
牡丹スカ札と「牡丹に青丹」の作成が終わり、いよいよ次は「牡丹に蝶」の撮影開始である。 というより、私は今年の牡丹が咲いた瞬間からあわよくばまず「牡丹に蝶」を撮影するつもりであった。 それ以外の札はそれからでも十分間に合う。 ところが、花が咲いたのはいつ
3年越しの執念が実り牡丹スカ札を手にした私であったが、本命の「牡丹に蝶」を作成する前にもう一つの課題が残っていた。 「牡丹に青丹」である。 現在までに私が最も出来が良いと思っている青丹札は「紅葉に青丹」である。 リアル写真で花札を作る29-紅葉青短の芸術-(
全国のリアル花札ファンの皆様(推定100名)、お待たせしました。 我が「(株)リアル花札本舗(架空)」が2年振りに放つ新商品、「牡丹スカ札」でございます。 思えば、植木屋に騙されて添付の写真とは似ても似つかないピンクの牡丹を買わされたのが2年前。 しかも花が咲い
垓下を約800騎で脱出した項羽は、漢軍の5000騎に追跡され、20数騎まで数を減らして烏江(うこう)という河の畔までやって来る。 ここを越えたらもう江東である。かつて会稽の郡守殷通を殺して兵を挙げたところだ。[書き下し文] 是(ここ)に於(おい)て項王乃(すなわ)ち東(ひ
[書き下し文] 項王則ち夜起(た)ちて、帳中(ちょうちゅう)に飲(いん)す。美人有り、名は虞(ぐ)、常に幸せられて従う。駿馬(しゅんめ)の名は騅(すい)、常に之(これ)に騎(き)す。是(ここ)にて項王乃ち悲歌忼慨(ひかこうがい)し、自ら詩を為(つく)りて曰く、「力は、山を抜き、
遂に天下二分の和睦が結ばれた。 最初の形勢からするならば信じがたいことである。 和約は鴻溝を境として東を楚、西を漢とするものであった。鴻溝は黄河と淮河を結び南北に走る運河である。 項羽が約に従って東に帰ろうとしたとき、突如として漢軍が背後から襲い掛かる
その後も楚漢は戦っては項羽が劉邦を走らせるという状態が続いたのだが、次第に争闘が長期に亘った影響が出てくる。 それを象徴するのが次の場面である。[書き下し文] 漢王、則(すな)ち兵を引きて河(かわ)を渡り、復(ま)た成皋(せいこう)を取り、広武(こうぶ)に軍し、敖
遂に反項羽の烽火を上げた劉邦だったが、これを項羽は一蹴する。これぞ鎧袖一触である。[書き下し文] 項王乃(すなわ)ち西のかた粛(しゅく)より晨(あした)に漢軍を撃ちて東(ひがし)し、彭城(ほうじょう)に至り、日中(にっちゅう)に大いに漢軍を破る。漢軍皆走り、相随(あい
劉邦のいなくなった咸陽に項羽が入った。 劉邦は咸陽入りしたときにその煌びやかな財宝に眼が眩んで略奪しようとしたのだが、部下の張良や樊噲に諫められて泣く泣くこれを封印したのだ。 しかし、項羽にはそうした部下がいなかった。 何故いなかったか、それを示すの
さて、次のお話は「虎の威を借る狐」である。 これも日本では有名な話であるが、故事成語としては殆どの人が知らず、ほとんど慣用句として「あの〇〇君な、××部長の虎の威を借りてるよな」というように「嫌な奴」を指すのに使用されているような気がする。 高校の教科
「漁夫の利」とは「互いに争っているすきに、第三者が労せずしてその利益を横取りすること」である。「漁父の利」「鷸蚌(いっぽう)の争い」とも云う。 この故事成語は趙の恵王(在位B.C.298~B.C.266)の時に成立したものだと記録されている。[書き下し文] 趙且(まさ)に燕
少し前回のおさらいをする。 「戦国策」に描かれているのは主に「縦横家」と呼ばれる諸子百家の一派である。 縦横家は主に各国に遊説してその外交についてアドバイスするのが仕事である。 戦国時代の外交の中心になっていたのは西方の強国である秦であり、後にこの国が
中国で周王朝が衰亡し、秦が大帝国を打ち立てるまでの間の時代を春秋戦国時代という。 中でも春秋五覇の1つ晋が分裂して韓・魏・趙の3国になったB.C.453年から後を特に戦国時代という。 この時代が「戦国時代」と呼ばれるようになったのはこの時代に各国が取った国策や活
日本の隣国である中国の歴史は長い。 一般に「中国4000年」と自称し、これはあながち誇張でもないと周辺の民族からも思われている。 そしてそれは数多の王朝の光芒の歴史である。 実在が確実なところから云えば商(殷)に始まり、周、秦、前漢、新、後漢、晋、隋、唐、宋
