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  • 「ショウブ」地名考(5)植物名「アヤメ」と「ショウブ」Ⅱ

    「ショウブ」地名考(5)植物名「アヤメ」と「ショウブ」Ⅱ

    アヤメ語源考◎語源は語呂合わせではない。多くの植物図鑑や書物には◎「その葉が並列して立っている所から美しいあや(綾・文)がある」ところから「あやめ」と名付けた。◎「文理または文目、つまりあやのある模様の意味で、葉がたくさん並び集まってあや目を描きだしている」◎和名は「文目」の意味で、葉の芯が文目模様になっているからという。などと書かれています。お偉い先生が「あやめ」は葉の並び方や葉の芯の模様が綾目に似ているから「あやめ」と言うのです、と言われると「そーなんだ!」としか言えません。他にも「イヌノフグリ」「オオイヌノフグリ」と云う身近な植物があります。イヌノフグリVeronicapolitavar.lilacinaオオイヌノフグリ(実)Veronicapersica和名の由来は、果実の形状が雄犬の「フグリ」、...「ショウブ」地名考(5)植物名「アヤメ」と「ショウブ」Ⅱ

  • 「ショウブ」地名考(5)植物名「アヤメ」と「ショウブ」

    「ショウブ」地名考(5)植物名「アヤメ」と「ショウブ」

    大変ややこしいことを書きます。アヤメと呼ぶ植物とショウブと呼ぶ植物があります。無論両者は全く違う植物です。ややこしいことに両者の漢字表記は「菖蒲」です。フリガナがなければ「アヤメ」なのか「ショウブ」なのかは分かりません。古代(万葉時代)アヤメは安夜売具佐、安夜女具佐などの万葉仮名で表記されていました。漢字表記は菖蒲(アヤメグサ)です。アヤメグサ当時のアヤメグサは現代のショウブ(菖蒲)のことを指します。万葉時代のアヤメグサ・現在のショウブ。ショウブはサトイモ科に属します。アヤメと混同されますが、花は写真のように全く鑑賞の価値のないものだが葉に芳香があるのが特色。その香りによって病魔を打ち払い災厄から逃れられるというので端午の節句の前夜にショウブの葉を束ねて軒下に吊るし風呂にも葉を入れて菖蒲湯として入浴する習...「ショウブ」地名考(5)植物名「アヤメ」と「ショウブ」

  • 「ショウブ」地名考(4)「アヤメ」地名

    「ショウブ」地名考(4)「アヤメ」地名

    「菖蒲」表記の地名は、フリガナが無いと「ショウブ」と読んでしまいます。しかし、「菖蒲」を「アヤメ」と読む地名が沢山あります。地名辞典などを詳しく調べてみると「菖蒲」を全て「ショウブ」と分類しているものが結構ありました。しかし、ここに調べ直すとその中には「アヤメ」と読むところが結構ありました。「ショウブ」地名は、当ブログ「ショウブ地名考」(1)~(3)で検証したように植物地名よりも地形地名、即ち、細流・清水の古語「ショウズ」に由来するとするのが地名学会の大方の見解のようです。ショウズ⇒ショウブに転訛し、漢字で菖蒲・塩生・勝風・正夫・庄府・庄布・小分・正部・勝負などと表記されたとされます。一方、「アヤメ」地名はその語源となる由来は、植物の「アヤメ」以外無いようです。明らかに「アヤメ」地名の由来は植物の「アヤメ...「ショウブ」地名考(4)「アヤメ」地名

  • 「ショウブ」地名考(3)角川日本地名大辞典

    「ショウブ」地名考(3)角川日本地名大辞典

    「角川日本地名大辞典」角川書店47都道府県別47巻(北海道、京都府は上・下巻)及び別巻2巻(日本地名資料集成、日本地名総覧)49巻からなる。編纂委員会委員長・竹内理三。編集方針の基本は、「民族遺産としての地名を将来に伝えること」、現代の地名を収録したことについては「現代の社会生活上の必要を満たし、地域の現状を歴史として後世に伝えること」としている。(Wikipedia)「ショウブ」地名の由来の解説については平凡社「日本歴史地名大系」とほとんど変わるものはないようです。勝負◎信濃国諏訪郡菖蒲沢村(現長野県諏訪郡原村菖蒲沢村)村名の由来は1,諏訪氏と武田氏が勝負した沢であるという説。2,湧水地に菖蒲が自生していることによる説。2の方が有力。◎出雲国八束郡八雲村字勝負谷(島根県松江市八雲町字日吉)意宇川沿いにあ...「ショウブ」地名考(3)角川日本地名大辞典

