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仏教関係の本の紹介と日々雑感を書いております。禅、哲学、小説などの本も紹介しています。
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ブログ村参加:2012/03/24

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おもうつぼさんの新着記事

1件〜30件

  • 第十三節 縁起的関係性と時間、アビダルマにおける時間

      第十三節 縁起的関係性と時間、アビダルマにおける時間   関係性の網の目における差異はこのように縁起的に世界・宇宙の果てにまで及んでいる。世界・宇宙で関係していないものは何もなく、この差異の網の目から逃れるものは何一つありはしない。一塵のなかに宇宙があるとは、まさにそのことを意味している。  『華厳五教章』のなかの「解釈門」、8にある「十世隔法異成門」にこうある。「従って十世隔法異成門とは、...

  • 第十二節 縁起の関係と諸差異の無自性的構造

    第十二節 縁起の関係と諸差異の無自性的構造  では具体的な例をあげて説明しよう。 今、机の上にガラスのコップがあるとしよう。机の上に置かれたガラスのコップを上記の「中心」としてみる。私の手がコップをつかもうとしたところ、滑らせて床に落としたとする。果たしてガラスコップは割れてガラスの破片と化した。これが脱中心(再中心化と言ってももいいが)である。諸縁起の連関によって維持されていたコップは、今また縁...

  •  第十一節 仏教と西欧哲学―――相違点と類似点

      第十一節 仏教と西欧哲学―――相違点と類似点    ドゥルーズ=ニーチェのいう差異は結局、量と質の差異に還元されるほかないが、ドゥルーズ=ニーチェは力、力能にも関係させている。いわゆる力への意志である。「<力>の意志は相互の差異によってのみ成り立つ示差的な境位であって、そこからある一つの複合体において対峙し合う諸力が派生し、またそれら諸力のそれぞれの質が派生してくるのである。」1  差異とは力の...

  • 神保町~北鎌倉ぶらり旅   ふるほんやの古本屋散策と東慶寺・円覚寺巡り

    神保町~北鎌倉ぶらり旅  ふるほんやの古本屋散策と東慶寺・円覚寺巡り 東京へ行く機会が、たまたま出来た。一日目は神保町の、ふるほんやの古本巡り。7、8年前に一度来たことがあった。そのときも何冊か買った。神保町の古書店界隈はそのときとあまり変わっていないようだ。そのとき休みで店内を見ることが叶わなかった仏教書の品揃えが充実している東陽堂さんに伺えた。さすが、なんというか圧巻。聞いたこともない大部の古...

  • 第十節 肯定の哲学―――ドゥルーズ=ニーチェ

     第十節 肯定の哲学―――ドゥルーズ=ニーチェ  さて、この差異は、肯定から生み出されると言ったが、このことをもう少し詳しく述べる。  ここでフランスの現代哲学者故ジル・ドゥルーズの『ニーチェと哲学』という著書に触れてみよう(かつてポストモダンの第一人者であったドゥルーズを仏教哲学に類する論考のなかで引き合いに出すのはいささか奇異の観を抱かれるかもしれないが、あえて申し述べたい。それは後に述べるよ...

  •  『生死の覚悟』 高村薫 南直哉   信と懐疑をめぐって

     『生死の覚悟』 高村薫 南直哉  信と懐疑をめぐって  もともと拙ブログは、幼いころから信仰に不信感を抱いていた人間だったので、中年に差しかかかった頃挫折して救いを求めるために、貪るように仏教書に手をだした一人だ。立ち直った今になって思えば、仏教に救いを求めるなど、笑止に過ぎず、自分の計らいなど、微々たるもので、縁をもった人たちに救われたから、自分の無力に気づかされた。人、在っての己れでしかない...

  •   第九節 「差異―諸差異の関係―依存性―空」の相互連関

     第九節 「差異―諸差異の関係―依存性―空」の相互連関   関係をもつことは差異をもつことであり、差異をもつことは関係をもつことである。実体をもつことなく、空となり続ける(空が空でなくなったり、別のものになるのではなく<無や実体>、空が自らを空化し続けること、空が無や実体化を拒否する方法は空が自らを空化し続けること以外にはない)ことである。この無自性によって他性(他なるもの)への依存が起こる(依他...

