かみさんが亡くなった後。周囲の人々の一部が、よく言っていた。せめて子どもがいれば良かったのにねぇ…俺がとても悲しんでいること。俺が慟哭していること。俺が心を病んでしまったこと。精神疾患が原因で会社を休職したこと。そして…俺が“ひとりぼっち”になってしまっ
たった一人の家族、最愛の妻を癌で喪った。独り遺された男やもめが、暗闇の中でもがき続ける日々の日記。
かみさんがいない世界を生きてきた。かみさんが亡くなった後も時間が過ぎてきた。当初の激しい「感情」は、次第に薄れていった(ような気がしている)。だが、代わりに別の「感情(というより気分)」が生まれてきた。それは静かだけど重たくて、ドロリとした粘度を持ってい
かみさんがいなくなって、何度目かの冬が来た。かみさんが元気だったころ。俺たち夫婦は、冬が大好きだったはずだ。しかし…かみさんが亡くなってからは冬が痛い。この季節になると、気が滅入ってしまうのだ。いつもの「訳の分からない不安感」に加え、何故だかとっても物悲
かみさんが元気だった頃のこと。俺は本を読むのが好きだった。主に読んでいたのは日本の歴史、西洋哲学、物理学や天文学、1930年代に書かれた推理小説、経済学や経済事情、かみさんが買ってきた漫画や小説などだった。それらに加え、平成19年に管理職になることが決まってか
現在12月27日の午前7時25分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。明日28日は「御用納め」だ。定時には退社して、俺は羽田空港に向かう。かみさんの生前と同様、かみさんの実家で年末年始を過ごすのだ。かみさんが元気だった頃。俺たち夫婦は、毎年、かみさ
かつては俺にも家族がいた。かつては俺にも家庭があった。かみさんと俺は、とても幸せだった。この幸せな日々は、いつまでも続くんだ…と信じていた。だが、かみさんは突然、「進行の速い癌」だと診断された。それでも俺たち夫婦は、かみさんの癌を克服し、かつての平穏な日
現在12月25日の午前7時21分。いつものとおり、通勤途中でブログの記事を書いている。今日はクリスマス当日だ。仕事が山を越えたため、俺の部下の半分近くが有給休暇を取っている。みんな家族と一緒に団欒を楽しむのだろう。俺も休暇を取りたかった。23日の土曜日には休日出勤
仕事でクソみたいに忙しい。毎日のように、俺のあずかり知らぬところで大きな問題が発生する。そのたびに、俺は課長として陣頭指揮を執らなければならない。優秀な部下たちが頑張ってもくれるので、なんとか事態を収拾することができる。大きな課題を解決したあとは、それな
12月1日のかみさんの誕生日が過ぎたあと、街は急に賑やかになった。とりわけ夜の街は華やかだ。クリスマスが近いからだろう。自宅のマンションもそうだが、あちこちでクリスマスツリーやイルミネーションを見かける。飲食店も忙しそうだ。道は買い物をしている人々で混んでい
かみさんがいなくなってから。いつだって俺は不安だ。何か悪いことが起きそうな気がしているのだ。何か悲しいことや辛いことが起きそうな気がしているのだ。かみさんが亡くなることより悪いことなんて無い。かみさんが亡くなることより悲しいこと、辛いことなんて無い。その
早朝5時半には床を出る。窓の外はまだ真っ暗だ。空気も凍りついている。あまりにも静かだ。すべてが静止している。俺の周囲に人はいない。人の気配さえ感じない。薄暗い部屋の中。かみさんの遺影だけが微笑んでいる。俺は“ひとりぼっち”だ。起床する直前までは眠っていた
昨晩、俺は夢を見た。かみさんの夢だった。とは言うものの、かみさんに会えたわけではない。かみさんに触れることができたわけでもない。かみさんの声が聞こえたわけでもない。夢の中。俺は長い坂道を下っていた。空を見上げながら、俺はかみさんの名前を呟いていた。呟いて
