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  • 伊東静雄ノート4

    いかなれば今歳の盛夏のかがらきもうちにありて、なほきみが魂にこぞの夏の日のひかりのみあざやかなる。夏をうたはんとては殊更に晩夏の朝かげとゆふべの木末をえらぶかの蜩の哀音を、いかなればかくもきみが歌はひびかする。いかなれば葉広き夏の蔓草のはなを愛して會てそをきみの蒔かざる。會て飾らざる水中花と養はざる金魚をきみの愛するはいかに。(「いかなれば」全行)「いかなれば」という詩にも仮定の以外の負性のようなものを感じられるだろうか。そしてそれは日本の近代詩が負性のようにかかえている,言い換えれば詩人を取り巻く宿命のようなものの側面を時代的にとらえているものではないかと思えてしかたがない。いま伊東のやってくるまでの詩人に思いをいたしてみよう。伊東以前の詩人自らがその思想を詩のなかで表現というよりも、そこには時代的な大きな壁...伊東静雄ノート4

  • 伊東静雄ノート3

    川村二郎はあるところで、なぜ伊東静雄に惹かれたかと云えば認識を追求する詩人という印象が、認識を追い求めるというその姿勢によってだと語っていたのを読んだ記憶がある。伊東静雄ほど鋭い形では現れているものがほかに見当たらなかったということらしかった。いづれにしろ『哀歌では』〈意識の暗黒部との必死な戦い〉によって、かれの〈個性〉が現実と激しく切り結ぶところに拠ってあったが、『春のいそぎ』の〈平明な思案〉は現実とほぼ重なり合ってしまうのである。〈あゝわれら自ら孤寂なる発光体なり!〉の純白の世界へはもはや帰れないのでありあまりにもみじかい期間をはげしく燃焼しつくしたその一瞬の光芒のような〈個性〉のうちに、抒情詩の成立する根拠を問うことができるかもしれない。いま、伊東の熱く烈しく燃焼させた表現主体の根拠とはどこに求められたの...伊東静雄ノート3

  • 伊東静雄ノート②

    伊東静雄の詩集は『わがひとに与ふる哀歌』と『夏花』のうちの数編を頂点とし、戦争詩とみなされる七編の作品を含む『春のいそぎ』を詩的達成とは別に、底辺に置くとするおおかたの評言に異論はないとおもう。およそ昭和七年から一八年に至るその間の三つに詩集は、ゆうまでもなく戦争期と重なっており、その時代の精神の刻印を明瞭に認めることができる。伊東のことばでいえば〈意識の暗黒部との必死な格闘〉により一時代の抒情詩の可能性を極限へとのぼりつめたといっていい、そのゆるぎない諦念(=凝視)と情念(=拒絶)を貫く抒情への意志(=表現)によって、近代詩以降の日本の抒情詩に不滅の痕跡を残しているとも言い換えうる。わが死せむ美しき日のために連嶺の夢想よ!汝が白雪を消さずあれにはじまり緊迫して機密度の高さで〈わが痛き夢〉をひとすじに歌い上げた...伊東静雄ノート②

  • 伊東静雄ノート①

    伊東静雄ノート①伊東静雄の詩業が近代詩の流れの中でどのような位置におかれているのか、について私はしらない。で、始まるかなり古い文章(一九七九年三月発行・「ルパン詩通信」)がみつかったので、今回はそれをここに書き移したいとおもう。今年になって書いた詩人論で山村暮鳥①②、立原道造①~④、大手拓次①、の小さな論文に比べて、少し言葉も古いが、それほど考えは変わっていないようにも思えるので、あえて書きうつそうとおもう。そのまえに次の詩についてここに挿入しておきたい。堪へがたければわれ空に投げうつ水中花。この水中花はわたしも夜店で見た記憶がぼんやり浮かんでくる。このことに関して菅谷規矩雄は「わが国の近代における「市井の詩」のさいごの残照でもあるだろう。伊東静雄が水中花に眼をとめたことは、ひとつには全く彼の個性的な必然であっ...伊東静雄ノート①

