かみさんと俺は、いつも語り合っていた。死ぬときは、二人一緒が良いよね…そうは言うものの、俺は多分、自分が先に死ぬだろう…と思っていた。女性のほうが、男性より平均寿命が長いからだ。だが…かみさんが癌になってしまった。とても進行の速い癌だった。かみさんは俺を
たった一人の家族、最愛の妻を癌で喪った。独り遺された男やもめが、暗闇の中でもがき続ける日々の日記。
夜中の3時すぎに目が覚めた。決して不快な気分ではなかった。あと2時間半くらいは眠れるなぁ…と思うと、むしろ心地好かった。温かい布団の中から顔を出し、俺はかみさんの写真を見た。壁に飾ってある写真だ。会社に行きたくないな…と思った。今日1日、かみさんと一緒に
家族のいない俺、“ひとりぼっち”の俺にとって、週末(土曜日や日曜日)はとても空虚で退屈だ。やるべきことは、ほとんどない。やりたいことは、まったくない。時間をもて余してしまうのだ。腹は減るが、何を食べたらいいのか分からない。仕方がないので何も食べずに過ごす
いつでも「それ」は、突然やってくる。何の前触れも予兆もないため、心の準備をすることもできやしない。朝目覚めた瞬間、「それ」が自分の中にあることに気づく。もちろん毎日ではない。週に2~3回程度だろう。自分の中に「それ」があると、目を開いて光を見ることがとて
かみさんが亡くなってしまった。たった一人の俺の家族が死んでしまった。俺は家庭を失った。俺はひとりぼっちになってしまった。あれ以来。楽しいことなんて何にもない。面白いことも何にもない。希望もなければ期待もない。どうせ未来は真っ黒だ。だが…俺が死にたい理由は
Sさんという女性がいる。俺と同じく課長だが、年齢は俺より7歳ほど年上だ。Sさんは、彼女の部下たちからの評判が悪い。また、俺の部下たちもSさんを小馬鹿にしている。さらに俺も、Sさんのことが好きではない。嫌いというより鬱陶しいのだ。管理職である以上、部下の前
かみさんが亡くなってから。それなりに時間が経った。時間が経つにつれ、さまざまなものが壊れていった。エアコンが壊れ、新しいものに買い換えた。カーテンが汚れてしまい、新しいものを取り付けた。自宅のパソコンも壊れてしまい、大切にしていたデータの一部が消えてしま
昨晩のこと。原因不明の強烈な不安感に襲われた。かみさんが亡くなって以来(正確に言えば、かみさんが癌だと診断されて以来)、ずっと付き合ってきた不安感だ。腹の底から沸き上がる不安感。俺には耐えられなかった。そこから自由になるためには、俺の意識を消滅させてしま
かみさんは、俺の妻であるだけではなかった。俺の母であり、俺の娘だった。俺の姉であり、俺の妹であり、俺のいちばんの親友だった。かみさんが亡くなった。夫婦二人で手を取り合って、全力で闘ったにもかかわらず、俺たち夫婦は癌という病に負けてしまった。俺はすべてを失
やる気が出ない。身体を動かす気力もない。時折そんな朝がある。かみさんの仏前に座る。線香をあげる。気力がなくて、仏壇の前から立ち上がれない。気力がないなら会社を休んでしまえばいい。だが、やることが沢山あって、休みたいときに休めない。分かってはいるのだが、そ
毎日が憂鬱でしかたがない。かみさんが元気だった頃、あれほどテンションの高かった俺(かみさんは俺よりもテンションが高かったけど)が、今では慢性的な抑鬱状態だ。生きていることが面倒くさくて、早く老人になりたいと願いつつ、日々を送っている。そんな俺にも安息が訪
かみさんの49日法要の日のことだった。読経の後、お坊さんがかみさんの闘病中の写真を見てくれた。明るい笑顔のかみさん、俺に向かってVサインをするかみさん。そんな写真ばかりだった。お坊さんは聞いた。入院中の写真ですか?俺は答えた。ええ。癌だと分かっていたのに、明
