在原行平は、光源氏のモデルの一人とされる平安時代前期の公卿。文徳天皇のときに須磨に蟄居を余儀なくされました。月見の松(須磨離宮公園)行平は、しばしば裏山で月見…
光る君へ~紫式部が暮らした平安京・源氏物語の舞台となった平安宮~
「鳴くよウグイス平安京」794年(延暦13)年、桓武天皇は都を平安京に遷します。羅城門平安京の南の玄関口は羅城門。東寺西寺跡羅城門の東西には王城鎮護の東寺と西…
上賀茂神社の末社・岩本神社は住吉三神を祀る社。紫式部の『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人とされる在原業平が合祀されているらしい。上賀茂神社
ほととぎす声まつほどは片岡の森のしづくに立ちやぬれましこの歌は、紫式部が上賀茂神社を参拝した際に賀茂別雷大神の母・玉依比売命を祀る片岡社で詠んだとされる。詠ま…
紫式部の夫藤原宣孝の署名がある「大宰府符」~石清水八幡宮文書~
「石清水八幡宮文書」の中の「大宰府符」は、紫式部の夫・藤原宣孝の自筆署名のある文書。石清水八幡宮石清水八幡宮は、京都の裏鬼門を守護する神社。979年(天元2年…
若宮大路幕府跡『吾妻鏡』によると・・・1254年(建長6年)12月18日、御所(若宮大路幕府)で『光源氏物語』の講義を源親行が行っている。『光源氏物語』は、紫…
「厭離穢土欣求浄土」は、穢れた世界を厭い離れ、清浄な仏の国土に生まれることを願い求める思想。この語を貴族や庶民にまでも普及させたのが恵心僧都源信の『往生要集』…
東照大権現供養塔徳川家康に仕えた天海の廟所・慈眼堂には、徳川家康の供養塔と紫式部の供養塔が建てられています。2024年(令和6年)の大河ドラマは紫式部。紫…
天海は、南禅寺の塔頭金地院の崇伝ととも徳川家康に仕え、黒衣の宰相と呼ばれた天台宗の僧。1590年(天正18年)、家康が関東に入ると、徳川氏発祥の地とされる上野…
徳川家康の墓1616年(元和2年)4月17日、駿府城で死去した徳川家康は久能山に葬られますが・・・翌年2月21日、朝廷から東照大権現の神号と正一位の位階の追贈…
久能山神廟1616年(元和2年)4月17日、駿府城で死去した家康は、久能山に葬られました。その神廟(墓)は西を向いているのだといいます。西にあるのは・・・鳳来…
熱海の糸川沿いに咲く「あたみ桜」の例年の見ごろは1月中旬から2月中旬。2024年は1月6日(土)から「糸川桜まつり」が始まります(2月4日(日)まで)。☆ ☆…
横浜の三溪園にある旧東慶寺の仏殿は、1634年(寛永11年)、徳川二代将軍秀忠の娘・千姫の寄進と伝えられています(国重文)。1907年(明治40年)に東慶寺か…
豊臣秀頼の首塚1615年(慶長20年)の大坂の陣で淀殿らと自害した豊臣秀頼。1980年(昭和55年)、大坂城の三の丸の跡地から秀頼の首と思われる頭蓋骨が発…
時雨亭京都の高台寺にある時雨亭は、伏見城から移築された茶室。高台院(北政所・寧々)は、時雨亭の二階から燃え落ちる大坂城の天守を見つめていたのだといいます。高台…
大津市は『源氏物語』誕生の地。紫式部が『源氏物語』を書き始めたという石山寺では、2024年1月29日(月)から「源氏物語 恋するもののあはれ展」が開催されます…
1008年(寛弘5年)10月16日、一条天皇が土御門邸に行幸する当日、藤原道長は新造の二艘の竜頭鷁首(りょうとうげきす)の舟を池辺に漕ぎ寄せて検分。この年の9…
1008年(寛弘5年)11月1日、藤原道長の土御門邸では、一条天皇の第二皇子・敦成親王(のちの後一条天皇)の「五十日の祝い」が行われた。禁色の着用を許された少…
1008年(寛弘5年)11月1日、藤原道長の土御門邸では、一条天皇の第二皇子・敦成親王(のちの後一条天皇)の「五十日の祝い」が行われた。道長の酔態ぶりを見た紫…
幼い頃から漢学の知識があった紫式部。一条天皇からもその学識を評価され、藤原彰子に白居易の新楽府(漢詩)を講義している。紫きぶ七橋は、紫式部が暮らした越前武生を…
1008年(寛弘5年)7月16日、一条天皇の中宮・藤原彰子は、お産のため土御門邸に里下がり。彰子に仕えていた紫式部は渡殿の東側の戸口近くに部屋を与えられていた…
久々にめぐり会ったと思ったのに・・・見たのがあなたかどうかも分からない間に帰ってしまった。7月10日初秋紫式部は、地方から帰京していた幼い頃からの友に偶然に出…