  • 中原中也ノート3

    前略、ご無沙汰しました實は最後におあいしたましたあと神経衰弱はだんだん昴じ、「一寸診察して貰ひにゆかう」といひますので従いてゆきました所、入院しなければならぬといふので、病室に連れてゆかれることと思ひて看護人に従いてゆきますと,ガチャンと鍵をかけられ、そしてそこにゐるのは見るからに狂人である御連中なのです。頭ばかり洗ってゐるものもゐれば,終日呟いているものもゐれば、夜通し泣いてゐるものも笑っているものもゐるといふ風です。ーーそこで僕は先づとんだ誤診をされたものと思ひました。子供を亡くした矢先であり、うちの者と離れた、それら狂人の中にゐることはやりきれないことでした。{四月六日安原喜弘への書簡)中也が千葉寺療養所に入院したのは一月七日。千葉県にある中村古峡療養所であった。友人の安原に差し出した手紙からは精神病とは...中原中也ノート3

  • 現代詩「水月」

    *今日は詩集にも収めた「水月」を掲載します。水月水に映る透明な真夜中の月影は見えるのではなく感じるだけやぶれかぶれの感情を引き延ばし揺れて、ちぎれて半透明のくらげのいのちをみすかすかのように世界滅亡を叫ぶ予言者が降ってでるから迷惑な植民地のひとびとは遙か遠く想像だけの水の中月影に揺れる逃走や闘争の無駄な氾濫にしったかぶりの心痛は恥の上塗りにちがないけれど生きるが勝ち夕べみた夢からのがれられず揺れて、よじれて水底に眠る小石などを砕き舞い上がる白い煙と月影に曇る思案がおよそ礼儀知らずのまだ青く不機嫌な坂の上の果実におびえている現代詩「水月」

  • 中原中也ノート②

    中也が三十歳の若さでなくなるのだが生前と死後に出版された詩集が二冊あるだけだが、どうしてこんなに昭和詩人の中では一流の抒情詩人と評価され読み継がれているのだろうか。私の単純な疑問は鮎川信夫の文章で(「日本の叙情詩」)でおおよそ納得できた。中也が三十歳の若さでなくなるのだが生前と死後に出版された詩集が二冊あるだけだが、どうしてこんなに昭和詩人の中では一流の抒情詩人と評価され読み継がれているのだろうか。私の単純な疑問は鮎川信夫の文章で(「日本の叙情詩」)でおおよそ納得できた。「『先日、中原中也が死んだ。夭折した彼が一流の抒情詩人であった。字引き片手に横文字詩集の影響なぞ受けて、詩人面をした馬鹿野郎どもからいろいろなことを言われ乍ら、日本人らしい立派な詩を沢山書いた。(後略)』と小林秀雄は中也が死んだときに書いていま...中原中也ノート②

  • 中原中也ノート①

    ①千葉寺での詩作など中原中也が二度目の精神衰弱が起きるのは昭和十一年である。太宰治がバビナール中毒により東京武蔵野病因に収容されたのが同年の十月、その翌月の十一日に、溺愛していた文也が小児結核で急死。やっと築きかけた幸せな生活が崩れ去る。文也の遺体は中也が離さず、上京した母フクに説得されてやっと棺にいれたという。しかし元の生活は望むべきもなかったようだ。彼は文也の死後、一日に何回ものその霊前に座ったが,口からしばしば「正行」の名が漏れるの家族は聞いている。〈略〉弟亜郎への追悼と文也へのそれが二重写しになり,時空の混乱が生じたのである。「御稜威を否定したのは悪かった」いいながら叩頭を繰り返すようになった(時代は天皇の権威の増大と、戦争に向かいつつあった)。そのために文也が死んだ、という自責が生まれる。二階の座敷に...中原中也ノート①

  • 寺山修司私論④

    寺山修司が短歌の世界で精力的に活動したのは『チェホフ祭』でのデビューからの十年あまり、ほとんど三十歳までのあいだということになる。なぜ寺山は歌を捨てて二度と帰ることはなかったのだろう。歌の世界で、寺山修司が打ち出したのはわたしのことばにかえていえば歌の「仮装する私の世界」或いは寺山が言う「メタフィジックな私」を、わが国の短歌界では異端されつづけられて、たぶん寺山の世界観を認める者がいなかったということになるおのだろうか。おそらくそのことが寺山修司を短歌から手を引かせたことのひとつの要因だったのではないか。それともそんな単純なものではなかったのだろうか。本人の不在ないまそれを問うことは出来ないが、短歌から興味が消え失せていったのは、「私とは何か」という唯一の問いを短歌以外に向けていったのだというほかない。そうであ...寺山修司私論④

