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  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(58)

    「夏」。ヒナゲシは夏の手首にはまった腕時計。この「はまった」は原語では何と書いてあるのだろうか。ふつうは、手首に「はめた」かもしれない。ボタンをはめる、は、ボタンをとめる。ある決まった位置に「はめる」。その位置でなければならない。真夏の強い光のなかで、すべてが「定位置」に存在する。この強烈な感じが、他の行に登場する「吊るされている」「宙吊りにする」という不思議なことばをいっそう印象づける。「吊るされている」「宙吊りにする」をゆるぎないものにするためには、「はまった」の一言が絶対に必要なのだ。他動詞「はめる」ではなく、自動詞「はまる」が。「びったり、はまる」。書かれていないが、「ぴったり」が、「吊るされている」「宙吊りにする」を「ぴったり」に変える。それでしかあり得ないものに変える。************...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(58)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(57)

    「顔」。たとえば鏡を見ていると仮定する。鏡のなかで「きみ」が涙を流す。きみは、それを見ているのか。それとも鏡のなかの「きみ」から見られているのか。涙は、二筋ほほを伝う。そして、きみは知らない。どちらの水がきみの心をいちばん動かそうとしているのかを。「答え」を探し始めるとき、「いちばん」ということばが気にかかる。選択肢はいくつあるのか。「いちばん」ということばがなければ、たぶん、悩まない。「いちばん」ということばがなければ、たとえば私は、その「顔」が鏡のなかにあるとも思わなかったかもしれない。「いちばん」ということばのなかにあるのは「ひとつ」。しかし、その「ひとつ」ということばが、「複数」の選択肢を生み出してしまう。カヴァフィスのことば、世界には選択肢はひとつしかない。しかし、リッツォスの世界には、いつも選...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(57)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(56)

    ここからはヤニス・リッツォスの詩。カヴァフィスとは、声(音)の響きが違う。カヴァフィスの詩のように一行だけ抜き出して、そこからリッツォスの魅力を語るのは難しいかもしれない。しかし、一行だけ、をつづけてみる。最初の詩は「単純性の意味」。(きみに語るためにこういう言い方になるのです)「文体」がストレートではない。カヴァフィスのことばはまっすぐだけで構成される。そして、そのスピードは、とても速い。リッツォスはスピードに抑制がある。そして、その抑制がストレートさえも微妙に揺らいでいるように見せかける。「きみに語るためにこういう言い方になる」でも「きみに語るためにこういう言い方になります」でもない。「なるのです」。追加された「のです」が、この詩の独特のスピードである。************************...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(56)

  • 田原『犬とわたし』

    犬とわたし田原澪標田原『犬とわたし』(絵・いがらしみきお)(澪標、2023年11月20日発行)田原『犬とわたし』は絵本。犬と出会い、犬と別れる。思い出が残る。思い出は死なない。死なないというよりも、何度でも生き返ってくる。思い出が生き返るとき、また、犬も生き返る。しかし、このとき、そこには「哲学」がない。「思想」がない。そして、その「哲学がない、思想がない」ということこそ、「絶対的な哲学」なのだ。世界で存在しうる(存在に耐えられる)たったひとつの「事実」だ。こう言い直そう。哲学なしに、思想なしに、どんないのちも生きてはいけない。生きているいのちは、みんな哲学、思想をもっている。それをことばにするか、ことばにしないか、だけである。ことばにしなかったからといって、そこに思想がないとは言えない。ことばをもたない...田原『犬とわたし』

  • 粕谷栄市『楽園』

    楽園粕谷栄市思潮社粕谷栄市『楽園』(思潮社、2023年10月25日発行)粕谷栄市『楽園』の、一連の詩を「森羅」で読み始めたとき、「困ったなあ」と思った。感想はあるのだが(そして何回か書いたことがあると思うのだが)、ほんとうの感想はないのだ。「あ、これは、おわらないなあ」と思う。簡単に言えば「夢をみた」、その夢を書いているのだが、「夢をみた」ということを繰り返し読んでも、それから先に進まない。「ああ、そういう夢をみたんですね」と言えば、それでお終い。いや、そうじゃないんだなあ。「要約」してしまえば、そうなってしまうが、その「要約」を拒んで、ただ、そこにことばがある。「要約」を粕谷はすでに知っていて、それでもことばを書いている。「要約」したとき、そこからこぼれおちるもの(?)こそが詩だからである。こぼれおちる...粕谷栄市『楽園』

