chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
おもうつぼ
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2012/03/24

arrow_drop_down
  • 『一刀斎夢録(上下)』浅田次郎 武士のニヒリズムの終焉

    『一刀斎夢録(上下)』浅田次郎 武士のニヒリズムの終焉 幕末の武士、武士階級、武士社会、つまり武士という価値観を崩壊させた一ニヒリストの所業を描いた、新選組三部作の最後の、渾身の作品。 晩年の、当時新選組副助勤、三番隊長斎藤一が、連夜、若い近衛兵将校梶原中将にとともに酒を煽りながら語り継ぐ幕末前後の血生臭い話の数々である。 幕末の動乱が既成の形骸化した武士社会の価値観を外部から内部からなし崩しに...

  • 読書感想 『零式戦闘機』 吉村昭

    読書感想 『零式戦闘機』 吉村昭 今年も終戦の季節になった。映画やドラマなどでしか、第二次大戦の一端を垣間見るほかあまり、その実録に触れてみる機会がなかった。いわゆる「零戦(ゼロ戦)」という戦闘機の草創期と衰退期を通して、日本の戦争の状況、戦局を吉村氏は描いている。この手法は『戦艦武蔵』にも通じる。 人間の誰かを主人公とするのではなく、人間が作り上げた人工物の栄枯盛衰がいかに戦争の在りようを左右...

  • 読書感想。「冷たい夏、熱い夏」 吉村昭

    読書感想「冷たい夏、熱い夏」 吉村昭 吉村昭氏と、私の父は同い年である。昭和2年の生まれで、父は氏より先に鬼籍に入った。 この物語、というかほぼドキュメンタリーといっていいかもしれない、弟の肺癌による死までを看取る兄の克明な手記ともいえる。 当時、昭和50年代、弟は2歳年下だから、50代前半で没したことになる。 父の年代は、兄弟が多く、死別したりすることが多かった時代、それに戦争があった。父は未成年で...

  • 読書感想

    思う壺。読書感想『高熱隧道』 吉村昭 黒部峡谷で昭和11年から始められたダム建設にともなうトンネル工事の記録文学。当時はもちろんハイテク設備・機材などない時代に、人力とダイナマイトでがむしゃらに掘り進めるしかなかった。とりわけ黒部峡谷の自然は未知であった。自然の猛威に坑道作業は難行した。温泉の高熱との闘い、雪崩、ダイナマイトの操作など思いもよらぬ事故、災害で死傷者は恐るべき数に上った。 当時の戦時...

  • 読書感想 『海の史劇』 『戦艦武蔵』 吉村昭著

    読書感想 『海の史劇』 『戦艦武蔵』 吉村昭著前者は明治時代、日本海海戦を扱ったもの。後者は昭和時代、太平洋戦争を背景にしたもの。 時間の隔たりはあるものの、前者は日本の勝利、後者は敗北という点で質を異にしている。 物量的に劣っていた日本海軍が、いわゆるバルチック艦隊を撃滅したことの歴史的意義は日本海軍の質的な優位性を垣間見ることができるだろう。技術的な練成もさることながら、士気の点でも優位であ...

  • 思う壺。幕末とニヒリズム、雑感

    「思う壺。」 実存と宗教の問題 実存するということは、実存論的にはつねにすでに空無であることは明瞭だが、実存的には、無明のうちに埋没している事態を言う。つまりわれわれは空というものを「知っている」、にもかかわらず、空から目をそらして、目の前の事物に埋没して、その空を「忘却し」ながら日々生きている。 実存はつねに何かにかかわずらって生きるほか術がない。それは空無を逃れているあり方を端的にかつ如実に...

  • 『峠』 司馬遼太郎 時代の両義性について 河井継之助と吉村貫一郎

    『峠』 司馬遼太郎 時代の両義性について 河井継之助と吉村貫一郎 6月映画公開になった歴史小説だが、たまたま、読むものがなかったので、司馬氏の『峠』(上)(中)(下)巻を読んでみた。 幕末という時代、江戸時代以来の価値観というものが確固としていた時代から一挙に変転した動乱の時代に生き、自藩に忠誠を誓った人物が、いかに見事にその思想と、思惑に敗れ去ったかをことごとく見せてくれた。既成の価値観が崩...

  • 『最後の将軍』 司馬遼太郎 幕末最後のニヒリスト、慶喜

    『最後の将軍』 司馬遼太郎 幕末最後のニヒリスト、慶喜 徳川慶喜ほど高度な政治的判断が数年に亘って、あるいは時に瞬時に求められた将軍は、かつてなかった。もっとも、たしかに、勝敗の駆け引きが雌雄を決するとき、過去の武勇たちはそれなりの覚悟を、つまり、己の死をもってすれば、変革は叶えらるとして生き、そして死んだ。 もはや、時代は己の藩の、武士の精神の存亡ではなく、自国の日本の存亡がかかっていた幕末。...

  • 思う壺。幕末とニヒリズム、雑感

    思う壺。幕末とニヒリズム、雑感 最近幕末物を読んでいる。雑感を若干記しておく。 どんな時代であろうと、ニヒリズムの形は様々だが、その黒い太陽は人間の数だけ自分の知らない内奥にさらに深い影を宿しているものなのかもしれない。おのれのニヒリズムをそれなりに自覚することができるか、まったく自覚せずに、ニヒリズムの形通りに、呑込まれて生きていくのか、時代を問わずつねに問われている。まさに現代においても...

  • 因果と縁起

    因果と縁起 なんとも痛ましい現実が西欧で生じている。一方的にどちらが肯でどちらが否であることは、現時点で判断を下すことはできないだろう。地球上のある一点で生じたことが巡り巡って地球の反対側で無数の影響を受けることが、もう起こりうることがまざまざと見せつけられてきた2か月ではないだろうか。 もう対岸の火事だから、のほほんと眺めてはいられない、そういう事態が日本にも直面した、ということなのだ。 国防費...

