かみさんが亡くなってから。俺は毎日、泣いていた(と言うより“哭いていた”)。あまりにも強烈で激しい悲嘆に、俺の心が耐えられなかったのだ。そんな日々が、2年から2年半ほど続いたと記憶している。それを過ぎた頃、ようやく俺は、毎日泣くことがなくなった。ときおり
たった一人の家族、最愛の妻を癌で喪った。独り遺された男やもめが、暗闇の中でもがき続ける日々の日記。
誰もが何かに酔っ払っている。何かに依存しなければ、人間は生きてはいけない。こんな言葉をどこかで聞いたことがある。どこで聞いたんだろうか。もはや覚えてはいない。でも、俺には、この言葉の意味が理解できる気がしている。何かに酔っ払う。何かに依存する。そうでなけ
昨日の記事にも書いたとおり、俺は今、仕事に追い詰められている。肉体は疲労しきっている。精神的なプレッシャーも半端じゃなくて、ロクに眠ることができない。この辛くて苦しい状態から逃げ出したい…と強く思った。出勤する前、俺はリビングの床に座り込んだ。そして、強
仕事でクソみたいに忙しい。毎日のように、俺のあずかり知らぬところで大きな問題が発生する。俺はすっかり疲れ切ってしまった。ひとつの「山」を越えたと思ったら、次の「山」が見えてきて、それを越えなければならない。同時に複数の「山」に襲われることもあって、肉体的
現在5月27日の午前7時35分。朝からドンヨリと曇っている。明日は警報級の豪雨になるそうだ。肝機能障害のせいだけではない。気圧が低いためでもあるのだろう。めちゃくちゃ身体がダルいのだ。それに強い鬱まで加わっている。会社を休みたくて仕方がない。強い酒を飲みたくて
もしも一つだけ願いが叶うとしたら。いったい俺は何を願うんだろうか。もしも「誰か」がどんなムチャな望みでも聴いてくれるとしたら。いったい俺は何を望むんだろうか。数年前ならば…俺は「かみさんを生き返らせて欲しい…」と願ったに違いない。すべてを失ってもいい。何
きっかけは様々だ。突然、想い出が頭に浮かぶ。かみさんと俺が、一緒に暮らしていた頃の想い出だ。いったん浮かんでしまうと、自分の意思とは無関係に、次から次へと想い出が頭の中をよぎっていく。想い出の中、かみさんは楽しそうに笑っている。そして、俺も幸せそうに笑っ
俺の部下の中には70歳を過ぎた人が4人いる。いずれも定年退職後に再雇用された、非常勤の嘱託社員だ。みんな俺よりも15歳以上も年上で、俺にとっては「人生の先輩」だ。彼らや彼女らは、とても生き生きとしている。彼らや彼女らは、高齢になっても人生を謳歌している。
生きていれば、さまざまな心配事がある。生きていれば、いろんな苦難に襲われる。かみさんが元気だった頃だって、たくさん苦しい思いをしてきたはずだ。だが、かみさんがいたから耐えられた。かみさんが俺の苦しみに耳を傾けてくれた。かみさんが俺に寄り添ってくれた。それ
かみさんの闘病中のこと。俺たち夫婦は、たくさん語り合った。二人が出会ってからの約20年間の想い出。かみさんの病気が治って普通の暮らしを取り戻してからの、将来の夢。かみさんと俺との老後。その他、さまざまなことを語り合った。一緒に暮らした20年の中で、最も濃
月に1回、髪を切る。かみさんが元気だった頃は、かみさんと一緒に美容院に行っていた(というより、かみさんに無理やり連れていかれていた)。だが、かみさんが癌だと診断されて以来、俺は自宅の近所にある床屋で散髪を済ませるようになった。その床屋は、ご夫婦二人で経営
現在5月20日の月曜日、午前7時25分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。昨晩のこと。また真夜中に目が覚めた。目覚めた瞬間、俺はとても深い「鬱(うつ)」の中にいた。いつもであれば、真夜中に目覚めると、時計を見て時間を確認するのだが、どうしても
俺はいつだって、かみさんを探している。もちろん、亡くなったかみさんが、どこかにいるはずはない。だが、もしも亡くなった人の「魂」が生きているのだとしたら、俺にもかみさんの気配を感じることができるんじゃないだろうか。だから俺は、かみさんを探している。いつだっ
かみさんが亡くなってしまった。俺は世界でいちばん大切なモノを失ってしまった。いちばん大切なモノを失ったあと。俺は人生に絶望した。俺の中のエネルギーは枯れ果ててしまった。俺は身動きすらできなくなってしまった。ずっと蹲っていることしかできなかった。蹲っている
