日本映画が、アカデミー賞で2本受賞したのは、喜ばしいが、どちらも技術的である。日本映画の黒澤明、小林正樹、小津安二郎、溝口健二らも結局は職人的仕事の見事さに成立していたと思う。だから、映画『オッペンハイマー』のような作品は出てこない。日本にも興味深い人間はいた。陸軍の石原莞爾など、最高ではないか。満州事変を起こし、満州国を作ったが、東條英樹によって陸軍を追われる。この数奇な運命を、幼い小澤征爾の目から描けば、と思うのだが。職人芸の日本映画
さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です。多くのジャンルをさ
4月29日に、パシフィコ横浜で、藤田正さん、特別ゲストにサンディーさんをお迎えして、トークイベントをします。ぜひ、見に来てください。大岡川の桜は、もう散っているでしょうが。4月29日に、パシフィコ横浜で、トークイベントをします
昨日の夜、市内南区で、ミゼットが目の前を通っていった。ダイハツのミゼットである。昔、テレビの『番頭はんと丁稚どん』の幕間のコマーシャルで、佐々十郎と大村崑が、「ミゼット、ミゼット」と連呼していた物だ。私は、車に一切興味のない人間で、家の事情から40歳で、自動車の免許を取ったが、あまり使わず、70で返上してしまった。この「ミゼットのような車なら乗っても楽しそうだな」と一瞬、思った。ミゼットを見る
昨日は、都立小山台高校の2・3年組Aの集まりが行われた。これは、昨年夏にT君が亡くなられたのを哀悼するものだった。彼は、在学中はバレーボールで活躍した背の高い男で、A組で唯一、同級生のJさんと結婚したカップルなのだ。様々な話が出たが、小山台での特徴として、いわゆる部活動を「班」ということで、これは現在もそうのようだ。だから、運動部野球班とか、文化部演劇班というので、私は「まるで陸軍の内務班のようだ」と思ったものだ。この班という呼称は、戦後も実は、多くあったもので、日本テレビでは、各部を音楽班とかドラマ班、報道班と言っていらしい。さて、私が横浜市役所に入って初めて聞いた言葉に、「要綱」があった。これは、飛鳥田市政のときの「要綱行政」ではなく、いろんな事業の名称に「要綱」を付けることだった。それは、区役所でも...要綱というもの
女性映画人の最後の日、学研映画社作品『結婚する娘へ父の愛』を見るが、主役の鉄鋼所で働く父親は、大久保正信さんで、初めて普通の顔を見た。工場の現場の奥には、モノレールの鉄路が見えるので、大田区蒲田のロケだと思う。この人は、森谷司郎監督の『首』で、有名な方で、容貌魁偉な役なのだが、ここでは普通の役をやっていた。娘さんたちも知らない人達で、多分大久保さんがいた劇団の文化座の人だろうと思う。監督は、スクリプターだった城田孝子で、脚本は廣澤栄で、かなり東宝的に見える。それもそのはず、城田さんは、もともとは東宝の人だったのだ。これの前に上映された『おなじ太陽の下で』は、女優望月優子さんの監督2本目で、黒人への差別、偏見をテーマにしている。主演の女優は、高田敏江だと思っていたら、望月さんの姪の中村雅子だった。共演の南廣...大久保正信さんの普通の顔を初めて見た
ロシア、そしてプーチンを増長させたのは、安倍晋三だ。西側の首脳で、ずっとプーチンを支持したのは、安部だけです。明日にも、北方領土が戻ってくるような幻想を振りまいたが、何も変化はなかった。このことだけでも、安倍晋三の罪は大きい。安倍晋三の大罪
今度は、政党名を変えたのだそうだ。NHK党から、政治家女子48党だとのこと。立花の昔のスローガンの「NHKをぶっ飛ばす」は、昔の小泉純一郎の「自民党をぶっとばす」である。今度の「政治家女子48党」は、AKB48のまねであることは、明白だろう。本当に、どうしようもない連中だというしかない。「なにか、オリジナルなものを出せ」と思うのは私だけではないだろうと思う。オリジナリティのない連中
1965年、東京オリンピックから1年と言っている。主人公は、商社マンの園井啓介と旅行代理店の鰐淵晴子であり、この頃、やはり海外への憧れは強かった。私は、高校3年で翌1966年に大学に入るが、当時海外旅行の経験がある人は、東宝の田中友幸氏の息子のTさんしかいなかった。園井は、ニューヨークから自殺した妻の遺骨を抱いて帰国したのだが、彼女がなぜ自殺したのかが、最大のサスペンスになっている。鰐淵には、つきあっている平凡な男がいるが、園井の今度はロンドンへの渡航手続きで、彼に会うたびに園井に魅かれていく。彼の妻の自殺の原因を明らかにするのは、銀座のバーのマダムの久保菜穂子で、彼女は、園井の妻と高校時代の同級生で、実は、園井の会社の同僚の待田京助と関係があったからなのだ。待田曰く、「俺は、彼女を出世コースに乗っていた...『ウナ・セラ・ディ東京』
WBCの勝利で、きれいごとに厭きたので、ひどい作品を見ることにする。大部前に録画してあったが、なかなか見る気にならなかった作品。1973年夏に、テキサスの田舎を4人の男女の若者(男2人、女2人)がバンに乗って旅しているが、その目的は昔にいた家に行って見ること。途中で、男のヒッチハイカーを乗せるが、これがまず異常に変な男。食肉屠畜場の話をしてきて、女たちは気味悪がるので、途中で下す。ガソリンが不足しそうなので、小さなスタンドで車を停めてガソリンを買おうとするが、「ない」と断られ、代わりに「バーベキューを食え」と言われる。暑いので、一人の男が、川に行こうとして歩き出すと、変な館に遭遇する。ガソリンを貰おうと、中に入ると、動物や人間の死骸が無数にある。隣の部屋に行こうと、扉を開けると、突然仮面をかぶった大男が、...『悪魔のいけにえ』
一昨日の国立映画アーカイブで、『婦系図』の前に見たのは、アニメーション作家神保まつえの作品だった。彼女は、学習研究社映画で、主に人形アニメで活躍した女性監督だった。中では、『セロ弾きのゴーシュ』と『泣いた赤おに』の孤独さが、胸にしみた。最近、私も友人を失ってきた。共に、芝居をやってきて、映画や音楽について話した連中だった。人は、結局ひとりだと言われるが、まさにそれを感じる日々である。『泣いた赤おに』と『セロ弾きのゴーシュ』の孤独
言うまでもなく、泉鏡花の名作だが、映画化されたのは、比較的遅く1934年で松竹蒲田である。『滝の白糸』などに対して、セリフ劇だったからだろうか。主演のお蔦は田中絹代、相手の早瀬主税は、岡譲二で、当時の蒲田の人気スターである。芸者の蔦と密かに所帯を持っているのが主税で、それを知った恩師酒井修造先生の志賀請江戸時代から、武士などでも師弟関係は、やや愛情的関係でもあったのだから、それは不思議ではない。。そして、主税が、お蔦に別れを言うのが、有名な湯島の白梅の場面である。ここは、実は鏡花ではなく、劇団新派の女形の喜多村禄朗が、セリフから動作まで全部工夫して創作したもののようだ。「別れろ切れろは、芸者の時に言うことば、今の私には死ねということよ」になる。二人はいやいや別れて、主税は静岡に行き、お蔦は、姉芸のこ芳に倣...『婦系図』
「たけしの芸能史」で、子役特集があり、面白かった。BSなので、テレビが中心だが、日本映画で、子役が多く必要とされたのは、サイレント末期、1920年代の松竹蒲田からである。それまでの、チャンバラ時代劇では、子役はほとんど必要なかった。松竹蒲田撮影所は、一応近代的な映画の制作を目指していて、現代劇を目標としていたからだ。だが、当時は、劇団新派の演目である「継子いじめ」「なさぬ仲」等が中心だったので、いじめられる存在としての子役が必要だったのだ。最高のスターが、高尾光子で、次いで加山雄三の母親の小桜京子などが上位にいたが、高峰秀子もなんでも演じられる子役として珍重されていたようだ。小津安二郎の映画『東京の合唱』では、少年役も演じているのだから、彼女は子供時代から上手かったわけだ。戦後も、浅丘ルリ子、吉永小百合、...子役の始まりは・・・