  • 読書感想 『レンマ学』中沢新一 華厳学の現代的可能性

    読書感想 『レンマ学』中沢新一 華厳学の現代的可能性 大乗仏教のひとつの頂点をなす華厳経はますます現代的意義の重要性を増しつつある。量子論などは華厳経との関係がつとに知られている。仏教的知造詣に深い中沢氏は様々な学問的領域を探索して、ロゴス的知性に対するレンマ的知性を見出した。数学、心理学、言語学、神経生理学、粘菌学(南方熊楠と華厳経つまりニューロンに依らない知性としてレンマ的な在り方をする粘...

  • 読書感想 『翔ぶが如く』(一)~(十) 司馬遼太郎

    読書感想 『翔ぶが如く』(一)~(十) 司馬遼太郎 文庫本で全10巻はさすがに長い。それでも10冊読んだ感じがしなかったのは重複記述が結構あるためか、冗長さは否めないけれども、西郷隆盛の最期と時代背景がどのようなものだったかを十分に伺い知ることはできる。 西南戦争は1877年勃発というから今から144年前の国内最大のそして最後の内乱だが、近代へと突き進む明治維新政府(大久保利通・川路利良)と...

  • 思う壺。理念と現実

    思う壺。 理念と現実。理想と現実がいまほど乖離して、いたるところに引き攣れを見、歪なねじれを現象させている、そういう瞬間を世界は目の当りにしている。 新型コロナ禍がまさに通常見えなかった、隠された現実をあらわに暴きだしたといってもいいだろう。これからさらに隠されていたものが暴かれたり、みずから暴露される日も遠くないかもしれない。理想なんて、甘ちょろいが、でも現実が理念を堂々と声高に威圧し、無に、お...

  • 思う壺。

    仏教界がオリンピックについて何か声明を発表しているのか?仏教界はどう捉えているのか、わからない。生命に関することだから、言わなけれならないはずだ。オリンピックは博打であることはもうまごうことなき事実であることが露呈された。なぜ仏教界は言わない。きれいごとはやめていただきたい。仏教界は総じて生命を危機にさらすことを平然と認めたと言われても仕方ない。もう仏教界に可能性もなければ、なんの提言もできない脆...

  • 読書感想『仏教とエクリチュール 大乗経典の起源と形成』 下田正弘 仏教とは何か、そしてどこへいくのか? 起源と未来を問う。

    読書感想『仏教とエクリチュール 大乗経典の起源と形成』 下田正弘 仏教とは何か、そしてどこへいくのか? 起源と未来を問う。 以前に本ブログで、大乗仏教の経典は、かくも膨大であり、かくも様々な宗派が存在するのか、疑問を呈したことがある。今回手に取った本書のなかに、謎が氷解するヒントの一端があるのでは、と読んでみた。 タイトル中にある「エクリチュール」とは、フランスの哲学者ジャック・デリダ(1930...

  • 読書感想+ほとんど思う壺 『真宗とは何か』 鈴木大拙 佐藤平顕明 訳 「無限の光」とは?

    読書感想+ほとんど思う壺 『真宗とは何か』 鈴木大拙 佐藤平顕明 訳 「無限の光」とは? 本書は鈴木大拙博士が真宗、特に他力や阿弥陀、妙好人について英文の諸論文を佐藤氏が邦訳したもの。本書の最後に未完の英訳『教行信証』の序文も添えられている。主に英米の仏教徒入門者に対しての真宗のイントロダクションという目的で講演されたものだろう。 真宗のものを読むたびに、アミターバ、アミターユス、無量光...

  • 読書感想 『増補 仏典を読む 死からはじまる仏教史』 末木文美士

    読書感想 『増補 仏典を読む 死からはじまる仏教史』 末木文美士 日本人なら、あるいは仏教徒なら誰もが一度は思ったことがあるのではないだろうか? なぜ仏教の宗派が日本にこんなに多いのだろうか? 仏教はインドの仏陀、ゴーマダ・シッダルダその一人の男が仏教の着想を得たが、滅後スリランカや中国に渡り、そして日本に伝来して以来、周知のように平安、鎌倉時代に百花繚乱たる仏教諸宗派があまたの祖師たちによっ...

  • 読書感想 『華厳の研究』 鈴木大拙 翻訳 杉平顗智

    読書感想 『華厳の研究』 鈴木大拙 翻訳 杉平顗智 たまたま本屋で見つけたので、これは是非ということで、すぐに手に取って読んでみた。本ブログでもたびたび華厳経の法界などの概念に触れてきたこともあり、こうした大拙博士の英文での論文が一冊になって日の目をみたことは一読者として望外の喜びである。 難解をもって鳴るだけあって、真宗、禅宗ほど一般には普及しなかった華厳経ではあるけれど、もっとも寺...

  • PC壊れて、読書中・・・

    PC壊れて、読書中・・・ 10年間使っていたHP社製のPCがついに壊れた。DELL社製のデスクトップが昨日来て、セットアップに結構頭を使って疲れ気味。やっと本ブログをアップしましたが、いろいろと世の中あります、また改めて・・・ 最近司馬遼太郎の歴史小説を読んでいる。土佐藩の坂本竜馬『竜馬がゆく』、長州藩の大村益次郎『花神』、肥前藩の江藤新平『歳月』を読了し、その間に暗殺ものを描いた『幕末』を読み、流れとし...

  • 『歳月』司馬遼太郎 幕末の時代を想う

    『歳月』司馬遼太郎 幕末の時代を想う 江藤新平を描いた小説。『龍馬がゆく』を読んだ後、龍馬死後の時代がこの小説で了解できる。幕末の変革の時代がいかに歪で無理があったかが如実に示されている。江藤新平という人物が佐賀に出現し、ほとんど貧窮の極みに甘んじていた足軽以下の身分から今でいう法務大臣の地位まで昇りつめながら、最期は佐賀の乱の咎で大久保利通によって陥れられ、晒し首となる羽目に至った悲惨な姿に、お...

  • 木大拙博士生誕150年を向かえて・・・ 『鈴木大拙の人と学問』(鈴木大拙選集 新装版別巻 春秋社)から

    鈴木大拙博士生誕150年を向かえて・・・ 『鈴木大拙の人と学問』(鈴木大拙選集 新装版別巻 春秋社)から 今鈴木大拙博士の生誕150年記念ということで、ほんのすこしばかり、拙ブログも思いを馳せてみたい。 この『鈴木大拙の人と学問』という本は1975年初版、大拙は1966年没だからおそらく6年後、当時の著名人たちの大拙へのオマージュ集である。執筆陣は下村寅太郎、務台理作、R・H・ブライス、山屋...