うちの会社の中で、俺は「悪い見本」らしい。言い換えれば、伴侶を亡くした者は、早々に立ち直るべきなのに、それができなかった奴…と見られているらしい。かみさんを喪ったショックで精神を病み(死別反応、適応障害、睡眠障害など)、会社を休職してしまったからだ。かみ
俺はいつでも緊張している。心身ともにリラックスできるのは、眠っている間だけだ。だが、夜中に何度も目を覚ます。これも心の深層が緊張しているからかもしれない。管理職っていうのは、そういうものだよ…と言ったのは、俺より年上の課長(男性)だった。管理職になると、
昨晩のこと。寝ている間に夢を見た。俺が世界から「排除」される夢だった。俺を排除した人々に見覚えはない。だが、その人々は世界全体を象徴しているような気がした。俺は悲しかった。しかし、抵抗しようとは思わなかった。自分が排除されることを受け入れていたのだ。俺は
先日、俺はブログの中で、“ひとりぼっち”は怖いけど、“ひとりぼっち”になりたい…と書いた。かみさんが亡くなって、俺は“ひとりぼっち”になってしまった。確かに“ひとりぼっち”は怖い。寂しくて、惨めで、退屈で、やるせないのだ。だが、“ひとりぼっち”になりたい
俺はとても疲れていた。強い不安感もあった。こういう時は、早く眠ってしまうほうが良い。俺は睡眠薬(レンドルミン)を飲んで、寝床に就いた。まだ夜の9時だった。しばらくして目が覚めた。時計を見ると、真夜中の12時だった。俺を目覚めさせたのは、激しい不安感だ。こ
以前このブログの中で、「若年伴侶死別者」という言葉を使ったことがある。この言葉は俺の造語ではない。信州大学の准教授が作った学術用語であり、「60歳未満で伴侶と死別した人々」を指している。この定義に従えば、俺は若年伴侶死別者だ。また、このブログの読者の方々の
かみさんが亡くなってから。俺はずっと死にたかった。つい過去形になってしまったが、今だって死にたいし、これからもずっと死にたいだろう。生きているのが面倒で、虚しくて、イヤになったのだ。生きていても淋しいし、つまらないのだ。かみさんのところに逝けば、きっと「
現在5月10日の金曜日、午前7時26分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。かみさんが元気だった頃。金曜日は本当に楽しかった。深夜まで残業する日も少なくなかったが、定時で帰れる日もあって、そんな時はかみさんと待ち合わせをし、二人で食事をしたり、
かみさんが入院していた時期のこと。かみさんは俺に言っていた。これからもずっと一緒にいてね…この時かみさんは、自分の病は完治すると信じていた。一方で、俺は医師から「(かみさんの)余命は年単位ではない」と告げられていた。だが、「これからもずっと一緒にいてね…
かみさんが亡くなった。かみさんは俺のたった一人の家族だった。ときおり二人で暮らしていた頃を想い出す。あの頃は幸せだったな…と想う。家族って良いな…と想う。かみさんは俺にとって、いちばん大切なモノだったんだ。家族は俺にとって、最も大切なモノだったんだ。両親
想像していたとおり、ゴールデンウィーク中の“ひとりぼっち”は辛かった。寂しくて、虚しくて、苦しくて、とても薄ら寒かった。早朝から酒を飲み、酔っぱらったら寝てしまい、目が覚めたら再び酒を飲み、眠くなったら寝てしまった。たくさんの時間を昼寝に費やしたせいか、
現在5月6日の午前6時26分。ゴールデンウィークの最終日、自宅のパソコンでブログの記事を書いている。かみさんが元気だった頃ならば、まだ俺たち夫婦は寝ていた時間帯だ。かみさんと俺は、毎朝7時に起床していた。俺が顔を洗ったり、朝食を摂ったりしている間、かみさんは「
かみさんの後を追う勇気なんかないくせに、ときおり考えてしまう。考えてしまうというより、自分の意思とは無関係に、ふとした瞬間、ある疑問が頭に浮かぶ。それは、「俺って、いったい何のために生きているんだろう?」という疑問だ。俺は自問自答する。答えはいつも決まっ
ゴールデンウィークも後半に入った。慣れたつもりでいたけれど、やっぱり”ひとりぼっち”は寂しい。簡単な家事をする以外にやるべきことはなく、やりたいことも何にもない。仕方がないので酒を飲む。おかげで飲酒の量が増えてしまった。5月3日の夜のこと。夜になって、朝か
朝目覚めると、そこにかみさんはいない。家の中にいるのは俺だけだ。動くものは何もなく、音を発するものも何もなく、温もりを感じるものも何もない。かみさんが死んだ…という現実を再認識し、俺は深く落ちていく。すべてが静止している。空気が凍りついてしまったかのよう