雨で、外に出られなかったので、一日家にいて、最後にこの問題作を見る。日本と違い、アメリカには舞台から映画に移行する人が多く、監督でもエリア・カザン、マイク・ニコルズなどもそうだが、この映画の監督シドニー・ルメットもそうである。構成は、いろいろと複雑にしているが、話は、不動産会社の会計担当のアンディは、社の金を使い込んでいることから強盗を計画する。それは、なんと自分の両親がやっている宝石店で、気弱な弟のハンクにやらせることにするが、彼は自分ではなく友人の男ボビーに店に侵入させて実行させる。だが、当日、店には彼らの実の母親が偶然に来ていて、犯人と拳銃の撃ち合いになって、二人とも死んでしまう。そこから二人と家族の悲劇が進行してゆく。ルメットの演出が上手くて、役者も最高である。父親も、元は宝石商だったので、宝石の...『その土曜日、7時58分』
『レコード・コレクターズ4月号』で、北中正和さんから『ウォーマッド横浜・歴史に消えたビッグ・フェステイバル』が書評された。もう少し、実際のフェステイバルの模様の記述がほしかったとのことでした。でも、大衆文化評論家の私としては、「ウォーマッドの意義、周辺から中心を見る視点」として、中村とうようさんをはじめ、プロデューサーの田村光男、さらに大きく言えば黒澤明から、立川談志、そして石橋蓮司らの、東京とは言っても、その周辺である城南地区の人間の視点として書いたつもりなのです。来週には、『ミュージック・マガジン』にも書評が掲載される予定です。どんな批評になっているかが楽しみである。北中さんに書評される『レコード・コレクターズ4月号』
WBCが盛り上がっているが、巨人と無関係なところが非常に良い。そして、投手に関しては、細かな球数制限があり、これも投手を守るルールで良いと思う。そして、このルールは、どうやら生命保険会社の力があるらしい。アメリカでは、あらゆる事業、分野に保険が適用されており、事業実施のリスクに備えている。だから、新人選手が、入団する時には、厳格な身体チェックがあるが、これも保険会社との契約によるもののようだ。つまり、球団は、きちんとした肉体の選手を適切に使用しないと、選手が故障したときに払われるはずの保険金が支払われないと言うことになるからだ。われわれが、こうした保険の実態を知ったのは、黒澤明の『トラ・トラ・トラ』監督の降板の際の保険会社の調査だろうと思う。映画製作にあたって、多くの制作会社は様々な保険をかけている。その...球数制限の基は・・・
別に歌手、俳優としての二人の比較をしようというのではない。この二人のショーの作・演出をした田村光男の意見である。彼は、大学を2年で辞めた後、仲間と照明会社を作ったが、それも辞めて、自分の会社ステーションで仕事をするまでの間は、フリーの放送作家、演出家としていろんなことをやっていたようだ。中の一つに、歌謡ショーの仕事があり、若い時は、橋幸夫ショーで全国をトラックで廻っていたそうだし、『泳げタイヤキ君』の子門真人ショーなどもやっていたそうだ。中でアイドル歌手の演出もあり、三原じゅん子や中山美穂もあったとのこと。意外にも評価が高かったのは、中山美穂で、「彼女は、頭もよく理解力もあり、表現力もあった」対して、三原じゅん子については非常に厳しく、「なにをやっても理解せず、演出の新手を見せてもダメだった」とのこと。彼...三原じゅん子と中山美穂
一昨日に、横浜市南区のボランティア・グループ「さくらんぼ」の代表者の佐分利さんから電話があり、「L君が、国立大に受かった」と聞く。L君は、私が最初に教えた生徒で、中国系で、大変に優秀、特に数学が大変にでき、英語も良かった。高校は、横浜ではなく、川崎の県立高校に行っていた。そして、まじめに勉強したのだと思う。私が、外国人系の子は、日本語と関係の少ない数学と英語は、成績が良いことを最初に知った子だった。さらに、大学でも優れた成績を上げられることを期待したい。L君が某国立大に受かったと聞く
大江健三郎原作の『飼育』について、次のように書いているので、採録する。1961年、松竹を出た大島渚が最初に作った映画で、見るのは3回目。最初は、1966年11月で早稲田大学映画研究会が、早稲田祭の事業として大隈講堂で上映した。この時のテーマは、「戦後映画の総括」で、当時「映画芸術」編集長だった小川徹の講演があり、上映されたのは、大島の他、中島貞夫の『893愚連隊』、吉田喜重の『秋津温泉』、そして深作欣二の『誇り高き挑戦』の4本だった。映画『飼育』は、当時上映されることがなく、担当の中村君が、新橋の事務所から缶を担いで持って来たが、「ひどく汚い事務所だった」と言っていた。4本も上映したのは、今考えるとすごいが、多分4年生の梶間俊一さんや3年の小出さんらの企画だと思う。というのも私は、その頃は映研よりも劇研の...『飼育』
扇千景は、結構きれいな女優だったが、それ以上に非常に頭の良い人だったと思う。なにしろ、彼女は、県立神戸高校卒で、作家の村上春樹の先輩になるのだから、大したものと言えるだろう。ただ、映画では大した作品はないが、東宝の『お姐ちゃん三代記』に出ているのは注目される。意外なところでは、今村昇平監督の異色作『神々の深き欲望』に、特別出演だが出ていて、島の砂糖運搬用の貨物列車が来るシーンに乗られている。なぜ、この異色作に出たかは不明だが、彼女はもともと日活の時代劇に出ていたことがあるためだろうか。大変に不思議に思えた。参議院議長も務められた異色の女優のご冥福をお祈りしたい。扇千景、死去、89歳
サムライ・ジャパンのサムライという言い方もいやだが、ジャパンは違う、サムライ・パ・リーグである。先発投手は、大谷、ダルビッシュ、佐々木、山本と全部パ・リーグで、打者でも活躍しているのは、大谷、近藤、吉田と、これまたパ・リーグの選手である。一方、セ・リーグでは、牧や今永、二人の高橋投手が活躍しているが、村上、山田、岡本らがみな不振という状態。一体、これはどうしたことなのだろうか。以前から、「パ・リーグは、全力で投げ、打つので、面白い」と言われ、私もそう思っていたが、本当にそうなことが証明されている。これに対して、セ・リーグは、V9時代の巨人、そして野村ID野球も、いずれも細かい、せこい野球だったので、日本国内では巨人という名前の大きさで通じるが、世界にはかなわないのだ。今後、どうなるか分からないが、この傾向...サムライ・ジャパンじゃないよ
とうようさんは、「役所とやるのは気が進まないんだ」と言った。
1989年の2月頃、私とプロデューサーの田村光男が、「パシフィコ横浜のオープニングイベントとして、ウォーマッドをやりたいので、ご参加いただきたい」と言いに『ミュージック・マガジン』の社長室に会いに行ったとき、意外にも、「僕は役所とやるのは気が進まないんだ」といきなり言った。それは、1986年の武蔵野文化会館の開館イベントのことで、知人の小島美子先生のご依頼で、ポピュラー音楽を担当され、ザイール(現コンゴ民主共和国)のパパ・ウエンバを招聘することになった。ところが、「そんなアフリカの誰も知らない奴を呼んで平気なのか」と武蔵野市の企画委員が、この社長室まで来ていろいろと詰問された。「あんまり、うるさいので、赤字になったら俺が責任を取るよと言ってやったよ」横浜では、市役所が責任をもって実施するとのことで、ご了解...とうようさんは、「役所とやるのは気が進まないんだ」と言った。
「演歌歌手が出るイベントなんかに横浜市の補助金は出せない!」