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(55)

    「半時間」。詩人は、バーでミューズに会う。半時間を過ごす。そして、それを詩に書いた。分かってらしたのだと思います。分かっていることが、分かっている。そのことを念押しをするようにして書いているのだが、「分かっていたんだと思う(思います)」とは印象が違う。「事実関係」はかわりないのだが、その「事実」に対する「関わり方」が違う。この「……てらした」という言い回しは、女性的で、その情勢的な部分を「控え目」と言い直すと、「女性=控え目」という定義を押しつけることになり、いまの時代にはそぐわないかもしれないが、この「控え目」な関わり方に、何か絶対的な真実がある。絶対的な「生き方」、行動の仕方がある。そこには、カヴァフィスの絶望と、あきらめもある。そして、その絶望、あきらめが、カヴァフィスのことばを絶対的なものにしてい...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(55)

  • Estoy Loco por España(番外篇411)Obra, Xose Gomez Rivada

    Obra,XoseGomezRivada"Noimportaloquerepresente.Loqueimportaescómointeractúaconloquehayallí",respondióelhombre.¿Setratadelobjetoodelmaterial?"Lascosascreadasopintadasnosonobjetosnimateriales.Existenseparadamentedelosobjetosymateriales.Mirandolascosascreadasopintadas,eimaginandosuexistencia(modelos)yaesunafaltadeimaginación",añadióelhombre."Elarteoelartistas...EstoyLocoporEspaña(番外篇411)Obra,XoseGomezRivada

  • Estoy Loco por España(番外篇410)Obra, Joaquín Llorens

    Obra,JoaquínLlorensTécnica,hierroa,d.55x27x10A,S,Y.Estetrabajoparecehabersurgidodeformanaturalenlugardehabersidocreado.Nohayningúnartificiosa.Hay"MUSIN(osin-corazón)".PreguntóJoaquínmientrastocabalaschatarrascercanas."¿Quéformaquierestener?"Lachatarranoresponde,perosusmanosquetocaaelhierrosientenlarespuesta.Susmanossemuevenmientrasoyendolasvocesdeloshierr...EstoyLocoporEspaña(番外篇410)Obra,JoaquínLlorens

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(53)

    中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(53)「ギリシャより帰郷する」。このタイトルは微妙だ。不思議な矛盾、愛憎が、ここに存在する。ギリシャが嫌いなのか、好きなのか。絡み合っている。なぜ黙りこくっている。胸に尋ねてみな。嫌いというとき、胸は好きと叫んでいる。好きというとき胸は嫌いと叫んでいる。原文がどういうことばをつかっているのか私は知らないが、「こころ」ではなく「胸」と、中井は訳したのだと思う。「胸」の方が「こころ」よりも肉体に近い。「こころ」が思っていることを「胸」は隠すとも言える。この一行に、私が驚くのは、「胸」と書いた次の行には「心」ということばがあるからだ。つまり、中井は「胸」と「心」をつかいわけているのだが、カヴァフィスがそのつかいわけをしているとは、私には感じられない。中井はカヴァフィスの詩を日...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(53)

  • Estoy Loco por España(番外篇409)Obra, Jesus Coyto Pablo

    Obra,JesusCoytoPabloHaycosasquesoninvadidasportiempo.Yhaycosasquenosoninvadidasportiempo.Elhombredijo.Haycosasquesiguenexistiendoaunqueseanabandonadas.Elhombrecontinuódiciendo.¿Quées?Cuandolepregunté,elhombresefuesinresponder.Sóloquedabatiempo.Quedabatiempoquenosevioafectadoporningunaexistencia,ningúnrecuerdo,nisiquieraelamor,elodiooalrencor.Comolatristez...EstoyLocoporEspaña(番外篇409)Obra,JesusCoytoPablo

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(52)