  • 「ショウブ」地名考(2)日本歴史地名大系・・・(Ⅱ)

    「ショウブ」地名考(2)日本歴史地名大系・・・(Ⅱ)

    前回の「日本歴史地名大系Ⅰ」で「ショウブ」地名の集計を掲示しました。それによると菖蒲地名合計(A)=81,勝負地名合計(B)=16,ショウブ地名(C)=25で総合計は122です。この122の内、地名の由来・伝承・地名譚・地名解が記載されているのは10カ所もありません。以下、それらを順次検討します。A).菖蒲地名菖蒲沢村(但馬国朝来郡現:兵庫県朝来市生野町)菖蒲沢:国土地理院+兵庫県の地名Ⅰ日本歴史地名体系・兵庫県の地名(Ⅰ)朝来郡生野町菖蒲沢村に地名伝承が記載されています。よほどの知恵者がいたとみえて「判じ物」のような地名説話を考えたようです。和銅年間に挑文師が綾織を伝えた。その事績を顕彰して綾目と云う地名を付けた。綾目(アヤメ)→菖蒲(アヤメの漢字表記)→ショウブ(菖蒲の音読み)と転訛した。※参考資料(上記の...「ショウブ」地名考(2)日本歴史地名大系・・・(Ⅱ)

  • 「ショウブ」地名考(2)日本歴史地名大系・・・(Ⅰ)

    「ショウブ」地名考(2)日本歴史地名大系・・・(Ⅰ)

    「日本歴史地名大系」平凡社(47都道府県京都市の48巻、索引2巻の都合50巻)谷川健一の発案により、戦前の「大日本地名辞書」を凌ぐ地名辞典編纂を目指し、計画が立ち上がった。各都道府県毎に、主に地元大学の歴史学者等の監修のもと編集委員会が組織され、その下で在野の郷土史家を含めた各地域の専門家が手分けして執筆に当たった。(Wikipedia)「総索引」から「ショウブ」項目を抽出すると下記の表のようになります。この日本歴史地名体系は各都道府県ごとに一巻に編集され、項目ごとに解説されています。地名に関してその由来、伝承、地名譚などがあるものを列記し検証したいと思います。その前に本題から逸れますが余談を紹介します。◎吉田東吾と大日本地名辞典吉田東伍(よしだとうご)元治元年(1864年)-大正7年(1918年)新潟県出身。...「ショウブ」地名考(2)日本歴史地名大系・・・(Ⅰ)

  • 「ショウブ」地名考(1)新日本地名検索

    「ショウブ」地名考(1)新日本地名検索

    「勝負谷橋」名前は橋が設置された場所の小字地名「勝負谷」に由来すると考えられます。そこで地名としての「勝負谷」について考えてみます。「民俗と地名・民俗地名語彙辞典(上)」(三一書房)【ショウブ、ショープ】地すべりの災害の起りうる土地に住んでいる人々は、水が最大の誘因である場合が多いのだから、水の管理をきちんとすればいいわけである。その水路管理の場所をショウブ(菖蒲)とかショウズ(ショーズ)という。昔は浄化の意味もあったのか、水路に菖蒲を野生させていたので、水路または水汲み場をショープといった。〔小川豊『地名と風土』二巻〕ショープは水路のこと。菖蒲谷、勝負谷と宛てた地名は多し。菖蒲はショーズやシズと同根で「細流」を意味する地名。植物の葛潜も、そういう環境の名によっている〔『日本地名学』Ⅱ〕。菖蒲の地名は、北海道以...「ショウブ」地名考(1)新日本地名検索

  • 勝負谷橋(9)橋の名前は地名が由来。

    勝負谷橋(9)橋の名前は地名が由来。

    「勝負谷橋」に関しての古い記録は見付りませんでした。又、説話や伝承もありませ。その為に橋の名前の由来を考えるには他の方策が必要となります。勝負谷橋(8)の調査データーによると、橋の名前は多くの事例から設置された川の名前、或いは地名(橋の両端の地名が異なる場合:両右方の地名から1字取り合成したりします)に由来します。勝負谷橋は天竺川に架かっています。「勝負谷橋」(2)で検証したように「天竺川の由来については、流域にあった天竺山石蓮寺からきた」ことから、設置された川「天竺川」は古代からの名称と考えられますから該当しません。そうすると「勝負谷橋」は「勝負谷」と云う地名と考えられます。豊中市史(旧版)の付録に「豊中市小字表」があります。旧村の小字地名の一覧がが列挙されています。「旧熊野村」57.勝負谷(しょうぶがたに)...勝負谷橋(9)橋の名前は地名が由来。

