行基による開創で、以前は大野原町花稲にありました。鎌倉時代中期に、現在地に移り、比叡山より日枝神社と山王権現をお祀りして一院を建立しました。 南北朝時代(1336年~1392年)火を発してほとんどの堂舎を失いましたが、応永年間(1394年~1428年)再興すしました。安土時代(1568年~1600年)再び兵火にあい多くの堂宇を失いましたが、歴代の住職が再建に努め、嘉永7年(1854年)京都の旧嵯峨御所大本山大覚寺より天下...
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最上三十三観音第9番札所の松尾院の入り口に鎮座しています。創建等詳細は不明です。蔵王連峰の宮城県側刈田岳山頂にある刈田嶺神社の遠拝所だと思われます。御朱印は松尾院でいただくことができます。 半郷苅田嶺神社の御朱印です。住所:山形県山形市蔵王半郷1#御朱印ミュージアム #御朱印 #半郷苅田嶺神社(山形市)...
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行基による開創で、以前は大野原町花稲にありました。鎌倉時代中期に、現在地に移り、比叡山より日枝神社と山王権現をお祀りして一院を建立しました。 南北朝時代(1336年~1392年)火を発してほとんどの堂舎を失いましたが、応永年間(1394年~1428年)再興すしました。安土時代(1568年~1600年)再び兵火にあい多くの堂宇を失いましたが、歴代の住職が再建に努め、嘉永7年(1854年)京都の旧嵯峨御所大本山大覚寺より天下...
寛永19年(1642年)澄俊上人により開基されました。現在の建物の大部分は平成4年に新たに建て替えられたものです。 本尊は金剛界大日如来で、古くから諸願成就、厄除招福の功徳があるとして地域の方々から信仰されています。写真右は四国三十三観音および百観音霊場札所の観音像です。 四国三十三観音第26番、百八観音第66番の御朱印です。住所:愛媛県四国中央市川之江町1775...
四国八十八番大窪寺との関係が深く東大窪寺、西大瀧寺の名で呼ばれ、別格二十ヶ寺中で最も高い海抜940メートルの大瀧山上にあります。神亀3年(726年)行基が、塩江より大滝山に登り、阿讃山脈秀峰に一寺を建立し、阿弥陀三尊を安置したのが始まりとされています。 延暦10年(788年)空海の著書「三教指帰」に記されているとおり求聞持修法をされ、弘仁6年(807年)空海が42才、2度目の登山のときに、現世の男女厄難消除、万民...
天平11年(739年)行基が勝賀山の北麓に庵を結び、宝幢を刻んで宝幢山勝賀寺として創建したといわれています。 弘仁8年(817年)空海が地蔵菩薩像を刻んで安置して再建し、現地に移され、嵯峨天皇の勅願寺に選ばれました。鎌倉時代、この地の豪族香西左近将監資村(香西氏の祖)が、幕命をうけ堂塔を再建し香西寺と改称しました。 写真は不動堂と、四国三十三観音および百八観音の観音像です。 四国別格二十第19番...
当地は空海の母親である玉依御前の出身地とされ、宝亀5年(774年)空海が当寺奥之院で生まれたとされており、弘法大師出化初因縁の霊跡といわれています。 大同2年(807年)空海が本堂を建立して聖観音ないし弥勒菩薩を安置したのが当寺院の開創と伝えられています。弘仁6年(816年)空海が42歳の厄除のために自身の像を刻み、大師堂を建てたことにより奥之院が開かれたとされています。 四国別格二十第18番、奥之院...
弘仁12年(821年)空海が嵯峨天皇の勅命により、決壊した満濃池の修築のため別当に任ぜられ、わずか3ヶ月で完成させました。その功績により天皇から褒賞金を賜り、満濃池鎮護の寺として神野寺が建立されました。 天正9年(1581年)焼失し廃寺となりましたが、昭和9年(1934年)弘法大師1100年御遠忌をむかえ、上里法照を中心に満濃大師会が結成され、神野寺として堂宇が再建されました。空海が護摩法を修したといわれている満...