現在5月2日の午前7時12分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。明日からは4連休だ。“ひとりぼっち”のゴールデンウィークの後半が始まる。あれほど“ひとりぼっち”が恐ろしい…と言いながら、やはり仕事を休める解放感があることは否めない。だが、俺は
現在5月1日の午前7時12分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。世間の空気は、すっかり大型連休だ。朝から夫婦で散歩をしている人々。早朝なのに犬の散歩をしている人々。そもそも街中に人が少ない。電車やバスも空いている。この時期の空気は軽いのだ。か
現在4月30日の午前7時40分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。4月27日から29日までの3連休。俺は“ひとりぼっちに耐えられず、酒に溺れてしまった。飲みすぎたせいか、全身がダルくて仕方がない。眠くて眠くてどうしようもない。胃がもたれて食欲もない
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かみさんが亡くなってから。俺は毎日、泣いていた(と言うより“哭いていた”)。あまりにも強烈で激しい悲嘆に、俺の心が耐えられなかったのだ。そんな日々が、2年から2年半ほど続いたと記憶している。それを過ぎた頃、ようやく俺は、毎日泣くことがなくなった。ときおり
2010年4月28日のこと。癌研有明病院の医師は、俺にかみさんの余命を告げた。医師は悲痛な表情を浮かべながら「余命は年単位ではない」と言った。この言葉を聞いた瞬間、血の気が引いた。俺の全身の血液が、頭から足元に下がっていくのを感じた。気が遠くなった。全身が凍えて
かみさんが元気だったころ。あの20年間を振り返ってみれば、賑やかだったけど、わりと平凡に生きてきたのだと思う。劇的な「変化」があるわけではなかったが、俺たち夫婦は満足で、いつでも穏やかに生きてきたな…と思う。どこにでもいる普通の夫婦。だが、それで良かったの
現在6月26日の午前7時15分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。この記事がアップされるのは6月27日。かみさんが息を引き取った日だ。毎年かみさんの祥月命日には、必ず休暇を取っている。今年も休暇を取ることになるだろう。たぶん俺は、飲酒欲求を抑圧し
断酒を始めてから、そろそろ1か月が経つ。アセトアルデヒドによる覚醒作用もないし、強烈な倦怠感も影を潜めている。睡眠導入剤の効果もあって、寝つきは良いし、熟睡できてもいるようだ。だが、良いことばかりではない。目覚めてからの数時間、強い鬱(うつ)と全身の筋肉
テレビを点けていると、ときおり葬儀会社のCMを見かけることがある。CMからは、「さようならが温かい」だとか、「30%の割引中です!」という声が聞こえてきた。大抵の人々は「良いCMだなぁ…」なんて思っているのだろうか。しかし、そこに最愛の人を亡くした悲しみは
6月21日(土)のこと。午前11時から、かみさんの法要が始まる。俺と義弟はタクシーに乗り、午前10時半には菩提寺に到着した。お供え物と花束をご住職の奥様に渡したあと、俺と義弟は待合室で時間が来るのを待っていた。毎年のことではあるが、かみさんの法要の日は厳かな気持
運の悪いことに、俺は「親ガチャ」に外れてしまった。毒親の下に生まれてしまったため、虐待されて育つことになった。俺の過去には悪夢のような記憶が山積している。虐待されてきた幼少期の記憶は、身体の中心から末端にまで染みついた。そのトラウマが、俺の人生に暗い影を
土日や祭日。家族のいない俺は、完全な孤独だ。話しかける相手もいないし、話しかけてくれるはずのかみさんもいない。そんなとき、友人たちのことを思い出す。今頃みんな、どうしているんだろう…なんて考えてみたりする。Aくんは子どもを諦めたけど、奥さんと仲良く暮らし
現在7月20日の午前7時16分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。今日は定時で退社する。義弟(かみさんの弟たち)が上京してくれるからだ。そして21日には菩提寺に行く。例年通り、義弟と一緒にかみさんの墓参りに行くのだ。かみさんの祥月命日は6月27日だ
かみさんが亡くなったのは、6月27日のことだった。この記事がアップされる20日は、かみさんの祥月命日の1週間前になる。毎年、祥月命日の直前の土曜日には、かみさんの法要を行ってきた。今年も20日の金曜日、義弟が上京してくれて、21日の土曜日には、俺と一緒に菩提寺に行