  • 思う壺。『龍馬がゆく』 続き

    思う壺。『龍馬がゆく』 続き 江戸末期にその生涯を賭して、まったく新たな価値観を創造し、そして大政奉還という歴史的転換を成し遂げて、時代を駆け抜けた風雲児坂本龍馬。江戸幕府の体制を破壊したが、また新しい日本人という国の礎を創った。 江戸幕府はもはや外圧・内圧に耐えうるような脆弱な体制にすぎないことを、いち早く見抜いていた勝海舟や大久保一翁の意見を聞き入れた龍馬は、西欧諸外国の政治体制や思想や知...

  • 思う壺。『龍馬がゆく』七巻 龍馬の生きた時代といまを思う。

    思う壺。『龍馬がゆく』七巻 龍馬の生きた時代といまを思う。 『龍馬がゆく』も七巻目に入ってきた。時代のうねりがすごい。音を立てて時代が動いている。龍馬の意図が次第に自分の方に向かって動いていく。もはや時代の趨勢は龍馬の鋭い「直観」の内へと舵を切って進んでいく。西郷隆盛、高杉晋作、桂小五郎、中岡慎太郎、後藤象二郎、その周りを支える、陸奥(陽之助)宗光、岩崎弥太郎、五代才助、お慶、おりょう・・・・キ...

  • 思う壺。 思う壺。今という、ときの徒然に・・・

    思う壺。今という、ときの徒然に・・・ 日本の顔が一新されて、また未来へと一歩を踏み出して感慨深い、ということもないのだが、あいかわらず時間についてあれこれ、考えている。『ベルクソン『物質と記憶』を解剖する』(書肆引水)をざっと読んだ。欧米や日本のベルクソン研究者、専門家が知覚や時間について所論が収められている。二三面白い論文があった。詳細は割愛させていただくが、現代にとっても、ベルクソンの時間...

  • 読書感想 『新実存主義』マルクス・ガブリエル 廣瀬 覚訳

    読書感想 『新実存主義』マルクス・ガブリエル 廣瀬 覚訳 仏教的縁起論への可能性を想う 本書は、現代ドイツの若き哲学者、今や人気急上昇中の著者が四人のコメンテーターに答えるという形になっている。 序論 「穏健な自然主義と、還元論への人間主義的抵抗」(ジョスラン・マクリュール) 第1章 「新実存主義―――自然主義の失敗のあとで人間の心をどう考えるか」(マルクス・ガブリエル これが海外で出版された原...

  • 読書感想 『ブッダが考えたこと プロセスとしての自己と世界』 リチャード・ゴンブリッチ ブッダが考えた以上のこと、とは?

    読書感想 『ブッダが考えたこと プロセスとしての自己と世界』 リチャード・ゴンブリッチ ブッダが考えた以上のこと、とは? 原文のタイトルは「What the Buddha Thought」であって副題の「プロセスとしての自己と世界」はない。訳者の浅野孝雄氏(編集者か?)が付したものだろう。ゴンブリッチは1970年当時イギリスのサンスクリット語文献学の碩学。本書はもう十数年以上前に本国でレクチャー、出版されたもの。...

  • 『時間観念の歴史 コレージュ・ド・フランス講義 1902-1903年度』アンリ・ベルクソン 時間を考えるなら必読の一冊

    『時間観念の歴史 コレージュ・ド・フランス講義 1902-1903年度』アンリ・ベルクソン 時間を考えるなら必読の一冊 西洋哲学における時間の観念の歴史を、あくまでベルクソン自身の時間の哲学の輪郭を描くために講義された速記録である。したがって本書は、いわゆる時間論の一般概論書というより、ベルクソンの哲学をさらに読みやすくするための、いわば入門書と言っていい。 これを読めば時間論が、およそ理解できなく...

  • 読書感想+思う壺。『時間論』九鬼周造 時間は意志に属す、とは?

    読書感想+思う壺。『時間論』九鬼周造 時間は意志に属す、とは? 1916年岩波文庫から小浜善信編で出版。 九鬼周造と言えば『「いき」の構造』で知られるが、時間についてもなかなか興味深い知見が披歴されている。 なぜ時間論なのかというと、九鬼は留学時(1920年代)に、ドイツやフランスに滞在し、ハイデガー、フッサール、ベルクソン、サルトルらと出会っているからなのだろう。彼ら、当時の筋金入りの錚々たる...

  • 『蓮如』(三) 本願寺衰退の巻 丹羽文雄 覚如・存覚親子の義絶と葛藤

    『蓮如』(三) 本願寺衰退の巻 丹羽文雄 覚如・存覚親子の義絶と葛藤 この巻では親鸞の曽孫に当たる宗主3代目、覚如とその息子存覚の間に横たわる親鸞解釈と宗教観の違いから生まれた確執、その果ての親子の義絶が専ら描かれる。とはいえ当時(1300年代前半)の歴史の叙述が半ばを占める。 親子の義絶といえば、親鸞が息子に言い渡した善鸞への義絶が著名だが、これは善鸞と親鸞の宗教観の違いから由来し、親鸞が...

  • 思う壺。 こうして善と悪は二元論的図式の罠に嵌ってゆく

    思う壺。 こうして善と悪は二元論的図式の罠に嵌ってゆく 検察庁と現政権を巡る問題 検察庁検事総長の定年延長問題を巡ってなにやら世間で喧しいが、どうも腑に落ちない点がいくつかある。2,3日前から調べただけで、抗議している芸能人たちのようにおそらく何年も前から検察庁法とか、国家公務員法とか丹念に研究しているわけではないので、間違っていたらごめんなさい。 検事総長は、東京地検検事長が次期総...