    「人知れぬもの」。その人が「わかる」、その手がかりは何か。私の一番ベールを被せた書き物、ただの「書き物(ことば)」ではない。「ベールを被せた」という修飾がある。秘密、暗示。しかも、「一番」ということばも重ねられている。この「一番」は、直前の行にも書かれている。同じことばが二度書かれている。しかも、目立つ形で。それがとてもおもしろい。「人知れぬもの」は、「一番」知ってもらいたいことなのだが、この「一番」という音の響きが、なんともいえず軽くていい。「最も」だともったいぶった感じになる。中井の訳の魅力が、ここにある。中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(52)

  • Estoy Loco por España(番外篇408)Obra, Juan Manuel Arruabarrena

    Obra,JuanManuelArruabarrenaTécnicamixtasobremadera,Medidas125x95(2023)Hayunaextrañasensacióndeperspectiva,comomiraruncuadrodentrodeotrocuadro.Porejemplo,unapequeñacasasituadaenunallanuravacía.Sutecho,susparedes,susventanasysuspuertasreflejanelmundo.Eltechoreflejalanochequeaúnestáporllegar,lasparedesreflejanelvientodeayer,lasventanasreflejanelmarlejanoquen...EstoyLocoporEspaña(番外篇408)Obra,JuanManuelArruabarrena

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(51)

    「アントニウスの最後」。女たちが泣き叫んでいる。「泣くな」と告げることばは、こうつづいている。おちぶれはしても、おれはみじめにおちぶれはせぬ。強い誇りがある。「おちぶれる」というのは「みじめ」なものである。しかし、「みじめにおちぶれはせぬ」という。ことばにすれば、まるで、事実(現実)か違うものになるかのように。実際に、ことばにすれば、現実は違ってくる。ことばこそが現実である。いや、ことばは現実を超え、真実をつくる。だからこそ、「泣くな」とも告げたのである。「誉め歌」を歌えとも告げる。この、ことばへの強い意思は、カヴァフィスそのものの声でもあるだろう。カヴァフィスは、最後に言うだろう。「おちぶれはしても、おれはみじめにおちぶれはせぬ。」と。**********************************...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(51)

  • Estoy Loco por España(番外篇407)Obra, Miguel González Díaz

    Obra,MiguelGonzálezDíazUnhombrecapturado.Nopuedemoverse.Quizásnofuecapturadoporalguien,sinoporelhombremismo.Porsupropiopensamiento.¿Estoymirandoaunhombrecapturado?¿Oestoyviendoelpensamientodequeestáatrapado?Sinohubieraventanasredondasalrededordesucara(cabeza),yonopensaríaenesto.¿Quiénhizoesaventanaredonda?¿Alguienquecapturóalhombreparamostrarloenpúblico?¿...EstoyLocoporEspaña(番外篇407)Obra,MiguelGonzálezDíaz

  • 緒加たよこ「夕べのごぼう今朝の白菜」ほか

    緒加たよこ「夕べのごぼう今朝の白菜」ほか(朝日カルチャーセンター、2023年11月6日)受講生の作品、ほか。夕べのごぼう今朝の白菜緒加たよここうして台所にいると2時間もたっていて夕べのごぼう今朝の白菜ごはんつくるの?と訊かれるけれどつくるよだってだんだんきついいやになるずっとこうして暮らしてたあのひとはなにも言い残しはしなかったけれどこうして時間は残りときどきはいつも家にいればこうしてときどきはいつも家にいればこうして「こうして」の繰り返しに感想が集中した。時間がうつりゆく。日常を省みる。独り暮らしの寂しさ、無聊。繰り返されていることばは、ほかにもある。「残る」。最初は「言い残し(残す)」という形のなかに隠れている。それが一連目の最後に「残り」という形で静かにあらわれる。そして、最終行。「こうして」のあと...緒加たよこ「夕べのごぼう今朝の白菜」ほか

  • Estoy Loco por España(番外篇406)Obra, Joaquín Llorens

    Obra,JoaquínLlorens"Cuandovoyaeselugar,puedoescucharvocesdesombrabrillanteysombraoscurahablandoentresí.Nopuedooírnadamás".Medijisteentucarta."Entoncesnopodíaescucharnadamásqueelsilencio.Porquetodavíanoestabaacostumbradoavocestansilenciosas".Aquellugar.Dondelassombrasbrillantesyoscurasseencontrabanyseseparaban.Siemprevasaeselugaraunahoradeterminada.Ymientr...EstoyLocoporEspaña(番外篇406)Obra,JoaquínLlorens

