久し振りにラジオ体操に行った。能登の避難民はまだ大勢いるのでこの老人福祉施設はまだ当分の間使えそうにない。ガラス窓には貼り紙が一杯。中が覗けません。まだ大勢いるようで元気で体操していた。簡易トイレがずいぶん減った。避難民が帰ったのか、それとも使う人が少なかったのか。真新しい洗濯機が並んでいた。奥に体育館用の洗濯機が写っている。数日前に熊が出たという。物騒だ。避難所
久し振りにラジオ体操に行った。能登の避難民はまだ大勢いるのでこの老人福祉施設はまだ当分の間使えそうにない。ガラス窓には貼り紙が一杯。中が覗けません。まだ大勢いるようで元気で体操していた。簡易トイレがずいぶん減った。避難民が帰ったのか、それとも使う人が少なかったのか。真新しい洗濯機が並んでいた。奥に体育館用の洗濯機が写っている。数日前に熊が出たという。物騒だ。避難所
見晴らし台の昇って来た。下から見ていても花などどこにも見当たらないのに。山に登って行ったら、素晴らしい花が咲いていた。伊東小室桜と言って数年前に植樹された花で、悪さをする人がいて、苗木がいたるところで折られ育つかどうか心配していたが見事に成長して立派な桜になった。早咲きの桜でもう満開の時期が済んだのかもうチラホラ花弁が下に落ちていた。ソメイヨシノはまだツボミもみあたらない。花見客もちらほら見られるようになって、頂上には韓国人らしき若者が5,6人大きな声でしゃべっていた。大きな声でしゃべっていても韓国語が分からないのでない荷をしゃべっているのか分からない。韓国人は周りに人がいようがいまいが関係なく大声でしゃべる国民のようだ。もう少ししたらソメイヨシノの花が咲いて花見客で一杯になる。伊東小室桜
今年初の法話会です。3カ月ぶりの法話会というのに何だかそんな感覚がない。前回の法話会はついこの間だったようなきがする。歳をとったら時間の感覚がマヒしてしまっているようだ。今回は住職の話だった。能登半島地震のあった後なのでその避難民の話から始まる。災害が起きると人の本性が分かるという。親切にしてくれる人、冷たい人。普段は見向きもしない人がとても親切にしてくれたり、良い人だと思っていた人に裏切られたり。他所から来た人が親身になって面倒を見てくれたり。その人がどんな性格の人なのか其時初めて知るってこと。能登は過疎に悩んでいる。災害が起きても助けてくれる人がいないのだ。まして今回は千年に一度という大きな地震。被害が大きすぎて手が回らない。能登には被災者を受け入れる施設が足りないので金沢にも多くに人が避難している。...今年初の法話会
能登半島地震から早2カ月が過ぎた。あっちこっちでひびわれができた。古い写真を見ると、やはり道路面にひび割れが写っている。能登半島地震で出来たもんだとは限らない。古いものは間に泥が詰まっている。新しいものはひび割れの底が見えない。それで区別がつく。ところが最近その新しいひび割れが広がってきているように見える。底が見えるようになってきた。所によっては段差ができている所もある。その昔、伯父が言ってた。「一升桝は叩くもんじゃないよ。叩くといくらでも米が入る。叩かずさっと手で均すだけでけでいいんだ」おそらくお米をはかる時私は一升桝をポンポンと叩いていたのだろう。それを見た伯父が注意してくれたのだろう。道路の中心ではもっと広がっている所もあるが、車通りが多いために撮影はできなかった。震源地から100キロ以上あるという...一升桝は叩くもんじゃないよ
九万坊さんその昔高岡で修業していた修験者の枕元に菩薩さまが立たれ「お前は加賀の国にある窪というところにある萬願寺山で修業し当地に住む民の助けになるがよい」と言われこの地に移り住んできた。初めは気ちがい扱いされ誰も相手にいませんでした。ところが彼の予言がよくあたり、病も治ったと評判になりっその修験者を頼ってくるものが多くなった。その修験者が創立したのがこの久万坊大権現である。その謂れを教えてくれた人が金沢市の野町にあるその名も知られた忍者寺のすぐ前にある大きな寺「西方寺の前住職」だった。かれは現職を離れここで管理人を務めていた。それを聞いたのは大分前だったので今はもういないかもしれない。その人が住んでいた家がここに写っているこじんまりした建物。手入れしている様子がないのでもう住んでいないのかもしれない。ここ...久し振りに萬願寺山に登って来た。