  • 読書感想 『「私」は脳ではない 21世紀のための精神の哲学』 マルクス・ガブリエル著

    読書感想 『「私」は脳ではない 21世紀のための精神の哲学』 マルクス・ガブリエル著 マルクス・ガブリエルの前著『なぜ世界は存在しないのか』を読んで、なかなか面白かったので、今回本書を取り上げた。哲学界では長きにわたって精神と物質や心と身体という二元論がテーマとして取沙汰されてきた。 今どんな議論がなされているのか、フッサールやメルロ=ポンティなどの現象学をほんの少しばかり齧って以来なので、その...

  • 『いのちと時間 世俗的時間から霊性的時間へ』 最終回

    『いのちと時間 世俗的時間から霊性的時間へ』 最終回 おわりに 時間的には直線的時間性と円環的時間性、あるいは世俗的時間性と霊性的時間性。世俗諦的時間と勝義諦的時間。それらもまた、矛盾しあうような関係にありながら、即非的な関係にあるだろう。 あらゆる諸物はめぐり来る。すべては流転する。縁起によって再び同じ姿を現すこともあるだろうし、もう二度と現われることはないかもしれないが、しかしこの世にある...

  • 第三節 いのちと空無性

    第三節 いのちと空無性 たとえば。死んだ人間が生きている人間に語るというオカルティックな状況を真に受ける人間がいるならば、映画や小説でない限り、そこには、おそらく死者の存在や死後世界の存在が実体論的なものとして想定されていることは容易に想像されるだろう。そうした状況はいくらでも仮設可能であろうし、そうした仮設(けせつ)は、虚仮であるにもかかわらず実体論的なものとして、無明であるが故に無批判的に措...

  • 第七章 いのちと時間 第一節 世俗的時間性と霊性的時間性の対比

    第七章 いのちと時間 第一節 世俗的時間性と霊性的時間性の対比 以上縷々述べてきた二者の時間性をおおまか対比してみよう。<世俗的時間性> <霊性的時間性>抽象性 具体性相対性 絶対性点の連続性 非連続的連続直線的線分 ...

  • 第八節 諸物は鏡に映った姿、無限大円環構造の空性

     第八節 諸物は鏡に映った姿、無限大円環構造の空性 鏡の比喩はしかし、物が消え去ってしまえば、映った物も消え去ってしまう。そうした一方性があるけれども、実際に起こっていることは、鏡に映った物が消えれば、物が消えるということだ。つまり物は鏡でもあるからだ。でなければ、縁起的法界は意味を成さない。鏡の比喩は、一方にコップの実物、他方にコップの鏡像という分離した二つのコップがあるように見えるが、実...

  • 第七節 大拙の即非と「空=差異=差異の関係=依存」の円環

      第七節 大拙の即非と「空=差異=差異の関係=依存」の円環 今という現在が全ての過去と未来に接しあっており、それが現在に顕現しているという状態を理解し、また認識することなど凡夫にとって到底叶わないだろう。われわれが、SFのような荒唐無稽と思える、こうした時間観念を理不尽、あるいは常軌を逸した妄想としか捉えることができないのは、直線的で有限な時間に繋縛された無明という洞窟から出る術を持ってい...

  • 第六節 縁起的世界の言語的モデル

      第六節 縁起的世界の言語的モデル 次に言語について考察してみる。 分かりやすくアルファベットを例に取ると、「A」は「B・C・D・E・・・・・Z」を包摂している。つまり「A」は「B・C・D・E・・・・・Z」のなかに空となって残っている。「A」はまったくの無ではなく、「B・C・D・E・・・・・Z」から完全に離れたところにあるわけでもなく、かといって「B・C・D・E・・・・・Z」と同じように在るとうわけでもな...

  • 第五節 縁起的世界の時間モデル

      第五節 縁起的世界の時間モデル これを概念的に図式化すれば次のように表せるだろう。 縁起の時間モデル(図示不可のため割愛) 過去・現在・未来は相互に支え合った鼎の関係にあり、三つ巴の関係であり、有力・無力の作用(用)の関係にある。これが「相入」の関係。(鎌田茂雄氏は『無限の世界観<華厳>』で鼎の喩えが述べられている。P.148)現在a・過去a・未来aは互いを支えあいながら、刹那滅として現成・空無化...

  • 第四節 華厳的時間の回互性と「かたちなきいのち」

    第四節 華厳的時間の回互性と「かたちなきいのち」 われわれが生きている、この世俗的世界の真実つまり、世俗諦とは物の現象や、対象、表象、概念、観念といったいわゆる意識のプロセスが具体的な所与として捉えられる、そうした臆見・ドクサから成り立っている。仏教でいう色つまり、物の形、大小、長短、軽重、金銭的価値、美的価値から無形象の意思や思惟、感性その他知覚、認識、さらに言語に至るまで、阿頼耶識のなかで生ま...

  • 第三節 直線的時間性と霊性的時間性の違い、時間性の根拠としての空

     第三節 直線的時間性と霊性的時間性の違い、時間性の根拠としての空 さらに詳しく有限的時間性と無限的時間性、あるいは直線的時間性と霊性的時間性の違いを述べて見ることにしよう。 先に述べた法界縁起の世界における諸差異とは、「ずれ」であるが、大拙が言う中心と脱中心の差異である。この差異は空間的な差異とも言えるが、時間的な差異とも言える。誤解を恐れずに言えば、空間と時間がまだ未分化な状態である。意...

  • 第二節 「空―差異―関係―依存」の四つの位相

      第二節 「空―差異―関係―依存」の四つの位相 無明にある現成の世界、表面上こそ喧しい世界でありながら、実は真逆のまったくの静的な世界、つまり無意識に生命の抑圧や毀損を許す世界に対して、昨今ほどわれわれに異議申し立てすることが迫られている時代はないのではないか? 無明の有限なる世界と法界の無限なる世界という対立は見せかけのものにすぎない。(有限と無限の一体性は清沢満之の論参照)。さらに時間論...

  • 第六章 因果する時間から縁生する時間へ 第一節 縁起的時間性と直線的時間性は対立しない

      第六章 因果する時間から縁生する時間へ 第一節 縁起的時間性と直線的時間性は対立しない 縁起的な円環的時間が見出されるのは、まさにその点である。1 縁起的な円環的時間性と直線的時間性は矛盾対立するのではない。なぜなら、本来は無始無終である円環的時間が本来的な、つまり勝義諦であるが、それは直線的な世俗諦的時間よりつねに「事後的にしか」見出されないからだ。世俗諦にあっては、見出されない以上、...