「ふるさとに 帰る山路の それならば 心やゆくと ゆきも見てまし」父・藤原為時に同行して越前武生に下向した紫式部が「早く都へ戻りたい」という思いから詠んだ歌。…
鹿蒜神社(かひるじんじゃ)は福井県の南越前町今庄にある社。996年(長徳2年)、越前国司となった父の藤原為時とともに越前国府(武生)へ向かう紫式部が参拝したと…
静岡県駿東郡清水町を流れる柿田川は、富士山の雨や雪解け水が三島溶岩流にしみ込み、その先端から湧き出している地下水を源泉としている川。現在は柿田川公園として整備…
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在原行平は、光源氏のモデルの一人とされる平安時代前期の公卿。文徳天皇のときに須磨に蟄居を余儀なくされました。月見の松(須磨離宮公園)行平は、しばしば裏山で月見…
紫式部の『源氏物語』は、「須磨の巻」から書き始められたともいわれます。須磨は、光源氏のモデルともいわれる在原行平ゆかりの地。 源氏物語石像光源氏は、政敵…
銭洗弁財天の霊水で洗い清めたお金は「有意義なことに使うこと」。使う事で福が巡ってきます。☆ ☆ ☆ ☆ ☆まずは「線香とろうそく」を購入し、ざるをお借りします…
園城寺三井寺は、天台寺門宗の総本山。正式名称は長等山園城寺。天智天皇・天武天皇・持統天皇の誕生の際に産湯に用いられた霊泉があることから三井寺と呼ばれています。…
1008年(寛弘5年)9月15日、敦成親王(後一条天皇)の御産養(祝宴)で紫式部は、祝賀の歌を詠みました。めづらしき光さしそふさかづきはもちながらこそちよもめ…
今日は満月。1018年(寛仁2年)10月16日、藤原道長は四女の威子が後一条天皇の中宮(皇后)になると・・・この世をばわが世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと…
(問)時宗の開祖一遍の鎌倉入りを阻止したのは、だれの警護をしていた武士か。『一遍上人絵伝』1282年(弘安5年)3月1日、巨福呂坂から鎌倉に入ろうとした一遍は…
大山寺毎年、11月8日から12月8日まで開催されている大山寺のもみじ祭では、本尊の鉄造不動明王が開帳されています。鉄造不動明王像は、大山寺を再興した願行が…
大河ドラマ「光る君へ」で双寿丸が仕えているのは平為賢は高望王流桓武平氏。高望王流桓武平氏は、高望王(平高望)が上総介として東国に下向したことに始まります。為賢…
熱海の糸川沿いに咲く「あたみ桜」の例年の見ごろは1月中旬から2月中旬。2025年は1月11日(土)から「糸川桜まつり」が始まります(2月9日(日)まで)。桜ま…
運慶は、鎌倉幕府と関係が深い仏師。北条時政の願成就院の造仏、和田義盛の浄楽寺の造仏で知られています。源頼朝の永福寺の造仏にも関わったと考えられ、北条義時の大倉…
東京国立博物館では、2025年1月21日(火)から開創1150年記念 特別展「旧嵯峨御所 大覚寺 -百花繚乱 御所ゆかりの絵画-」が開催されます。その会場には…
「タンコロまつり2024」は11月30日(土)の開催。10:00~15:00開催場所は、極楽寺駅前広場と極楽寺検車区入場無料。「タンコロ」(100形108号)…
紫式部は光源氏を主人公とする『源氏物語』の続編「宇治十帖」を1010年(寛弘7年)頃から書き始めたとも言われます。ただ、「宇治十帖」が書かれた時期は不明で、紫…
1012年(寛弘9年)正月、藤原道長の三男顕信が、突然、出家してしまいました。5月に比叡山で受戒が行われますが、道長も参列します。ただ、道長は下馬せず騎馬のま…
1012年(寛弘9年)、藤原道長は三条天皇に入内していた次女の妍子を中宮としましす。一方、道長と不和だった三条天皇は、妍子より先に入内して第一皇子の敦明親王を…
大河ドラマ「光る君へ」では、双寿丸という男が紫式部の娘・賢子と恋仲になるような気配ですが・・・双寿丸は平為賢の従者で、賢子を盗人から救ったことで、屋敷に出入り…
枇杷殿跡(京都御苑)枇杷殿は、藤原道長の次女・藤原妍子の里邸として整備された御殿。一条天皇の里内裏・一条院が焼失した際には、 一条天皇が中宮・藤原彰子らととも…