久しぶりに兼六園に行ってきた。先に金沢城に行こうとしたら、あっちこっちにバリケードがしてあり入れなかった。能登半島地震で相当被害が出ているらしい。玉泉院丸庭園の石垣も被害に遭ったらしい。行ったのは夕方ではない。なのにカメラにはずいぶん暗く写っている。金沢城の石垣もあっちこっち崩れているようです。兼六園の梅園では冬桜という木が有った。冬でも咲く桜があるんだね。観光客はしきりに写真を撮っていた。燈籠の冬の衣装ももうすぐとれます。もうすぐ春だというのに花見橋がありません。能登半島地震で落ちたのでしょうか。カメラが壊れたのかずいぶん暗く写っています。ここに兼六園のシンボルことじ灯篭が写っているはずだが。カメラがまだ普及してなかった当時、ここ霞ヶ池の前に記念撮影のための大きな台がありました。その前に写真屋さんが常に...兼六園に行ってきた
ラジオ体操が終わってからみんなで山登りします。でも、このところ長いこと参加してないので、今日は天気も良いことだし日中にいつもの滝の所まで登って来た。折り返し点で近くに水飲み場があります。いつの間にがパイプが一杯増えていた。コップも増えているように思う。能登半島地震のせいか洞穴のようなものが出来ていた。大きな岩が道をふさいでいる。どうやら元日に起きた能登半島地震の直後に落ちたらしい。いつもはこの時期林道は雪が一杯で長靴でなければいけなかったが、今年は真冬だというのにどこにも雪がない。いつも林道の世話をしているおじさんに出会った。スコップを持ってうろうろしてしている。「何をしているんですか」と聞くと一寸川の掃除をしている」とのこと。どこにも掃除が必要なほど汚れている所がないのだが。彼は、頼まれもしないのに林道...いつもの林道散策
今日天気が良かったので久しぶりに長距離の散歩に出た。真ん中の取っ手を引っ張り出せば立派なゴミステーションになります。ゴミ置き場も進歩しました。使わないときは畳んでおけば邪魔になりません。芋堀藤五郎夫婦の石像です。その脇に小さな石像がありました。これは何の像でしょうか。手に持っているのは砂金の袋。金沢の地名の謂れは砂金が沢山採れたから、といいます。芋堀藤五郎はこの地で芋を掘っていると砂金が出てきたという。これを兼六園の片隅にある泉で洗ったそうです。その洗った場所が兼六園の隣りにあり「金城霊沢」と言って、毎年百万石まつりで使われます。熊じゃなくマムシが出るとかいてあります。芋堀藤五郎像のある山科町のすぐ隣に大きな公園「大乗寺丘陵公園」というのがあります。今日も多くの市民が散歩を楽しんでいました。そこにこんなお...17000歩歩いた
今日は家内の母の23回忌だった。法要は旧松任市の大きなお寺であった。正面から見るとそう大きくは見えないけど中に入ると物凄く広くて迷子になりそうなお寺だった。お御堂はそんなに広くなかったが三つ並んだ達磨ストーブ。全然暖かくなく無いのと同じだった。それだけ今日は寒いのかなー。道路は狭く入って行ったのはいいけど帰りは工事用のトラックがどんと邪魔をして、出てこられない。工事中の看板も立てず。何の挨拶もなく、さも当たり前のようで堂々としていた。市には届けも出さず悪びれた様子もない。今は白山市を名乗っているけどそんなことが平気で出来るような田舎町なんだなと思った。幸いにも別の道もあったので良かったが。お昼には場所を移動して鶴来地区のお寿司屋さんで食事。本来ならお酒が出る場面だがみんな車で来ているのでノンアルコール。ワ...法事
能登半島地震が発生して25日たった。いつも謡曲教室で使っている老人福祉施設が避難所となった。今朝、久し振りにラジオ体操に行った。いつもは暗い福祉施設に明々と明かりが点いている。能登半島地震の避難所となったのだ。そのため当分教室はお休み。被害が大きいので能登の施設では賄いきれずとうとうここまで能登の被災者がやってきた。いつもラジオ体操をやっている体育館も被災者に開放されている。まだ朝が早いため誰も出てこない。出てくればちょっとお話してみようと思ったのだが。能登の人たちにとって金沢は金沢から東京に行くくらい遠いだろう。まるで都会に出てきたぐらいに思っているのでは。こんなことでもなければ県都金沢に出てくることはない。いい思い出?になるのかなと思った。もう少ししたら能登で仮設住宅が出来帰れるようになります。それま...通いなれた施設が避難所に
