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遠くの神 http://decree.at.webry.info/

「わたしはただ近くの神であって、遠くの神ではないのであるか。」(エレミヤ書23:23)

シェアル・ヤシュブ
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2018/03/09

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  • 「遠くの神」の意味

    エレミヤ書23章23節の「遠くの神」の「遠く」とは、いかなる意味で遠いということなのであろうか?ある説教では次のように語られている。 「遠くの神、遠くからの神というのは、そのあとの言葉をみますとこうなっております。『誰かが隠れ場に身を隠したなら、わたしは彼を見つけられないというのかと主はいわれる。天をも地をも、わたしは満たしているでないかと主はいわれる』。これをみま…

  • 「遠くの神」の意味 Ⅱ 必要とされる「神」

    並木浩一著『人が孤独になるとき』(新教出版社)の中に、「遠くの神ではないのか」と題された章がある(p24~)。その中で「遠くの神」はポジティブな意味で語られている。テクストはエレミヤ書23:23~32節。岩波(関根清三)訳では以下の通り。 「わたしは、近くにいる神で、――ヤハウェの御告げ―― 遠くにいる神ではないのか。/人が、隠れた諸処に身を隠したならば、わたしは、彼…

  • 「遠くの神」の意味 Ⅲ

    現代神学は神義論的問いが前提にあるようだ。これに対して神義論的問いを実践的に突破している一例として、親族をアウシュヴィッツで殺害されたという哲学者レヴィナスの思想がある(レヴィナスの十字架批判については、関根清三著『倫理の探索』〔中公新書〕p92~96他参照)。「人間の住む世界に正義と公正をもたらすのは神の仕事ではなく、人間の仕事である。世界に不義と不正が存在することを神…

  • 聖定の主なる神 (1)神を楽しむ

    文語訳(=大正改訳)新約聖書より。ヨハネの第一の書第二章二三節「凡(おほよ)そ御子を否む者は御父(みちち)をも有(も)たず、御子を言ひあらはす者は御父をも有つなり。」 高倉徳太郎は、「造られたものの存在の意義は創造主なる神を礼拝するためにある。人生の究極目的は 神を知り、神を楽しみ、神を崇め神に服従し奉仕するにある」と述べている(『全集…

  • 聖定の主なる神 (2)「ウ・大教理問答書講解」の神観

    日本キリスト教会の平田正夫牧師は次のように述べておられる。「キリスト者である医者が言った、『私が医学部に入って最初に教授に言ったことは〈医学は唯物論だ。人間を物質と思え〉であった、』と。人間の精神活動が物質の機能にすぎないとされ、人間の霊魂が否定されたとき、神が霊であることが理解できなくなった。従って、人間の人格性が否定されると同時に神の人格性…

  • 聖定の主なる神 (3)聖定聖句一覧

    以下、『ウェストミンスター信仰規準』(日本基督改革派教会大会出版委員会編/新教出版社)参照。聖句引用は日本聖書協会口語訳聖書より。 信仰告白3ー1 ●<神は、全くの永遠から、ご自身のみ旨の最も賢くきよい計画によって、起こりくることは何事であれ、自由にしかも不変的に定められたが> エペソ1:11 わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をな…

  • 聖定の主なる神 (4)神を愛する者たち

    「予知する」(プロギノースコー)と「予定する」(プロオリゾー) ●聖句 ローマ8:28~30 「また(デ)神を(トン テオン)愛する者たちにとって(トイス アガポーシン)〔すなわち神の〕計画に(トイス プロテーシン)従って(カタ)召されて(クレートイス)いる者たちにとって(ウーシン)すべてのことが(パンタ)共に働いて(スネルゲイ)善(アガトン)に至る(エイス)こ…