  • 第十三節 縁起的関係性と時間、アビダルマにおける時間

      第十三節 縁起的関係性と時間、アビダルマにおける時間 関係性の網の目における差異はこのように縁起的に世界・宇宙の果てにまで及んでいる。世界・宇宙で関係していないものは何もなく、この差異の網の目から逃れるものは何一つありはしない。一塵のなかに宇宙があるとは、まさにそのことを意味している。 『華厳五教章』のなかの「解釈門」、8にある「十世隔法異成門」にこうある。「従って十世隔法異成門とは、...

  • 第十二節 縁起の関係と諸差異の無自性的構造

    第十二節 縁起の関係と諸差異の無自性的構造 では具体的な例をあげて説明しよう。 今、机の上にガラスのコップがあるとしよう。机の上に置かれたガラスのコップを上記の「中心」としてみる。私の手がコップをつかもうとしたところ、滑らせて床に落としたとする。果たしてガラスコップは割れてガラスの破片と化した。これが脱中心(再中心化と言ってももいいが)である。諸縁起の連関によって維持されていたコップは、今また縁...

  • 第十一節 仏教と西欧哲学―――相違点と類似点

      第十一節 仏教と西欧哲学―――相違点と類似点 ドゥルーズ=ニーチェのいう差異は結局、量と質の差異に還元されるほかないが、ドゥルーズ=ニーチェは力、力能にも関係させている。いわゆる力への意志である。「<力>の意志は相互の差異によってのみ成り立つ示差的な境位であって、そこからある一つの複合体において対峙し合う諸力が派生し、またそれら諸力のそれぞれの質が派生してくるのである。」1 差異とは力の...

  • 神保町~北鎌倉ぶらり旅 ふるほんやの古本屋散策と東慶寺・円覚寺巡り

    神保町~北鎌倉ぶらり旅 ふるほんやの古本屋散策と東慶寺・円覚寺巡り 東京へ行く機会が、たまたま出来た。一日目は神保町の、ふるほんやの古本巡り。7、8年前に一度来たことがあった。そのときも何冊か買った。神保町の古書店界隈はそのときとあまり変わっていないようだ。そのとき休みで店内を見ることが叶わなかった仏教書の品揃えが充実している東陽堂さんに伺えた。さすが、なんというか圧巻。聞いたこともない大部の古...

  • 第十節 肯定の哲学―――ドゥルーズ=ニーチェ

     第十節 肯定の哲学―――ドゥルーズ=ニーチェ さて、この差異は、肯定から生み出されると言ったが、このことをもう少し詳しく述べる。 ここでフランスの現代哲学者故ジル・ドゥルーズの『ニーチェと哲学』という著書に触れてみよう(かつてポストモダンの第一人者であったドゥルーズを仏教哲学に類する論考のなかで引き合いに出すのはいささか奇異の観を抱かれるかもしれないが、あえて申し述べたい。それは後に述べるよ...

  • 『生死の覚悟』 高村薫 南直哉 信と懐疑をめぐって

    『生死の覚悟』 高村薫 南直哉 信と懐疑をめぐって もともと拙ブログは、幼いころから信仰に不信感を抱いていた人間だったので、中年に差しかかかった頃挫折して救いを求めるために、貪るように仏教書に手をだした一人だ。立ち直った今になって思えば、仏教に救いを求めるなど、笑止に過ぎず、自分の計らいなど、微々たるもので、縁をもった人たちに救われたから、自分の無力に気づかされた。人、在っての己れでしかない...

  • 第九節 「差異―諸差異の関係―依存性―空」の相互連関

     第九節 「差異―諸差異の関係―依存性―空」の相互連関 関係をもつことは差異をもつことであり、差異をもつことは関係をもつことである。実体をもつことなく、空となり続ける(空が空でなくなったり、別のものになるのではなく<無や実体>、空が自らを空化し続けること、空が無や実体化を拒否する方法は空が自らを空化し続けること以外にはない)ことである。この無自性によって他性(他なるもの)への依存が起こる(依他...

  • 第七節 無限大円環的時間性と絶対的現在(その2)

     第七節 無限大円環的時間性と絶対的現在(その2) ところで絶対的現在は無とも言い換えられる。しかしこの無は相対的な無ではなしに、有無を超越した無、すなわち空性であることは言うまでもない。だから空性ではあっても、何も作用がないというのではなく、むしろ、空性とは無限大円環的時間にほかならず、したがって、空性である無限大円環的時間とは仏性なのである。それは宇宙を包摂している。宇宙を動かしている、...

  • 第七節 無限大円環的時間性と絶対的現在(その1)

     第七節 無限大円環的時間性と絶対的現在(その1) 禅からすれば、過去現在未来は不可得である。それを凡夫のように可得底として見ることはない。しかしなおかつ禅は不可得を凡夫とは違うやり方で可得しようとする。 「不可得を可得にしないと時がわからぬ。生死がわからぬ。人生がわからぬ。ここでも亦般若の論理に徹しなければならぬことになる。霊性的直覚にどうして到達するか。」1 大拙は『碧巌録』の第八十則...

  • 第五節 三世心不可得1と直線的時間性あるいは時間の忘却

    第五節 三世心不可得1と直線的時間性あるいは時間の忘却未来はいまだ来たっていないので捉えることはできず、過去は過ぎ去ってしまったものだからまた捉えることはできない。現在もその境にあって捉えることはできない。大拙は心と時間は同じ問題だという。ここで言う心とはもちろん分別知によって分かたれた主観と客観の主観ではないことは明らかである。時間と存在が道元において同じであるように、また時間は主体の中に流れる...

  • 読書感想 『坂の上の雲』 司馬遼太郎 日露戦争とは何だったのか?

    読書感想 『坂の上の雲』 司馬遼太郎 日露戦争とは何だったのか? まず昨日の台風19号による災害で亡くなられた方に哀悼の意を表し、怪我をされた方、家屋に被害を受けた方、避難を余儀なくされた方にお見舞いを申し上げます。 文春文庫から新装版として出版された 『坂の上の雲』(1)~(8) 8冊をほぼ3か月かけて読了した。日露戦争というものがどういう戦争であったのか、およそ了解できる歴史小説である...