元旦の午後4時10分、いきなりぐらっとゆれた。始めは自分の頭の中が揺れた、とうとう頭がおかしくなったと思った。その内ガタガタと物凄い音がして、家が大きく揺れ出した。これは本物だ!と急に恐怖が襲ってきた。外へ出てみると家内が「何しとったがいね」と責める。「何も言わずに外へ飛び出したお前が悪い」と言いたかった。テレビで能登半島で震度7の地震が発生したといって、その後の通常番組が全部中止。地震速報ばかりになった。山が崩れたと有線放送が入った。その後余震がつづいて10日余りが過ぎた。家内はお風呂のおちおち入れないとこぼしている。こんなに余震が続く地震は今まであっただろうか。今日は天気が良かったので、崩れたという山を見に行った。いつもは竹が密集していて暗い山がいきなり明るくなった。ちょっと様子がおかしいぞ。道が大き...能登半島地震その後
藤原姓氏の一つ。天児(あまのこ)屋根(やねの)命(みこと)の裔と伝え、文化改革の功臣中臣鎌足が、居地の大和国高市郡藤原に因んで藤原姓を賜ったのに始まる。姓(かばね)は朝(ちょう)臣(しん)。鎌足の子不比等は文武天皇の頃から政界に趣をなし、その子武智麻呂・房前・宇合・麻呂の4兄弟はそれぞれ南家・北家・式家の4家の祖となる。北家はもっとも繁栄し、その一族は平安時代から江戸時代まで貴族社会の中枢を占めた。なお、奥州藤原氏はもと亘理(わたり)氏で、別系。藤原鎌足(かまたり)619-669藤原氏の祖。始め中(なか)臣(とみ)氏。鎌子という。中大兄(なかのおおえ)皇子をたすけて蘇我大臣家を滅ぼし、大化改新に大巧をたて、天智天皇の時、大織冠・内大臣。談山神社に祀る。中臣鎌足。藤原不比等659-720鎌足の次子。右大臣。...藤原氏
クレヨンで源氏の武将で義の名が付いている者を拾って書いてみました。一番先に出てくるのが源頼義988~1075平安中期の武将。源頼信の子。陸奥守兼鎮守府将軍。武芸に秀で、坂東武士の多くを門客として組織。陸奥の安倍頼時・貞(さだ)任(とう)・宗(むね)任(とう)が反乱を起こしたとき、10余年にわたって苦戦を重ねたが、出羽の清原氏の援護を得て鎮圧に成功。この戦いを通じて東国の源氏の地位を確立。源義家1039~1106平安後期の武将。頼義の長男。八幡太郎と号す。幼名、不動丸・源太丸。武勇人に勝れ、和歌も巧みであった。前9年合戦には父とともに陸奥の安倍貞任を討ち、陸奥守兼鎮守府将軍となり、後三年合戦を平定。東国に源氏勢力の根拠を固めた。源義綱河内源氏2代棟梁・源頼義の次男。母は平直方の娘で、兄の源義家(八幡太郎)、...源氏の武将
いつも謡曲教室でお世話になっている老人福祉施設で月に一度「教養講座」というものがある。今月は何故かそれが2回あった。今回はその二回目だった。今年最後の講演である。「日本基督教団」とある。その見慣れない基督の横に(キリスト)とルビが打ってあり、普段は仏さまの話ばかりだったので興味を持って行ってきた。参加者は私を含めて3人だけ、全く人気がない。講師は男だと思っていたら女の人だった。例の如く女の講師は作文を読むように話していた。これは、講演というよりテレビのニュース解説のようでわざわざ出て来るまでもなかった。今日のテーマは「苦難から解放でもなく、諦めでもなく、~キリスト共に生き、死に向かう~」という何とも長ったらしい題名だった。元看護士をしていた人らしく、今日は死に直面した患者の話が中心だった。キリスト教では人...教会の話を聞く
クレヨンで歴史の勉強をしています。今回は平家物語に登場する人物を書きました。平家一族
昨日は雪の中高砂大学OB歴史会に行って加賀騒動について学びました。小説では大槻伝蔵はえらい悪人になっているそうですが、どうやらそうでないことが最近の研究で分かってきました。大槻伝蔵は加賀藩の財政改革のために多大な功績を残していたことが分かった。6代加賀藩主の側用人になった大槻伝蔵は藩主吉徳に可愛がられ、周りの重役たちから煙たがられたそうだ。藩主の言ったことは大槻から告げられ、周りの重臣たちが藩主に物申すときは必ず大槻を通さなければならず。大槻伝蔵が嘘を言っていても誰も分からないからだ。藩主吉徳が亡くなったら途端に大槻伝蔵は罪人にされて五箇山に閉じ込められたようだ。いつの時代も改革を試みると保守派が必ず抵抗するようだ。加賀騒動について学びました。
