物悲しい。わけもなく、不安。 無意識にそういう気持ちに蓋を するところだった。 なんか、悲しいね。 なんとなく、不安だね。 よし、点検確認、完了。
迷ったときこそ、思い出せ。 既にアウトローだったでしょうが(笑) こういう日が来ることを どこかでわかっていたのだろうな。 あえてズレたのは、ズレるのを 恐れないでいたかったから。 ズレるのを恐れて、小さくなって それなりに生きていたくはないと そういう大人になりたくないと 思ったからだった。 普通、やらないでしょ(笑) そう言われたけど、私はその普通という 枠組みを取り壊したかった。 やってよかったよ。 そのとき開いたせかいは、度々 私を救ってくれた。 安心してください、普通の枠、 もう壊れてますから!笑 なんでもこいのどんとこいだ。
生活を軽視しがちではあるけど、 生きるは生活に寄り添うように あるわけで。 解体期が近そうなので(笑)、 今のうちに考えておこう。 好きなこと、大切な時間でいえば 本を読むことと一人で考える時間かな。 考えたことをつらつらまとめるのも すっきりするし、せり上がってきたものを 言語化しておくと後々役に立つ。 できれば一人でふらっと旅する時間も ほしい。半年に一回、二三日あれば とてもいい。 家族や友達と過ごす時間って、 あまり考えたことがないかも。三ヶ月から 半年にいっぺん話せればいいかなぁ。 なかなか薄情なやつっぽいけど(笑) 単純に集まってぐたぐだするのって 息抜きにはいいけど、日常ではいい…
9年ほど前。私が高校二年生の 頃から、公開しないブログを 書くようになった。つまり日記として 残していたわけだけど、 たまに読み返してみると なんだか泣けてくる。 最初は言いたいことも言葉にならず、 疲れた・嫌だ・イライラする わーい・なんとなく・怖い… そういうワードで構成されていて うまく表現できないもどかしさが 透けてみえる。 同時に、書かずには立っていられない 切迫感も伝わってくる。 パンパンの自意識で破裂しそうな 教室の濃度を思い出した。 今の若い子たちもそうなのだろうか。 私や多くの私たちを抱き締めたくなって しまう。大丈夫だと声をかけたいが、 肚落ちするまでは前途多難な道程だ。 …
思い返すと、見ているようで 全くみていなかったらしい。 大学時代の同じクラスのメンバーが どのような人物であったか ほとんど思い出せなかった。 だいたいあのグループの人かな、 くらいにはかろうじて覚えているものの だからといって知ろうとも思わなかったし 現在の状況にも興味がなかった。 自分では色々興味を持って動いていた 四年間だったのになぁとぼんやり 考えていたが、なんてことはない。 面白くなさそうだからだ。 入学して同じような服装、髪型の 人たちとつるみだし、 異性間交流もそれなりにこなし、 サークルも軽めのに入ってコンパに あけくれ、真面目に授業を受ける人を 小馬鹿にしながらツテで過去問や…
暑い日が続いておりますが、 いかがお過ごしでしょうか。 私は外に出るのも億劫で、 冷房のきいた部屋で本を めくり、想像世界でいきいき 過ごすような休日を過ごしております。 先程、好きな詩人のあるお方が 「他者と言葉を響きあわせるために 言葉を探す時間があってもいい、 言葉との関係を深めてよい」と 仰っていました。 およそ納得するところで、 相変わらず良いこというなぁと 膝を打ったのですが、同時にちょっとした 違和感を覚えたのです。胸の端のほうに スッと隠れたその違和感を 点検してみたのですが、それは 言葉に対する希求が強い受け手は それほど多くないのではないか?という 素朴な実感でした。 自分…
自分の言葉がないからと 安易に他人の言葉に便乗しては ならない。ましてや、他人の言葉で 戦うなど言語道断! そんなことして、論破して気持ちよくなって あるいは共感されてホッとして、 一体それは何なのだ? 意味もわからず言葉を繰り返すインコと 同じではないか。 自分の言葉で語れるように 一つずつ違和感や感情と向き合いながら、 丁寧に取り出していく地道な作業。 孤独でゴールも見えず、 資本主義的な観点からみれば まったく無意味とも思える作業だが、 そこをおろそかにして かたちだけ真似したって いずれ形骸化するだけだ。 ダサくていいから、自分の言葉を 見つけたい。この場所から見えるせかいを 語りたい…