不安なことでいっぱいだ。心配事でいっぱいだ。緊張することでいっぱいだ。日々の暮らし。仕事のこと。そして、かみさんのいない“ひとりぼっち”の余生。たくさんの不安が、俺を生きづらくさせている。一日が終わり、眠りに就くまでの間、いつだって俺は、この世界を警戒し
幼少の頃、俺は両親から虐待されてきた。父親からは肉体的な暴力を、母親からは精神的な暴力を受けてきた。俺は大学入学とともに家出した。学費も生活費も何もかも、自分で稼いでいくハメになった。だが、親との絶縁は俺を救ってくれた。しかし、虐待の記憶は俺の中にトラウ
昨晩はあまり眠れなかった。睡眠導入剤が効かなかったようだ。ダルくてダルくて仕方がない。気力も無ければ食欲も無い。やらなきゃならないことが沢山あって、プレッシャーを感じているのだろう。眠れなかった日の翌朝は、気分が重くて沈みこんでいる。抗鬱剤を飲んではみた
かみさんが亡くなってから数年が経って、幸せだったはずの「過去」が遠のいていく。たった一つの宝物が失われていくようで、それはとても淋しいことだ。もはや「過去」を取り戻すことができないのなら、「未来」を見据えて生きればいい。だが、かみさんのいない「未来」を想
全身が痛む。身体がダルい。気分は沈みこんでいる。歩くのが辛い。立ち上がるのも億劫だ。座っていることさえ苦痛だ。俺の心身が「眠ること」を欲している。その欲求に従って、酒でも飲んで眠ってしまいたい。自分の意識を消滅させてしまえば楽になれるだろう。意識が無くな
本来、鬱(うつ)というものは、慢性的で、いつでも気分が塞ぎ込んでいる状態を指すんじゃないかと思う。眠っている間以外、いつでも気分が落ちている。それが典型的な鬱なんだろう。かみさんが亡くなって1か月後。俺は心療内科で「抑鬱状態(死別反応)」と診断されて、抗
安全な場所から「地獄」を覗き込んでいる奴らがいる。世界の「中心」に居座って、にやついた顔で「周縁」を眺めている奴らがいる。奴らの目は、好奇心でいっぱいだ。伴侶と死別するって、どんな感じなんだろう?絶望するって、どんな気持ちなんだろう?奴らの目は、優越感で
現在1月12日の午前7時23分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。今日は金曜日だ。週末の連休を前にして、世間の空気が軽い。週末を家族サービスのために使う人も多いのだろう。かみさんが元気だった頃。俺にとっても、そうだった。休日出勤も少なくなかっ
仕事が終わって退社する。俺はかみさんに「帰るコール」をする。今から帰るね!と言えば、かみさんは気をつけて帰っておいで!と言ってくれる。あるいは、今日の夕飯は○○だよ!と応えてくれる。仕事で疲れきった俺に、かみさんがエネルギーを注いでくれるのだ。自宅の最寄
毎朝5時半には目が覚める。熟睡できた感じはしない。寝床を出るのが辛い。もっと寝ていたいと思う。寝ている間に夢を見る。ろくでもない夢ばかりだが、しばらく経つと、夢の内容を忘れてしまう。起床してから約1時間半後に出勤だ。それまでの間、かみさんにお供えをして、
北海道には、かみさんの家族(俺の義母、義弟のAくん、義弟のBくん)が住んでいる。義母とBくんは、マンションで二人暮らしをしている。そこから歩いて5分ほどの場所に、Aくんが別のマンションで一人暮らしをしている。昨年の12月28日。仕事納めのあと、俺は飛行機で北
かみさんが元気だったころ。俺は怒りや哀しみのような「負の感情」をコントロールすることができたはずだ。かみさんと一緒なら、そもそも哀しいことなんて無かったし、怒りは適当に処理することができたのだ。だが、かみさんを亡くした瞬間、俺は変わってしまった。悲しいの
