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  • 「勝負谷橋」(5)江戸時代、豊中の村支配。

    「享保18(1733)年に徳川幕府が当時の長興寺村・寺内村に敷地を確保して建設した。長興寺村・寺内村は幕領と譜代大名飯野藩保科氏領の相給村であり、焔硝蔵の敷地の多くは幕領であつたが、一部保科氏領の敷地もあつた。」現在の服部緑地公園にあった焔焇蔵は、幕末の村域でいうと長興寺村、石蓮寺・寺内村となります。これらの村は、天領、飯野藩の所領でした。「豊中市は江戸時代にはどこの領地?」と聞かれたら「麻田藩」との答えが多いと思います。所が。豊中市史・新修豊中市史等に依るとそう簡単ではなくかなり複雑な状態であることが分かります。見出しの「近世豊中の村々」に「幕末期豊中の所領配置図」を重ね合わせると下図のようになります。天領、大名領、旗本領などが碁を打ったように複雑に入り乱れて配置されています。幕末の豊中には、4大名領、8旗本...「勝負谷橋」(5)江戸時代、豊中の村支配。

  • 「勝負谷橋」(4)大阪城鉄砲奉行支配焔焇蔵跡

    服部緑地公園の北東に「長興寺焔硝蔵場跡」の看板と碑があります。『新修豊中市史第1巻通史1』(豊中市)p650-656に「長興寺の焔硝蔵」の項があり。享保18(1733)年に徳川幕府が当時の長興寺村・寺内村に敷地を確保して建設した。長興寺村・寺内村は幕領と譜代大名飯野藩保科氏領の相給村であり、焔硝蔵の敷地の多くは幕領であつたが、一部保科氏領の敷地もあつた。『豊中の伝説と昔話』(鹿島友治)p50「煙硝ぐら始末記」には、蛤御門の変のころに、爆破されるのを防ぐために焔硝蔵の火薬を近隣の池に投げ込んだとの記載があり。また『新修豊中市史第7巻民俗』p245には、焔硝蔵の跡地は田になつたことと、江戸時代に火薬が神崎川の渡しから高川沿いに運ばれるときには、沿道では火を使うことが禁止されていたとの記載があり。「勝負谷橋」(4)大阪城鉄砲奉行支配焔焇蔵跡

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