大同2年(807年)空海によって開基されたと伝えられ、千手観音と地蔵の2体の菩薩像を刻んだといわれています。 明応2年(1492年)伊予、阿波、讃岐に280余寺の末寺を有する大寺でした。萩寺とも呼ばれ、境内に24種、約2,000株の萩が植えてあります。 写真は讃岐七福神の弁財天と境内に祀られている泰平大黒天です。 四国別格二十第16番、四国三十六不動第28番、讃岐七福神弁財天の御朱印です。住所:香川県観音寺...
お寺へは箸蔵山ロープウェイを利用します。麓の登山口駅には駐車場があり、山頂駅までは4分くらいで着きます。 天長5年(828年)空海が当地に霊気を感じ山上に登ったところ、金毘羅大権現が現れ「箸を挙ぐる者、我誓ってこれを救はん」というお告げをしました。箸を挙ぐる者、というのは国民の全てということで、全ての人々を救済するという誓いが、当時、全ての人々が使っていた箸というものにたとえてたてられたのです。こ...
大同2年(807年)邦治居士が地蔵菩薩を祀り当地に庵を構えたことに始まるといわれています。 弘仁6年(815年)空海がこの地で熱病(インフルエンザ)が流行しているのを聞き、杖をもってその邪気を地中に封じ込め、後に空海が立てた杖から椿が芽を出し成長し、住民はこの椿を大師お杖椿として信仰の対象としてこの庵を椿堂と呼びこの地方の地名ともなりました。写真は大師堂とおさわり大師像です。 安政6年(1859年)火...
奈良時代に法道仙人がこの地に居を構えたことが始まりとされています。弘仁6年(815年)空海が42歳の時にこの山を訪れ、ここに住んでいた法道仙人よりこの地を譲り受け、厄除と虫除五穀豊穣の護摩修行を21日間行いました。 修行満願成就の後に空海はこの地の人々に信仰されていた瀧沢大権現と開運不動尊と、そして自身の姿を刻んだと言われ、この本尊は厄除大師または虫除大師と呼ばれるようになりました。訪れた時は台風の...
創建については不詳ですが、第29代欽明天皇16年(555年)本宮山に神霊が示現したので、都より勅使が差遺せられ、山麓約6kmの現在地に社殿を造営したのが始まりとされています。 元亀3年(1572年)甲斐の武田信玄が遠江に進行した際に、徳川家が御神霊を別所に遷し、願文と三条小鍛治宗近作の太刀を奉り戦勝を祈願した後、社殿を全て焼失しました。天正3年(1575年)徳川家康が戦いに勝利し、御本殿の造営、拝殿・楼門が再建...
創建年代は不詳ですが、第13代成務天皇の頃と社伝に記録されています。大同2年(807年)坂上田村麻呂が東征の際に、桓武天皇の勅命を奉じて、それまで鎮座していたすぐ北側の本宮山から現在地へ遷座させたと伝えられています。御祭神は己等乃麻知媛命です。 康平5年(1062年)源頼義が、京都より石清水八幡宮を当社に勧請し、日坂八幡宮や八幡神社とも称されるようになりました。 摂社の金刀比羅神社と五社神社です。 ...
詳細は不明ですが、標高789mの本宮山の各所には古代祭祀遺跡が点在することから砥鹿神社の創祀と考えられています。 奥宮までは本宮山山麓より登山道を登っていくか、車で本宮山スカイラインの砥鹿神社奥宮駐車場を利用し、そこから徒歩となります。 写真は境内に祀られている岩戸神社の遥拝所と見守殿神社です。 砥鹿神社奥宮と山中に祀られている荒羽々気神社、守見殿神社の御朱印です。 同じく山中に祀...
大宝年間(701年~704年)文武天皇の病を鎮める為、草鹿砥公宣卿が勅使として派遣され、本茂山(本宮山)の神を迎えて里宮が創建されたとされています。 永禄年間(1558年~1570年)徳川家康の命を受けた本多信俊が一宮砦を構えて今川軍に包囲されましたが、家康が寡勢で救援に駆けつけて多勢の今川軍を蹴散らし、砥鹿神社に宿陣したとも伝わっています。 写真は摂社の三河ゑびす社で、御祭神は事代主命と建御名方命です...
御祭神は大和国一宮大神神社と同じ大物主神で、大和から移り、この地で勢力を誇った大和三輪一族が奉斎したものと伝えられていますが、詳細は不明です。 『延喜式』に大神神社名神大と記載されており、名神大社に列していましたが、天正12年(1584年)小牧長久手の戦いの際に、浅井氏が崇敬をよせていた当社が織田氏に焼失させられ、多くの社宝や古記録が失われたといわれています。 大神神社(尾張国一宮【全国一宮】)の...