  • 聖定の主なる神 (5)信仰とは神賛美なり

    ここでも私は「キリスト教信仰」とは言わないし言いたくないので敢えて「聖書的信仰」と言い表わすが、その信仰は実存的で実践的であって然りである。すなわち「統一原理」的立場のような世界観的・思弁的ではない。だから常に動機は救済願望となる。それも個人レベルから社会レベルへと展開する倫理的信仰として・・・。その一例として沖縄の金城牧師の場合が挙げられるだろう。ただし私は金城牧…

  • 聖定の主なる神 (6)神義論を越えて

    ●旧約聖書の神義論について (参考資料)関根正雄氏の論文「旧約聖書における神義論」より抜粋。 (以下、コピペ引用) 旧約 の 中 に 神義 論 を認 め得 るか 、 得 る とす れ ぼ そ の 内容 は何 か 、 の 問題 は今 日まで 未 解 決 の 問題 で あ る。 旧約 学 に お い て従 来 可 成 り広 く神義 論 とい う用 語 は用 い られ てい るが 、直 接 こ の問 題 を正面 か ら取 扱 つ て …

  • キリスト教は「愛の宗教」か?

    キリスト教は一般的には「愛の宗教」といわれてきたが、その言い方自体、偏りがあるのではないだろうか?まるで「愛(だけ)の宗教」であるかのように思われる向きもある。そもそもその「愛」(アガペー)の意味が、一般の日本人にどこまで理解されているのかという問題もある。 教会の看板に「神は愛なり」と書かれているのを見た人は少なくないでしょう。私が在任していた教会の看板にもそう…

  • コーヘレトの遠くの「神」

    私が思う「遠くの神」のイメージとして、聖書の中で最も合うのは、一書としてはコーヘレト書に示される「神」である。有賀鐵太郎氏は、コーヘレトの神は「自己啓示の神ではなく、全く自らを隠す神、近き神ではなく遥かなる神である」と述べている(『キリスト教思想における存在論の問題』〔創文社〕第一部「ヘブライ思想における特殊性と普遍性」の「第三章 コー…

  • 神観研究 ― 「超越/内在」、「人格/非人格」 ―

    関根清三氏によると、イザヤ書57章15節は、前半で神の「偉大さと超越」、後半で神の「低さと内在」を述べており、両者相俟って「聖書的な神観の一つの到達点」を示しているという。 すなわち私は当ブログや兄弟姉妹ブログの「全一者」で探求している「聖書的神観」・・・実際的要請により聖書を通して啓示され、導き出される神観・・・というものは、「偉大な…

  • たとい神がアンフェアであっても

    信仰は人が必要に迫られ縁あってなすもの。 この物質世界の競争社会において人は優劣比較意識があり自尊欲求が強いからこそ、ちょっとしたことで争いごとになる。だからその世間的価値観を相対化する世界観が実践的に要請されるのだ。 ところで、「スピリチュアリズム普及会」のサイトで、「物質界も含めて幽界も霊界の各界層も、すべて一つの場に存在している」と言われている点には共感。 <…

  • 「十字架の神学」の詭弁

    「ただ遠く十字架を眺めて瞑想する十字架の神学より、十字架の事実そのものに肉迫することが必要であると信ずるのであります。」(小田切信男著『キリスト論・ドイツの旅』〔紀伊国屋書店〕p338) 「十字架の神学」という表現は宗教改革者のルターに由来するらしいが、それまでの「栄光の神学」に対するものだったようだ。以下、引用。 <ルターは十字架の神学こそ、人間の現実をその現実の即し…

  • 「十字架の神学」の詭弁 Ⅱ

    私は、西南学院大学神学部における寺園喜基VS青野太潮論争に関しては、後者の論旨の方に近いのでこれを参考すべくここに引用しておきます。青野氏の論文、<「障害者イエス」と「十字架の神学」>より。 (引用) いずれにしても、ここには寺園氏に典型的な「キリスト論的集中」がまた 顔を出している。しかし、イエス・キリストは「創造主」なる神ではない以 上、「創造主」なる神があっては…

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