参加者が200人ほどいる会場で講師が「いま幸せだと思う人て手を上げて」というと、8人から手が上がりました。これを8人しかいないのか、と思う人、8人もいるのかと思う人。あなたはどちらですか。昨日の教養講座での話、これは受け売りですが。最近訪れた講演会場では連続3回、誰も来なかったそうです。市は家に引籠りがちな老人を何とか外に引き出そうと一生懸命です。でも、出てくる人はほとんどいない。今回の教養講座でも参加したのは私を含めてたったの4人。講師はお寺の住職さんです。普通はお坊さんだから仏教の話をする者です。今日のお坊さんは仏の話はなし、1時間ほどくだらぬ世間話を一人で喋って終わりました。今日のお坊さんはどんな仏さんの話をするのかと期待して参加したのだが、これでは何のために来たのか分からない。早めに会場に入ると何...いま幸せだと思う人
先生はまだ風邪気味でよく治っていないそうです。今日はをならいました。大和のの雪路で山伏たちは一人の女に出会う。女は自分の庵に案内し、しもとを焚いてもてなし、祈祷を願う。女は葛城の女神であった。を架けよとの役の行者の命令を果たせなかったために(醜い容貌を恥じ夜にしか仕事をしなかった)葛城で身を縛られの苦しみのあることを告げて姿を消す。山伏の勤行に現れた女神は、縛めの様を示し、葛城の高天の原で、天岩戸のを、白一色の世界の中で舞う。やがて、舞終えるた女神は岩戸の中に入って行く。ーNETより。分からない単語は手元の電子辞書で調べてみました。羽黒山山形県羽黒町にある山。出羽三山の一つで標高414m。平坦な山頂にある出羽三山神社は、古来羽黒山三伏で知られる修験道場。擔頭頭上に物をのせること。真柴柴の美称。五障女人が持...葛城(謡曲教室)
眠りから覚めた。ここはベッド?。どうやら寝ていたらしい。それにしてもここどこ?何でここに寝てるの。ゴーゴー、カチャンカチャンと音がする。どうやら機械の中に閉じ込められているらしい。そうだ。頭の断層写真を取りに来たんだった。家内が耳の後ろが腫れている。蜘蛛膜下出血じゃないかと脅すもんだから、穏やかじゃない。だったらどうしよう。この前から左手や左足が突然痛くなって力が入らなくなることがある。暑くもないのに顔が火照ってまるで火の側にいるようだった。さすがに心配になって、神経外科に走った。医院は満員。地元新聞に「ドクター・ワッシー」と名乗って毎週コラムを書いているだけあって評判がいい。断層写真を見ながら「どこも悪くなっていないよ。この前と同じです」と言われ「そうですか」と引き下がるしかなかった。昔はレントゲン写真...今は夜?昼?
講師の前にクリスマスケーキクリスマスでもないのに・・・何々人とはどういう意味。同じ人間なのになぜか何々人と人は区別します。ユダヤ人とパレスチナ人が醜い争いをしています。何々人というけど同じ人間です。どこが違うかというと宗教が違うということだけのようです。西洋の宗教は一神教と言って神様が一人だけで二人いるのはおかしいと考えるようです。他の宗教を認めない。それが西洋人の考え方のようです。それで各地で醜い争い起こしています。それに比べ日本は他宗教国家です。キリスト教が入ってきても八百万の神様の一つで、敵対することはしません。それで仏教とは何の関係もないあちらさまの習慣を抵抗なく取り入れています。クリスマスとはどんなお祭り?日本人はキリスト教でもないのにクリスマスを祝っています。おかしいとは思いませんか。それは商...お寺で何故かクリスマスケーキ
身体が少し良くなったみたいなので久し振りにラジオ体操に参加した。彼岸も過ぎると大分日も長くなり明るくなって写真も撮れるようになった。桜も大分咲いてきて綺麗になった。ここから登っていく。この山のてっぺんまで登る。ラジオ体操が終わるとみんなで山登り、でも、ここはちょっと控えめにしておこう。ここはその昔、河原だったようで雪が降ると上から石がゴロゴロ落ちてきて道をふさぎます。大昔はここは手取川の河原だったようです。桜のトンネル。見事です。左側の建物は体育館でいつもこの前で体操をしています。久し振りの山登り