  • 寺山修司私論③

    寺山修司は二十九歳の時生い立ちの悪夢を永い叙事詩にまとめた。{地獄変と題したこの作品は、ほぼ二年がかりで四千行を超えるものになって、短歌の部分だけはまとめ歌集「田園に死す」として出版。詩の部分は再度整理しこの仕事にのめり込むことになる。三十才の時には次のような詩を書いた。血が冷たい鉄道ならば/はしり抜けてゆく汽車はいつかは心臓をとおることだろう。同じ時代の誰かれが/血を穿つさびしいひびきをあとにして/私はクリフォード・ブラウンの旅行案内の/最後のページをめくる男だ/私の心臓の荒野をめざして/たったレコード一枚分の永いお別れもま/いいではにですか/自意識過剰な頭痛の霧のなかをまっしぐらに/曲の名はTaketheA-train/そうだA列車で行こうそれがだめだったらはしってゆこうよ寺山修司が死の前年「朝日新聞」に発...寺山修司私論③

  • 寺山修司私論②

    寺山修司の歌集からの連想が〈非在のふるさと〉に思いを馳せることになる。寺山修司は「私は一九三八年十二月十日に青森県の北海岸の小駅で生まれる。しかし戸籍上では翌三六年一月十日に生まれたことになっている。」(「汽笛」)と書いているが、信じていいかどうかわたしの疑いははれていない。この二つの誕生日をあちこちで書いていてどれが本当なのかわからない。そのうえくりかえし書きつづる「少年時代」を読むたびに当時はとまどっていたが、嘘も真実の一部だと思い知るまでもなく、またたくまに映画や演劇、「天井桟敷」など、寺山修司の疾風怒濤の時代の波にまかれていたのではないかと思う。寺山修司は新宿の「きーよ」(ジャズ喫茶)によく行っていたというが私は新宿でも「汀」が多かったので出合うことがなかった。残念な気がするが、いや、どこかで出合ってい...寺山修司私論②

  • 再び、寺山修司私論 ①

    (一)寺山修司が出現する一九五四年までの歌壇は、「沈滞を進化と勘違いするほどに長老が絶対権を持った部落であった。」と言う中井英夫が見いだした寺山修司の出現は「まさに青春の香気とはこれだといわんばかりにアフロディテめく奇蹟の生誕であった」といわしめている。それからの四十七才でこの世を去るまでは、まるで約束されたような病身でありながらの孤独のランナーとして、俳句、短歌、現代詩をはじめ、映画、演劇、ときに競馬、ボクシング、そして「天井桟敷」とあらゆる文化芸術を網羅するようにサブカルの世界もつきぬけていった一瞬の偉大な旋風であったといいかえてもいいだろうか。十二、三歳で俳句を作りその後、短歌へとすすんだ寺山修司の才能の開花はそれを発掘したという中井英夫の力ばかりとはいえない気がしてくるだろう。森駆けてきてほてりたるわが...再び、寺山修司私論①

  • 山村暮鳥の初期詩編をめぐて②

    暮鳥の詩論である「言葉に非ず、形象である。それが真の詩である。」を引用しながら朔太郎はそこに疑問を呈している。「私はこの説似たいしては七分通り賛成三分透り反対である。」と暮鳥の詩論が進みすぎているということに賛意を保留したとみた方がいいようである。「最もよく詩の特質を発揮した詩編」として「だんす」を揚げて、その詩について読みを試みている。あらしあらししだれやなぎに光あれあかんぼのへその芽水銀歇私的利亜はるきたりあしうらぞあらしをまろめ愛のさもわるに烏龍茶っをかなしましむるかあらしは天に蹴上げられ(「だんす」全行)なんとなく優雅な姿態を駆使した若い女性の軽快な舞踏の場面を想像させるが、この作品については朔太郎の懇切丁寧な解説にあたっていただく方がいかもしれない。よく知られている詩としては、「風景純銀もざいく」があ...山村暮鳥の初期詩編をめぐて②