何故かみさんは癌になってしまったんだろう。何故かみさんは俺を遺して逝ってしまったんだろう。かみさんが元気だった頃。俺たち夫婦は「かみさんが先に逝く」という未来を予想したことはなかった。かみさんと俺とは同年代だ。女性の平均寿命は男性よりも長い。かみさんのほ
夜中に何度も目が覚めて、午前5時半には床を出る。かみさんにお供えをし、線香をあげる。シャワーを浴びたらスーツに着替えて出勤だ。仕事が馬鹿みたいに忙しい。息をつく暇もありはしない。仕事が終わって岐路につく。自宅近くのコンビニで弁当とウィスキーを買う。家に帰
まだ薄暗いけど、空は晴れているようだ。空気もきれいで澄んでいる。普通の人たちから見れば、ちょっぴり寒いけど爽やかな朝なのだろう。だが、俺は普通の人ではない。41歳の時に最愛の人に先立たれてしまった奴だ。だから俺は、爽やかな朝なんて知らない。かつては知ってい
楽しいときには、楽しいと感じていいだろう。嬉しいときには、嬉しいと感じていいはずだ。また、辛いときは、辛いと言いたくなるし、苦しいときには、苦しいと思っていいだろう。そして…悲しいときは、どうしようもないほど悲しいのだ。いちばん大切な人が死んでしまったら
かみさんが亡くなってから、しばらく経った頃のことだった。俺は早く死にたいと思うようになった。かみさんの後を追いたいと思うようになった。俺が死んだら、かみさんに会える(かもしれない)と思ったからだ。もしも会えないとしても、心と身体を引き裂くような悲しみから
みんな、かみさんが亡くなったことを知っている。俺が“ひとりぼっち”になったことを知っている。かみさんが若くして癌になり、生きたかったのに生きられなかったことを知っている。俺が最愛の人を亡くし、心の病になったことを知っている。だが、それらの知識は記憶の片隅
胸がドキドキしている。心臓の鼓動がとても早い。今から3年前のこと。俺は「洞性頻脈」と診断された。不整脈の一種らしい。医者からは「これでは心臓が疲れちゃうよ…」と言われた。原因はハッキリしない。ひょっとしたら、かみさんが亡くなって以来、酒に溺れてきたせいか
昨晩は早く帰宅することができた。疲れきっていた俺は、早めに睡眠薬を飲んで、夜の9時半には寝床に就いた。だが、眠れなかった。睡眠薬を飲んだのに眠れなかったのだ。身体の力が抜けなかった。心の中がザワザワしていた。時計を見ると、既に午前0時を過ぎていた。俺は焦
真夜中に目が覚める。その瞬間、強烈な不安感に襲われる。不安感は腹の奥底で生まれ、そこから噴き出して、血管を通じて全身に行き渡る。身体中の筋肉が震え出す。呼吸が荒くなる。何故こんなに不安なのだろうか。多分いまだに俺は、孤独に慣れていないのだ。俺は不安感に堪
付き合い始めた直後から、かみさんと俺は、暇さえあれば散歩ばっかりしていた(ような気がする)。実際には散歩ばかりしていたわけではない。旅行をしたり、映画を見に行ったり、買い物に行ったり、外食をしたり、ただテレビを見ているだけだったりもしていたはずだ。それな
これを書いている現在、12月8日の午前6時30分。通勤途中にブログの記事を書いている。昨晩(12月7日の木曜日)は11時30分に就寝した。疲れが溜まっていたので早く帰宅して、早く寝たかった。だが、突発的な残業になってしまった。おかげで5時間しか眠れなかった。俺にとって
毎日がつまらない。単調で起伏がなくて、退屈なのだ。それなのに、馬鹿みたいに忙しい。やらなければならないことが、山のようにあるのだ。楽しいことなんか何にもない。嬉しいことも何にもない。いったい何のために俺は生きているんだろうか。いつもと同じ疑問が頭をよぎる