  • 第七節 無限大円環的時間性と絶対的現在(その2)

     第七節 無限大円環的時間性と絶対的現在(その2)  ところで絶対的現在は無とも言い換えられる。しかしこの無は相対的な無ではなしに、有無を超越した無、すなわち空性であることは言うまでもない。だから空性ではあっても、何も作用がないというのではなく、むしろ、空性とは無限大円環的時間にほかならず、したがって、空性である無限大円環的時間とは仏性なのである。それは宇宙を包摂している。宇宙を動かしている、...

  • 第七節 無限大円環的時間性と絶対的現在(その1)

     第七節 無限大円環的時間性と絶対的現在(その1)   禅からすれば、過去現在未来は不可得である。それを凡夫のように可得底として見ることはない。しかしなおかつ禅は不可得を凡夫とは違うやり方で可得しようとする。  「不可得を可得にしないと時がわからぬ。生死がわからぬ。人生がわからぬ。ここでも亦般若の論理に徹しなければならぬことになる。霊性的直覚にどうして到達するか。」1 大拙は『碧巌録』の第八十則...

  • 第五節 三世心不可得1と直線的時間性あるいは時間の忘却

    第五節 三世心不可得1と直線的時間性あるいは時間の忘却未来はいまだ来たっていないので捉えることはできず、過去は過ぎ去ってしまったものだからまた捉えることはできない。現在もその境にあって捉えることはできない。大拙は心と時間は同じ問題だという。ここで言う心とはもちろん分別知によって分かたれた主観と客観の主観ではないことは明らかである。時間と存在が道元において同じであるように、また時間は主体の中に流れる...

  • 読書感想 『坂の上の雲』 司馬遼太郎   日露戦争とは何だったのか?

    読書感想 『坂の上の雲』 司馬遼太郎   日露戦争とは何だったのか?  まず昨日の台風19号による災害で亡くなられた方に哀悼の意を表し、怪我をされた方、家屋に被害を受けた方、避難を余儀なくされた方にお見舞いを申し上げます。  文春文庫から新装版として出版された 『坂の上の雲』(1)~(8) 8冊をほぼ3か月かけて読了した。日露戦争というものがどういう戦争であったのか、およそ了解できる歴史小説である...

  • 第三節 即非について――「金剛経の禅」における即非の論理形式

       第三節 即非について――「金剛経の禅」における即非の論理形式  では、こうした世界(法界)のうちで生み出される差異とは何であろうか?  中心はもはや中心であって中心ではないという、この中心化と脱中心化は、実は即非の論理に依拠している。そこで、『日本的霊性』の「第五篇 金剛経の禅」について触れてみなければならない。  その前に「金剛経の禅」について付記しておく。この第五篇はもともと初版にはあっ...

  • 第二節 中心化/脱中心化する無限大円環構造

    第二節 中心化/脱中心化する無限大円環構造 先に少し触れた中心と円環について、まず述べてみよう。円はたった一つの中心しかもたない。それが円の定義である。しかしそれでは、自己中心的な閉じた世界、つまり独我論的世界(ソリプティズム)しか開示することはないだろう。なぜ世界が開けており、他者が存在するのか、という可能性が閉されてしまう。しかし大拙は、こうしたアポリアを乗り越えるために、円を一つの中心ではな...

  •  読書感想 『仏教入門   私の考える仏教』南直哉

     読書感想 『仏教入門   私の考える仏教』南直哉 南直哉老師による仏教入門書である。だから「仏教というものを初めて知りたくなって、じゃあ、ちょっと読んでみようかという」ような、どこにでもある入門書と思って読むと、おそらく十中八九酷い目にあう。「著しく個人的見解に着色され、偏向極まりない視点から書かれた入門書である。」(P.5)そう、いきなり宣言してしまっているからだ、それが表題に如実に表れている。...