  • 山村暮鳥の初期詩編をめぐって

    *この文章はもう五年ぐらい前に書いた文章です。きっと堅くてよみずらいと思いますが、よろしくご判読ください。又連載になりますが、引き続け宜しくお願いします。山村暮鳥が、萩原朔太郎、室生犀星と「人形詩社」を設立したのは大正六年三月のこと。『文章世界』の紹介によると、「人魚詩社」は「詩、宗教、音楽の研究を目的」としていた。暮鳥が、朔太郎、犀星との詩の世界でむすばれていたのは北原白秋への敬慕ということからでもあって、お互いの作品を認めあっていた。のちに暮鳥の詩第二詩集『聖三両稜玻璃』が当時金澤の室生犀星の所から「人漁詩社」として発行される。http://blog.goo.ne.jp/admin/newentry/#私はこの三人詩人の出会いに不思議な命運というものを感じてしまう。言葉が連想をあおるからか、想像的な誤解さえ...山村暮鳥の初期詩編をめぐって

  • 大手拓次再読5

    大手拓次の作品は詩集として四冊を数えるのみであったが、いずれも彼の死後に友人の逸見亨によってあまれたもので、生前に発刊された詩集は一冊もない。昭和和十一年に『藍色の蟇』{アルス社)。昭和十五年に詩画集『蛇の花嫁』(竜星閣)。昭和十六年に訳詩集『異国の春』(竜星閣)。昭和十八年『詩と日記と手紙』{竜星閣})。以上であったが、昭和四十六年に白鳳社版『大手拓次全集、別冊一巻』にまとめられ、ようやくここにその全貌を見ることができるようになった。明治四十年、早稲田大学予科時代から死の寸前までのおよそ二十七年間{作品数、二三七九遍)に及ぶ作品を網羅している。この全集に拠れば、大手拓次の最初の作品は河合酔名主宰の詩誌『詩人』に掲載された「昔の恋」である。昔の恋わが胸のにしきの小はこ。そと開くさみだれのまど。朧(おぼろ)なると...大手拓次再読5

  • 大手拓次再読4

    二冊目に出版された詩集『蛇の花嫁』の「まえがき」は、詩的想像力によって自らが救われてきたことを意識するかのように書いている。「この苦闘の縁にありて吾を救ふは何者にもあらず。みずからを削る詩の技なり。さればわが詩はわれを永遠の彼方へ送りゆく柩車のきしりならむ。よしさらば、われこの思ひのなかに命を絶たむ」と、記している。大手拓次が詩を書き続けることの苦しい胸の内をあからさまに語ったと受け止めるには、保留したい。というのもこの「まえがき」は、編集者の手によるものだから、その詩作の苦労を伝えるためにのみその役割を果たさせる為であるといえるのではないか。なにかしらとほくにあるもののすがたをひるもゆめみながらわたしはのぞんでゐる。それはひとひらの芙蓉の花のやうでもあり、ながれゆく空の雲のやうでもあり、私の身をうしろからつき...大手拓次再読4

  • 大手拓次再読3

    前号の続きです。陶器製のあをい鴉なめらかな母音をつつんでそひくるあをがらす、うまれたままの暖かさでお前はよろよろする。(「陶器の鴉」)神よ、太洋をとびきる鳥よ、神よ、凡ての実在を正しくおくものよ、ああ、わたしの盲の肉体よ滅亡せよ、(「枯木の馬」)ある日なまけものの幽霊が感奮して魔王の黒い黒い電動の建築に従事した。(「なまけものの幽霊」)かなしみよ、なんともいへない、深いふかい春のかなしみよ、やせほそつた幹に春はたうとうふうはりした生き物のかなしみをつけた。(「春のかなしみ」)もじゃもじゃとたれた髪の毛、あをいあばたの鼻、細い眼が奥からのぞいてゐる。(「笛をふく墓鬼」)灰色の蛙の背中にのつた死が、まづしいひげをそよがせながらそしてわらひながら、(「蛙にのつた死の老爺」)わたしは足をみがく男である。誰のともしれない...大手拓次再読3