1991年8月に、最初のウォーマッド横浜91が開催されるとき、途中でチケットの売れ行きが良くなかったので、制作の田村光男のアイディアで、都はるみさんが出演することになった。言うまでもなく中村とうようさんも大賛成だった。だが、この時、横浜市都市計画局の担当課長のF氏が、当時はパシフィコ横浜にいて、このフェステイバルの担当だった鯉渕信也君に言った言葉である。横浜市の役人の文化的レベルなんて、当時は、こんなものだったのだ。音楽で一番良いのはクラシックで、ポピュラーや演歌は、その下という考えだったのだ。もちろん、拙著『ウォーマッド横浜・歴史から消えたビッグ・フェステイバル』にきちんと書いてあるのは、もちろんである。「演歌歌手が出るイベントなんかに横浜市の補助金は出せない!」
もっとも苦手な映画で、こういうのを見ると、いかに私が物語性にこだわっているかが分かった。これを耽美的といって評価する声が多いが、これは困るのだ。要は、意味がよく分からないのである。ただ、言わしてもらえば、これは1972年7月で、ロマンポルノ初期の問題もあったと思える。予告編等を見ると、公開作と、当初のシナリオは、少し違うようにみえる。想像するに、撮ったが、省略した部分もあるようなのだ。だから、筋が分からなくなっているように思えるのだ。話は、考古学者雪岡恵介の二人の娘、田中真理と続圭子で、そこに弟子の織田俊彦が絡んでくるが、最後二人は、心中のように死んでしまう。夜汽車に、盲目のごぜさんたちが乗ってきたり、丹古母鬼馬二のカメラマンが出てきたり、さらに、最後女中だった女とその相棒の男との計略で、雪岡などを死なせ...『夜汽車の女』
大学時代一番好きな映画監督は、日活の蔵原惟繕だった。映像派で、音楽も良く、洒落ていたからで、ただときどき『愛の渇き』のように意味不明で、分かりにくくなることもあったのだが。この助監督にいたのが、藤田敏八だが、彼には一つ、演劇の素養があり、「ベケット的」というのが、私の考えである。さて、この蔵原も、日活を出た後は、不遇で、岸恵子と萩原健一の『雨のアムステルダム』などは、あきれるほどの作品だった。テレビもやっているのは知っていたが、『斬九郎シリーズ』もやっていたとは初めて知った。だが、この松竹京都撮影所は、もともとは蔵原にとっては、最初にいたスタジオなのである。普通、1952年に日活が製作再開をしたとき、松竹大船から多くの助監督が移籍したのは有名だが、それに連れて京都の松竹京都撮影所からも、蔵原の他、『男の紋...蔵原惟繕監督だった『御家人斬九郎・恋文』
昨日、劇団俳小の斎藤真さんとはいろいろな話をした。中で、今、日本の女優で最高は、誰か、で、大竹しのぶ、寺島しのぶ、宮沢りえの3人だと一致したのである。本当に、この3人はいつ見ても素晴らしい。日本で最高の女優3人
今度の本でも、早稲田の劇研で林裕通さんに会ったのが、最大の事件だったと書いた。なにしろ、2浪して8年生だったのが、林さんだったのだから、本当に驚いた、なんと28歳だったのだから。本当に、「こんな人がいるのか」と思ったものだ。だが、昨日の夕方に林さんなど、劇研の先輩と話していて思い出したのは、私が劇研の部室に行って最初に話したのは、実は林さんではなく、堀内聡さんだったことだ。彼は、言った、「君は、非常に良い時に来ましたね、12月公演のスタッフ、キャストを決めるのですから」1966年の9月のことである。早稲田高等学院から、早稲田の政経に入られてきた、堀内聡さんは、当時劇研で最高の人気の演出家だった。その年の春には、宮本研作の『ザ・パイロット』を演出し、12月の『白人へのブルース』も演出し、どちらも両方見た人か...劇研で最初に会ったのは、堀内さんだった
先日、筑波久子主演の映画『都会の怒号』を見た。彼女は、初期日活で一番のスター女優で、いわゆる「肉体女優」第一号だった。だが、大して肉体は露出しておらず、実際に彼女は、お勉強のできるまじめな人だったようだ。私が、彼女を最初に見たのは、大岡昇平の小説の映画で川島雄三監督の『花影』で、当初は山岡久乃の店の女給の一人。だが、弁護士有島一郎の金で店を出して、山岡や池内淳子らを裏切る卑劣な女の役で、じつにぴったりに見えた。この頃で、彼女は日本の映画界に見切りをつけて、渡米し大学で映画を勉強する。そして、プロデューサーとなり、映画『ピラニア』で大成功した。なかなか頭の良い女性だと思う。筑波久子について
月曜日は、稲門会伝統芸術鑑賞会で、野毛のにぎわい座に行く。ここは、元は横浜中税務署があったところで、福田赳夫や佐藤一郎などの大蔵省のエリートが最初に赴任した名門税務署だった。だが、私が横浜市に来た頃には、山下町に移転していて、ここは廃屋で、夜になると街娼が立つ有名な場所になっていた。この隣に横浜ニュースという映画館があり、ここは東映のヤクザ映画やその他、アクション映画をやっていて、黒澤明の問題作『静かなる決闘』を見て、拙著『黒澤明の十字架』のヒントを得たのも、この館でだった。その後、この元中税務署跡地は、再開発されて公団の住宅と店舗、そして横浜市が保有するにぎわい座になった。これは、高秀市長時代の数少ない文化芸術政策だと思う。これが、出来たのには、故桂歌丸氏と高秀市長との関係があったと思う。私は、悪いこと...横浜にぎわい座
劇団俳小の公演は、シアターサンモールで、行くと「たけし軍団」公演で、同じサンモールでもスタジオで、地下まで、代表の斎藤さんがエレベーターで案内してくれる。「斎藤さんは、出ないんですか」と聞くと、「もう若者時代で、今度のは良いよ」とのこと。「大谷、村上の時代ですからね」時代は、1940年代のカナダ東部のノバスコシア、ここは元はフランス領だったが、戦争でイギリスに負けて、ここにいたフランス系の人は、アメリカ東南部に行き、それがアルカジアになる。炭鉱夫の娘のマギーの語りで進行する。鼻たれと呼ばれていたマギーのところに、ある日、大男のニールがやってくるが、バグパイプを持っている。彼は、戦争から帰還したところだと言うが、これが1次大戦か、二次大戦かはよく分からず。イギリス系では、意外にも徴兵制は、1次では行われてお...『マギーの博物館』
昨日は、新宿で劇団俳小の公演を見た後、劇研の先輩たちと近くで飲む。そこで、劇の音響会社の草分けであるサウンド・クラフトの社長だった八幡泰彦さんの奥さんの八幡朝子さんとも話した。朝子さんによれば、「3回忌をすませた」とのことで、すでに亡くなられたのだそうだ。八幡泰彦さんは、1957年に入学されているので、おそらく85歳くらいだったのだと思う。このように八幡さんは、劇団演劇研究会の出身で、劇団自由舞台ではないのだ。仁科祥子さんよ。八幡さんは、亡くなられていた
1958年の日活映画、主演は筑波久子、青山恭二、水島道太郎、監督は春原政久(すのはらまさひさ)で、筑波は、女スリであり、東京駅、地下鉄の大手町駅などが使用されている。筑波が、ある男の財布を掏ったことから、ギャング連中に追われるようになる。ギャングのボスは、二本柳寛で、手下にはすでに深江章喜がいる。水島は、芸能プロの社長で、それを頼って上京してきたのがクラリネット奏者の青山だった。クラリネットというのが、時代である。サックスが、モダンジャズの花形なら、クラリネットはスイングジャズの人気楽器だった。財布の中には、ある写真が入っていて、それへの追いかけとなり、最後は、ギャングに追われた青山が、地下鉄のマンホールに落とすのだ。写真には、水島の元妻の楠侑子とある男の姿が写っていた。最後は、地下鉄線構内でのアクション...『都会の怒号』
