chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
唯識に学ぶ・誓喚の折々の記 https://blog.goo.ne.jp/seikannamo

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思ってい

唯識に学ぶ・誓喚の折々の記
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2014/11/27

arrow_drop_down
  • 唯識入門(37)

    今晩は。いろいろな繋がりがあって、本当に有難いです。僕は思うのですが、人間は本来純粋なんだとね。しかし、生まれもって自分という、他者より選ばれた存在という意識が働いて、自分がすべてという妄想の中で日暮をしているわけでしょう。しかし、本来の純粋性に還ることができると教えているのが仏教なんでしょう。浄土教の純粋性は、曇鸞大師が八番問答で、自利利他の問いを立てられ、人間からは利他は成り立たないと喝破されたことが、他の大乗教と異にする所だと思います。他に利せられることはあってもですね。他を利する力はないんだと。この曇鸞大師の受け止め方は、限りなく人間の傲慢性を破っていく原動力になりますね。私たちは、皆さんはどうかしれませんが、僕はですよ、やっぱりどこまでいっても自分が正しい、間違っていないと思って生活をしています。この...唯識入門(37)

  • 唯識入門(36)

    おはようございます。猛烈な残暑ですね。皆さまお気をつけて行動してください。先週のつづきになります。第八識の行相・所縁について考察しているところですが、第八識の識を自体として、行相を見分、相分上に種・根・器を変現しているわけです。ここは純粋経験になります。しかし、純粋経験が何故覆われてしまうのかを解き明かしているのが唯識を学ぶ上での醍醐味ですね。『三十頌』第十五頌に「依止根本識・五識随縁現」(根本識に依止す。五識は縁に随って現ず。)と表されていて、第六意識は常に根本識である第八識を依り所とし、五識は意識の影響下に置かれているわけです。しかし五識と第八識の関係は現量(分別を加えないありのまま)なんです。私たちの経験することのすべてを第八識はありのまま分別を加えないで認識しているのです。経験は五識に依って純粋なのです...唯識入門(36)

  • 唯識入門(35)

    唯識入門も今回が35回目の投稿になります。論書である『成唯識論』をベースに読ませていただいてますので、幾分難解さもあろうかと思います。原典を鏡として、私たちの日常の生活の在り方を問い、いのちは何を求めているのかを明らかにしたいという思いがあって、今回の行相・所縁において、いのちは何を対象として動いているのかを考えています。最初に原典を載せておきます。幾度となく音読していきますと、言葉の響きが伝わってくるように思います。「「此識行相所縁云何。謂不可知執受處了。了謂了別。即是行相。識以了別爲行相故處謂處所。即器世間。是諸有情所依處故。執受有二。謂諸種子及有根身。諸種子者謂諸相名分別習氣。有根身者謂諸色根及根依處。此二皆是識所執受。攝爲自體同安危故。執受及處倶是所縁。阿頼耶識因縁力故自體生時。内變爲種及有根身。外變爲...唯識入門(35)

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、唯識に学ぶ・誓喚の折々の記さんをフォローしませんか?

ハンドル名
唯識に学ぶ・誓喚の折々の記さん
ブログタイトル
唯識に学ぶ・誓喚の折々の記
フォロー
唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用