謡曲「張良」を習っている。張良とはどんな曲か。謡曲とは日本の平安時代や鎌倉時代の話だが、中には中国の話もあるようだ。間狂言とは能の上演の途中で出てきて物語の内容を説明する所。能というのは動きが少なく観客には分かりづらいので途中で狂言師が出てきて物語の内容を説明する。張良とは紀元前中国は秦の時代から前漢の時代に生きた劉邦の軍師として大活躍した人らしい。夢の中に黄石公という伝説上の人物が現れて沓を落として履かせよという。なんとも生意気な老人だと頭に来そうだったが、この老人はただ物ではないと思って言うとおりにした。5日後にここに来れば兵法の秘伝を授けようと言ったので5日後に指定された場所に行こうとしたがそこは意外と遠く約束の時間に間に合わなかった。怒った老人はさらに5日後に来いという。今度はまだ暗いうちに出掛け...謡曲張良
小袖曽我蘇我十郎五郎の兄弟は、父の敵(工藤祐経)を討つ許しを乞うために母の元を訪れた。が、母は十郎には会うが五郎には会ってくれません。兄十郎は必死に母を説き伏せやっと会うことが出来たが。五郎を連れて行くことを許してくれません。諦めて帰ろうとしたろころ後ろから母に呼び止められやっと許可が下りました。今日はその五郎の役だった。草紙洗内裏の席で小野小町と大伴黒主が対戦することになった。小町が歌が上手なのでとても太刀打ちできない。こっそり小町の歌を立ち聞きし、それを万葉集に書き込み、それを小町が古歌を詠んだと嘘をつき、小町を貶めた。小町は必死言い訳するが通らない。小町が泣き泣き帰ろうとすると紀貫之が呼びとめ、王の許可を得て、小町にそれを洗ってみよという。見事歌は消え失せた。紀貫之は黒主に責任を取らせようとするが、...おさらい会【小袖曽我・草紙洗】
謡本の巻頭に間狂言と言うものが出ている。能を演じている途中で狂言方が出てきて熊坂長範とは何者かを説明している。熊坂長範とはとんでもない悪党だった。旅の僧は美濃の国赤坂で一人の僧に呼び止められ今日はある人の命日だから弔ってくれと頼まれる。その僧がこの赤坂とはどんなところか説明する。この地に都から豪商が都の宝物を積んで通るという。とんでもない悪党、熊坂の長範は仲間を集め荷駄を襲ったが、そこにめっぽう強い17,8の若者がいた。それが牛若と知らず襲ったが・・・。70人ばかりの手下共々にがコテンパンにやられた。僧が弔ってくれとはこの長範のことだった。長範は加賀の人となっている。加賀市に熊坂という地名があるがそれが長範と関係があるのかどうかは定かではない。張良も習った。張良とは中国の話。能は日本の話ばかりではなく、中...熊坂(謡曲教室)
明日、清涼殿の歌合わせで小町は大伴黒主と対戦することになった。小町は歌が上手なのでとてもかなわぬと思った黒主はひそかに小町の住家に潜り込んで盗み聞きした。当日、小町が詠んだ歌を古歌だという。信じてもらえない小町は泣き泣きその場を去ろうとした。その時、紀貫之が待ったをかけた。貫之は王の許可を得て小町にその草紙(書物)を洗ってみろと言う。文字は見事に消え失せた。黒主は自害をしようとするが、小町は間違いは誰にもあるものと黒主を許し、舞を披露した。書いたすぐの文字は簡単に消えるのである。大伴黒主とはそんな悪者だったのか、辞書で調べて見たら生没不明という。つまり生きていた時代がハッキリしないのである。小野小町と同じ時代の人かどうかは分からない。あくまでこれはお話なのである。能楽師の子どもが初舞台を踏むとき最初に演じ...草紙洗(謡曲教室)
和漢洋折衷の神門(神社境内から撮ってもの)日本と中国と西洋の建築様式を上手く組み合わせた御門です。てっぺんの避雷針は日本最古のものだそだそう。三階の窓にはギヤマンと言われる色ガラスが組み込まれています。ここに灯をともすと日本海を通る船の安全を見守る灯台の役割を果たします。今は高い建物が建っているので海が見えないが昔は見えたのでしょう。1階部分の石積みは戸室石といって金沢城の石垣の材料として使われた石と同じです。この神門は建築時に神社の門にはふさわしくないと反対する者が多くいました。ところが、それが市民の間でたいそうな人気で、一時は取り壊し案が出たが中止になりました。神門の中には大きな〇があります。直径が3.1mあるそうです。その昔、兼六園?にとてつもない大きな灯篭がありました。ある日そのおお大きな傘が倒れ...久しぶりの尾山神社