たくさんの辛い出来事があった。両親に虐待されて育ってきた。特に実母は酷かった。言葉の暴力で他人の自尊心を破壊して、快感を覚えるような変質者だった。親に虐待された子どもの多くがそうであるように、学校ではイジメを受けたこともある。辛い毎日だった。学校に行くの
仕事がクソ忙しくて仕方がない。朝8時には仕事を始め、退社は夜8時になってしまう。通勤時間を含めると、拘束時間は13時間ほどになる。俺の錆び付いた身体には相当にキツい。仕事が終われば急いで帰宅する。途中でコンビニに寄り、弁当とウィスキーを買う。家に着いたら
かみさんが亡くなったばかりの頃。身を引き裂かれるような喪失感の中、俺は「現実には起こり得ないこと」が起こることを渇望していた。かみさんを生き返らせたかった。かみさんを取り戻したかった。かみさんに逢いたかった。だが…死んだ人が生き返ることはない。それは誰も
現在12月4日の午前6時40分。いつものとおり、出勤の途中にブログの記事を書いている。ここ最近、俺が誤解を受けていることに気がついた。かみさんが亡くなったあと、俺はすぐに会社に復帰した…と思っている方が少なくないようなのだ。かみさんが亡くなってから、俺は会社を
1日のうちで最も辛いのは朝だ。1日のうちで最も嫌いなのも朝だ。会社に行きたくない…というのではない。仕事がキツい…というのでもない。実際のところ、仕事はとってもキツいけど、それが朝を嫌う理由ではない。平日はもちろんだが、休日だって、朝を迎えれば辛いのだ。
最近ほとんど眠ることができない。昨晩も同様だった。精神安定剤と睡眠導入剤を飲んでいるため、寝付きが悪いわけではない。だが、1時間から1時間半ごとに目が覚めてしまうのだ。寝ている間も熟睡しているわけではない。浅い眠りの中で夢ばかりを見ている。かみさんの夢な
現在12月1日の夜10時20分。いつもとは違い、帰宅の途中でブログの記事を書いている。今日は、かみさんの誕生日だ。できれば休暇を取りたかった。それがダメでも早めに退社して、ケーキを買って帰りたかった。かみさんが亡くなってから。彼女の誕生日にケーキをお供えできなか
かみさんが元気だった頃とは違う。仕事に「やりがい」を見いだせないのだ。かみさんの生前のほうが、はるかに仕事はキツかった。午前様で帰宅することも多かった。休日出勤も少なくなかった。それでも仕事に「やりがい」があったのだ。だが…かみさんがいなくなってから、俺
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かみさんが亡くなった後。周囲の人々の一部が、よく言っていた。せめて子どもがいれば良かったのにねぇ…俺がとても悲しんでいること。俺が慟哭していること。俺が心を病んでしまったこと。精神疾患が原因で会社を休職したこと。そして…俺が“ひとりぼっち”になってしまっ
かみさんと俺は、いつも語り合っていた。死ぬときは、二人一緒が良いよね…そうは言うものの、俺は多分、自分が先に死ぬだろう…と思っていた。女性のほうが、男性より平均寿命が長いからだ。だが…かみさんが癌になってしまった。とても進行の速い癌だった。かみさんは俺を
かみさんが元気だった頃。毎年の夏休み、俺たち夫婦は海外を旅行した。会社からは5日間の夏季休暇が与えられる。7月から9月までの間のどこかの週で、月曜日から金曜日までを休みにすると、土日を入れて9連休になる。その9連休を海外でゆったり過ごすのだ。どこの国に行
物心がついたばかりの幼少期。俺の実家の近所に仲の良い夫婦(Kさん夫妻)がいた。俺は不思議だった。Kさん夫妻は、とても似ていたからだ。夫婦である以上、血はつながっていない。それなのに、何故こんなに似ているのだろうか。一方、俺の両親は似ても似つかない。似てい