  • 勝負橋(8)橋の名前を調べよう。

    勝負橋(8)橋の名前を調べよう。

    ネット上には「橋」に関する沢山の情報があります。備前市のHPに面白い橋の名前が紹介されています。「備前♥日生大橋」は公募によって決まったようです。この「♥」印を何と読むのでしょうか?最近は子供の名前も奇抜で我々には理解できない「きらきらネーム」が氾濫していますが橋の名前にも遂に「きらきらネーム」が進出したようです。冒頭にも記しましたようにネット上には数多くの「橋」に関する記事があります。国の機関(国土交通省各部署)、各都道府県、各研究機関、研究団体、個人、好事家など様々あります。「橋の名前」についてに限っても同じことで、その全てを閲覧するのはとてもできません。中国地方整備局HPに「橋の名前の付け方には次のような方法があります。」(1)橋を架ける場所の地名や近くの代表的な地名、地域のシンボルとなるような橋名をつけ...勝負橋(8)橋の名前を調べよう。

  • 勝負橋(7)京の五条大橋

    勝負橋(7)京の五条大橋

    橋にまつわる「大勝負」は何と言っても牛若丸と弁慶の最初の出会いです。「牛若丸」尋常小学唱歌作詞、作曲:不明明治44年(1911年)京の五条の橋の上大のおとこの弁慶は長い薙刀ふりあげて牛若めがけて切りかかる牛若丸は飛び退いて持った扇を投げつけて来い来い来いと欄干の上へ揚って手を叩く前やうしろや右左ここと思えばまたあちら燕のような早業に鬼の弁慶あやまった童謡「牛若丸」は、巌谷小波(明治を代表するお伽噺作家)の「日本昔噺」(全24編)シリーズ・第23編「牛若丸」(明治29年・1896年発表)を基に作詞・作曲されたとされます。後世に語り継がれている「義経(牛若丸)」の物語は中世(室町初・中期に成立)した軍記物語「義経記(ぎけいき)」(作者不明)に準拠するとされています。牛若丸や弁慶の活躍した時代から約200年も後に完成...勝負橋(7)京の五条大橋

  • 「勝負谷橋」(6)日本最古の橋・猪甘津小橋。

    「勝負谷橋」(6)日本最古の橋・猪甘津小橋。

    「勝負橋」に興味を持ち調べだしました。当初は大体のストーリを持って書き始めました。先ず地元に伝わる伝承、民話、古老の伝える昔話、それらを記録した地元自治体史の記録を調べれば、由来由緒、あるいは間接的な何らかの手がかりがあるものです。結論から言うと「勝負橋」については期待するものは見つけることができませんでした。「けちんぼ六さん」「川崎橋」の例のように範囲を広げて民話集や橋に関する資料なども調べましたが残念ながら直接或いは間接的な材料はありませんでした。そこで郷土史を基本にはするものの方針転換して、別の面から「勝負橋」を検討します。日本最古の橋「日本書紀」仁徳十四年条「冬十一月為橋於猪甘津卽號其處日小橋也」(訳:十四年の冬十一月に、猪甘津に橋をわたした。そこで、そこを名づけて小橋といった。)この一文が書物に登場す...「勝負谷橋」(6)日本最古の橋・猪甘津小橋。

  • 川崎橋・・「ぜにとり橋」と言われた橋。

    川崎橋・・「ぜにとり橋」と言われた橋。

    川崎橋は大川(旧淀川)架かる橋です。大阪市の公式HPによると「江戸時代このあたりの大川は、過書船・伏見船が往来し、四季折々には涼み船・月見船などで大そうにぎわったという。対岸の備前島(現在の網島町の一部)は京橋口に接し、京・大和へ向かう街道に通じており、ここ川崎の地(現在の天満1丁目の一部)には幕府の材木蔵や城代および町奉行配下の役人宅、諸藩の蔵屋敷などが建ち並んでいた。両岸を結ぶ川崎渡しは元禄年間にはすでに存在していた記録がある。明治10年(1877)になり私設の木橋、川崎橋が架けられたが、同18年(1885)の大洪水によって惜しくも流失した。その後、渡しが復活され人々に利用されてきたが、昭和20年(1945)には廃止されている。このような由来から、かつての渡しや橋の名を世にとどめる本橋を「川崎橋」と命名した...川崎橋・・「ぜにとり橋」と言われた橋。