玉泉院丸庭園玉泉院(利長の妻)が晩年を過ごした所。玉泉院の死後3代藩主利常が庭園として整備した。この奥に利家と松を祀ってある尾山神社がある。30間長屋現在屋根の修理中。石川門石原良純氏が昔修学旅行で訪れた時は前をバスで通っただけだったと言っていた。当時は石川門から奥には入れてもらえませんでした。金沢城の中は金沢大学でした。カマクラ?中にいるのが何?。緑蕚枝垂れ(兼六園の梅園)あっ!梅が咲いている。可愛い女の子が叫びました。撮ったつもりなのだが・・・。まだコロナ禍がおさまっていないのにものすごい観光客です。写真をたくさん撮ったつもりが写っているのが自分の手ばかりだった。だって、スマホのディスプレイが光って何が写っているのかさっぱりわからない。みんなどうやって撮影しているのかな。久しぶりで歩いた性か帰ったら脚...久しぶりの金沢散策(兼六園・金沢城)
今日のおさらい会は船弁慶のワキズレと竹生島のシテをやった。いつも謡曲教室に録音機を持ち込み録音して家に帰って再生。うまく謡えているか確かめるのだが、教室では一番うまく謡えたと思っていたが、録音を聞いてみると何故か一番下手くそに聞こえる。船弁慶ではワキヅレを謡った。義経は波風が荒いからとて逗留せよと言わせる。弁慶はこの場に及んで御逗留とは何たること、この前の平家誅滅の時も海が荒れていたではないかと納得がいかない。さては静に名残を惜しむためかと言われては義経も面白くない。しかたなしに船出したのだが・・・・。船弁慶ではワキズレ(一番軽い役)やったが、竹生島では一番重い役(シテ)をする。前半は漁師、後半では龍神の役。これは大変な役。いい加減には謡えない。教室ではうまく行ったつもりだったが、帰って録音を再生してみる...おさらい会船弁慶・竹生島
家内も時々口にする言葉「みんな言っているよ」「みんなってだれだれ」。と聞くと一人、二人の名前がでる。その外に誰が言ってるのかと聞くと「・・・・・・・」。「それってみんなじゃないじゃない」。今日の新聞にも出ていた。みんなって、魔法の言葉ですね。今日はいい天気、久しぶりに犬の散歩。痛みもだいぶ引いてきたと思ったが、まだ、ダメ見たい。腰がガクンガクンと気になる音を立てる。ドシンドシンという感じで、鉄人28号が歩いているみたい。大分腰が軽くなったような感じだったが、まだ、20㌔位の荷物を腰にぶら下げて歩いている感じ。もう杖とはおさらばしようと思っていたのに。警察に出した医師の診断書には2ヵ月の怪我だったが事故から1年過ぎているのにまだこんな感じ。早く金沢の街に出たいが・・・。みんな言っているよ
後醍醐天皇に仕える臣下が弁天島詣でようと、琵琶湖にやってきます。湖畔で出会った老いた漁師と若い女の釣り船に便乗し、竹生島にいきます。竹生島に着くと女人禁制のはずなのに女がいます。不思議に思った臣下は漁師に尋ねると、弁財天は女の神様で女でも参拝できると言います。若い女は巫女で老いた漁師は湖の龍神だった。今度のおさらい会にはシテ(龍神)の役をします。骨が腐っている先日整形外科に行ってMRIを撮ったら黒い影が映っていた。「本来ならこの骨は白く写るはずなのに黒くなっている。腐敗が始まっているのかもしれない。」と言われショックを受けた。「がんかもしれないから、一応血液検査をして見ましょう」。どうやらがんではなさそうです。ネットで調べたら、事故から1年過ぎた頃から腐食が始まるようだ。傷んだ骨が腐り始めているようです。...弁財天は女の神様です。(竹生島)
大雪だ大雪だとやたらと騒ぐが、ほとんどはずれ!昨日朝、20センチぐらい積もっただけ。だけど、寒さだけは厳しかったらしい。金沢地方で―5.1°東北や北海道から見ればかわいいものだが、相当厳しかったようだ。能登地方ではかなりの地域に断水が発生水の出ない日が何日も続いている。金沢でも水が出ないという所があったとのこと。家内の友人の家でも水が出ないという家が続出した。水道管が破裂したという人もいた。家内は水道管が凍り付きそうな日は蛇口を少し開けて水をチョロチョロ出しておく。水道代がもったいないが仕方ない。ふと九州旅行のことを思い出した。九州はあったかいから雪は降らないだろうと思っていたら、3月というのにしっかりと雪が降っていたので驚いた。九州でも雪が降るんだ!深夜に大地震阿蘇山のすぐ近くの久住高原コテージという山...大雪?