平安時代初期に日本天台宗を開宗した伝教大師最澄の直弟子の慈覚大師円仁が天台声明の道場として創建したのに始まると伝えられています。声明とは経文に音曲をつけて歌詠するもので、音楽的な色彩が強く後の邦楽(今様・浄瑠璃・謡曲・民謡)に影響を与え、今日に伝えられています。 その後に衰退しますが、天仁2年(1109年)良忍により再興され、勝林院を本堂とする下院と来迎院を本堂とする上院が成立し、この両院を以て...
本尊は阿弥陀如来です。札所となっている薬師如来は帝の勅命を受けた弘法大師が一刀三礼謹刻され、寅の日、寅の刻に成就されたため寅薬師と称されています。弘安年間(1278年~1288年)後宇多天皇から下賜された、この薬師如来を安置するため、御倉堂を建立したのが始まりと伝わっています。 京都十二薬師第11番の御朱印です。住所:京都府京都市中京区新京極蛸薬師上ル中筋町495-1...
推古天皇6年(598年)聖徳太子により大和国宮田郷に創建されたと伝えられています。本尊の薬師如来(菩提薬師)は聖徳太子自刻の像であるといわれています。昔から出納帳に宝印を受けると商売繁盛になるとされ、正月に朱印をうけに来られる方が多く、この風習は当寺が発祥で”大福帳”の由来と言われています。 京都十二薬師第10番の御朱印です。住所:京都府京都市中京区麸屋町通二条上ル布袋屋町498...
弘仁年間(810年~824年)嵯峨天皇の勅許により弘法大師の十大弟子の一人の真済上人が太秦安井の地に創建したといわれています。享保年間(1716年~1735年)道空和上が関白鷹司公の北政所の病気平癒に際して大いに霊験を発揮したことにより、太秦の地より現在地に移転し、道空の念持仏であった薬師如来が本尊になりました。 京都十二薬師第5番の御朱印です。現在は脱退し、第5番札所は真正極楽寺となっています。住所:京都府...
延暦元年(782年)伝教大師最澄が16歳の時、一刀三礼彫刻された薬師仏七体中の一体尊が本尊の薬師如来像です。寛喜2年(1230年)全国的に疫病が広がった時、薬師院住職の夢に薬師如来が現れて、「一切病苦の衆生、我が前に来たらば諸病ことごとく除くべきに、来ぬか、来ぬか」とのお告があり、皆病気治癒したので、”こぬか薬師”と呼ばれています。 薬師院の御朱印と御詠歌、京都十二薬師第9番の御朱印です。住所:京...
当地は空海の母親である玉依御前の出身地とされ、宝亀5年(774年)空海が当寺奥之院で生まれたとされており、弘法大師出化初因縁の霊跡といわれています。 大同2年(807年)空海が本堂を建立して聖観音ないし弥勒菩薩を安置したのが当寺院の開創と伝えられています。弘仁6年(816年)空海が42歳の厄除のために自身の像を刻み、大師堂を建てたことにより奥之院が開かれたとされています。 四国別格二十第18番、奥之院...
弘仁12年(821年)空海が嵯峨天皇の勅命により、決壊した満濃池の修築のため別当に任ぜられ、わずか3ヶ月で完成させました。その功績により天皇から褒賞金を賜り、満濃池鎮護の寺として神野寺が建立されました。 天正9年(1581年)焼失し廃寺となりましたが、昭和9年(1934年)弘法大師1100年御遠忌をむかえ、上里法照を中心に満濃大師会が結成され、神野寺として堂宇が再建されました。空海が護摩法を修したといわれている満...
大同2年(807年)空海によって開基されたと伝えられ、千手観音と地蔵の2体の菩薩像を刻んだといわれています。 明応2年(1492年)伊予、阿波、讃岐に280余寺の末寺を有する大寺でした。萩寺とも呼ばれ、境内に24種、約2,000株の萩が植えてあります。 写真は讃岐七福神の弁財天と境内に祀られている泰平大黒天です。 四国別格二十第16番、四国三十六不動第28番、讃岐七福神弁財天の御朱印です。住所:香川県観音寺...