それは、今話題の山下ふ頭のことである。1950年代末、横浜港の外貿ふ頭は、大さん橋の半分だけで、新興ふ頭の真ん中は、米軍の冷凍倉庫等に提供されていて、横浜港の外貿は非常に貧弱な機能しかなかった。そこで、横浜港の外貿機能を復活させようとして、国に要望した結果、建設してくれたのが山下ふ頭なのだ。だから、当初は山下ふ頭を、「安保代替ふ頭」とよんでいた。そうして、半分くらいが出来て、その後を横浜市が岸壁建設と埋立工事をして、山下ふ頭が完成したのだ。だから、今、ノースピア(瑞穂ふ頭)の米軍が長期化することが問題となっているようだ。たしかに、問題だが、日米安保条約がある以上、これを否定しても無意味だ。だから、私は、山下ふ頭の先例に倣って、なにか国に整備・建設を要望すれば良いのではないかと思うのである。どうでしょうか。安保代替ふ頭とはどこか
金沢の金沢文庫から横浜シーサイドラインに乗って新杉田に行くと、1980年代にやった土地の買収を思い出す。それは、磯子区新杉田駅前の、今は公園、スポーツセンター等になっているところである。ここは、実は1950年代に横浜市が埋立権を持ち、工事をやっている場所だった。ところが、当時は、根岸湾の埋立はなく、本牧ふ頭もなかったので、東京湾の荒海が、ここに集中していて、ある時の台風で、護岸が何度も破壊されて横浜市は困った。その時、野毛の横浜国際劇場や野毛山の迎賓館等を持っていた、桑島一夫氏が設立した財団が、海洋性レジャー基地等建設の計画を持ってきた。そこで、横浜市は、埋立権を200万円で、この財団に売却してしまったのだ。このことについて、当時横浜市財政局におられた岡本坦さんに、パシフィコ横浜にいた時にお聞きしたことが...200万円で売った権利を60億円で買い戻す
昨日の、サムライ・ジャパンンと阪神の試合は、阪神のぼろ負けだったが、すべて大谷の性だった。最初の3ランもすごいもので、片膝を土に付けながらのホームランなんて見たことがない。次のホームランもバットが折れていたのだそうだ。そして言われるのは、大谷の上半身の肉体で、ムキムキとされている。だが、普通今まで野球では、バッターの上半身はあまり関係なく、むしろ上半身が強い選手は、ホームランバッターには不向きと言われていた。たとえば、阪急にいた代打ホームラン世界一の高井や、4番バッターの長池は、どちらかと言えば、ホームラン・バッターではなく、ヒット・メーカーだったとされていた。また、ホームラン王を何度も取った王貞治は、上半身が弱かったことは有名だろう。さらに、清原は、晩年に「上半身を鍛えすぎたので、だめになった」と広岡達...大谷は異次元だ
朝、適当にユーチューブを見ていたら、昔NHKの『クローズアップ現代』で、沢村栄治の投球フィルムが発見された回があった。もちろん、国谷裕子さんだ。横浜のある方の家にあった8ミリフィルムで、1936年12月の東京巨人軍と大阪タイガースとの日本選手権戦だった。沢村の投球は、ほんの数秒だが、それは現在最高の投手である、「オリックスの山本由伸によく似ているなあ」と思った。山本も、そう大きな選手ではないが、沢村も同様だったのだと思う。沢村栄治は、山本由伸みたいなフォームだった
昨日の午後は、ずっと国立映画アーカイブにいて、「女性映画人の仕事」を見ていた。かつて日本の映画界は、完全な「男社会」で、撮影所にいる女性は、女優を別にすれば、スクリプターと結髪だけで、編集者もいたが、これは撮影所とは別だったようだ。だから、スクリプター・記録の方と結婚している映画監督は多く、大映の森一生や東宝の本多猪四郎がそうだ。はじめは、監督杉原せつで、1964年の『冬の日、ごごのこと』という、少女が町で犬と逸れるが、多くの人の助けで再会できるという呆れるほどの作品。これは、なんと「小さな親切運動」のPR映画なのだ。そこには、クリーニング屋の小僧として松山政二が、町の若者として東野英心が見えた。一番驚くのは、「小さな親切運動」が現在も存在することだった。藤原智子監督の1960年の『オランウータンの知恵』...藤原智子さんと渋谷昶子さん
宮沢りえの劇で、最初に驚いたのは、デビットルボー演出の『人形の家』だった。私は、事前に情報を得ずに見る人間で、アンナは、大竹しのぶだと思っていて、声が少し違うなあと思って見ていた。二階席なので、顔と姿は不十分にしか見えなかったのだ。しかし、宮沢りえの演技は、大竹しのぶに匹敵するほど素晴らしい。トルストイは、大変な人気作家で、というよりも映画やレコードが発達して、人気スターが出る以前は、小説家がどこでも人気スターだったので。彼の非戦主義、アナーキズム的平等主義は、国民的人気があったのだ。だから、この有名な小説も、実に上手い娯楽劇としてできている。「幸福な家庭は、一様に幸福だが、不幸な家庭は、それぞれに不幸である」という有名な一節のように、アンナの家庭の不幸は、結構複雑だが、その不幸の根源は、彼女が美しいこと...『アンナ・カレーニナ』
文化村で、思い出したのは、滝田久光さんのことだ。彼は、横浜の生まれで、早稲田大学教育学部英語英文学科を出て、紀伊国屋書店に入った。つまり、私の大学の先輩である。紀伊国屋では、サンフランシスコにいて、全米の大学に行き、日本の小説等を売り歩いてそうだ。そして、「ある日突然に、ハイト・アシュベリーが、ヒッピーの町になったのには驚いた」と言っていて、これは本『ウォーマッド横浜・歴史から消えたビッグ・フェステイバル』にも書いた。これは、1960年代の有名な出来事だが、本当に経験した人から聞いたのは、はじめてだった。その後、滝田さんは、サイマル・インターナショナルに入社され、常務を務められていた。そして、当時横浜コンベンションビューローの専務理事だった佐久間健治さんから、「滝田さんが、横浜コンベンション・ビューローに...滝田さんのこと
『アンナ・カレーニナ』を見るために、渋谷の東急本店に行くと、デパート部分は閉鎖されていて、シャッターが降りている。だが、劇場シアターコクーンの入り口には「文化村」のサインがきちんとある。この文化村とはなんだろうか、皆気づいていないようだ。これは、もともとは「アーチスト・イン・レジデンス」をやるつもりで、文化村と名付けたのだ。元サイマル・インターナショナルにいて、その後横浜コンベンション・ビューローにもおられた滝田さんからお聞きした話である。要は、堤清二さんの「パルコ文化」を上回ることを東急の五島さんもやりたかったからだろう。だが、この「アーチスト・イン・レジデンス」は、ここでは全くできなかった。そして、閉鎖である。もともと「アーチスト・イン・レジデンス」は、東京や横浜のような大都市ではなく、地方の小都市で...文化村とは何か
細郷道一氏が、横浜市長だったとき、私は市会事務局の職員だったので、まったく付き合いはなかった。ただ、1979年に中国の上海で、「79横浜上海工業展」という展示会があり、この横浜市代表団の一員として中国に行った。これは、前任の飛鳥田市長時代に進めていた上海との交流事業の一つとして行われたもので、細郷市長はきちんと前任の飛鳥田市長の政策を継承されたのだ。この辺は、非常に公平な方だったと思う。だから、自治省事務次官を辞めた後、やや「役不足」と思われる横浜駅東口開発公社の理事長をしていたのだ。自民党べったりだったら、もっと良いところに天下りしていたと思う。飛鳥田市長が、日本社会党の委員長になり、横浜市長を辞めた時、細郷さんの同級生で当時は、民社党の議員だった河村勝氏が、「横浜なら細郷君がいる」として市長候補に担ぎ...一度だけ話した細郷道一市長
1960年代後半の話である。早稲田大学でも、「闘争」が起きて、当時の9号館を学生が占拠して、勝手に使い始めた。主力は、劇団の連中で、自由舞台と演劇研究会だった。ここで、自由に稽古をしていたのだが、そこにやってきたのが、つかこうへいで、わざわざ慶応から来たのだ。もう一人、ここから出た偉才がいて、それは村上春樹であり、彼は人形劇研究会にいて、彼らも9号館を使っていたのだ。他には、考古学研究会というのもあった。もちろん、その年の秋に、封鎖解除されたが、その時、中からバッハが聴こえてきた、というのは村上の処女作で、「これは、あそこにいた連中なのか」と驚いたものだ。なぜなら、『風の歌を聴け』のような優れた小説を書ける人間など、あそこにいるとは思えなかったからだ。『ウォーマッド横浜・歴史から消えたビッグ・フェステイバ...9号館から出た、二人の異才つかこうへいと村上春樹