  • 第五章 霊性的時間性―――無限大円環的時間性あるいは法界縁起的時間性の構造   第一節 大拙の無限大円環とは何か

     第五章 霊性的時間性―――無限大円環的時間性あるいは法界縁起的時間性の構造   第一節 大拙の無限大円環とは何か  では、これから時間における有限性と無限性(無際限性とは異なる)の関係について述べてみよう。  先に有限的時間性の諸性質について述べた。等質性、無際限性(=無限分割性)、不可逆行性(過去現在未来の直線性)、計量可能性(数値化と計算可能性)、物理量としての時間、世界時間(時間世界)、時空...

  • 第三節 直線的時間と円環的時間

      第三節 直線的時間と円環的時間  そして最後に時間の流れ。過去から現在そして未来へと流れる時間の様態。即ち直線的な時間の流れである。あるいは「時間の矢」とも言われる。既述したように不可逆的な時間の流れと、この過去現在未来という直線的な時間の構造は一体である。有限性とその有限性が無際限に続くと考えられる時間が対立するのは、こうした時間という流れ、移ろい、連続性に果てがない無際限の時間と、われ...

  • 第二節 時間の無際限性と人間の有限性

    第二節 時間の無際限性と人間の有限性 ところで、一方では、時間とは人間にとって果てしのない時間の流れとして捉えられると同時にそうした無際限な流れの中で、ある限られた時間を、たとえば100年弱の時間を生きうる有限な生命的存在としての人間に固有な時間と考えることもできる。時間が始まりも終わりもない無限ならば、個としての人間の生命の時間はある始まりとある終わりをもつ有限である。生命とは有限の時間を生きる...

  • 『空の哲学』矢島羊吉   空の形而上学と空観

    『空の哲学』矢島羊吉  空の形而上学と空観 哲学的観点から空の本質を鋭く剔出している。そもそも空そのものが、仏教思想の核をなす大変重要な概念であるし、かといって誰でもすんなり理解しおおせるようなものでもない。雲をつかむようなおよそ凡人には近づきえない対象だから、話はやはり専門的になってしまう。龍樹の『中頌』のテキストを丹念に読み解くことで、矢島氏は空思想の中心に迫る。ではあるがあくまで「哲学的に」...

  • 第九節 ドゥルーズとニーチェ

     第九節 ドゥルーズとニーチェ  ここで矛先を変えて、ニーチェの思想の核心を捉えたフランスの哲学者である故ジル・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』に触れてみよう。追って論じることになるが、ここでは仏教の無明と現代のニヒリズムについて、西洋と東洋の思考の接近、交差のようなものを若干紹介してみたい。もちろん筆者は仏教哲学の研究者でもなければ、西洋哲学の研究者でもない、仏教徒の端くれにすぎないけれども、ニーチ...

  •  第七節 「生」のまったき肯定

       第七節 「生」のまったき肯定  「仏性」とは生のまったき肯定(「生命」の単なる肯定=否定ではない)であるならば、生の否定的ニヒリズムから救い出さなければならない。しかしながら無明から離れて覚醒や悟りがあるわけではない。無明そのものの中にしか覚醒や悟りというものはありえないのだ。だから無明から超越することが問題ではなく、もともといた場所へと引き戻すことが重要なのだ。盤珪は悩む衆生を不生という場...

  • 第六節 無明による生の否定と空による生の肯定

      第六節 無明による生の否定と空による生の肯定 では、ここに指摘された現代の時間性において何が問題になるのだろう? とりわけ、世俗的時間性と対比される宗教的時間性、あるいは仏教的時間性、あるいは霊性的時間性と呼ばれうる時間性とはいかなる時間性でなければならないのだろうか?   既述したように直線的時間性の特性である一元的な価値、抽象性、等質性、人工ダイアモンドのようにそれ自体傷つかず、その輝きで...

  • 第五節 ニヒリズムと時間論

     第五節 ニヒリズムと時間論    そもそも時間論というテーマは仏教の経論等であまり表て立って論じられてこなかったと言われる。どちらかというと、サブストリームとしてしか見られなかったし、西洋哲学のように時間意識というものが東洋(インド・中国・日本)では希薄だったということはあるだろう。確かに時間そのものが論じられなかったのはそれなりの理由がある。禅宗にしろ浄土宗にしろ仏教思想全般、仏教哲学のみ...

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