今日は謡曲教室で小袖曽我の稽古の予定だった。大雪との予報が出ていたので本日の教室はお休み。小袖曽我は2年前に記事にしたが、もう一度書いてみた。ツレが二人出てきて実にややこしい。中身を理解するのに苦労する。鎌倉殿が富士の裾野で大規模な狩りをするという。父の敵の工藤祐経も参加するに違いない。父の敵を取る絶好のチャンスと見た曽我兄弟は母のもとに分かれの挨拶に行った。ところが母は兄(十郎祐成)には喜んで会ってくれたが、弟の(五郎時致)には会わぬという。時経は物陰から母の姿を一目見ようとしたが、カーテン(御簾几帳)が下ろされていて姿を見ることが叶わず。兄の十郎祐成が気を利かせて、一緒に会いに行くことになったが母はご機嫌斜め。兄が母に向かって「周りの者が当然曾我の兄弟は父の敵をとると思っているのに、敵をとらぬと臆病者...小袖曽我
今年初の高砂大学OB歴史会に参加しました。今回は加賀藩主前田家墓所というテーマでした。前田家墓所は初代藩主前田利家の要望で金沢城の南の丘陵地野田山に造られました。高台で金沢城から見えるそうです。近くなのでよく行きました。2代藩主利長の墓三段に土が盛られているのが特徴だとのこと。前の柱は利長の墓である事を示している墓標でその後ろにあるのが本当の墓。でも利長が埋葬されている墓は富山の高岡市にあり、この墓は形式だけで遺骨は入っていません。3代藩主の奥方玉姫様の墓2代将軍徳川秀忠の娘だけあって敷地が広く見事なお墓です。豪姫の墓利家の娘豪姫は宇喜田秀家に嫁ぎましたが、秀家が関ヶ原の戦いで敗れた為、八丈島に流され奥方の豪姫は加賀前田家に引き取られ金沢の地でなくなりました。利家の娘ですが嫁いだため前田家の人間ではありま...今年初のOB歴史会
正月も過ぎてもう新年の挨拶はいいだろうと、軽い気持ちで教室へ行ったら、「おめでとうございます」。とやられて、一瞬戸惑いました。まだ正月が明けていないようです。船弁慶と竹生島を稽古しました。〇船弁慶義経が頼朝と仲違いして船に乗って西国へ逃れようとしたが、嵐に遭い失敗。それで、義経は北陸路を通って北に逃れることにしました。弁慶は比叡山で勉強をろくにせず暴れてばかりいました。その為教養がなかったのでしょう。政治に疎い義経が豪傑の弁慶に頼ったのが間違いでした。〇生島竹都で醍醐天皇に仕える臣下が琵琶湖の竹生島に詣でようとお暇をいただき、琵琶湖にやってきました。ちょうどそこで釣り船と出会い乗せて行ってもらうことにしました。ところがこの釣り船の主は本当は神の化身だったのです。神様をワキにすることは出来ません。大した役割...今年初の稽古です。
新年早々歯医者に行った。赤い実が生けてあった。今日は入れ歯の型を取る日。その前にガリガリと何かをやっていた。「何してんの?」と、聞こうにも口の中を治療中なので口がきけない。治療が終わってから聞こうと思ったがそのうちどうでもよくなって聞かなかった。口の中でポロッと何かが外れたように感じた。どうやら、埋め込んであった金具が外れたらしい。ブリッジをかけてあったので邪魔になって取り外したのだろう。「型を取ったので今度入れ歯が入ります、いつがよろしいですか」。ここ何十年も虫歯になっていないが、昔は歯の管理が悪くいい加減なことをしていたので、その付けが、今回ってきた。初詣に行ってきた。手水所から柄杓が消えていた。マスクをつけているので、口を濯ぐのはお預け。誰も口を濯いでいる人はいなかった、手水所は手に水をかけるだけ。...初詣(白山比咩神社)