  • 日本昔話「けちんぼ六さん」

    日本昔話「けちんぼ六さん」

    「日本昔話データーベース」(http://nihon.syoukoukai.com/modules/stories/index.php?lid=199)から引用します。『あらすじ』東京の石神井川(しゃくじいがわ)に、今も下頭橋(げとうばし)という橋が架かっています。昔、この橋は江戸と川越を結ぶただ一つの木の橋として、とても人通りの多い橋でした。この橋の周囲には大勢の乞食がたむろしていましたが、町の人々も乞食たちも仲良くおだやかに暮らしていました。この中に「六さん」という古株の年寄り乞食がいましたが、朝から晩までせっせと物乞いし、全く無駄遣いをしなかったので「けちんぼ六さん」と呼ばれていました。ある日、六さんは一人ひっそりと死んでしまいました。乞食仲間や町の人々が、六さんをねんごろに葬ってあげて住んでいた小屋を片...日本昔話「けちんぼ六さん」

  • 「勝負谷橋」(5)江戸時代、豊中の村支配。

    「勝負谷橋」(5)江戸時代、豊中の村支配。

    「享保18(1733)年に徳川幕府が当時の長興寺村・寺内村に敷地を確保して建設した。長興寺村・寺内村は幕領と譜代大名飯野藩保科氏領の相給村であり、焔硝蔵の敷地の多くは幕領であつたが、一部保科氏領の敷地もあつた。」現在の服部緑地公園にあった焔焇蔵は、幕末の村域でいうと長興寺村、石蓮寺・寺内村となります。これらの村は、天領、飯野藩の所領でした。「豊中市は江戸時代にはどこの領地?」と聞かれたら「麻田藩」との答えが多いと思います。所が。豊中市史・新修豊中市史等に依るとそう簡単ではなくかなり複雑な状態であることが分かります。見出しの「近世豊中の村々」に「幕末期豊中の所領配置図」を重ね合わせると下図のようになります。天領、大名領、旗本領などが碁を打ったように複雑に入り乱れて配置されています。幕末の豊中には、4大名領、8旗本...「勝負谷橋」(5)江戸時代、豊中の村支配。

  • 「勝負谷橋」(4)大阪城鉄砲奉行支配焔焇蔵跡

    「勝負谷橋」(4)大阪城鉄砲奉行支配焔焇蔵跡

    服部緑地公園の北東に「長興寺焔硝蔵場跡」の看板と碑があります。『新修豊中市史第1巻通史1』(豊中市)p650-656に「長興寺の焔硝蔵」の項があり。享保18(1733)年に徳川幕府が当時の長興寺村・寺内村に敷地を確保して建設した。長興寺村・寺内村は幕領と譜代大名飯野藩保科氏領の相給村であり、焔硝蔵の敷地の多くは幕領であつたが、一部保科氏領の敷地もあつた。『豊中の伝説と昔話』(鹿島友治)p50「煙硝ぐら始末記」には、蛤御門の変のころに、爆破されるのを防ぐために焔硝蔵の火薬を近隣の池に投げ込んだとの記載があり。また『新修豊中市史第7巻民俗』p245には、焔硝蔵の跡地は田になつたことと、江戸時代に火薬が神崎川の渡しから高川沿いに運ばれるときには、沿道では火を使うことが禁止されていたとの記載があり。「勝負谷橋」(4)大阪城鉄砲奉行支配焔焇蔵跡

  • 「勝負谷橋」(3)天竺山石蓮寺はどこにある?

    「勝負谷橋」(3)天竺山石蓮寺はどこにある?