お寺へは箸蔵山ロープウェイを利用します。麓の登山口駅には駐車場があり、山頂駅までは4分くらいで着きます。 天長5年(828年)空海が当地に霊気を感じ山上に登ったところ、金毘羅大権現が現れ「箸を挙ぐる者、我誓ってこれを救はん」というお告げをしました。箸を挙ぐる者、というのは国民の全てということで、全ての人々を救済するという誓いが、当時、全ての人々が使っていた箸というものにたとえてたてられたのです。こ...
大同2年(807年)邦治居士が地蔵菩薩を祀り当地に庵を構えたことに始まるといわれています。 弘仁6年(815年)空海がこの地で熱病(インフルエンザ)が流行しているのを聞き、杖をもってその邪気を地中に封じ込め、後に空海が立てた杖から椿が芽を出し成長し、住民はこの椿を大師お杖椿として信仰の対象としてこの庵を椿堂と呼びこの地方の地名ともなりました。写真は大師堂とおさわり大師像です。 安政6年(1859年)火...
奈良時代に法道仙人がこの地に居を構えたことが始まりとされています。弘仁6年(815年)空海が42歳の時にこの山を訪れ、ここに住んでいた法道仙人よりこの地を譲り受け、厄除と虫除五穀豊穣の護摩修行を21日間行いました。 修行満願成就の後に空海はこの地の人々に信仰されていた瀧沢大権現と開運不動尊と、そして自身の姿を刻んだと言われ、この本尊は厄除大師または虫除大師と呼ばれるようになりました。訪れた時は台風の...
創建については不詳ですが、第29代欽明天皇16年(555年)本宮山に神霊が示現したので、都より勅使が差遺せられ、山麓約6kmの現在地に社殿を造営したのが始まりとされています。 元亀3年(1572年)甲斐の武田信玄が遠江に進行した際に、徳川家が御神霊を別所に遷し、願文と三条小鍛治宗近作の太刀を奉り戦勝を祈願した後、社殿を全て焼失しました。天正3年(1575年)徳川家康が戦いに勝利し、御本殿の造営、拝殿・楼門が再建...
創建年代は不詳ですが、第13代成務天皇の頃と社伝に記録されています。大同2年(807年)坂上田村麻呂が東征の際に、桓武天皇の勅命を奉じて、それまで鎮座していたすぐ北側の本宮山から現在地へ遷座させたと伝えられています。御祭神は己等乃麻知媛命です。 康平5年(1062年)源頼義が、京都より石清水八幡宮を当社に勧請し、日坂八幡宮や八幡神社とも称されるようになりました。 摂社の金刀比羅神社と五社神社です。 ...
詳細は不明ですが、標高789mの本宮山の各所には古代祭祀遺跡が点在することから砥鹿神社の創祀と考えられています。 奥宮までは本宮山山麓より登山道を登っていくか、車で本宮山スカイラインの砥鹿神社奥宮駐車場を利用し、そこから徒歩となります。 写真は境内に祀られている岩戸神社の遥拝所と見守殿神社です。 砥鹿神社奥宮と山中に祀られている荒羽々気神社、守見殿神社の御朱印です。 同じく山中に祀...
大宝年間(701年~704年)文武天皇の病を鎮める為、草鹿砥公宣卿が勅使として派遣され、本茂山(本宮山)の神を迎えて里宮が創建されたとされています。 永禄年間(1558年~1570年)徳川家康の命を受けた本多信俊が一宮砦を構えて今川軍に包囲されましたが、家康が寡勢で救援に駆けつけて多勢の今川軍を蹴散らし、砥鹿神社に宿陣したとも伝わっています。 写真は摂社の三河ゑびす社で、御祭神は事代主命と建御名方命です...
御祭神は大和国一宮大神神社と同じ大物主神で、大和から移り、この地で勢力を誇った大和三輪一族が奉斎したものと伝えられていますが、詳細は不明です。 『延喜式』に大神神社名神大と記載されており、名神大社に列していましたが、天正12年(1584年)小牧長久手の戦いの際に、浅井氏が崇敬をよせていた当社が織田氏に焼失させられ、多くの社宝や古記録が失われたといわれています。 大神神社(尾張国一宮【全国一宮】)の...