  • 第三節 即非について――「金剛経の禅」における即非の論理形式

      第三節 即非について――「金剛経の禅」における即非の論理形式 では、こうした世界(法界)のうちで生み出される差異とは何であろうか? 中心はもはや中心であって中心ではないという、この中心化と脱中心化は、実は即非の論理に依拠している。そこで、『日本的霊性』の「第五篇 金剛経の禅」について触れてみなければならない。 その前に「金剛経の禅」について付記しておく。この第五篇はもともと初版にはあっ...

  • 第二節 中心化/脱中心化する無限大円環構造

    第二節 中心化/脱中心化する無限大円環構造 先に少し触れた中心と円環について、まず述べてみよう。円はたった一つの中心しかもたない。それが円の定義である。しかしそれでは、自己中心的な閉じた世界、つまり独我論的世界(ソリプティズム)しか開示することはないだろう。なぜ世界が開けており、他者が存在するのか、という可能性が閉されてしまう。しかし大拙は、こうしたアポリアを乗り越えるために、円を一つの中心ではな...

  • 読書感想 『仏教入門 私の考える仏教』南直哉

    読書感想 『仏教入門 私の考える仏教』南直哉 南直哉老師による仏教入門書である。だから「仏教というものを初めて知りたくなって、じゃあ、ちょっと読んでみようかという」ような、どこにでもある入門書と思って読むと、おそらく十中八九酷い目にあう。「著しく個人的見解に着色され、偏向極まりない視点から書かれた入門書である。」(P.5)そう、いきなり宣言してしまっているからだ、それが表題に如実に表れている。...

  • 第五章 霊性的時間性―――無限大円環的時間性あるいは法界縁起的時間性の構造 第一節 大拙の無限大円環とは何か

     第五章 霊性的時間性―――無限大円環的時間性あるいは法界縁起的時間性の構造 第一節 大拙の無限大円環とは何か では、これから時間における有限性と無限性(無際限性とは異なる)の関係について述べてみよう。 先に有限的時間性の諸性質について述べた。等質性、無際限性(=無限分割性)、不可逆行性(過去現在未来の直線性)、計量可能性(数値化と計算可能性)、物理量としての時間、世界時間(時間世界)、時空...

  • 第三節 直線的時間と円環的時間

      第三節 直線的時間と円環的時間 そして最後に時間の流れ。過去から現在そして未来へと流れる時間の様態。即ち直線的な時間の流れである。あるいは「時間の矢」とも言われる。既述したように不可逆的な時間の流れと、この過去現在未来という直線的な時間の構造は一体である。有限性とその有限性が無際限に続くと考えられる時間が対立するのは、こうした時間という流れ、移ろい、連続性に果てがない無際限の時間と、われ...

  • 第二節 時間の無際限性と人間の有限性

    第二節 時間の無際限性と人間の有限性 ところで、一方では、時間とは人間にとって果てしのない時間の流れとして捉えられると同時にそうした無際限な流れの中で、ある限られた時間を、たとえば100年弱の時間を生きうる有限な生命的存在としての人間に固有な時間と考えることもできる。時間が始まりも終わりもない無限ならば、個としての人間の生命の時間はある始まりとある終わりをもつ有限である。生命とは有限の時間を生きる...

  • 『空の哲学』矢島羊吉 空の形而上学と空観

    『空の哲学』矢島羊吉 空の形而上学と空観 哲学的観点から空の本質を鋭く剔出している。そもそも空そのものが、仏教思想の核をなす大変重要な概念であるし、かといって誰でもすんなり理解しおおせるようなものでもない。雲をつかむようなおよそ凡人には近づきえない対象だから、話はやはり専門的になってしまう。龍樹の『中頌』のテキストを丹念に読み解くことで、矢島氏は空思想の中心に迫る。ではあるがあくまで「哲学的に」...

  • 第九節 ドゥルーズとニーチェ

    第九節 ドゥルーズとニーチェ ここで矛先を変えて、ニーチェの思想の核心を捉えたフランスの哲学者である故ジル・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』に触れてみよう。追って論じることになるが、ここでは仏教の無明と現代のニヒリズムについて、西洋と東洋の思考の接近、交差のようなものを若干紹介してみたい。もちろん筆者は仏教哲学の研究者でもなければ、西洋哲学の研究者でもない、仏教徒の端くれにすぎないけれども、ニーチ...

  • 第八節 ニヒリズムと空

    ...

  • 第七節 「生」のまったき肯定

    第七節 「生」のまったき肯定 「仏性」とは生のまったき肯定(「生命」の単なる肯定=否定ではない)であるならば、生の否定的ニヒリズムから救い出さなければならない。しかしながら無明から離れて覚醒や悟りがあるわけではない。無明そのものの中にしか覚醒や悟りというものはありえないのだ。だから無明から超越することが問題ではなく、もともといた場所へと引き戻すことが重要なのだ。盤珪は悩む衆生を不生という場...

  • 第六節 無明による生の否定と空による生の肯定

    第六節 無明による生の否定と空による生の肯定 では、ここに指摘された現代の時間性において何が問題になるのだろう? とりわけ、世俗的時間性と対比される宗教的時間性、あるいは仏教的時間性、あるいは霊性的時間性と呼ばれうる時間性とはいかなる時間性でなければならないのだろうか? 既述したように直線的時間性の特性である一元的な価値、抽象性、等質性、人工ダイアモンドのようにそれ自体傷つかず、その輝きで...

  • 第五節 ニヒリズムと時間論

     第五節 ニヒリズムと時間論 そもそも時間論というテーマは仏教の経論等であまり表て立って論じられてこなかったと言われる。どちらかというと、サブストリームとしてしか見られなかったし、西洋哲学のように時間意識というものが東洋(インド・中国・日本)では希薄だったということはあるだろう。確かに時間そのものが論じられなかったのはそれなりの理由がある。禅宗にしろ浄土宗にしろ仏教思想全般、仏教哲学のみ...

