なぜ伝統的ラテン語ミサなのか?なぜ新しいのはいけないのか?62の理由
なぜ伝統的ラテン語ミサなのか?なぜ新しいのはいけないのか?62の理由(伝統的ミサ)二千年間もの尊むべき使用試されかつ真実のもの(新ミサ)1969年に捏造試験的なもの(伝統的ミサ)明白に犠牲である祭壇と司祭(新ミサ)明白に食事であるテーブル使用(伝統的ミサ)天主を中心に据えられる崇敬の為に構成されている(新ミサ)人間を中心に据えられる自由な構造が乱用招く(伝統的ミサ)完全にカトリック一・聖・公・使徒継承(新ミサ)半分プロテスタント四つの徴(しるし)全てを欠く(伝統的ミサ)トリエント公会議にて法典化聖人教皇によって(教皇聖ピオ5世)(新ミサ)企画考案された六人のプロテスタント牧師の認可のために(伝統的ミサ)実り豊か!数知れぬ聖人、殉教者、聖職召命の群れ(新ミサ)不毛!空っぽの神学校、ミサ参列者の減少、大量の背教(伝...なぜ伝統的ラテン語ミサなのか?なぜ新しいのはいけないのか?62の理由
教書QuoPrimumTemporeについて本考察は二部に分かれています。先ず、第一部として「I−A教書それ自体・その日本語訳は一体どのようなものになるか」を原文と邦訳を羅和対訳形式で記し、第二部では「I−Bこの教書の法的適応範囲は一体どこまでなのか」と言う命題に就いての考察を述べます。PIUSEPISCOPUSSERVUSSERVORUMDEIADPERPETUAMREIMEMORIAM天主の僕等の下僕司教ピオは、永遠の記念の為に。QuoprimumtemporeadApostolatusapicemassumptifuimus,adealibenteranimum,viresquenostrasintendimus,etcogitationesomnesdireximus,quaeadEcclesiasti...教書QuoPrimumTemporeについて
オッタヴィアーニ・バッチ両枢機卿のパウロ6世教皇聖下への手紙
オッタヴィアーニ・バッチ両枢機卿のパウロ6世教皇聖下への手紙(翻訳)オッタヴィアーニ・バッチ両枢機卿のパウロ6世教皇聖下への手紙(翻訳)1969年9月25日、ローマにて教皇聖下「聖なる典礼に関する憲章の実行のための委員会」の専門家らによって準備されたミサの新しい司式(NovusOrdoMissae)を、注意深く吟味し、その他の人々が綿密な調査をするように願い、そして、長い祈りと考察の後に、私たちは次の考察結果を聖下の前に報告するのが、天主の御目の前における、また聖下に対する重大な私たちの義務であると感じます。1、添付のミサの新しい式次第の批判的研究は、神学者、典礼学者、霊魂の牧者らから成るあるグループのなしたものでありますが、これは短いものにもかかわらず、次のことを非常に明らかに示しています。すなわち、もし暗に...オッタヴィアーニ・バッチ両枢機卿のパウロ6世教皇聖下への手紙
新しい「ミサ司式」の批判的研究BreveExameCriticodelNovusOrdoMissae1規範ミサと新しい「式次第」1967年10月に司教会議(シノドス)がローマで開かれ、そこで「規範ミサ1」と呼ばれるミサを試験的に司式することについて、審議があった。この試験的なミサは、「聖なる典礼に関する憲章の実行のための委員会たものだった。2」によって創られとこの司教会議の参加者はこのようなミサのために非常に当惑していた。187票の投票者のうち、43の「反対3」、62いう多くの「保留4」があった。またその他の4票は棄権だった。報道機関は、司教会議が規範ミサを「拒否した」と書いた。革新的な傾向のある報道機関はこの出来事について沈黙を守った。司教達のための、ある有名な機関誌は新しい典礼をこう言ってまとめた。「[規範...「新しいミサ式次第の批判研究」とは何か
2ミサの定義まず、ミサの定義から始めよう。ミサの定義は「ミサの一般的構造13」と題された「ローマ・ミサ典書の総則14」の第2章の冒頭にある、第7番段落にある。これが新しい式次第によるミサの定義である。「主の晩さん、またはミサは、聖なる集会の義、すなわち『主の記念』を祝うために、キリストを代理する司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である15。したがって、『わたしの名において、2、3人が集まるところには、その中にわたしもいる』(マテオ18:20)というキリストの約束は、特に教会がそれぞれの地域で集まるときに実現される。16」これを見るとミサの定義は「晩餐17」以外の何ものでもなくなってしまっている。そしてこの定義は、以後何度も現れる(8、48、55d、56番)。この「晩餐」の特徴はさらに、司祭を座長とする...新しい「ミサ司式」の批判的研究ー2ミサの定義