    豊中市若竹町1丁目に服部緑地から寺内町に抜ける小径に設置されてそう古くない写真のような石碑があります。利生山興法寺があります。同じく若竹町1丁目、興法寺と呼指の距離に若宮住吉神社があります。利生山興法寺の由来興法寺の開基は摂州橘御園庄今福村(尼崎市今福)に住む今福佐衛門源道悟(源経基の子孫)一郷守護の武士で承元元年三月頃法然上人が神崎に立ち寄った時その教化にあずかり又親鸞聖人が関東から帰洛の節(天福、文暦年間)一座の御感化を受け歓喜の泪身に余り早速今福村に一宇を建立翌年御礼の為上洛し聖人より御法を興した法師として寺号を興法寺と賜わり以来十一代専宗迄今福村に存在したその後天正二年顕如上人が法敵織田信長と合戦をまじえた際十一代専宗が加勢を申し上げたのを信長がにくみ今福村道場を焼失せよと配下に桜井なる武士など多数をさ...「勝負谷橋」(3)天竺山石蓮寺はどこにある?

  • 「勝負谷橋」(2)天竺川の名前の由来。

    「勝負谷橋」(2)天竺川の名前の由来。

    勝負谷橋の架かる天竺川は神崎川の支流です。「勝負谷(橋)」と云うのも興味を引きますが同じように「天竺川」と云う名の由来にも大いに関心があります。手元の資料やネットで調べていましたが、緊急事態措置が解除され図書館が利用できるようになったので早速、図書館の郷土資料を閲覧しました。もっとも納得のできるのは「大阪府の地名Ⅰ」日本歴史地名大系28(平凡社)の記述です。「天竺川」千里丘陵の上新田に発し、熊野田を経て、小曾根と椋橋の境界を流れて菰江の三国橋上流で神崎川に合流。途中熊野田で南流してきた兎川を合る。流路延長七六キロ。(・・省略・・)水量もあまりなかったようであるが、時には洪水氾濫の被害をもたらしたらしい。(・・省略・・)千里丘陵から平坦地へ出る個所が危険であり、ここには山ノ池・中ノ池・こも池(現在いずれも服部緑地...「勝負谷橋」(2)天竺川の名前の由来。

  • 「勝負谷橋」

    「勝負谷橋」

    勝負谷橋は豊中市東泉丘2-1(東泉丘第21号)天竺川に架かるコンクリート橋です。豊中市地形地図豊中市地形地図・勝負谷橋付近拡大天竺川は豊中市北部千里丘陵上新田より南西に約7.7km流れ神崎川に合流する一級河川です。天竺川はたびたび洪水に見舞われ、その度に決壊した堤防を高く修復したために典型的な天井川となり、その堤防は松並木となり美しい景観を作り出しています。豊中市河川地図勝負谷橋付近の天竺川公園「勝負谷橋」

  • カメムシが多い年は雪も多い

    カメムシが多い年は雪も多い

    今年(平成30年=2018年)は「カメムシ」が大量発生したようです。例えば鳥取県では8月に個体調査したところ平年の3倍の個体数が確認されたそうです。そのため28年ぶりに「病害虫発生予察注意報」を出しました。昔から農村では「カメムシの多い年は大雪になる」と言い伝えられています。この分によると今シーズンは豪雪になる気配です。当ブログは平成22年1月に「カメムシが多い年は雪も多い」と云う記事を掲載しました。12月に夏日を記録する異常な気候ですが、年末から年明け以降果たして言い伝え通り大雪になるか?興味がるところですので再度当時の記事をUPし直します。昨年(平成21年=2009年)10月、舞鶴に「新米」を貰いに行った時「今年はカメムシが多いので、この冬は大雪になる」と農家さんが云っていました。その頃の長期予報では「暖冬...カメムシが多い年は雪も多い

  • 宇治市伊勢田ウトロ(地名の話3)

    宇治市伊勢田ウトロ(地名の話3)

    5月15日(金)毎日新聞夕刊「居住権を人々のうねり」・「公営化住宅進む在日コリアンの原風景」・「京都ウトロ地区」と題した特集記事が掲載されました。現在「ウトロ地区」は公営住宅の建設が進み住環境は随分と改善されているようです。私は昭和44年9月から翌年3月まで伊勢田で仕事をしていたことがありました。近鉄奈良線伊勢田駅の西側に伊勢田ウトロ地区があります。この地域は、行政の光が当たらない所で、住環境としては劣悪であったように思います。在日韓国人の方々が多く住んでいて、土地の所有で問題があるとの事でした。在日韓国の方であろうと在日米国の方であろうと在日の大阪人、在日の東京人であろうと民生向上に努力するのが行政の仕事だと思うのですが・・・。肌理細かい行政の光を隈なく届けることは大切なことです。伊勢田ウトロ地名解宇治のこの...宇治市伊勢田ウトロ(地名の話3)

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