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帆場暎一
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2016/06/14

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  • 本山へ参拝しないと功徳がないとのデマ

    日蓮正宗より破門されて以降、学会員は当然ですが総本山への登山(参拝)はしていません。 まぁ破門されているのですから当然ですが・・・ その当然の道理が分からなくなっているのか?法華講では学会員宅を突然訪問してきては、「総本山に登山して、戒壇の大御本尊を参詣しないと成仏できない」などと的を射ていない事を言ってきます。 法華講さん「直接、戒壇の大御本尊を参詣し…

  • 大聖人直結は謗法とのデマを切る

    ネット上でもよく目にする「大聖人直結」は謗法とのデマを紹介しましょう。 佐渡の国法華講衆御返事 歴全1巻 『案のごとく聖人の御後も末の弟子共が、誰は聖人の直の御弟子と申やから多く候。これらの人は謗法にて候也。』 ※ 原文はひらがなですが、漢字をあてています。 この日興上人の御書を依文として、法華講では学会の「大聖人直結」を謗法であるとしてい…

  • ニセ本尊デマを切る!法主のみが本尊書写の権能がある

    法華講では、学会下附の御本尊は無許可の御本尊であるとの批判をしてくる。 富士宗学要集1巻 p112-9 有師化儀抄註解 『曼荼羅書写の大権は唯授一人金口相承の法主に在り敢(あえ)て沙弥輩(しゅみのやから)の呶呶(どど)する事を許さんや』 ※ 有師とは、大石寺第9世の日有の事 法主のみが、漫荼羅書写の大権があるとの事だが、日興上人の本六(本弟子六人)の日華…

  • ニセ本尊デマを切る!歴代法主も開眼が必要と言っている

    法華講では、御本尊の開眼供養は大聖人以降の歴代法主も開眼の必要性を言われていると主張します。 第二十二世日俊『本門如来寿量品二十三座』 『歴全』3巻 p3 『開眼と云うは、眼(まなこ)を開くと云う事なり。魂なければ眼は開くべからず、開かざれば益(やく)も無く用(ゆう)も無し』 第三十一世日因※ 出典を失念 『木絵の二…

  • ニセ本尊デマを切る!授与書き・脇書きを削る

    法華講は、よく学会の本尊は「授与書き・脇書き」を削除した変造本尊だから、ニセ本尊だ!との批判をしてきます。 富士宗学要集8巻 第三漫荼羅脇書等 p178 弘安三年の日禅授与の大聖人御筆漫荼羅に、『殊更に文字を抹消したる所を判読すれば』とあり、大聖人御筆漫荼羅に日興上人加筆の部分を殊更に抹消して…

  • ニセ本尊デマを切る!木絵二像開眼之事(10)完

    (前回のつづき) 論点(5)加える「経典」が重要、「法華経」こそが純円の仏となる「経典」 開眼供養と言っても、「法華経」こそが純円の仏となる「経典」であり、木像・絵像に欠けている「梵音相」を目に見える形としてあらわされた相です。 しかも日蓮大聖人は、ご自身の御本尊を法華経のすりかたぎ(摺形木)と言われています。 すりかたぎ(摺形木)とは、そのままコピー複写したとの意味です。 日女御前御返事…

  • ニセ本尊デマを切る!木絵二像開眼之事(9)

    (前回のつづき) 論点(3)と(4)「梵音相」=「清浄なる仏の声」=「経典」を加えることで三十二相が具足 木像・絵像では「梵音相」をあらわすことができないので、「経典」を加えることで三十二相を具足させます。 もし曼荼羅本尊にも「梵音相…

  • ニセ本尊デマを切る!木絵二像開眼之事(8)

    (前回のつづき) 論点(2)木像・絵像は、三十一相しかなく「梵音相」がない。 そもそもが、木像・絵像の開眼の事ですね。 日興上人は、「富士一跡門徒存知の事」で、日蓮大聖人の法門では絵像・木像の仏は本尊ではないと断言されています。その本尊でないモノの開眼を曼荼羅本尊(大聖人の御本尊)に当て…

  • ニセ本尊デマを切る!木絵二像開眼之事(7)

    (前回のつづき) 論点(1)仏とは三十二相を具足している。 三十二相八十種好の色法を備えた仏とは、色相荘厳の仏です。 色相荘厳の仏は、正法・像法時代の仏です。 日蓮正宗は自宗の法主「日寛」の六巻抄「文底秘沈抄」で、三十二相の仏が「虚仏

  • ニセ本尊デマを切る!木絵二像開眼之事(6)

    (前回のつづき) 法主の特別な秘伝による「開眼供養」が無ければ、魂が無いニセ本尊と言うのが法華講(日蓮正宗)の理屈です。 それでは論点を整理してみましょう。 (1)仏とは三十二相を具足している。 (2)木像・絵像は、三十一相しかなく「梵音相」がかけている。 (3)「梵音相」とは、目に見えない「清浄なる仏の声」 (4)「梵音相」を目に見える「経典」として加えることで三十二相が具足 (5)加える…

  • ニセ本尊デマを切る!木絵二像開眼之事(5)

    (前回のつづき) 三十一相の木像・絵像の前に、経典を置くことで三十二相が具足した仏となると、御書「木絵二像開眼之事」で言われています。 木絵二像開眼之事 p468-18 『法華経の文字は、仏の梵音声の不可見無対色を、可見有対色のかたちとあらはしぬれば、顕・形の二色となれるなり。滅せる梵音声、かへて形をあらはして、文字と成りて衆生を利益するなり。』 法華経の文字こそが、開眼で供養すべき三十二相のうち…

  • ニセ本尊デマを切る!木絵二像開眼之事(4)

    (前回のつづき) 大聖人は、木絵二像の開眼について、更に以下のように言われています。 木絵二像開眼之事 p468-10 『木画の二像の仏の前に経を置けば、三十二相具足するなり。但し心なければ、三十二相を具すれども必ずしも仏にあらず。(中略)三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつれば必ず純円の仏なり云云。』 梵音声として、経を供養する事で三十二相…

  • ニセ本尊デマを切る!木絵二像開眼之事(3)

    (前回のつづき) 三十二相八十種好(さんじゅうにそうはちじっしゅこう)とは、仏の身体に備わっている特徴のことで、見てすぐに分かる三十二相と、微細な特徴である八十種好を併せたものを言います。 木絵二像は、三十一相までしか表現できないため、三十二相にするためには木像・絵像では表現できない「梵音声」を後から追加する必要があります。 この「

  • ニセ本尊デマを切る!木絵二像開眼之事(2)

    (前回のつづき) 「木絵二像開眼之事」で木像・絵像の開眼について、以下の通りに言われています。 木絵二像開眼之事 p468-6 『仏に三十二相有り、皆色法なり。最下の千輻輪より終り無見頂相に至るまでの三十一相は、可見有対色なれば書きつべし作りつべし。梵音声の一相は、不可見無対色なれば書くべからず作るべからず。仏滅後は木画の二像あり。是れ三十一相に…

  • ニセ本尊デマを切る!木絵二像開眼之事(1)

    法華講は『唯授一人の血脈があるご歴代猊下様の書写と開眼がなければ、学会の本尊は仏力・法力も、魂もないニセ本尊だ!』と主張してきます。 その依文としている御書が「木絵二像開眼之事」です。 ニセ本尊デマについては、数回に渡り破折していきます。 木絵二像開眼之事 p469-17 『法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人が入り、人…

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