ただ坐れる人2
私たち衆生は、結果として、いつでも「今の結果」にあるわけです。ところが「求心(ぐしん)」求め心がなかなか無くならない為に「今の結果に安住出来ない」ということなのです。安心してその中に入られないのです。結果というものに、「善悪」はありません。善くても悪くても結果です。結果は今で言えば「証拠」ということになります。その「証拠」に自分自身が任せることが出来ないということです。「須弥山(しゅみせん)の如く結果に任す」そういう境涯になるために、しばらく「ただ」という言葉を借りて修行をし「ただに成る」べく努力するということです。しかし、それがすべてではありません。昔の方々が、「このように修行をしたら、あまり苦しまずに坐ることが出来ますよ」ということから、たまたま「祇(只)管打坐」「公案功夫」という、そういう「方法・手段」を...ただ坐れる人2
2021/07/31 07:00