新しい「ミサ司式」の批判的研究3ミサの目的では、今からミサの目的について見てみよう。(1)究極目的:至聖なる三位一体に対する賛美のいけにえキリストの御托身それ自体の第一目的についてキリストご自身が言っている。「世に入りつつ彼は言った『御身はいけにえも捧げものも望まれなかった。しかし御身は私に体を備えて下さった29』」と。そして、このキリストが明らかに宣言された言葉に相応しく、ミサの究極の目的は、至聖なる三位一体に対する賛美のいけにえである。「新しい式次第」では、この目的は消え失せてしまっている。まず、奉献の祈りから"Suscipe,SanctaTrinitas"の祈りが取り除かれたことによって。またミサの終わりにあった"PlaceattibiSanctaTrinitas"の祈りが省略されたことによって。さらに序...新しい「ミサ司式」の批判的研究ー3ミサの目的
4いけにえの本質ではここでいけにえの本質について見てみよう。十字架の神秘について、新しい式次第での中では、もはや明らかに表現されていない。それは、ただひっそりと、ベールを被せられているようであり、もはや人々には気がつくことができない40。それは次の理由からである。1)「感謝の祈り(奉献文)41」に与えられた意味「新しい式次第」の中でいわゆる「奉献文」というものの意味をこう言っている。「この祈りの意義は、信者の集まり全体が神の偉大な業を宣言し、いけにえを奉献することによって、自らをキリストに結び合わせることにある(54番終わり)。42」しかし、ミサ総則の中では、何の犠牲について言及しているのか?だれが奉献するのか?という質問には一切答えていない。「奉献文」の定義は全体でこうである。「ここで、祭儀全体の中心であり頂...4いけにえの本質
5いけにえを実現させる4つの要素いけにえがどのように実現するのかについてみてみよう。いけにえを実現させるものの中には次の4つの要素がある。それは1)キリスト2)司祭3)教会4)信者であるが、それらについて見てみよう。(1)信者の占める位置新しい司式に於いては信者の占める位置は自律的(切り離されている)78であり、全く偽りである。これは、最初の定義「ミサは、聖なる集会の儀、すなわち、民の集会である79」から司祭の会衆への挨拶に至るまで(総則28番)そうである。司祭の会衆への挨拶は一同に会した共同体に「主の現存」を示すためであり、この挨拶と会衆の返答とによって集った教会の神秘が表されるとされている。80そこで暗示されていることは、確かにキリストは本当に現存されるが、しかし、それはただ単に霊的な現存に過ぎないこと、そ...5いけにえを実現させる4つの要素
6新しい典礼様式が内包する落とし穴、危険、霊的心理的な破壊要素
6新しい典礼様式が内包する落とし穴、危険、霊的心理的な破壊要素以上の考察では、新しい司式がカトリック・ミサの神学からきわめてひどく逸脱するところだけに限って話がなされた。そこでの私たちの考察は単に逸脱が典型的であるものに限られている。新しい典礼様式が内包する(それがたとえ典礼文であれ、説明文であれ、規定文であれ)全ての落とし穴、危険、霊的心理的な破壊要素を完全に評価し尽くすのは広大な事業になるだろう。私たちはだからここでは新しい3つの「奉献文」にざっと目を通すだけにしよう。なぜなら、その形式もその実体も共に何回も権威ある批判を受けてきたからである。第二奉献文127はそのあまりの短さに信者達にすぐに躓きを与えた。この第二奉献文に関しては、全実体変化やミサの犠牲の性格のどちらももはや信じていないような司祭が良心の呵...6新しい典礼様式が内包する落とし穴、危険、霊的心理的な破壊要素
7宗教統一運動使徒座憲章は、新しい司式が東方教会から借りたことになっている信心と教義の豊かさについて明確に言及している。しかし、結果は東方典礼の精神からあまりにも遥かに離れ、そして実にその精神とは対立することになり、信者をして東方典礼様式からうんざりさせて離れさせるのみである。この宗教統一運動の為に東方典礼から借りたものはいったいどんなものがあるだろうか。基本的には「奉献文」を導入させるための数多くの文章(これをアナフォラと言う)。しかし、そのうちのどれ一つとして東方典礼のアナフォラの複雑さや美しさに及ばない。また、その他のものとして両形色での聖体拝領と助祭の使用である。東方典礼に近づくために導入したいくつかの要素に反して、新しい司式はローマ典礼がかつて東方典礼に最も近づいていた要素を、全て故意に取り除いてしま...7宗教統一運動
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