  • 現代詩の作品依頼

    昨年は「現代詩手帖」の年間作品の掲載依頼があったが今年はなかった。だが別の詩誌から作品の依頼があった締切は2月だから時間的余裕はあるが、最近は詩は書いていない、その気になればいつでも書けると云う自信はあるが、近頃は俳句の世界にはまっていて…、どうなることやら。…現代詩の作品依頼

  • 大手拓次再読2

    近代詩人論は最近は余り活発ではない。いま、詩人論は時代から外れてしまってみむきもされなくなったのかもしれない。でも、続けていくと決めているので、宜しくお願いします。森の宝庫の寝間に藍色の蟇は黄色い息をはいて陰湿の暗い暖炉のなかにひとつの絵模様をかく。太陽の隠し子のやうにひよわの少年は美しい葡萄のような眼を持って、行くよ、行くよ、いさましげに、空想の狩人はやはらかいカンガルウの網靴に。(「藍色の蟇」全行)この詩は萩原朔太郎との感覚的な類似を思い起こす。あえていえばこのことは朔太郎自身が自らの詩集『黒猫』には彼からの啓示によるところが多いことを認めている。この「藍色の蟇」のスタイルの特異性は作者の特異性というか、内面の生活自体の特異性に基づいているようである。他人との接触を好まないという性格は、終生なおらなかった模...大手拓次再読2

  • 大手拓次再読1

    夢想とは夢の中に神仏の示現のあること、心に思うあてのないこと。だから夢想は一瞬の儚い揺らめきを、あるいは一連の恒久的持続を要求したりするものなのか。わたしには他愛ない空想からとびだす希有な歓喜の一瞬さえも、他人のことばでしか見えない世界があった。ひさしぶりに大手拓次の詩集を読んで、もう三十年前に初めて呼んだ頃とは違って全くつまらないと思って通過していものが、急に足止めにあう。あの頃はなぜか、萩原朔太郎の詩と比べても内閉的で特異な情感と意味の通らないグロテクな感覚についていけなかったのかのしれない。大手拓次が詩を書き始めた頃の同時代的、世相をふりかえると、昭和七年いわゆる「坂田山心中」が社会的な話題になり、慶応大学理財科三年在学中の調所五郎が恋人の湯山八重子と大磯の通称八郎山で心中した。当時の新聞によると心中事態...大手拓次再読1

  • ことばの墓場という辞書?は、

    「闇から牛」と書いて、「やみから牛」か「くらやみから牛」と読むほかに、「くらがりから牛」という、昔からの伝統的な読みが、あることを教えられて、「闇」は「くらがり」と読むのだと、はずかしながら知った記憶がある。今度、「広辞苑」の新版がでたと云うが、まだ見ていないからなんともいえないけど、手元にある「広辞苑」で調べてみると「暗・闇」として(くらやみ)と別立てで(くらがり)の引用があった。「大辞林」では「暗・闇」から牛を引き出す。とあって「広辞苑」と同じだが、「暗がり」からという表記になっていた。そこで手元にある角川の「新類語辞典」でしらべて、なんと親切なことには「闇」くらやみ)は、世の中のが乱れて見通しが立たないことにたとえられる」という。言葉がそえられていて、先の辞典よりは、ずっととわかりやすかった。「暗がり」は...ことばの墓場という辞書?は、

  • 同人誌という詩神~舟川栄次郎論(富山昭和詩誌の流れ)

    あけましておめでとうございます。今日は以前に書いた朝日町の詩人舟川栄次郎について、地元の人もあまりにも知らなすぎるので、以前の文章を再掲します。(今日は序文のみですが機会を見計らって以前に書いた文章を、掲載できたらとおもっています。)富山の昭和詩史の流れの中で同人誌という詩神ー舟川栄次郎論(1)いま、詩を書くとはどういうことか。「詩などどこにもない場所」で、しかも「求められもしない詩」をただ、あらしめようとする詩とは何か。詩人とは何か。一つの躓きに踵を接しながら、世界の全体的な必然性を越ええないと言う諦念の見えない、薄い皮膜に覆われているわが国の時代感情にあえて反することは意味のないことだろうか。どんなに自由に振る舞ってみても、言葉に纏わりつくものから、詩は免れることは出来ない。そのような詩の居場所を訪ねるため...同人誌という詩神~舟川栄次郎論(富山昭和詩誌の流れ)

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