誰かが占めていた場所がある。その場所は、誰かの死とともに大きな欠落になってしまう。俺に言わせれば、欠落は欠落のままでいいんじゃないか…と思う。だが…その欠落は、時間の経過とともに埋められていく。誰かが意図して埋めたわけではない。ましてや悪意があって埋めて
かみさんが亡くなってから、「再婚すればいいんじゃない?」と言われたことが数回ある。どういうわけか、男性から言われたことは一度しかない。俺に対して「再婚すれば?」と言ったのは、女性ばかりだ。男性に比べ、女性の方が薄情だとか、俺の気持ちが分かってないなどと言
死別してから最初の数年間は、心にポッカリ穴が開いたような、半身を削ぎ落とされてしまったような感覚に囚われ続けていた。いわゆる「喪失感」というヤツだ。それから数年が経つと、喪失感は次第に影を潜めていく。そして代わりに「寂しさ」でいっぱいになってくる。念のた
神なんていないとは思うけど…もしも神がいるのなら、それはとても残忍で、冷酷なんだろう。それはとても嗜虐的で、猟奇的なんだろう。人が苦しみ、人が喘ぎ、人が哭いている。それを嗤いながら見物しているのが神だ。神と名乗る奴は、いつだって悪魔なんだ。・・・かみさん
神なんていないとは思うけど…もしも神がいるのなら、それはとても残忍で、冷酷なんだろう。それはとても嗜虐的で、猟奇的なんだろう。人が苦しみ、人が喘ぎ、人が哭いている。それを嗤いながら見物しているのが神だ。神と名乗る奴は、いつだって悪魔なんだ。・・・神は何も
楽しい時間が過ぎるのは速い…誰から教わったのかは忘れたが、幼少期には既に知っていた言葉だ。かみさんが元気だったころ。1日はあっという間に過ぎ去った。1週間が始まれば、早く週末が来ないかなぁ…と思ったが、すぐに金曜日の夜はやってきた。毎年の夏に海外旅行をす
俺は希死念慮を抱えている。心の底から「死にたい…」と思っている。こんなことを書くと、「死ぬ死ぬ詐欺」という訳の分からない言葉をわざわざ造ってくれる輩がいる。そこまでして他人を嘲笑うことに快感を覚えたい輩を見ていると、ご苦労なことだな…と感じて苦笑する。そ
2010年。かみさんが亡くなった年だ。この年の正月。例年通り、かみさんと俺は、北海道にあるかみさんの実家に遊びに来た。かみさんは元気だった。本当に元気で、楽しそうだった。癌になっているなんて、これっぽっちも感じることはできなかった。かみさんに誘われるまま、俺
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かみさんと俺は、いつも語り合っていた。死ぬときは、二人一緒が良いよね…そうは言うものの、俺は多分、自分が先に死ぬだろう…と思っていた。女性のほうが、男性より平均寿命が長いからだ。だが…かみさんが癌になってしまった。とても進行の速い癌だった。かみさんは俺を
かみさんが元気だった頃。毎年の夏休み、俺たち夫婦は海外を旅行した。会社からは5日間の夏季休暇が与えられる。7月から9月までの間のどこかの週で、月曜日から金曜日までを休みにすると、土日を入れて9連休になる。その9連休を海外でゆったり過ごすのだ。どこの国に行
物心がついたばかりの幼少期。俺の実家の近所に仲の良い夫婦(Kさん夫妻)がいた。俺は不思議だった。Kさん夫妻は、とても似ていたからだ。夫婦である以上、血はつながっていない。それなのに、何故こんなに似ているのだろうか。一方、俺の両親は似ても似つかない。似てい
かみさんと俺は、散歩が大好きだった。俺が休日出勤をしなくてよい土曜日。雨が降っていない土曜日。二人のどちらかの体調が悪くない土曜日。毎週土曜日のたび、俺たち夫婦は散歩ばかりしていた。6時間から7時間もブラブラ歩いていた。目的地も決めずにブラブラ歩いていた