「国際平和会議場にしなさい」と言ったのは、細郷道一市長だった
1987年に、みなとみらい地区に作る国際会議場会社について、当時担当の部長だった岡本さんと課長の宇野さんが、細郷市長に原案を持って行った。それは、株式会社横浜国際会議場、ICC横浜だった。これは、ドイツ・ベルリンの国際会議場が、ICCベルリン(インターナショナル・コンベンション・センター・ベルリン)に倣ったものだった。この時、細郷市長は、「国際の後ろに平和を入れて、国際平和会議場にしなさい」と言った。「えっ、平和ですか・・・」と聞くと市長は言った、「国際平和は、左翼の専売特許じゃないんだよ、国際平和こそ、全人類が目指すべきものなんだよ」と言われて、正式名称は、株式会社横浜国際平和会議場になった。ただ、名称としては長いし、やはり「左翼の施設なんですか・・・」と聞く人もいて、すぐに愛称を作ることになり、私が担...「国際平和会議場にしなさい」と言ったのは、細郷道一市長だった
「フジ・ロック」が日本の野外フェステイバルの始まりじゃないよ
「フジ・ロック」が日本の野外フェステイバルの始まりだと思っている人は多いだろう。だが、それは大間違いなのだ。1991年8月に、パシフィコ横浜で行われた「ウォーマッド横浜」が最初で、いろいろと起伏はあったが1996年まで続けられた。翌年の1997年に始められたのが、フジ・ロック・フェスなのである。今回、こうした経緯を書いた本『ウォーマッド横浜・歴史から消えたビッグ・フェステイバル』には詳細に記述されている。これについて、神奈川、東京のタウン誌である「タウンニュース」に記事が掲載された。「フジ・ロック」が日本の野外フェステイバルの始まりじゃないよ
この日は、脚本の鈴木紀子と厚木たか。『女学生記』は、まさに女学校の生徒たちの日常を描くもので、松竹蒲田的作品。監督は、戦後『ゴジラ』の脚本を書く村田武雄、トーキーを作らせない松竹を出て、重宗・森・明電舎が作った東京発声での作品。ここは、世田谷にスタジオを持ち、東宝、新東宝、大蔵、そして今はオークランドになっている。先生は、御橋公で、生徒は沢山出ているが、明らかに分かるのは、高峰秀子と御舟京子の加藤治子のみ。他は、よく分からず。谷間小百合、矢口陽子、戸川弓子と言った女優だが、戦中、戦後に結婚して女優は辞めたようだ。仙人針の女として山田五十鈴が特別出演。1941年で、まだのんびりしている時代だった。厚木たかの『わたし達はこんなに働いてゐる』になると、状況は一変する。1945年2月なので、サイパン島が陥落してい...『女学生記』と『わたし達はこんなに働いてゐる』
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日本映画が、アカデミー賞で2本受賞したのは、喜ばしいが、どちらも技術的である。日本映画の黒澤明、小林正樹、小津安二郎、溝口健二らも結局は職人的仕事の見事さに成立していたと思う。だから、映画『オッペンハイマー』のような作品は出てこない。日本にも興味深い人間はいた。陸軍の石原莞爾など、最高ではないか。満州事変を起こし、満州国を作ったが、東條英樹によって陸軍を追われる。この数奇な運命を、幼い小澤征爾の目から描けば、と思うのだが。職人芸の日本映画
夜、確定申告を終える。去年は、3月15日に出したので、今年は非常に早いことになる。今日の午前中に横浜南税務署に出しに行く。確定申告、終了
「3月は、31日ではなく、50日までありますから・・・」と聞いたのは、1989年12月末に、パシフィコ横浜から横浜市総務局国際室に異動した時だった。1989年度の国際室の調査事業で、2本も委託業者も決まっていないものがあり、「指田課長、すぐに業者を決めて事業を始めてください!」と言われ、驚いて、担当の荒木田百合さんに聞くと、「各年度事業は、3月31日ではなく、5月31日までにできれば良いんです」と平然と返された。その度胸には、大変に驚いたものだ。正月になってから、2社の委託業者を決めて、いろいろバタバタと調査をやり、最後は、業者が持ってきた下手な作文を、ほとんど私が改作して5月上旬に無事「報告書」を作って終わった。当時は、「出納閉鎖期間」というものがあり、各年度の事業は5月末に終了すればよいとなっていたの...3月は、31日では終わらないんです・・・
石原裕次郎、浅丘ルリ子の映画でベストと思われるのが、舛田利雄監督の『赤いハンカチ』である。このラストシーン、裕次郎とルリ子が別れるシーンは、墓場のようなところだ。昨日の『第三の男』を見て、これのラストシーンに類似しているなあと思った。私は、こういうことを否定しているわけではなく、肯定している。大衆文化では、引用はよくあることで、日本でいえば「本歌どり」であるのだから。『赤いハンカチ』のラストシーン
映画『第三の男』の舞台は、オーストリアのウィーンで、ここは第二次世界大戦後は、複雑な状況にあった。戦時中は、ドイツだったオーストリアは、東から侵攻してきたソ連軍によって占領されたが、イギリス、アメリカ、フランスによってウィーンは、分割統治されていた。その中で起きたのが、この映画の物語なのだ。1990年、翌年に開催される「国連ピースメッセンジャー都市会議」への参加誘致に、日本のウィーン市代表部の方に聞いたことがあった。ソ連占領後は、複雑な経緯があったようだが、最後は中立国になった。そこについては、「飲ませる、抱かせる、掴ませる」などの手を使ってのオーストリアの外交手法があったとのことだ。さすがハプスブルグ家の伝統だと思った。ウィーンは、今ももう一度行ってみたい都市である。ウィーンについて
『カサブランカ』のリメイクが日活の『夜霧よ今夜も有難う』なのは有名だが、『第三の男』もリイメイクされている。赤木圭一郎主演の『霧笛が俺を呼んでいる』で、共演は芦川いづみで、赤木が横浜に探しに来る旧友で、実は悪になっている男は、葉山良二なのだ。また、赤木の妹として吉永小百合が出ていることも貴重である。舞台は、いうまでもなく横浜と横浜港であり、芦川は、港のキャバレーの歌手で、歌を唄うのだが、ここではなぜか吹替えになっている。主題歌はもちろん赤木が歌うがこれが実に下手で参る。監督は山崎徳次郎で、この人は言わば職人的な監督だが、かなり良い作品を作っているが、最後は笹川財団の金で捕鯨の映画を撮って失敗したようだ。意外なのは、脚本が熊井敬であり、私はこの人は、新藤兼人と同様、脚本はすごいが、監督はどうかなあと思われる...『第三の男』のリメイクは
桜の映画と言えば、鈴木清順の名作『けんかえれじい』で高橋英樹が、浅野順子と見に行く夜桜も大変に美しい。浅野順子は、可愛いかった割に映画に出ていないと思っていたら、実は結構出ている。それも大映京都の時代劇である。浅野寿々子1957.07.30十七才の抵抗日活...可奈子の幼少時代1958.11.15赤胴鈴之助黒雲谷の雷人大映京都...しのぶ1958.12.21赤胴鈴之助どくろ団退治大映京都...しのぶ1959.11.22薄桜記大映京都市川雷蔵の代表作で、森一生の映画『薄桜記』で、堀部安兵衛の勝新太郎と婚姻を結ぶ少女が、浅野順子なのである。当時は、まだ十代のはずだが、かわいかったので、わざわざ大映京都までよばれて演じたのだ。本当に大橋巨泉に見込まれて結婚引退してまったのは、実に残念なことだったが。桜の映画と言えば