  • 第四節 仏教の「無明」と救い

      第四節 仏教の「無明」と救い 私の生命は私の所有物でない以上「いのち」からの借り物である。いつかは返さなくてならない。「いのち」とは経済的な生産―消費というシステムに還元されはしない何かである。いのちを自分の都合で棄却したり、毀損したりする権利は誰にもない。倫理や法律、道徳規範によって生命の尊厳や尊重を声高に主張しても、それらの観念性や抽象性がわれわれ「生命」のうちに具体性をもって切実に鳴...

  • 第三節 「生命」と「いのち」

      第三節 「生命」と「いのち」 悟りを得た多くの仏教祖師らが、古来より経典のほか数多の経論によって追い求めてきたのは、有限の人間のもつ無明や煩悩のくびきからいかに人間を解き放つかという、その一事ではなかったか? 中就、人間の生の終わりや、無明の終わり、煩悩の果てにやっと見出されるような真理などではなく、また死んでから極楽で安楽を見出す方便でもなく、すでに無明や煩悩のうちにしか見出されえな...

  • 第13回 「いのちと時間 世俗的時間性から霊性的時間性へ」 第二節 ニヒリズムの根底にある無明と「空」の視点

      第13回 「いのちと時間 世俗的時間性から霊性的時間性へ」 第二節 ニヒリズムの根底にある無明と「空」の視点 たしかに人間の生のこのような貪り(貪)、怒り(瞋)、愚かさ(癡)という三毒、執着、煩悩、あるいは三界はニヒリズムの諸形態であり、無明がその根源になっているかのようである。1 人間の有限性とは無際限の時間のある限定された時間であるが、どういう時間に私という実存が初めと終わりをもつ時...

  • 第12回 「いのちと時間 世俗的時間性から霊性的時間性へ」 第三章 無明によるニヒリズムとその克服 第一節 盤珪の不生禅

     第12回 「いのちと時間 世俗的時間性から霊性的時間性へ」 第三章 無明によるニヒリズムとその克服 第一節 盤珪の不生禅 ニヒリズムや無明について論究すれば、一冊の本になりかねないので、ここでは深入りする余裕はないが最低限触れておこう。われわれの生が有限であり、時間に規定され、それゆえに「生」、言い換えれば「いのち」そのものがニヒリズムという形をとって現われ、また無明がニヒリズムの根底にある...

  • 第11回 「いのちと時間 世俗的時間性から霊性的時間性へ」 第二章 世俗的時間の一般的モデルとしての直線的時間性 第五節 鈴木大拙『時の流れ』から見えるもの

     第11回 「いのちと時間 世俗的時間性から霊性的時間性へ」 第二章 世俗的時間の一般的モデルとしての直線的時間性 第五節 鈴木大拙『時の流れ』から見えるもの これまで述べてきた「直線的時間性」を構造的に見た場合、先で述べる「無限大円環的時間性」と対比し、また仏教的観点からすると、この直線的時間性を「世俗的な時間性」と呼ぶなら、この世俗的時間を批判的に捉え、あるまったく別の時間に向かう...

  • 第9回 「いのちと時間 世俗的時間性から霊性的時間性へ」 第二章 世俗的時間の一般的モデルとしての直線的時間性 第三節 時間の抽象性

      第9回 「いのちと時間 世俗的時間性から霊性的時間性へ」 第二章 世俗的時間の一般的モデルとしての直線的時間性 第三節 時間の抽象性 以上瞥見したように、時間はまずもって抽象的性質をもつ。地域性や歴史性を空間と時間の座標にし、すべてを点に還元する。その点を繋げてひとつの連続的な流れにする。われわれの生、生活を含んだ社会、否、世界全体を包括し、統一する便宜上の決まりごと、尺度としての、...

  • 第8回 「いのちと時間 世俗的時間性から霊性的時間性へ」 第二節 世俗的時間の諸特性

     第8回 「いのちと時間 世俗的時間性から霊性的時間性へ」 第二節 世俗的時間の諸特性 ここでは一般的な世俗的時間、ごく普通にわれわれが意識している時間の特性について述べる。それには少しばかり時間の歴史について触れてみる必要がある。人間の意識にいかに時間意識が形成されてきたかを見るのは興味深いが、ここでは時間をテーマとする専門的な研究ではないため、必要最小限に説明するにとどめる。そこで...

  • 読書感想+思う壺。 『講義ライブ だから仏教は面白い!』魚川祐司

    読書感想+思う壺。 『講義ライブ だから仏教は面白い!』魚川祐司 『仏教思想のゼロポイント』を読んだ時も、なるほどと膝を打つ議論が多々あったが、『ゼロポイント』を仏教入門者向けに噛み砕いた本講義録で、ひょっとしてこういうことなのかなと、あらためて思ったところを記してみたい。 輪廻というのは、主体や我の存在を前提とする。この主体なり我が前世や来世という物語を作る。だがその物語は主体や我の恣意にす...

  • 第六回 「いのちと時間 世俗的時間性から霊性的時間性へ」第六節 大地――親鸞――いのちの三位一体

    第六節 大地――親鸞――いのちの三位一体 「鎌倉時代に至るまで日本的霊性はまだ自覚の境地を得なかった・・・」1のである。大拙が円環的時間性の霊性的直覚を見出すとき、われわれは直線的時間性の諸特性(後述)を批判しはするが、だからといって全面否定して拒否するというのではない。「霊性的直覚はこれ(直線的時間性の諸特性――筆者)を破壊するものではなくて、これを深めるもの、高めるもの、基礎づけるもの、事実化するも...

  • 第五回「いのちと時間 世俗的時間性から霊性的時間性へ」第五節 直線的時間とは? 無限大円環的時間とは?

      第五節 直線的時間とは? 無限大円環的時間とは? 大拙が時間性について論を進めるのは、「9 霊性的直覚の時間性」1からである。 冒頭神道の時間論批判から始まるのだが、その批判の的は直線的時間である。「そこで『神道』家者流の宇宙生成論であるが、それは直線的時間的で、生成の真義に称わぬところがある。直線的時間性で歴史的記憶を解釈しようとすると、その中からは現在と未来が出て来ないのである。過去...