かみさんと俺は、散歩が大好きだった。俺が休日出勤をしなくてよい土曜日。雨が降っていない土曜日。二人のどちらかの体調が悪くない土曜日。毎週土曜日のたび、俺たち夫婦は散歩ばかりしていた。6時間から7時間もブラブラ歩いていた。目的地も決めずにブラブラ歩いていた
かみさんが亡くなってから。俺は毎日、泣いていた(と言うより“哭いていた”)。あまりにも強烈で激しい悲嘆に、俺の心が耐えられなかったのだ。そんな日々が、2年から2年半ほど続いたと記憶している。それを過ぎた頃、ようやく俺は、毎日泣くことがなくなった。ときおり
2010年4月28日のこと。癌研有明病院の医師は、俺にかみさんの余命を告げた。医師は悲痛な表情を浮かべながら「余命は年単位ではない」と言った。この言葉を聞いた瞬間、血の気が引いた。俺の全身の血液が、頭から足元に下がっていくのを感じた。気が遠くなった。全身が凍えて
かみさんが元気だったころ。あの20年間を振り返ってみれば、賑やかだったけど、わりと平凡に生きてきたのだと思う。劇的な「変化」があるわけではなかったが、俺たち夫婦は満足で、いつでも穏やかに生きてきたな…と思う。どこにでもいる普通の夫婦。だが、それで良かったの
現在6月26日の午前7時15分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。この記事がアップされるのは6月27日。かみさんが息を引き取った日だ。毎年かみさんの祥月命日には、必ず休暇を取っている。今年も休暇を取ることになるだろう。たぶん俺は、飲酒欲求を抑圧し
断酒を始めてから、そろそろ1か月が経つ。アセトアルデヒドによる覚醒作用もないし、強烈な倦怠感も影を潜めている。睡眠導入剤の効果もあって、寝つきは良いし、熟睡できてもいるようだ。だが、良いことばかりではない。目覚めてからの数時間、強い鬱(うつ)と全身の筋肉
テレビを点けていると、ときおり葬儀会社のCMを見かけることがある。CMからは、「さようならが温かい」だとか、「30%の割引中です!」という声が聞こえてきた。大抵の人々は「良いCMだなぁ…」なんて思っているのだろうか。しかし、そこに最愛の人を亡くした悲しみは
6月21日(土)のこと。午前11時から、かみさんの法要が始まる。俺と義弟はタクシーに乗り、午前10時半には菩提寺に到着した。お供え物と花束をご住職の奥様に渡したあと、俺と義弟は待合室で時間が来るのを待っていた。毎年のことではあるが、かみさんの法要の日は厳かな気持
運の悪いことに、俺は「親ガチャ」に外れてしまった。毒親の下に生まれてしまったため、虐待されて育つことになった。俺の過去には悪夢のような記憶が山積している。虐待されてきた幼少期の記憶は、身体の中心から末端にまで染みついた。そのトラウマが、俺の人生に暗い影を
土日や祭日。家族のいない俺は、完全な孤独だ。話しかける相手もいないし、話しかけてくれるはずのかみさんもいない。そんなとき、友人たちのことを思い出す。今頃みんな、どうしているんだろう…なんて考えてみたりする。Aくんは子どもを諦めたけど、奥さんと仲良く暮らし
現在7月20日の午前7時16分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。今日は定時で退社する。義弟(かみさんの弟たち)が上京してくれるからだ。そして21日には菩提寺に行く。例年通り、義弟と一緒にかみさんの墓参りに行くのだ。かみさんの祥月命日は6月27日だ
かみさんが亡くなったのは、6月27日のことだった。この記事がアップされる20日は、かみさんの祥月命日の1週間前になる。毎年、祥月命日の直前の土曜日には、かみさんの法要を行ってきた。今年も20日の金曜日、義弟が上京してくれて、21日の土曜日には、俺と一緒に菩提寺に行