かみさんが亡くなってから。俺は希死念慮に囚われた。世界でいちばん大切なモノを失ってしまったからだ。人生を共に歩んでいく伴侶を喪ったからだ。暖かい家庭を失ったからだ。未来に絶望してしまったからだ。そうだ。俺は消えてしまいたいのだ。だが、自死する度胸なんてあ
毎朝5時半くらいに目が覚める。だが、すぐに目を開けられるわけではない。光を見るのが疎ましい。身体を動かすのが億劫だ。なぜだか頭痛もしている。全身を不快な「何か」が満たしている。しかし、いつまでも目を閉じているわけにはいかない。苦痛を堪えて目を開き、俺は身
6月13日と14日。土曜日と日曜日で、仕事は休みだった。いずれの日も朝6時に目が覚めた。これまでであれば、目覚めた直後から酒を飲んでいた。カラッポの胃に流し込むウィスキーは、効果てきめんだった。すぐに酔いが回り、数時間後には意識を失った。しばらく眠った後、不快
平成22年の6月17日。かみさんが癌研有明病院に入院していたときのこと。かみさんが俺に言った。めぐりあえて良かった・・・・・・かみさんは、俺と出会えて良かったと言ってくれた。かみさんは、俺と一緒に暮らしてこられて良かったと言ってくれた。かみさんは、俺とともに人生
この記事をスマホで書いている現在。6月14日の午前4時19分である。自宅のバルコニーから空を見上げている。どうやら晴れているらしいのだが、薄暗くて判然としない。まだ「日の出」の前のようだ。空が暗いからだろうか。それとも疲労が溜まってきたからだろうか。あるいは脳
インドで旅客機が墜落したとのニュースが流れていた。離陸してから、わずか30秒後の墜落だったらしい。乗客は242人だった。昨晩そのニュースを見たときは、乗客全員が亡くなったのだろうな…と思った。しかし、翌朝のニュースでは、イギリス人の男性1人が生存していたとのこ
毎朝5時半くらいに目が覚める。かみさんの生前とは違い、スッキリ目覚めることはない。頭の中に霞が掛かっているかのようだ。全身の血液がドロドロになっているみたいだ。心が奈落に堕ちてしまったかのようだ。かみさんが亡くなって以来。目覚めた瞬間の爽快感がなくなった
俺はかみさんを喪った。たった一人の家族を喪った。自分の家庭を失った。そして…最愛の人を亡くしてしまった。祖父母とも死別した。実父とも死別した。叔父や叔母の中にも若くして亡くなった人がいる。同年代の友人も、何人か死んでしまった。だが、かみさん以外の人々との
かみさんが俺の隣にいない。周囲を見渡しても、かみさんの姿は見えない。かみさんは、どこに行ってしまったんだろう…俺はとても動揺した。だが、かみさんはどこかにいるはずだ。かみさんが生きていることを感じる。かみさんの息づかいと気配を感じる。すると俺は気がついた
とっくに諦めていたはずなのに…俺は心の底から思ったのだ。かみさんがいた頃に帰りたい。6月29日の午前3時前。真夜中に目覚めた直後のことだった。哀しかった。淋しかった。心細かった。だが、こればっかりは、どうしようもないのだ。誰かが手を差しのべてくれるわけではな
6月27日。かみさんの祥月命日だった。この日、俺は一日、自宅にいた。夕方から軽い不安感があり、俺はウィスキーを飲み始めた。グラスを傾けるスピードが、いつもより速かった。俺はすっかり泥酔してしまった。意識が朦朧とし、夜8時半には寝床に就いた。最初に目覚めたのは
会社から帰ってくると、いつでもかみさんが俺を出迎えてくれた。遅くまで残業し、午前0時を過ぎて帰宅しても、「先に寝てな」という俺の言葉をスルーして、かみさんは俺を待っていてくれた。かみさんはいつでも笑顔だった。いつでも家の中は明るくて、俺を包み込む「何か」に
6月27日。かみさんの祥月命日がやってきた。あれから、ずいぶん時間が経った。だが、俺には「ずいぶん時間が経った」という実感がない。1日という時間はとても長い。毎日を乗り切ることがとても苦しい。淋しくて、虚しい時間は、長く感じられるってことなんだろうか。それな
かみさんが癌だと診断されたとき。俺は主治医と二人きりになる機会があった。そして俺は、主治医に質問をした。かみさんは、どのくらい生きられますか?主治医の回答は残酷なものだった。余命は年単位ではありません…俺が期待した答えではなかった。俺は、奥さんは治ります
