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  • 片岡鶴太郎さん

    3.片岡鶴太郎さん俳優として又画家としてそして元プロボクシング世界ライト級チャンピオン畑山隆則のマネ-ジャ-もやられた超多忙な方である。知り合ったのは元世界ライト級チャンピオン畑山隆則が96年東洋太平洋の頃である、宮川オ-ナ-と柳トレ-ナ-と畑山隆則さんと片岡鶴太郎さんの4名が一緒に青森にこられたのが最初の出会いでした。それから半年近く青森にいらっしる機会が無かったですのが、暫らくして青森県三沢市に有る「古牧温泉」のK常務の招待で旅行したのが2回目の出会いでした。。マイクロバスで片岡鶴太郎さん,奥様,子供3人とリ-ス会社、保険会社と手広くご商売をやられているO社長と奥様、保険会社社長のS社長,それと私達夫婦の9名で出発である。ガイドさんが居ないので私が女ガイドに変身して旅を盛り上げた。青森県の八甲田連邦を通って...片岡鶴太郎さん

  • 心の支え プロボクシングライト級世界チャンピオン 畑山隆則

    2心の支えプロボクシング世界ライト級チャンピオン畑山隆則私が知り合ったのは今から25年位前だった。デビュ-してから1年半位してからだったと思う。青森で後援会を作ろうと話し合ったのが始まりである。初めは勧業リ-スのO社長,O夫人、S不動産のS社長,保険代理店のS社長、アラスカ会館のK副社長そして私と女房の7名て立ちあがりました。その後は当時何処で誰がどうして知り合ったのか情報が入り畑山隆則と後援会のパイプが太くなってまいりました。何処へでも応援に駆けつけたもんです。全日本新人王,東洋太平洋のチャンピオンの頃はファイトマネ-も低くチャンビオンも苦しい時期であったと推測します。その時発足当時の後援会の皆が協力しあって応援したものです。今となっては良い思いでと成っております。そんな時娘さんと,R君が青森に来ました。R君...心の支えプロボクシングライト級世界チャンピオン畑山隆則

  • 脳出血⑥仕事への復帰

    4.仕事へ復帰の夢52歳で倒れた私は現役バリバリの会社人で有り、責任ある職域で頑張っておりました。それだけに自分としてやり残して来た仕事が有り又、これからやらなければならない仕事がありました。(倒れる直前の仕事でも述べています)それだけに誰よりも誰よりも,そして一日でも早く現場に復帰したいと毎日毎日、日中のリハビリのスケジュ-ル以外に夜の時間に自分自身の決めたリハビリをやってきました。社長からは半年だなと言われた記憶があり,会長からは1年だなと言われました。良い意味で私に元気付け元の体になって会社に復帰せよとおっしやった事と思います。入院した10月16日から12月一杯まではまだまだ時間は有ると思っていました。しかし1月に入り3月30日迄の退院の日迄いくら頑張っても自分の体は元にはもどっていなかった事が、会社への...脳出血⑥仕事への復帰

  • 脳出血⑤リハビリ 女房に感謝

    2.女房に感謝二人三脚今回の事件(脳出血)の時ほど女房に迷惑と負担を掛けた事は無い。又女房が居てくれる事への感謝、有り難味を実感として痛切に感じた事は無い。過去を振り返った時、私は女房には顔を上げられない。私はこんな病気になって女房に捨てられても仕方が無いとも思う。良き夫では無かったからだ。世間では良くこの病気になった人が捨てられると聞かされます。それは経済の問題、看病の問題、夫婦間の問題で有ろうと思います。1999年10月16日は女房にとっても、私にとっても忘れる事の出来ない日になってしまいました。冬の2月と3月は本当に厳しかったようです。毎朝10時には病院にくれました。夜7時頃帰りますが、時には積雪、吹雪、そしてアイスバ-ンと道路事情が悪いのです。無事に帰っただろうか?気が気では有りませんでした。女房がアパ...脳出血⑤リハビリ女房に感謝