かみさんが亡くなってから。俺は希死念慮に囚われた。世界でいちばん大切なモノを失ってしまったからだ。人生を共に歩んでいく伴侶を喪ったからだ。暖かい家庭を失ったからだ。未来に絶望してしまったからだ。そうだ。俺は消えてしまいたいのだ。だが、自死する度胸なんてあ
毎朝5時半くらいに目が覚める。だが、すぐに目を開けられるわけではない。光を見るのが疎ましい。身体を動かすのが億劫だ。なぜだか頭痛もしている。全身を不快な「何か」が満たしている。しかし、いつまでも目を閉じているわけにはいかない。苦痛を堪えて目を開き、俺は身
6月13日と14日。土曜日と日曜日で、仕事は休みだった。いずれの日も朝6時に目が覚めた。これまでであれば、目覚めた直後から酒を飲んでいた。カラッポの胃に流し込むウィスキーは、効果てきめんだった。すぐに酔いが回り、数時間後には意識を失った。しばらく眠った後、不快
平成22年の6月17日。かみさんが癌研有明病院に入院していたときのこと。かみさんが俺に言った。めぐりあえて良かった・・・・・・かみさんは、俺と出会えて良かったと言ってくれた。かみさんは、俺と一緒に暮らしてこられて良かったと言ってくれた。かみさんは、俺とともに人生
明日は今日より良い日だろう。もし明日がダメだとしても、1週間後あるいは1か月には良い日がやって来るだろう。1か月後がダメだとしても、1年後には、事態は好転しているはずだ。かみさんと出会って以来。俺はそんなふうに思って生きてきた。かみさんの生前。俺は意外と
今朝も早く目が覚めてしまった。時計を見ると、まだ午前4時過ぎだった。せめて5時半くらいまで眠っていたい。だが、最近は暗いうちに目が覚めてしまう。仕方がないので布団の中にいるのだが、心の底から沸き上がる「不快感」に耐えられない。俺は「死にたい… 死にたい…」と
生きてはいても楽しいことがあるわけじゃない。苦しみに耐えても報われるわけじゃない。死んじゃったっていいのだが、自ら命を絶つ度胸もない。仕方がないから生きている。それはとても虚しくて苦痛な日々だ。面白くもないクソみたいな日々だ。そんな俺に対し、せめて子ども
かみさんが癌研有明病院に入院していた時期のこと。最初で最後の抗癌剤治療が行われた日のことだった。かみさんは病室のベッドで眠っていた。俺はベッドの横に置かれた椅子に座り、かみさんの寝顔を見つめていた。かみさんが目を覚ました。そして、かみさんが言った。プーち
毎週の土曜日と日曜日。俺は自宅の中で“ひとりぼっち”だ。会話をする相手はいない。触れあうことのできる相手もいない。まるで世界には、俺しかいないみたいだ。とても寂しい。とても不安だ。溶けて崩れてしまいそうだ。俺は自分を保つため、ウィスキーに手を伸ばす。ちび
ある方から頂いたコメントを読んで、思い出したことがある。ごく最近のことだ。俺がテレビを見ていたら、出演者が言っていた。夫婦はいずれ死別するんだから。早いか遅いかだけの違いだよ。俺は愕然とした。言っていることに間違いはない。だが、それが夫や妻を亡くした人に
とっくに諦めていたはずなのに…俺は心の底から思ったのだ。かみさんがいた頃に帰りたい。6月29日の午前3時前。真夜中に目覚めた直後のことだった。哀しかった。淋しかった。心細かった。だが、こればっかりは、どうしようもないのだ。誰かが手を差しのべてくれるわけではな
6月27日。かみさんの祥月命日だった。この日、俺は一日、自宅にいた。夕方から軽い不安感があり、俺はウィスキーを飲み始めた。グラスを傾けるスピードが、いつもより速かった。俺はすっかり泥酔してしまった。意識が朦朧とし、夜8時半には寝床に就いた。最初に目覚めたのは