かみさんが亡くなってから。俺は毎日、泣いていた(と言うより“哭いていた”)。あまりにも強烈で激しい悲嘆に、俺の心が耐えられなかったのだ。そんな日々が、2年から2年半ほど続いたと記憶している。それを過ぎた頃、ようやく俺は、毎日泣くことがなくなった。ときおり
2010年4月28日のこと。癌研有明病院の医師は、俺にかみさんの余命を告げた。医師は悲痛な表情を浮かべながら「余命は年単位ではない」と言った。この言葉を聞いた瞬間、血の気が引いた。俺の全身の血液が、頭から足元に下がっていくのを感じた。気が遠くなった。全身が凍えて
かみさんが元気だったころ。あの20年間を振り返ってみれば、賑やかだったけど、わりと平凡に生きてきたのだと思う。劇的な「変化」があるわけではなかったが、俺たち夫婦は満足で、いつでも穏やかに生きてきたな…と思う。どこにでもいる普通の夫婦。だが、それで良かったの
現在6月26日の午前7時15分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。この記事がアップされるのは6月27日。かみさんが息を引き取った日だ。毎年かみさんの祥月命日には、必ず休暇を取っている。今年も休暇を取ることになるだろう。たぶん俺は、飲酒欲求を抑圧し
断酒を始めてから、そろそろ1か月が経つ。アセトアルデヒドによる覚醒作用もないし、強烈な倦怠感も影を潜めている。睡眠導入剤の効果もあって、寝つきは良いし、熟睡できてもいるようだ。だが、良いことばかりではない。目覚めてからの数時間、強い鬱(うつ)と全身の筋肉
テレビを点けていると、ときおり葬儀会社のCMを見かけることがある。CMからは、「さようならが温かい」だとか、「30%の割引中です!」という声が聞こえてきた。大抵の人々は「良いCMだなぁ…」なんて思っているのだろうか。しかし、そこに最愛の人を亡くした悲しみは
6月21日(土)のこと。午前11時から、かみさんの法要が始まる。俺と義弟はタクシーに乗り、午前10時半には菩提寺に到着した。お供え物と花束をご住職の奥様に渡したあと、俺と義弟は待合室で時間が来るのを待っていた。毎年のことではあるが、かみさんの法要の日は厳かな気持
運の悪いことに、俺は「親ガチャ」に外れてしまった。毒親の下に生まれてしまったため、虐待されて育つことになった。俺の過去には悪夢のような記憶が山積している。虐待されてきた幼少期の記憶は、身体の中心から末端にまで染みついた。そのトラウマが、俺の人生に暗い影を
土日や祭日。家族のいない俺は、完全な孤独だ。話しかける相手もいないし、話しかけてくれるはずのかみさんもいない。そんなとき、友人たちのことを思い出す。今頃みんな、どうしているんだろう…なんて考えてみたりする。Aくんは子どもを諦めたけど、奥さんと仲良く暮らし
現在7月20日の午前7時16分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。今日は定時で退社する。義弟(かみさんの弟たち)が上京してくれるからだ。そして21日には菩提寺に行く。例年通り、義弟と一緒にかみさんの墓参りに行くのだ。かみさんの祥月命日は6月27日だ
かみさんが亡くなったのは、6月27日のことだった。この記事がアップされる20日は、かみさんの祥月命日の1週間前になる。毎年、祥月命日の直前の土曜日には、かみさんの法要を行ってきた。今年も20日の金曜日、義弟が上京してくれて、21日の土曜日には、俺と一緒に菩提寺に行
かみさんが亡くなってから。俺は希死念慮に囚われた。世界でいちばん大切なモノを失ってしまったからだ。人生を共に歩んでいく伴侶を喪ったからだ。暖かい家庭を失ったからだ。未来に絶望してしまったからだ。そうだ。俺は消えてしまいたいのだ。だが、自死する度胸なんてあ