先日、コンビニで「地政学の本」という本を見つけて990円で買ってきた。最初、コンビニで売られてる本だから大したことないと思って見出しだけ見てつらつら読み、やはり大したことないと思っていた。でも違っていた。最初から読んでみてはじめてよく纏まった本だと感心しました。世界の動きが実にうまく纏められている。本は最初から読まなければ本当の意味での価値が分からない。ということがよくわかった。本は頭から読むようにできているのだ。年をとると記憶力が亡くなって、昨日得た知識も今日もう無くなっている。ネットを見ていると世界のニュースが手に取るように分かるが、すぐ頭から消えてしまい中々身に付かない。最近は世界地図が離せない。ネットに出てくる地名がどこにあるかさっぱり思い出せない。ニュースを頭に叩き込もうと思っても、その場所が分...コンビニで買った本で学んだ。
判官源義経は頼朝の代官として平家を打ち亡ぼして偉功があったが、讒言する者があって兄頼朝との間に不和を生じ、一先づ都を落ちして西国へ赴かんと、弁慶以下近臣十余人を従え、悄々として摂津大物浦まで下ったのである。義経は弁慶に静が京に帰るよう説得するように命じた。静は弁慶を信じられず義経に会わせてくれという。静はこれが義経の本心だと分かり、泣く泣く都に帰るのである。弁慶とは京の五条の橋の上で弁慶は牛若に負けて家来になった。と、なっているが本当だろうか。ひらりひらりと身をかわす牛若を見た弁慶は、こいつは使えるぞと。源義朝の子どもだと知った弁慶はこいつは利用するにかぎる、とわざと家来になったのではないか。比叡山の暴れん坊僧弁慶は嫌われ者だった。大男で力のある坊主は暴れたくて仕方ありません。そこで出会ったのは、牛若だっ...京に返される静御前(船弁慶)
大物(だいもつ)浦(のうら)での源義経と静御前の別れと、海上に現れた平知盛の怨霊を弁慶が祈り伏せることを描く。(電子辞書より)もう何十年も前の話になるが、正月だったかと思うが能楽堂に橋弁慶を見に行った。後半で弁慶と平の知盛の怨霊と対決の場面がある。能といったら静かに舞うものと思っていたが、違っていた。迫力満点の決闘シーン。怨霊に義経が殺されるのかとドキドキハラハラ、目が点になる。いつもお世話になっている謡の先生がそばに来て、「すごいでしょ!こんな能もあるのだよ」。と耳打ちした。弁慶が平の知盛を祈り伏せる場面子役の義経が平の知盛と剣を交えた戦います。弁慶はその間数珠を揉んで読経しています。次の週にここを習います。一番いい場面です。謡曲船弁慶
光源氏の北の方である葵上が病臥の身になった。高貴の僧を招き色々な祈祷や医療を試みるも効果がない。何かの霊が憑いているに違いないと、その名の高い祈祷師(巫女)に占ってもらったところ、六条御息所の生霊が憑いていることが分かった。その霊を追い払おうと横川の小聖(修験者)を呼んだ。修験者は必死で数珠をもむ。勢いよく謡う場面だが、修験者が經を唱えているのかと思ったが、どうもそうではないらしい。やたらと難しい文句が並ぶ。仏さんの名前らしい。經文は出ていない。月参りのお寺さんにこの謡本を見せて聞いてみた。「これは何宗ですか」。お坊さんはこれを読んで、「これは何宗ということなく、仏教全般に言えることです」。「修験者は数珠をもむ場面があるけど、数珠を揉むのは何宗ですか」。「これは、自力仏教で、真宗以外はみんな自力仏教です。...謡曲葵上
今年最後の高砂大学OB歴史会に参加した。事故のため長いこと参加出来なかった教室に初めて参加。寒い日だった。が、中は暖房が効いて暑いくらい。今日は市内にある著名な神社の宮司の話だった。講座が始まって15分ほどして突然目の前で老婦人がぶったおれた。どうやら起き上がれなくなったらしい。役員の方が数名駆けつけて様子を見ている。その時すぐ近くにいた私はただ見ているだけだった。何かできなかったのだろうか。ただおろおろとしてみているだけの自分が情けなかった。やがて救急車で運ばれたがその間、十数分間授業が中断。公演時間が半分になった。でも、ベテラン講師はうまくまとめて授業を進める。突然の事故で授業時間がカットされてもあわてないで、残された時間でうまくまとめるのには感心する。その日の外は非常に寒く、それに比べ室内は暑過ぎる...突然の事故