かみさんの祥月命日の法要が終わり、義母と2人の義弟は、北海道に帰っていった。法事という大きなイベントが終わり、少しは緊張もほぐれるだろうと思っていた。そうすれば、俺の交感神経の興奮も治まって、久しぶりに熟睡できるだろうと期待していた。だが、やはり眠れなか
かみさんが亡くなってからの数年間。俺はかみさんを探していた。かみさんの姿を求め、何もないはずの虚空に向かって腕を広げていた。かみさんの気配を探り、静まり返った空間の中で意識を研ぎ澄ませていた。だが…探したところで見つかるはずはない。確かに俺は、かみさんを
心と身体は区別できるんだろうか。精神と肉体とを別々に論ずることは正しいのだろうか。たしかに心理学のベースには「心身二元論」がある。身体とは別に、心という実体があるという前提に立たない限り、心を対象にした科学は生まれないはずなのだ。だが、心理学は科学ではな
かみさんが元気だったころ。俺にはたっぷり「自分の時間」があった。今より遥かに残業が多かったし、休日出勤も少なくなかったが、それでもたくさんの「自分の時間」があった。かみさんがいてくれたからだ。かみさんと一緒にいる時間。それは俺にとって「自分の時間」だった
この記事がアップされる6月21日の金曜日。俺が会社から帰宅すると、家の中には義母と2人の義弟がいるはずだ。3人は「おかえり~」と言って、俺を出迎えてくれるだろう。6月27日は、かみさんの祥月命日だ。この日の早朝7時前、かみさんは、俺と義母に看取られながら逝った。
かみさんが亡くなってから。俺は睡眠導入剤を飲まないと眠れなくなってしまった。ずいぶん長い間、薬に頼り、身体が慣れてしまったせいだろうか。それとも、ここ数ヶ月、精神的に追い詰められているせいだろうか。睡眠導入剤が、あまり効いていないようなのだ。寝付きは良い
6月17日の月曜日。いつものとおり、睡眠導入剤を飲んでから寝床に就いた。就寝時間は午後11時頃だった。それから何時間が経っただろうか。また夜中に目が覚めた。いつもの中途覚醒とは違い、決して不快な気分ではなかった。その直前まで、俺は夢を見ていたのだ。かみさんの夢
いつも夜中に目が覚めてしまう。その後は朝まで、ほとんど眠ることができない。さすがに疲労が溜まってきた。ダルくてダルくて仕方がない。どうにかして朝まで熟睡したい。ここ最近、ずっとそう思ってきた。16日の日曜日。夜の10時には眠気が襲ってきた。だが、俺は寝床に就
かみさんは神々しい笑顔で逝った。痛がることもなく、苦しむこともなく、眠るように穏やかに息を引き取った。最初に入院していた癌研有明病院であれば、あんなに穏やかには逝けなかっただろう。かみさんの転院を受け入れてくれた帯津三敬病院には本当に感謝している。転院は
まだまだ、やりたいことがたくさんあっただろう。見たいものだって、たくさんあったはずだ。聞きたいものだって、たくさんあったはずだ。食べたいものも、たくさんあったはずだ。行きたいところも、たくさんあったはずだ。死ぬということは、これらをすべて断念せざるを得な
現在6月14日の午前7時37分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。ここ2日ばかり、睡眠障害が悪化している。以前から悪化していたが、それ以上に悪化してしまったのだ。毎晩、睡眠導入剤を飲んでから寝床に入っている。だが、1時間半ほどで目が覚めてしま
かみさんが元気だった頃。俺たち夫婦は、自分たちの「死期」について、何度か語り合ったことがある。かみさんは、いつも言っていた。死ぬときは二人一緒がいいよね…二人で一緒に死ねたらいいね…俺は笑顔で応じた。そうだね…仲良く暮らしてきた二人。これからも仲良く暮ら
6月27日は、かみさんが俺を遺して逝った日だ。現在6月12日の午前7時24分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。21日には、義母と2人の義弟が北海道から上京してくれる。22日の土曜日には、俺と一緒にかみさんの墓参りをしてくれることになっている。かみさ
ふとした瞬間、かみさんを想い出す。かみさんの満面の笑顔。かみさんの明るく元気な声。かみさんの仕草。かみさんと交わした何気ない会話。想い出した瞬間、俺はほんのりと幸せな気持ちになれる。かみさんと散歩をしたこと。かみさんと旅行を楽しんだこと。かみさんと食事を
先日のブログに書いたとおり、ここ最近、ずっと熟睡できていない。夜中の2時とか3時半とかに目が覚めて、その後は朝まで眠れない日々が続いている。そのせいだろう。いわゆる「睡眠負債」が貯まっているらしい。週末の日曜日のこと。いつものとおり、午前3時に目が覚めた