  • Estoy Loco por España(番外篇405)Obra, Kawata Yoshiki 川田良樹

    Obra,KawataYoshiki川田良樹湯上がりに180×55×36スペインの友人の作品ではなく、私の高校時代の友人の作品。富山県在住。川田は着衣の作品を手がけている。素肌とバスロブの布の感触の違いがおもしろい。布の起伏が素肌のなめらかさ、湯上がり特有の湿気を含んだ肌の艶やかさを引き立てている。肉体の左右の非対称と、バスロブの非対称が作品に動きを与えている。頭部を含め上半身のきっちりした印象と、バスロブの裾の、少し緩んだ感じ、腰のリボンの左右の非対称もおもしろい。肉体のラインが表現されているわけではないが、バスロブの変化から、肉体のあり方が自然に浮かび上がってくる。Untrabajodeunamigomíodelbachillerato.ViveenlaprefecturadeToyama.Esint...EstoyLocoporEspaña(番外篇405)Obra,KawataYoshiki川田良樹

  • 服部誕『祭りの夜に六地蔵』

    祭りの夜に六地蔵服部誕思潮社服部誕『祭りの夜に六地蔵』(思潮社、2023年10月10日発行)服部誕『祭りの夜に六地蔵』に「風の石」という作品がある。「酒船石異聞」というサブタイトルからわかるように、石造りの遺構を訪ねたときのことを書いている。遅れている時の到着を待つあいだわたしは石の冷たさにしばし倚りかかるこれに類似したことばが、そのあと出てくる。おおきく伸びをしたわたしは軽いめまいを石に預けた背でささえる第三者から見れば、石と「わたし」の関係は、どちらも同じ姿に見えるだろう。しかし、服部は書き分けている。「倚りかかる」と「石に預けた/背でささえる」とに書き分けている。この変化に詩がある。これは、この後の連を読むと、さらにはっきりするのだが、それは後で書くことにして……。石と「わたし」の関係は、後者の場合...服部誕『祭りの夜に六地蔵』

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(50)

    「一九〇三年十二月」は「一九〇三年九月」のつづき。だから「一九〇三年九月」ということばも出てくる。つまり、あれから三か月。よしんばきみの黒髪を、くちびるを、眼をうたえぬとしても、カヴァフィスは、ひとつの恋をあきらめたのだ。そして、そのとき「よしんば」ということばをつかっている。なぜ、「たとえ/かりに」ではなく「よしんば」なのか。「たとえ/かりに」では言いあらわせないことが、そこに含まれている。「強い」感情が含まれている。語りたいのだ。歌いたいのだ。黒髪を、くちびるを、眼を。だからこそ、黒髪、くちびる、眼ということばを書いている。「うたえぬ」といいながら、すでに語っている。つまり、これは「撞着語」というか「撞着文体」なのである。それを「よしんば」ということばが強調している。もし、この一行にことばを補うとした...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(50)

  • 藤井貞和「書評 詩のことばの隠喩的世界切開力」

    藤井貞和「書評詩のことばの隠喩的世界切開力」(「イリプスⅢ」5、2023年10月10日発行)藤井貞和「書評詩のことばの隠喩的世界切開力」は、野沢啓の『言語隠喩論』への書評。とても気になる文章があったので、そのことについて書く。日/欧で言語学の用語が分かれていては、不都合だということもあって、野沢にしろ、私(藤井)にしろ、欧米の言語学を絶えず鏡のように映し出す参照項目にして、日本語のそれを考察しようとしてきた、という経緯はある。(略)日本語から立ち上げることに、かりに成功したとして、そこを理解しようとすると、またもや西洋言語学に拠るほかなくなる。つまり理解過程を含めて、言語学そのものを最初からやり直す覚悟をしなければ。だから、一旦は日本語から離れることが必要なのだろう。しかも欧米的な言語哲学に舞い戻るのでな...藤井貞和「書評詩のことばの隠喩的世界切開力」

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