全くなにも上手くいっていませんが 落ち着いているというか、 自尊心・損なわれず 好奇心・だだあがり。(笑) かたちへのこだわりがなくなった、 ということは良いことなんだろうか。 どんなかたちでも認めると 決めてしまったら、なんでも来い状態。 むしろ認めがたいことに挑戦したいという 欲求さえある。 存在していることに特定の意味はない。 というより、かたちが意味であるだけだ。 かたちである限り意味から逃れられないが、 評価から逃れることはできる。 評価は、ある特定のかたちにとって 利益になるという意味合いで、一般に価値と 呼ばれる。けれども本来、価値は 「ふさわしい」という表現の方が正しい。 存在…
生ききることは、かたちをもつ 我々存在者の意義である。 所謂幸せは(公共の福祉に反しない 限り)権利であって、意義のために 一部放棄することを選ぶ場合は あり得る。 生ききるとは各々のかたちを出しきる ことであり、出しきる状態とは 存在そのものへ最も拓かれている状態 だろうと推測する。 つまり、その存在者における ことばの発展土壌を見つけ、 愛を感じ愛であることに充たされ 在るを豊かに認められるという状態だ。 ことばの発展土壌は存在者のかたちに よってふさわしい場所や方法は異なる。 故に、世界が多様性を尊重する方向へ 進んでいるのは、存在者にとって 良い風潮ではないかと思う。 ただし、読み違え…
波。 こちら側だけではないとしたら? こちらという1つの大きな波が 死をもって終わるのではなく、 かたちを失いながらも あちら側の輪郭をもって 振り子のように波が続くなら? それは、輪廻転生という話ではないし 死後の世界があるという話でもない。 かたちがないのに波だけがある状態は 果たして存在するのか。 けれど、考えてみればかたちへ向かわせる 何らかのエネルギーがある方が 自然な気がする。 波には何か特別な意図はない。 運動だ。エネルギーの波形だ。 だから、かたちであるこちら側が なぜわざわざ?と問うたところで なにかポンとわかるものでもない。 思えば最後のとき、病院の心拍数を 計る機械には波…
ペットを世話する母を見て、 「あぁ、私は教育ではなく 飼育されたんだなぁ。」と ぼんやり思った。 猫可愛がりは、ほんの小さい時なら 存在の肯定を示すために役立つかも しれない。けれど、成長にともない 社会に出て交わりながら、 自分で障害を越えていく力を 身に付けていかなければならない。 いつまでも干渉しようとするのは、 親自身が手放したくないからだ。 それは、絶対的な支配者である親 という立場を守りたいだけの話であって 決して子供のためではない。 母は、自分自身と向き合えていないから 正面から向き合った問いをごまかした。 私のためではなく、自分が見たくないから。 そして母は今でも変わらず、自分…
絶賛婚カツ中! ということで、結婚について考える 日々な訳ですが、漠然としていた「結婚」 というかたちの輪郭が見えてきた気がする。 まず、結婚する相手について。 一つは、結婚したい人と結婚するという こと。一見すると当たり前だけど、 恋愛結婚が主流の現代において 軽視されている気がする。 好きになって、付き合って、しばらく ラブラブして、時期が来たら結婚する。 そういう王道ルートはあるけれど、 この時期とやらがなかなか合わないばかりに 同じことを繰り返してしまうのではないか? もちろん、同じ時期に結婚を意識して 進めればいいのかもしれないが、描く未来や 望む方向性を各々が抱いているのだから 結…
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