人間は生命体であるから、生命維持に必要なシステムに支障が出れば死ぬ。 そしてその確率は加齢にしたがって高くなってくる。 しかし、それが何時来るのかは誰にも分からない。 それは遺伝的な要素と環境的な要素の複雑に絡み合ったせめぎ合いの結果だからだ。 年が若
5人の貴公子の求婚を退けたかぐや姫だったが、実は最大の本命が残っていた。 なんとお上が姫に懸想したのである。 私は無学なのでこの方に関して使うべきとされている敬語について十分知らないから、よくわきまえないうちに失礼な言葉遣いをしてしまうかもしれないこと
さて、かぐや姫の婿取り譚も最後の「中納言石上麻呂」までやってきた。 「竹取物語」の「身分が低いほどひどい目に遭うの法則(今考えつきました)」によれば、石上麻呂は中納言であるから一番酷い目に遭いそうである。 中納言に課せられた難問は「燕の子安貝」。 子安貝
さて、作者が当時の読者から、「何か似たような話ばかりだね…」と云われたのか、はたまた「リングにこけろ(仮名)」や「禁肉マン(仮名)」のように技のインフレーションが起こったのか、かぐや姫の婿取り譚も残り二人になって急に危険度が高くなる。 次は龍の首の玉を取っ
「後3人…」と、「ボルボ13(仮名)」のようなことを呟いてみる。 数多いるかぐや姫の求婚者のうち、主に身分と財力でエントリーされた5人のうち既に2人が脱落した。 次は阿部御主人(あべのみうし)である。 この人は先の二人のような皇族ではないが、なにせ右大臣である。
「石つくりの皇子」がぶつぶつ云いながら退場した後は、「くらもちの皇子」の登場である。 姫が皇子に課したのは「蓬莱の玉の枝を持ってくること」である。 蓬莱というのは日本から見て西側の大陸にある理想郷である。 ただし、大陸の人たちから見れば東の涯にある理
さて、取り敢えず現実を知った人たちが後景に退いてもなお求婚する5人の人たちに、かぐや姫はそれぞれ難題を出す。 まずは「石つくりの皇子」に対する課題、「仏の御石の鉢」である。 これは釈迦牟尼が生前愛用していた光り輝く椀のことらしい。 私がまだ18歳くらいの時
さて、竹取の翁と媼の子供となったかぐや姫はすくすくと育つ。 これがどれくらい「すくすく」だったかといえば、三月くらいで成人の大きさに育ってしまったのだ。 すると翁は早速姫の成人の儀式を始める。 考えてみれば三か月の幼女をいきなり成人させてしまったのだか
「竹取物語」といえば古くから日本人に親しまれてきたおとぎ話である。 だが、話の内容はといえば、竹取の翁が竹の中に小さなお姫様を見つけたこと、そしてそのお姫様が月に帰って行ったことしか知らない人が 多いのではないだろうか。 これは「金太郎」が小さい頃熊に跨
さて、「大和物語」の第149段「沖つ白波」である。 題名は勿論幼馴染の妻の夫の無事を願う歌から取っている。 「沖つ白波」は「筒井筒」の幼馴染の話をすっとばし、いきなり[原文] 昔、大和の国葛城の郡に住む男・女ありけり。で始まる。これについては現代誤訳は要らな
さて、「業平、人としてどうよ」という部分にやってきた。[原文] まれまれかの高安に来てみれば、初めこそ心にくくもつくりけれ、今はうちとけて、手づから飯匙取りて、笥子のうつわものに盛りけるを見て、心憂がりて行かずなりにけり。[現代誤訳] たまーに例の河内の
「17の純愛」を貫いて一緒になった業平とその妻であったが、二人を「現実」「生活」が襲う。[原文] さて、年ごろ経るほどに、女、親なく、頼りなくなるままに、もろともに言うかひなくてあらむやはとて、河内の国、高安の郡に、行き通う所出できにけり。[現代誤訳]さて、
冒頭の絵と内容が全く関係ないことをお詫びします。 さて、「伊勢物語」の中で最大の問題作、第23段「筒井筒」について語らねばならない時がやってきた(別に義務じゃないけどね)。 この「筒井筒」は昔は問題作でも何でもなかった。 戦前の昭和歌謡「湯島の白梅」にも
さて、業平一行は更に旅を続け、武蔵国と下総国の国境にやってきた。 武蔵国は今の東京、埼玉、神奈川に跨がっており、下総国は千葉県と茨城県に跨がる領域である。 今では全国でも一番人口が密集している地帯だが、業平が生きた時代にはドの付く田舎である。 ここ
河童国の東上りは前回で終わってしまったが、人間国の東下りはまだ続く。 一行は歩きに歩いて駿河の国まで来た。今でいう静岡県である。 「宇津の山」というところに至ると、一行の行く道はどんどん人気の無い心細い道になってゆく。 「えうなき者と思いなし」(自分を役