近年、桜の花が咲くのが早くなっているが、地球温暖化の性なのか。花見が出てくる映画もいろいろあるが、私が一番好きなのは、川島雄三監督の『花影』である。この映画の最後の方で、複数の男との関係を経てきた銀座のクラブの女給池内淳子は、最初の男である池辺良と夜桜を見に行く。そこは、青山墓地で、夜桜が美しいが、岡崎宏三と美術スタッフが作った人工の桜だったはずだ。ここのシーンに来ると、一生に一度、こんなにきれいな女と夜桜を見たいなと思うのである。美しい花見の映画
今日、3月8日は、私の誕生日で、76歳になった。今朝、低気圧の影響で雪が降ったが、5歳ごろのときも、東京池上だったが、大雪が降って家の前の電線が切れて停電になっり、お誕生日の祝いができるか、本当に心配したこともあった。さて、1947、1948、1950年生まれは、250万人もいたそうだが、去年の出生者数は、75万人だそうで、30%であり、人口減少社会である。人口は、そのエリアの力の元で、明治維新で薩摩や長州が徳川幕府を倒したのも、幕末は農業等の改良で西日本の人口が増加していたとの説もある。だが、人口に頼っていた社会はもう古いと思う。人口等による経済成長のみに頼っている社会ではなく、経済的停滞でも豊かな生活をおくれる社会を目指すべきだと思うのである。誕生日に思う
五百旗頭真先生の死亡は、急性「大動脈乖離」で、これは石原裕次郎もやったことがあった。実は、私も「動脈乖離」で倒れたのだが、心臓につながる大動脈乖離ではなく、右脳の大動脈乖離で、これは非常に珍しいものだそうだ。もちろん、脳内で動脈乖離が起き、その結果右脳の一部で梗塞が起きたので、脳梗塞となったのである。そのとき、「これは稀な症例とのことで、遺伝子等を調べるから」と血液を採取されて、研究に使用する許可を求められて、もちろん承諾したことがあった。その結果、どのように医学的研究が進んだかは、知らないが。唯一、私が医学の進歩に「貢献した」例である。同じ動脈乖離だが・・・
まるで、大島渚の映画『青春残酷物語』みたいだと思う。映画では、桑野みゆきは高校生で、川津祐介は大学生だったのだが。この映画では、桑野と川津の方が死んでしまうのだが。川津祐介も、桑野みゆきの姉久我美子の元恋人で医者の渡辺文雄もとっくに死んでいて、監督の大島渚も、撮影の川又昂も、音楽の真鍋理一郎も亡くなられている。その後、結婚して引退した桑野みゆきは、ご健在なのだろうか。MSN.COMSNSで美人局、大学生を転落死させた疑い中学生3人を逮捕・通告SNSで知り合った20代の男性から金を奪おうとし、逃げようとした男性をビル4階から転落させ、死亡させたとして、大阪府警は7日、大阪市中央区の中学2年の少女(14)と堺市北区の中学3年の少年(15)を強盗致死の疑いで逮.....まるで映画『青春残酷物語』みたいだ
東証の株価が4万円を越えて、40年前の水準を越えたと大騒ぎである。懐かしのバブル時代だが、私もパシフィコ横浜の営業部にいたとき、1回だけ「贅沢三昧」があった。それは、何かの医学界で本郷の東大医学部に営業に行った後のこと。パシフィコ横浜の上司の課長の他、JTBの担当の方もいて、5人くらいで行き、そのまま上野のカラオケ店に行った。そこでずっと飲んで歌ったのだが、すぐに時はすぎて、「帰ろう」となった。店のマスターが、9時ごろからずっと電話をしていて、11時ごろにタクシーが捕まったので、皆タクシーで帰った。私も会社発行のタクシー券で、横浜まで帰ったのだ。この程度のことだったが、今考えれば信じがたいことだった。40年前の「贅沢三昧」
この本は、この数年に読んだ本で一番面白かった。朝妻一郎と言えば、1960年代以降、日本のポピュラー音楽のLPを見ると必ず解説を書いていた方で、非常に年上の方だと思い込んでいた。だが、この本を読んで、私より5歳上の方だと分かり驚いた。朝妻さんは、高校時代にポール・アンカが好きになり、彼の後援会の代表になる。その時、経済観念の鋭かったポール・アンカは、自分で権利を管理する会社を作り、レコード会社も変えてしまい、日本の発売元も代わった。そこで、日本のレコード会社に頼れなくなったことから、渋谷のヤマハの紹介で、朝妻少年は、ニッポン放送の高崎一郎氏に紹介されて、アルバイトで助手をすることになる。そして、歌曲の権利管理会社のフジパシフィック・ミュージックの社員となり、日本のポピュラーの音楽の発展に多大な貢献をされるよ...『高鳴る心の歌』朝妻一郎
大谷将平の結婚話で、マスコミのすべてが占領されているが、実は大谷選手のご両親は、横浜にいたのだ。彼の父親は三菱重工横浜の野球部にいて、レギュラーの選手だったが、そこでバドミントンをやっていた女性と知り合って結婚して生まれたのが、大谷翔平君なのだ。彼は、非常にまじめで親の生き方をよく見ていると思うので、結婚相手は、彼の母親のような方ではないかと私は推測する。こんなことは、本来関係者だけの問題で、大谷ではないが、「皆さんがうるさい」ことに他ならないのだ。大谷の両親は横浜にいた
これも笑いはなしで、あろ日、佐藤栄作首相が聞いたそうだ。「なかそね、みき君はどうしているかね」秘書は言った、「中曾根康弘氏と三木武夫氏は・・・」「違うよ、仲宗根美樹君のことだよ」後に沖縄返還に尽力された佐藤栄作氏の言葉のようだ。佐藤栄作が言った「なかそね、みき君はどうしているかね」
歌手の中曽根美樹が亡くなったそうだが、結構映画にも出ている。また、吉永小百合、浜田光夫の映画『愛と死を見つめて』では、この二人が仲宗根の『川は流れる』を唄っている。この映画では、今テレビの朝ドラの主人公の笠置シズ子が、吉永と病院の同室の患者の叔母さんとして出ている。この頃、笠置は歌手をやめていたのである。仲宗根美樹1963年(キングレコードの広告)映画[編集]うるさい妹たち(1961年大映)東海一の若親分(1961年東映)海猫が飛んで(1962年松竹)しのび逢い(1962年松竹)太平洋戦争と姫ゆり部隊(1962年大蔵映画)川は流れる(1962年松竹)その結婚異議あり(1963年大映)独立美人隊(1963年松竹)魚河岸の旋風娘(1963年松竹)BACKSTAGE/バックステージ(2001年日活)仲宗根美樹、死去、79歳
昨日は、106年前に2・26事件がおきたときで、この時期になると「新資料」が出て来たものだが、この数年はない。さすがに100年も経つと関係者はもとより、遺族ももういなくなったからだろう。さて、この事件は、戦前の最大の事件の一つであり、日本の近代史の問題点の集中である。それは、日本は大日本帝国憲法で、一応立憲君主制を定めたが、思想的には前近代的な「君民一体」思想を持っていたからだ。日本は、天皇を祖とする大きな家族であるという神話で、個々の日本人と天皇は、もとをただせば同じと言う馬鹿げた考えである。人口学によれば、縄文時代に日本には、すでに30万人の住民がいたそうで、「君民一体」などありえないのだ。天皇制的神話が、一番嫌いだったのは、実は昭和天皇であり、だから2月26日に事件がおきた時、すぐに「反乱軍」を制圧...もう出てこないだろう2・26事件資料
昨日の朝日新聞に、元首相の宮沢喜一氏の日録があり、遺族から委託されて御厨貴先生らが編纂されているとの記事があった。いずれ、公開されるらしいが、ぜひ見てみたいものだ。日本の首相の中で、宮沢喜一氏は、もともとエリートで、高級官僚だった人の典型であり、その最後の方だったと思う。この人は、自分で言っているが、政策は得意だったが、人の動向を見るのは苦手で、1993年に自民党の小沢一郎らが反乱を起こして、宮沢内閣不信任案が可決されたとき、まったくその動きを知らなかったのだそうだ。おそらく「そんなことはあるまい」と思っていたのだろう。このときの感想はぜひ読んでみたいと思っている。同じ東大卒の高級官僚でも、人事にたけていたのは、佐藤栄作で、彼は、常に『国会便覧』を読み、さまざまな人事情報を頭に入れていたそうだ。だから、佐...『宮沢喜一日録』の存在