  • 脳出血④リハビリ③精神的ショック

    3.精神的ショック11月24日は月1回のリハビリ科の相馬先生と診察の日であった。それ以前にリハビリは10月26日から実質入っていた。勿論この1ヶ月は車椅子の生活でる。リハビリの時間帯は午後1時からである、腕の方が約30分、脚の方が40分~50分ぐらいの治療である。しかしこの1ヶ月位の治療で他の患者さんと治療が違うことに気づき不思議に思いながら治療を受けていました。担当の理学療法士は早川先生でしたがその30分位の治療の中で15分位はインタ-ンの女性に私の右半身の顔,腕,脚の感覚をチェック(これは2日間で終った)。次にズボンのはきかた、トイレのしかた等々である。これらのリハビリを他の患者が行なわれていたのを見たことが無い。但し時間帯によって行われていたのかも知れない。それから10分位はテ-ブルを囲んで長さ5センチ位...脳出血④リハビリ③精神的ショック

  • 脳出血③入院生活リハビリ②

    入院生活1気がついたらベッドの上私の町は青森市から40分位離れた東津軽郡平内町小湊という町です。全国的に有名な「ほたて」の町です。この町に平内町立中央病院があります。救急車で最初に運ばれたのがこの病院でした.この病院へ運ばれたとき自分の意識は90%無かったと思います。何か話し声が聞こえているのか、機械の音なのか,頭の中はぐっしゃぐっしゃで有ったと思います。後で女房に聞いて判ったことは、既に夜8時過ぎていたので先生が当直の先生だけであった。症状からみて脳出血の疑いがあるとの事でCTを撮る準備にかかったそうです。しかし肝心のCTを撮る先生が居なくて呼び寄せる迄40分位かかった様です。その結果脳出血と判明本来この病院ですぐ手当して段取りと流れるのでしょが,設備不足なのか対応が出来ないのか仮の手当てをして青森市民病院へ...脳出血③入院生活リハビリ②

  • 脳出血② リハビリ1

    2.リハビリ生活その110月20日から6人部屋に移された。この頃のはっきりとした記憶が無い入院以来まだ4日である。3ヶ月間の女房の日記から取り合わせてリハビリ生活を振りかえりたい。「話は色々と前後しますがこの頃から患者がどんどん増えている。青森の冬はやはり寒い、積雪は人口約30万人以上の都市では世界で一番だそうである。年々少なくなっているとは言うものの実際住んでみて,多いということは実感として判る筈だ。こういう状況と関連あるかどうかは判らないが患者は多くなっている。」20日からの1週間は車椅子と大便と小便との戦いで有る。体の状態が変わったのかウンチが出ないのである。そのたびに浣腸をかけてもらった。車椅子でトイレに行くがトイレに座るまでの段取りがうまく行かない。用を足した後も女房の力を借りて始末しなければならない...脳出血②リハビリ1

  • 脳出血前の仕事

    3.倒れる直前の仕事本社は東京都立川市の家庭日用品の卸商社であります。創業73年の老舗です。ビジネスエリアは関東周辺から北は青森県までです。その中で関東事業部と東北事業部に分かれております。私は東北事業部で取締役として特に営業を担当しておりました。東北の本部は仙台ですがその他に青森営業所と秋田出張所があり郡山に駐在所があります。東北6県のエリア管轄です。在職年数は25年になろうとしています。私達の商売は家庭日用品が主ですから主としての得意先は東北の皆様でしたらご承知の青森であればS様、K様、S様。秋田であればHP様、A様、岩手であればR様、山形であればJ様、宮城であればTK様、EN様、福島であればD8様、RI様等々が主とした得意先様であります.これらの得意様を営業とのコミニケ-ションで私のロ-テ-ショント合わせ...脳出血前の仕事

  • 脳出血

    私のプロファイル名前:長岡弘干支:イノシシ年生まれ血液型:O型出生地:三重県津市現住所:青森県青森市発病:1999年10月16日夜8時:52歳に3日不足年齢:1947年10月19日(55歳)家族:妻(56歳)と二人暮し私のル-ツ三重県の津市に18歳迄生活。18歳~21歳迄名古屋で生活21歳~23歳迄仙台で生活。23歳~27歳迄秋田で生活27歳~29歳迄仙台で生活。29歳~53歳迄青森で生活三重県の津市で生まれながら、今日本の本土最北端の青森で生活している事を誰が考えたでしょう。私自身も想像できなかった。これも人の運命と思う。今では青森は私の故郷である。脳出血

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脳出血と腰痛の戦いそして沖縄逃避行さん
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脳出血と腰痛の戦い 1999年10月16日発症から20年目
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1999年10月16日発症から20年目

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