毎朝5時半くらいに目が覚める。だが、すぐに目を開けられるわけではない。光を見るのが疎ましい。身体を動かすのが億劫だ。なぜだか頭痛もしている。全身を不快な「何か」が満たしている。しかし、いつまでも目を閉じているわけにはいかない。苦痛を堪えて目を開き、俺は身
6月13日と14日。土曜日と日曜日で、仕事は休みだった。いずれの日も朝6時に目が覚めた。これまでであれば、目覚めた直後から酒を飲んでいた。カラッポの胃に流し込むウィスキーは、効果てきめんだった。すぐに酔いが回り、数時間後には意識を失った。しばらく眠った後、不快
平成22年の6月17日。かみさんが癌研有明病院に入院していたときのこと。かみさんが俺に言った。めぐりあえて良かった・・・・・・かみさんは、俺と出会えて良かったと言ってくれた。かみさんは、俺と一緒に暮らしてこられて良かったと言ってくれた。かみさんは、俺とともに人生
この記事をスマホで書いている現在。6月14日の午前4時19分である。自宅のバルコニーから空を見上げている。どうやら晴れているらしいのだが、薄暗くて判然としない。まだ「日の出」の前のようだ。空が暗いからだろうか。それとも疲労が溜まってきたからだろうか。あるいは脳
生きてはいても楽しいことがあるわけじゃない。苦しみに耐えても報われるわけじゃない。死んじゃったっていいのだが、自ら命を絶つ度胸もない。仕方がないから生きている。それはとても虚しくて苦痛な日々だ。面白くもないクソみたいな日々だ。そんな俺に対し、せめて子ども
かみさんが癌研有明病院に入院していた時期のこと。最初で最後の抗癌剤治療が行われた日のことだった。かみさんは病室のベッドで眠っていた。俺はベッドの横に置かれた椅子に座り、かみさんの寝顔を見つめていた。かみさんが目を覚ました。そして、かみさんが言った。プーち
毎週の土曜日と日曜日。俺は自宅の中で“ひとりぼっち”だ。会話をする相手はいない。触れあうことのできる相手もいない。まるで世界には、俺しかいないみたいだ。とても寂しい。とても不安だ。溶けて崩れてしまいそうだ。俺は自分を保つため、ウィスキーに手を伸ばす。ちび
ある方から頂いたコメントを読んで、思い出したことがある。ごく最近のことだ。俺がテレビを見ていたら、出演者が言っていた。夫婦はいずれ死別するんだから。早いか遅いかだけの違いだよ。俺は愕然とした。言っていることに間違いはない。だが、それが夫や妻を亡くした人に
とっくに諦めていたはずなのに…俺は心の底から思ったのだ。かみさんがいた頃に帰りたい。6月29日の午前3時前。真夜中に目覚めた直後のことだった。哀しかった。淋しかった。心細かった。だが、こればっかりは、どうしようもないのだ。誰かが手を差しのべてくれるわけではな
6月27日。かみさんの祥月命日だった。この日、俺は一日、自宅にいた。夕方から軽い不安感があり、俺はウィスキーを飲み始めた。グラスを傾けるスピードが、いつもより速かった。俺はすっかり泥酔してしまった。意識が朦朧とし、夜8時半には寝床に就いた。最初に目覚めたのは
会社から帰ってくると、いつでもかみさんが俺を出迎えてくれた。遅くまで残業し、午前0時を過ぎて帰宅しても、「先に寝てな」という俺の言葉をスルーして、かみさんは俺を待っていてくれた。かみさんはいつでも笑顔だった。いつでも家の中は明るくて、俺を包み込む「何か」に
6月27日。かみさんの祥月命日がやってきた。あれから、ずいぶん時間が経った。だが、俺には「ずいぶん時間が経った」という実感がない。1日という時間はとても長い。毎日を乗り切ることがとても苦しい。淋しくて、虚しい時間は、長く感じられるってことなんだろうか。それな