映画『ZK』、頭脳警察を見て、食わず嫌いだったことを悔いた。彼は、赤軍などの左翼過激派との関係が言われたが、その本質は、抒情的なメロディメーカーであることが分かった。それは、彼(パンタ)は、埼玉の所沢に生まれ育ったことで、アメリカ軍基地の文化を浴びたからだったと思う。それは、レゲエのボブ・マーリーにも類似していると思う。ボブは、他のレゲエ歌手とは異なるクールさがあるが、彼はイギリス人の父親とジャマイカ人の母との間に生まれたことが、その理由だと私は思うのである。横浜シネマベティ『ZK』を見て
女優の山本陽子が死んだそうだが、81とは女性では若死にと言うべきか。彼女の出演歴は以下のとおりで、数は多いが、まあ端役である。目立ったのは、裕次郎・浅丘ルリ子の名作『赤いハンカチ』で、二谷英明の裏切りで殺人犯にされ、ルリ子と二谷が結婚した豪邸の女中役で、私も最初に気づいた映画だった。後は、『猟人日記』でも、仲谷昇の餌食にされる女の一人にすぎなかったと思う。いずれにしても、日活時代は大した役はなかったが、1974年の東宝の『華麗なる一族』での万俵家の長男田宮二郎の妻が適役だったと思う。ゴシップ的に言えば、この頃から田宮二郎との関係はあったのかと思うが。テレビで成功した俳優であることは間違いなく、元日活でいえば、男では杉良太郎、女優では山本陽子が第一だと思う。杉良太郎など、沖雅也や藤竜也の遥か下だったのだから...山本陽子、死去、81歳
日本映画が、アカデミー賞で2本受賞したのは、喜ばしいが、どちらも技術的である。日本映画の黒澤明、小林正樹、小津安二郎、溝口健二らも結局は職人的仕事の見事さに成立していたと思う。だから、映画『オッペンハイマー』のような作品は出てこない。日本にも興味深い人間はいた。陸軍の石原莞爾など、最高ではないか。満州事変を起こし、満州国を作ったが、東條英樹によって陸軍を追われる。この数奇な運命を、幼い小澤征爾の目から描けば、と思うのだが。職人芸の日本映画
夜、確定申告を終える。去年は、3月15日に出したので、今年は非常に早いことになる。今日の午前中に横浜南税務署に出しに行く。確定申告、終了
「3月は、31日ではなく、50日までありますから・・・」と聞いたのは、1989年12月末に、パシフィコ横浜から横浜市総務局国際室に異動した時だった。1989年度の国際室の調査事業で、2本も委託業者も決まっていないものがあり、「指田課長、すぐに業者を決めて事業を始めてください!」と言われ、驚いて、担当の荒木田百合さんに聞くと、「各年度事業は、3月31日ではなく、5月31日までにできれば良いんです」と平然と返された。その度胸には、大変に驚いたものだ。正月になってから、2社の委託業者を決めて、いろいろバタバタと調査をやり、最後は、業者が持ってきた下手な作文を、ほとんど私が改作して5月上旬に無事「報告書」を作って終わった。当時は、「出納閉鎖期間」というものがあり、各年度の事業は5月末に終了すればよいとなっていたの...3月は、31日では終わらないんです・・・
石原裕次郎、浅丘ルリ子の映画でベストと思われるのが、舛田利雄監督の『赤いハンカチ』である。このラストシーン、裕次郎とルリ子が別れるシーンは、墓場のようなところだ。昨日の『第三の男』を見て、これのラストシーンに類似しているなあと思った。私は、こういうことを否定しているわけではなく、肯定している。大衆文化では、引用はよくあることで、日本でいえば「本歌どり」であるのだから。『赤いハンカチ』のラストシーン
映画『第三の男』の舞台は、オーストリアのウィーンで、ここは第二次世界大戦後は、複雑な状況にあった。戦時中は、ドイツだったオーストリアは、東から侵攻してきたソ連軍によって占領されたが、イギリス、アメリカ、フランスによってウィーンは、分割統治されていた。その中で起きたのが、この映画の物語なのだ。1990年、翌年に開催される「国連ピースメッセンジャー都市会議」への参加誘致に、日本のウィーン市代表部の方に聞いたことがあった。ソ連占領後は、複雑な経緯があったようだが、最後は中立国になった。そこについては、「飲ませる、抱かせる、掴ませる」などの手を使ってのオーストリアの外交手法があったとのことだ。さすがハプスブルグ家の伝統だと思った。ウィーンは、今ももう一度行ってみたい都市である。ウィーンについて
『カサブランカ』のリメイクが日活の『夜霧よ今夜も有難う』なのは有名だが、『第三の男』もリイメイクされている。赤木圭一郎主演の『霧笛が俺を呼んでいる』で、共演は芦川いづみで、赤木が横浜に探しに来る旧友で、実は悪になっている男は、葉山良二なのだ。また、赤木の妹として吉永小百合が出ていることも貴重である。舞台は、いうまでもなく横浜と横浜港であり、芦川は、港のキャバレーの歌手で、歌を唄うのだが、ここではなぜか吹替えになっている。主題歌はもちろん赤木が歌うがこれが実に下手で参る。監督は山崎徳次郎で、この人は言わば職人的な監督だが、かなり良い作品を作っているが、最後は笹川財団の金で捕鯨の映画を撮って失敗したようだ。意外なのは、脚本が熊井敬であり、私はこの人は、新藤兼人と同様、脚本はすごいが、監督はどうかなあと思われる...『第三の男』のリメイクは
桜の映画と言えば、鈴木清順の名作『けんかえれじい』で高橋英樹が、浅野順子と見に行く夜桜も大変に美しい。浅野順子は、可愛いかった割に映画に出ていないと思っていたら、実は結構出ている。それも大映京都の時代劇である。浅野寿々子1957.07.30十七才の抵抗日活...可奈子の幼少時代1958.11.15赤胴鈴之助黒雲谷の雷人大映京都...しのぶ1958.12.21赤胴鈴之助どくろ団退治大映京都...しのぶ1959.11.22薄桜記大映京都市川雷蔵の代表作で、森一生の映画『薄桜記』で、堀部安兵衛の勝新太郎と婚姻を結ぶ少女が、浅野順子なのである。当時は、まだ十代のはずだが、かわいかったので、わざわざ大映京都までよばれて演じたのだ。本当に大橋巨泉に見込まれて結婚引退してまったのは、実に残念なことだったが。桜の映画と言えば
近年、桜の花が咲くのが早くなっているが、地球温暖化の性なのか。花見が出てくる映画もいろいろあるが、私が一番好きなのは、川島雄三監督の『花影』である。この映画の最後の方で、複数の男との関係を経てきた銀座のクラブの女給池内淳子は、最初の男である池辺良と夜桜を見に行く。そこは、青山墓地で、夜桜が美しいが、岡崎宏三と美術スタッフが作った人工の桜だったはずだ。ここのシーンに来ると、一生に一度、こんなにきれいな女と夜桜を見たいなと思うのである。美しい花見の映画
今日、3月8日は、私の誕生日で、76歳になった。今朝、低気圧の影響で雪が降ったが、5歳ごろのときも、東京池上だったが、大雪が降って家の前の電線が切れて停電になっり、お誕生日の祝いができるか、本当に心配したこともあった。さて、1947、1948、1950年生まれは、250万人もいたそうだが、去年の出生者数は、75万人だそうで、30%であり、人口減少社会である。人口は、そのエリアの力の元で、明治維新で薩摩や長州が徳川幕府を倒したのも、幕末は農業等の改良で西日本の人口が増加していたとの説もある。だが、人口に頼っていた社会はもう古いと思う。人口等による経済成長のみに頼っている社会ではなく、経済的停滞でも豊かな生活をおくれる社会を目指すべきだと思うのである。誕生日に思う