  • 第4回 「いのちと時間 世俗的時間性から霊性的時間性へ」 第四節 個己と超個己の人(にん)

      第四節 個己と超個己の人(にん) 「『念仏のまこと』――『親鸞一人』超個己の人――日本的霊性――これはいずれも大地の真実性・絶対性・孤往独行性・具体的究極性と相呼応するところの直覚である。」1 だがそうした大地の霊性を構成するアスペクトはさらに説明を要するように思われる。そしてここにもまだ時間性が取沙汰されていない。時間性を述べるにはまだ若干の説明を費やさねばならない。 大地は、上述のごとく、...

  • 『悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門』プラユキ・ナラテボー×魚川祐司

    読書感想『悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門』プラユキ・ナラテボー×魚川祐司 2年前の出版、お二人の対談だから、マインドフルネスの話が中心になる。「瞑想難民」なる言葉があるらしく、瞑想に取り組みながらも、瞑想しているつもりが途中で「迷走」してしまって、ドロップアウトする人が出るとのこと。過度に集中するのもよくないようで、適度に散漫になってもいい瞑想法が紹介されている。...

  • 思う壺。 第3回 「いのちと時間 世俗的時間性から霊性的時間性へ」 第三節 親鸞と大地――情緒的仏教から理念的仏教へ

      第三節 親鸞と大地――情緒的仏教から理念的仏教へ 大地との具体的で直接的な営みをもっていたのは他ならない無学文盲の武士と農民たちであったことは記述のとおりだが、彼らの大地に根ざした生活の営みの基盤であった大地こそまさに霊性の揺籃であった。彼らだけでは、しかし霊性の顕現はなかった。ここに現れるのは浄土宗と親鸞である。法然上人・親鸞聖人という平安末期、鎌倉初期に現れた宗教的天才が出なければ霊性の...

  • 思う壺。論考連載開始 第2回 「いのちと時間 世俗的時間性から霊性的時間性へ」

      第二節 霊性の揺籃としての大地 時間性を論じる前に、大拙のいう霊性の中心概念としての「大地」をまず検証してみよう。「大地」が霊性にとっていかに深く関与しているか、またさらに大地と霊性と時間がいかに関係しているかがおよそ了解されるだろう。 平安時代の文化的な特徴は「もののあはれ」という言葉に表れているように、感性的なものの称揚があり、大宮人の優美閑雅、女性的繊細、感傷的等々であるとさ...

  • 思う壺。論考連載開始 第1回 「いのちと時間 世俗的時間性から霊性的時間性へ」

    思う壺。論考連載開始 第1回 「いのちと時間 世俗的時間性から霊性的時間性へ」 今回から約40数回にわたって、上記のタイトルで論考を連載させて頂きます。ご興味あれば、ちらっと覗いて下さい。1週間に1度アップしますが、時々読書感想も入れますので、向こう1年以上かかるかもしれませんが、よろしくお願いいたします。 第一章 『日本的霊性』における時間性の問題 第一節 大拙の時間論の背景 鈴木大拙...

  • 読書感想+思う壺。 道元『正法眼蔵』「有時」の巻を読む。

    読書感想+思う壺。 道元『正法眼蔵』「有時」の巻を読む。 有時・経歴・現成について。 新年初めてアップできました。今年もよろしくお願いします。 久しぶりに道元の『正法眼蔵』を手にした。年が変わり、五月には年号も変わるというわけで、時間について一考するのも、時宜にかなっているかなと。やはり「有時」の巻の思想性、哲学性は他を抜きんでているのではないかと改めて思った次第。 この有時の巻を理解す...

  • 読書感想 『ブッダたちの仏教』並川孝儀 地味だが真っ当な論

    読書感想 『ブッダたちの仏教』並川孝儀 地味だが真っ当な論 歴史的なひとりのブッダが、つまりある過去の時間空間に実在したであろうゴータマ・ブッダが複数形で表現される、ということは、いったいいかなることを意味するのだろう? おそらく、ひとりの人間が言いえること以上のことを語ったということであり、逆に他のブッダ(覚者)が必要になるほどさらに語らねばならないある欠落をもっていたということなのだろ...

  • 読書感想 『なぜ今、仏教なのか 瞑想・マインドフルネス・悟りの科学』ロバート・ライト 2018年7月

    読書感想 『なぜ今、仏教なのか 瞑想・マインドフルネス・悟りの科学』ロバート・ライト 2018年7月 『時の流れ』(青空文庫)鈴木大拙 1974年8月 SFとミステリーの早川書房が、仏教書・・・? と、ふと思ったが、読んでいるうちに、腑に落ちた。本書はいわゆる科学的読み物に類するもので、学術的な専門書でも、堅い苦しい仏教書でもない。語り口が軽妙で、進化心理学やロバート・ライトの豊富な科学的な知見と...

  • 読書感想+思う壺。 『感じて、ゆるす仏教』 藤田一照×魚川祐司 対談盤珪の不生禅と大拙の無分別の智

    読書感想+思う壺。 盤珪の不生禅と大拙の無分別の智 『感じて、ゆるす仏教』 藤田一照×魚川祐司 対談 両者の著書には何度かブログでも触れた。今回両者の対談ということで忌憚のない議論が交わされおり、興味深く読めた。本書の半分くらい一照氏の精神史というか、経歴が詳しく披歴されている。出家したからには何としても悟りへ達しなければならないといった、本書で盛んに言われている「ガンバリズム」つまり「命令し、...

  • 読書感想 蓮如(四) 丹羽文雄 十九歳の法話のカリスマ性

    読書感想 蓮如(四) 丹羽文雄 十九歳の法話のカリスマ性 ようやく読了。蓮如生誕から十九歳で信者の前で父(存如)の代わりに初の法話を行うまでのストーリー。大半が当時の歴史の叙述だが、まあほとんど詳細を理解できないから、読み飛ばしても問題ない。この巻の見るべきところは、蓮如が真宗の思想的バックボーンとした、著者不明の『安心決定鈔』をどうして選んだのかというくだりと、一休との出遭いの直前を描い...

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、おもうつぼさんをフォローしませんか?

ハンドル名
おもうつぼさん
ブログタイトル
ふるほんや
フォロー
ふるほんや

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用