かみさんが癌だと診断されたとき。俺は主治医と二人きりになる機会があった。そして俺は、主治医に質問をした。かみさんは、どのくらい生きられますか?主治医の回答は残酷なものだった。余命は年単位ではありません…俺が期待した答えではなかった。俺は、奥さんは治ります
かみさんの祥月命日の法要が終わり、義母と2人の義弟は、北海道に帰っていった。法事という大きなイベントが終わり、少しは緊張もほぐれるだろうと思っていた。そうすれば、俺の交感神経の興奮も治まって、久しぶりに熟睡できるだろうと期待していた。だが、やはり眠れなか
かみさんが亡くなってからの数年間。俺はかみさんを探していた。かみさんの姿を求め、何もないはずの虚空に向かって腕を広げていた。かみさんの気配を探り、静まり返った空間の中で意識を研ぎ澄ませていた。だが…探したところで見つかるはずはない。確かに俺は、かみさんを
心と身体は区別できるんだろうか。精神と肉体とを別々に論ずることは正しいのだろうか。たしかに心理学のベースには「心身二元論」がある。身体とは別に、心という実体があるという前提に立たない限り、心を対象にした科学は生まれないはずなのだ。だが、心理学は科学ではな
かみさんが元気だったころ。俺にはたっぷり「自分の時間」があった。今より遥かに残業が多かったし、休日出勤も少なくなかったが、それでもたくさんの「自分の時間」があった。かみさんがいてくれたからだ。かみさんと一緒にいる時間。それは俺にとって「自分の時間」だった
この記事がアップされる6月21日の金曜日。俺が会社から帰宅すると、家の中には義母と2人の義弟がいるはずだ。3人は「おかえり~」と言って、俺を出迎えてくれるだろう。6月27日は、かみさんの祥月命日だ。この日の早朝7時前、かみさんは、俺と義母に看取られながら逝った。
かみさんが亡くなってから。俺は睡眠導入剤を飲まないと眠れなくなってしまった。ずいぶん長い間、薬に頼り、身体が慣れてしまったせいだろうか。それとも、ここ数ヶ月、精神的に追い詰められているせいだろうか。睡眠導入剤が、あまり効いていないようなのだ。寝付きは良い
6月17日の月曜日。いつものとおり、睡眠導入剤を飲んでから寝床に就いた。就寝時間は午後11時頃だった。それから何時間が経っただろうか。また夜中に目が覚めた。いつもの中途覚醒とは違い、決して不快な気分ではなかった。その直前まで、俺は夢を見ていたのだ。かみさんの夢
いつも夜中に目が覚めてしまう。その後は朝まで、ほとんど眠ることができない。さすがに疲労が溜まってきた。ダルくてダルくて仕方がない。どうにかして朝まで熟睡したい。ここ最近、ずっとそう思ってきた。16日の日曜日。夜の10時には眠気が襲ってきた。だが、俺は寝床に就
かみさんは神々しい笑顔で逝った。痛がることもなく、苦しむこともなく、眠るように穏やかに息を引き取った。最初に入院していた癌研有明病院であれば、あんなに穏やかには逝けなかっただろう。かみさんの転院を受け入れてくれた帯津三敬病院には本当に感謝している。転院は
まだまだ、やりたいことがたくさんあっただろう。見たいものだって、たくさんあったはずだ。聞きたいものだって、たくさんあったはずだ。食べたいものも、たくさんあったはずだ。行きたいところも、たくさんあったはずだ。死ぬということは、これらをすべて断念せざるを得な
現在6月14日の午前7時37分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。ここ2日ばかり、睡眠障害が悪化している。以前から悪化していたが、それ以上に悪化してしまったのだ。毎晩、睡眠導入剤を飲んでから寝床に入っている。だが、1時間半ほどで目が覚めてしま