『源氏物語』で光源氏と藤壺の不義の子として登場する冷泉帝は、光源氏を「太上天皇になずらふ御位」としました。「太上天皇になずらふ御位」とは、太上天皇(上皇)に准…
円覚寺舎利殿円覚寺の塔頭正続院の昭堂・舎利殿は、鎌倉で唯一の国宝建造物。鎌倉幕府三代将軍の源実朝が宋から請来したという仏牙舎利が祀られています。現在の舎利殿は…
996年(長徳2年)、越前へ下向するため塩津山(深坂峠)を越えて行く紫式部。そのときに詠んだのが・・・「知りぬらむ 行き来にならす 塩津山 世にふる道は から…
伝通院は、1602年(慶長7年)、伏見城で死去した徳川家康の生母・於大の方が葬られた寺。家康は増上寺に葬りたかったようですが、増上寺十二世の源誉存応(慈昌・観…
塩津神社は、琵琶湖の北岸の塩津浜に鎮座する社。創建年は不明だが、『延喜式神名帳』に所載されている「鹽津神社」と推定されている古社。996年(長徳2年)、父・藤…
996年(長徳2年)、紫式部は越前守となった父藤原為時に同行して越前国武生へ下向します。都を発った一行は逢坂の関を越えて大津へ。大津の打出浜から船出して湖西を…
堀河院(堀河殿)は、藤原氏の邸宅。伝説によると・・・左大臣・藤原顕光の次女で三条天皇の第一皇子・敦明親王の妃となった藤原延子は、敦明親王とともに堀河殿に住んで…
光源氏の異母兄・朱雀帝は、光源氏の子・冷泉帝に譲位した後、朧月夜と朱雀院で暮らしていましたが・・・光源氏の六条院への行幸後、病に伏してしまいます。そして、西山…
1008年(寛弘5年)9月9日、すでに盛りを過ぎていた紫式部に「老いをぬぐい去る」という「菊の着せ綿」が藤原道長の北の方(源倫子)から贈られました。紫式部感激…
打毬(だきゅう)は、平安時代に端午の節会の際に行われた宮中行事で、乗馬した競技者が左右に分かれ、毬を毬門(ゴール)に入れる競技。822年(弘仁13年)正月、渤…
琵琶湖の西岸に鎮座する白鬚神社は近江国最古の大社。湖中大鳥居社前の湖中には、シンボルの大鳥居が浮かび、「近江の厳島」とも呼ばれています。紫式部歌碑境内には、父…
光源氏の父・桐壺帝は、高麗人をはじめとする様々な相人に光源氏の相を見せています。東鴻臚館址鴻臚館は外交および海外交易の施設で高麗人が滞在。光源氏の相も鴻臚館の…
琵琶湖の西岸、大津市堅田に鎮座する伊豆神社は、892年(寛平4年)、比叡山の尊意が三嶋大明神を勧請して創建したと伝えられる社。社名は、鎮座する堅田の地が伊…
陽明門日光東照宮の陽明門は、平安京の大内裏(平安宮)外郭十二門の一つの陽明門の名をもらったのだといいます。日光東照宮は徳川家康を祀るために建てられましたが…
吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)は、水を司る天之水分大神(あめのみくまりのおおかみ)を主祭神とする神社。清少納言が『枕草子』の中で素晴らしい神の一つに挙…
閑院は、平安初期の藤原冬嗣の邸宅が始まり。平安後期には、高倉天皇が里内裏として使用し、子の後鳥羽天皇は閑院で皇位を承継しています。 西福寺は、閑院跡に建…
承香殿は、皇后・中宮・女御などが居住した平安宮内裏の殿舎の一つ。弘徽殿についで格式の高い殿舎とされ・・・円融天皇女御・尊子内親王一条天皇女御・藤原元子などが賜…
弘徽殿は、皇后・中宮・女御などが居住した平安宮内裏の殿舎の一つ。円融天皇中宮・藤原遵子花山天皇女御・藤原忯子一条天皇女御・藤原義子後朱雀天皇皇后・禎子内親王な…
昭陽舎(しょうようしゃ)は、平安宮内裏の後宮七殿五舎の一つ。清少納言の父・清原元輔は、ここで『後撰和歌集』の編纂を行っています。1219年(承久元年)7月13…
一本御書所(いっぽんごしょどころ)は、書写した書籍を保管したところ。1159年(平治元年)の平治の乱では、藤原信頼と結んだ源義朝が後白河上皇の三条殿を襲撃。上…
清凉寺にある源融の墓。清凉寺は、源融の別荘・栖霞観があった場所。源融(みなもとのとおる)は、嵯峨天皇の十二男。最高官職は左大臣。紫式部の『源氏物語』の主人公光…
広隆寺は、聖徳太子から下賜された弥勒仏を本尊として創建されたという京都最古の寺。弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしゅいぞう)は、国宝彫刻第1号。清少納言…