五百旗頭真先生の死亡は、急性「大動脈乖離」で、これは石原裕次郎もやったことがあった。実は、私も「動脈乖離」で倒れたのだが、心臓につながる大動脈乖離ではなく、右脳の大動脈乖離で、これは非常に珍しいものだそうだ。もちろん、脳内で動脈乖離が起き、その結果右脳の一部で梗塞が起きたので、脳梗塞となったのである。そのとき、「これは稀な症例とのことで、遺伝子等を調べるから」と血液を採取されて、研究に使用する許可を求められて、もちろん承諾したことがあった。その結果、どのように医学的研究が進んだかは、知らないが。唯一、私が医学の進歩に「貢献した」例である。同じ動脈乖離だが・・・
まるで、大島渚の映画『青春残酷物語』みたいだと思う。映画では、桑野みゆきは高校生で、川津祐介は大学生だったのだが。この映画では、桑野と川津の方が死んでしまうのだが。川津祐介も、桑野みゆきの姉久我美子の元恋人で医者の渡辺文雄もとっくに死んでいて、監督の大島渚も、撮影の川又昂も、音楽の真鍋理一郎も亡くなられている。その後、結婚して引退した桑野みゆきは、ご健在なのだろうか。MSN.COMSNSで美人局、大学生を転落死させた疑い中学生3人を逮捕・通告SNSで知り合った20代の男性から金を奪おうとし、逃げようとした男性をビル4階から転落させ、死亡させたとして、大阪府警は7日、大阪市中央区の中学2年の少女(14)と堺市北区の中学3年の少年(15)を強盗致死の疑いで逮.....まるで映画『青春残酷物語』みたいだ
東証の株価が4万円を越えて、40年前の水準を越えたと大騒ぎである。懐かしのバブル時代だが、私もパシフィコ横浜の営業部にいたとき、1回だけ「贅沢三昧」があった。それは、何かの医学界で本郷の東大医学部に営業に行った後のこと。パシフィコ横浜の上司の課長の他、JTBの担当の方もいて、5人くらいで行き、そのまま上野のカラオケ店に行った。そこでずっと飲んで歌ったのだが、すぐに時はすぎて、「帰ろう」となった。店のマスターが、9時ごろからずっと電話をしていて、11時ごろにタクシーが捕まったので、皆タクシーで帰った。私も会社発行のタクシー券で、横浜まで帰ったのだ。この程度のことだったが、今考えれば信じがたいことだった。40年前の「贅沢三昧」
この本は、この数年に読んだ本で一番面白かった。朝妻一郎と言えば、1960年代以降、日本のポピュラー音楽のLPを見ると必ず解説を書いていた方で、非常に年上の方だと思い込んでいた。だが、この本を読んで、私より5歳上の方だと分かり驚いた。朝妻さんは、高校時代にポール・アンカが好きになり、彼の後援会の代表になる。その時、経済観念の鋭かったポール・アンカは、自分で権利を管理する会社を作り、レコード会社も変えてしまい、日本の発売元も代わった。そこで、日本のレコード会社に頼れなくなったことから、渋谷のヤマハの紹介で、朝妻少年は、ニッポン放送の高崎一郎氏に紹介されて、アルバイトで助手をすることになる。そして、歌曲の権利管理会社のフジパシフィック・ミュージックの社員となり、日本のポピュラーの音楽の発展に多大な貢献をされるよ...『高鳴る心の歌』朝妻一郎
大谷将平の結婚話で、マスコミのすべてが占領されているが、実は大谷選手のご両親は、横浜にいたのだ。彼の父親は三菱重工横浜の野球部にいて、レギュラーの選手だったが、そこでバドミントンをやっていた女性と知り合って結婚して生まれたのが、大谷翔平君なのだ。彼は、非常にまじめで親の生き方をよく見ていると思うので、結婚相手は、彼の母親のような方ではないかと私は推測する。こんなことは、本来関係者だけの問題で、大谷ではないが、「皆さんがうるさい」ことに他ならないのだ。大谷の両親は横浜にいた
これも笑いはなしで、あろ日、佐藤栄作首相が聞いたそうだ。「なかそね、みき君はどうしているかね」秘書は言った、「中曾根康弘氏と三木武夫氏は・・・」「違うよ、仲宗根美樹君のことだよ」後に沖縄返還に尽力された佐藤栄作氏の言葉のようだ。佐藤栄作が言った「なかそね、みき君はどうしているかね」
歌手の中曽根美樹が亡くなったそうだが、結構映画にも出ている。また、吉永小百合、浜田光夫の映画『愛と死を見つめて』では、この二人が仲宗根の『川は流れる』を唄っている。この映画では、今テレビの朝ドラの主人公の笠置シズ子が、吉永と病院の同室の患者の叔母さんとして出ている。この頃、笠置は歌手をやめていたのである。仲宗根美樹1963年(キングレコードの広告)映画[編集]うるさい妹たち(1961年大映)東海一の若親分(1961年東映)海猫が飛んで(1962年松竹)しのび逢い(1962年松竹)太平洋戦争と姫ゆり部隊(1962年大蔵映画)川は流れる(1962年松竹)その結婚異議あり(1963年大映)独立美人隊(1963年松竹)魚河岸の旋風娘(1963年松竹)BACKSTAGE/バックステージ(2001年日活)仲宗根美樹、死去、79歳
昨日は、106年前に2・26事件がおきたときで、この時期になると「新資料」が出て来たものだが、この数年はない。さすがに100年も経つと関係者はもとより、遺族ももういなくなったからだろう。さて、この事件は、戦前の最大の事件の一つであり、日本の近代史の問題点の集中である。それは、日本は大日本帝国憲法で、一応立憲君主制を定めたが、思想的には前近代的な「君民一体」思想を持っていたからだ。日本は、天皇を祖とする大きな家族であるという神話で、個々の日本人と天皇は、もとをただせば同じと言う馬鹿げた考えである。人口学によれば、縄文時代に日本には、すでに30万人の住民がいたそうで、「君民一体」などありえないのだ。天皇制的神話が、一番嫌いだったのは、実は昭和天皇であり、だから2月26日に事件がおきた時、すぐに「反乱軍」を制圧...もう出てこないだろう2・26事件資料
昨日の朝日新聞に、元首相の宮沢喜一氏の日録があり、遺族から委託されて御厨貴先生らが編纂されているとの記事があった。いずれ、公開されるらしいが、ぜひ見てみたいものだ。日本の首相の中で、宮沢喜一氏は、もともとエリートで、高級官僚だった人の典型であり、その最後の方だったと思う。この人は、自分で言っているが、政策は得意だったが、人の動向を見るのは苦手で、1993年に自民党の小沢一郎らが反乱を起こして、宮沢内閣不信任案が可決されたとき、まったくその動きを知らなかったのだそうだ。おそらく「そんなことはあるまい」と思っていたのだろう。このときの感想はぜひ読んでみたいと思っている。同じ東大卒の高級官僚でも、人事にたけていたのは、佐藤栄作で、彼は、常に『国会便覧』を読み、さまざまな人事情報を頭に入れていたそうだ。だから、佐...『宮沢喜一日録』の存在
映画『ZK』、頭脳警察を見て、食わず嫌いだったことを悔いた。彼は、赤軍などの左翼過激派との関係が言われたが、その本質は、抒情的なメロディメーカーであることが分かった。それは、彼(パンタ)は、埼玉の所沢に生まれ育ったことで、アメリカ軍基地の文化を浴びたからだったと思う。それは、レゲエのボブ・マーリーにも類似していると思う。ボブは、他のレゲエ歌手とは異なるクールさがあるが、彼はイギリス人の父親とジャマイカ人の母との間に生まれたことが、その理由だと私は思うのである。横浜シネマベティ『ZK』を見て
女優の山本陽子が死んだそうだが、81とは女性では若死にと言うべきか。彼女の出演歴は以下のとおりで、数は多いが、まあ端役である。目立ったのは、裕次郎・浅丘ルリ子の名作『赤いハンカチ』で、二谷英明の裏切りで殺人犯にされ、ルリ子と二谷が結婚した豪邸の女中役で、私も最初に気づいた映画だった。後は、『猟人日記』でも、仲谷昇の餌食にされる女の一人にすぎなかったと思う。いずれにしても、日活時代は大した役はなかったが、1974年の東宝の『華麗なる一族』での万俵家の長男田宮二郎の妻が適役だったと思う。ゴシップ的に言えば、この頃から田宮二郎との関係はあったのかと思うが。テレビで成功した俳優であることは間違いなく、元日活でいえば、男では杉良太郎、女優では山本陽子が第一だと思う。杉良太郎など、沖雅也や藤竜也の遥か下だったのだから...山本陽子、死去、81歳