会社から帰ってくると、いつでもかみさんが俺を出迎えてくれた。遅くまで残業し、午前0時を過ぎて帰宅しても、「先に寝てな」という俺の言葉をスルーして、かみさんは俺を待っていてくれた。かみさんはいつでも笑顔だった。いつでも家の中は明るくて、俺を包み込む「何か」に
6月27日。かみさんの祥月命日がやってきた。あれから、ずいぶん時間が経った。だが、俺には「ずいぶん時間が経った」という実感がない。1日という時間はとても長い。毎日を乗り切ることがとても苦しい。淋しくて、虚しい時間は、長く感じられるってことなんだろうか。それな
かみさんが癌だと診断されたとき。俺は主治医と二人きりになる機会があった。そして俺は、主治医に質問をした。かみさんは、どのくらい生きられますか?主治医の回答は残酷なものだった。余命は年単位ではありません…俺が期待した答えではなかった。俺は、奥さんは治ります
かみさんの祥月命日の法要が終わり、義母と2人の義弟は、北海道に帰っていった。法事という大きなイベントが終わり、少しは緊張もほぐれるだろうと思っていた。そうすれば、俺の交感神経の興奮も治まって、久しぶりに熟睡できるだろうと期待していた。だが、やはり眠れなか
かみさんが亡くなってからの数年間。俺はかみさんを探していた。かみさんの姿を求め、何もないはずの虚空に向かって腕を広げていた。かみさんの気配を探り、静まり返った空間の中で意識を研ぎ澄ませていた。だが…探したところで見つかるはずはない。確かに俺は、かみさんを
心と身体は区別できるんだろうか。精神と肉体とを別々に論ずることは正しいのだろうか。たしかに心理学のベースには「心身二元論」がある。身体とは別に、心という実体があるという前提に立たない限り、心を対象にした科学は生まれないはずなのだ。だが、心理学は科学ではな
かみさんが元気だったころ。俺にはたっぷり「自分の時間」があった。今より遥かに残業が多かったし、休日出勤も少なくなかったが、それでもたくさんの「自分の時間」があった。かみさんがいてくれたからだ。かみさんと一緒にいる時間。それは俺にとって「自分の時間」だった
この記事がアップされる6月21日の金曜日。俺が会社から帰宅すると、家の中には義母と2人の義弟がいるはずだ。3人は「おかえり~」と言って、俺を出迎えてくれるだろう。6月27日は、かみさんの祥月命日だ。この日の早朝7時前、かみさんは、俺と義母に看取られながら逝った。
かみさんが亡くなってから。俺は睡眠導入剤を飲まないと眠れなくなってしまった。ずいぶん長い間、薬に頼り、身体が慣れてしまったせいだろうか。それとも、ここ数ヶ月、精神的に追い詰められているせいだろうか。睡眠導入剤が、あまり効いていないようなのだ。寝付きは良い
6月17日の月曜日。いつものとおり、睡眠導入剤を飲んでから寝床に就いた。就寝時間は午後11時頃だった。それから何時間が経っただろうか。また夜中に目が覚めた。いつもの中途覚醒とは違い、決して不快な気分ではなかった。その直前まで、俺は夢を見ていたのだ。かみさんの夢
いつも夜中に目が覚めてしまう。その後は朝まで、ほとんど眠ることができない。さすがに疲労が溜まってきた。ダルくてダルくて仕方がない。どうにかして朝まで熟睡したい。ここ最近、ずっとそう思ってきた。16日の日曜日。夜の10時には眠気が襲ってきた。だが、俺は寝床に就
かみさんは神々しい笑顔で逝った。痛がることもなく、苦しむこともなく、眠るように穏やかに息を引き取った。最初に入院していた癌研有明病院であれば、あんなに穏やかには逝けなかっただろう。かみさんの転院を受け入れてくれた帯津三敬病院には本当に感謝している。転院は