かみさんが亡くなった後。周囲の人々の一部が、よく言っていた。せめて子どもがいれば良かったのにねぇ…俺がとても悲しんでいること。俺が慟哭していること。俺が心を病んでしまったこと。精神疾患が原因で会社を休職したこと。そして…俺が“ひとりぼっち”になってしまっ
たった一人の家族、最愛の妻を癌で喪った。独り遺された男やもめが、暗闇の中でもがき続ける日々の日記。
11月27日から28日にかけて。昨日のブログに書いたとおり、俺は久しぶりに熟睡することができた。こんな日が続けばいいな…と思っていた。だが、28日から29日にかけて。俺はいつものとおり、細切れにしか眠れなかった。夜中の3時に目が覚めて、その後は浅い眠りの中、不快な
11月27日の夜のこと。俺は久しぶりに早く帰宅できた。繁忙期が過ぎたわけではないが、一日だけでも早く帰れたことがありがたかった。疲れが溜まっていた。仕事がバカみたいに忙しいからだ。そして、毎晩、熟睡できず、夜中に何度も目が覚めてしまうからだ。せっかく早く帰れ
かみさんの誕生日が近づいている。そのせいだろうか。かみさんの闘病中のことを想い出す。かみさんは「死ぬのが怖い」とは言わなかった。彼女は「プーちゃんを遺して死ぬのは嫌だ!」と言って泣いていた。そのときを想い出し、俺はとても悲しくなった。かみさんの傍にいてあ
ひとりぼっちだ。周囲には誰もいない。俺の視界の中に人の姿はない。誰の視界の中にも俺の姿はない。会話を交わす相手はいない。俺には誰の声も聞こえていない。誰にも俺の声は聞こえていない。絶対零度の世界のように、すべてが凍りつき、静止している。俺は誰の気配も感じ
かみさんが元気だった頃。夜遅くまで残業した日は別として、俺は毎晩12時には就寝していた。会社から帰ってくると、まず風呂に入る。その後、かみさんが丹精込めて作ってくれた夕食をごちそうになる。その日にあったことをお互いに語り合いながら、かみさんの手料理を楽しむ
昨晩は午前0時に目が覚めた。幸い、すぐに眠りに落ちたが、午前4時にも目が覚めた。相変わらず熟睡できない日々が続いている。午前4時に目覚めたときだった。気分が深く落ち込んでいた。同時に強烈な不安を感じた。俺は強く思った。会社に行きたくない…と思ったのだ。こ
この記事がアップされるのは、11月24日の0時00分。だが、この記事を書いているのは、11月23日の午前7時13分だ。記事を書いている日の1日前は、11月22日だ。11月22日と言えば、「いい夫婦の日」。以前、俺は11月22日が「いい夫婦の日」だなんて知らなかったし、そもそも「い
自宅マンションのメインエントランスにクリスマスツリーが飾られた。会社の近くの繁華街も、イルミネーションでピカピカだ。クリスマスまで、まだ1ヶ月以上ある。それなのに、ずいぶん気の早いことだな…と思う。かみさんが元気だった頃。俺はこういう風景が好きだった。か
昨晩は数ヶ月ぶりに熟睡できた。午前3時50分には目覚めてしまったが、夜中に何度も目が覚める…ということは無かった。少しでも熟睡できたことはありがたい。だが、ろくでもない夢を見た。夢の内容は、いつもと同じだ。仕事に追い詰められて、強烈なストレスを感じている
なぜだろう。毎晩、夜中に何度も目が覚める。たとえ目が覚めたとしても、すぐに眠れるなら問題ない。だが、目覚めてしまうと、その後はなかなか眠れないのだ。おかげで疲れが取れない。いつでも頭がぼんやりし、身体はダルくて仕方がない。それでも仕事をしなければならない
土日や祭日の朝は辛い。鬱だか不安感だか知らないが、俺の内部はグチャグチャで、本当に死んでしまいたくなる。こんなことを言うと、「平日は辛くないのかな…」と疑問を持たれてしまうかもしれない。だが、平日は平日で辛いのだ。早く夜になって欲しいと願いつつ、1分1秒
かみさんは何度も言っていた。おじいちゃん、おばあちゃんになっても二人で毎年、海外旅行をしようね…80歳をすぎても二人でいっぱい散歩をしようね…かみさんは俺たち夫婦が長生きできると信じていたのだ。かみさんと俺が一緒に年を取り、二人がじいさん、ばあさんになるこ
かみさんが死んじゃった。たった一人の俺の家族が死んじゃった。俺は“ひとりぼっち”になってしまった。もはや俺の傍には誰もいない。誰も俺を見てはいない。誰も俺の声を聞いていない。誰も俺に触れることはない。誰も俺を気に掛けていない。誰も俺を心配していない。完全
かみさんが亡くなった。俺の伴侶が死んじゃった。俺の最愛の人が亡くなった。この世でいちばん大切な人が死んじゃった。70歳や80歳を過ぎてから亡くなった…のではない。まだ人生の折り返し地点に到達したばかりだった。平均寿命の半分も生きられなかった。かみさんがかわい
毎晩、夜中に目が覚める。目覚める時間はマチマチで、午前2時だったり3時だったりする。その後はほとんど眠れない。もちろん熟睡感は得られない。身体がダルくて仕方がない。惨めな気分がたまらない。ここ1ヶ月以上、毎日そんな状況が続いていた。だが、今朝は身体が軽い
俺の部下の中に、50歳代の女性Hさんがいる。今年の4月から一緒に仕事をしているが、俺は以前から彼女の噂を聞いていた。問題社員として、社内の一部では有名な人だったからだ。自分で方針を立てられない。課長や係長が方針を立ててあげても、そのとおりに動かない。仕事が
ここ数回、ブログに書いてきたとおり、最近は午前3時に目が覚める。ほとんど眠れない…というのは本当に辛い。眠くて眠くて仕方がない。身体がダルいのだ。気分が落ち込むのだ。頭がぼんやりするのだ。昨晩はいつもより酷かった。睡眠導入剤を飲んで、夜の10時に寝床に入っ
伴侶やお子さんを亡くした人々は、周囲の人々から叩かれる。叩かれる人々が、伴侶やお子さんを殺してしまったわけではない。それでも遺族は叩かれるのだ。俺は、そういう場面を何度も見てきた。伴侶を亡くした人々が、自分も死にたい…と呟けば、「じゃあ死ねば?」と言われ
かみさんが癌だと診断された。医者から「余命は年単位ではない」と告げられた。俺の頭から血の気が引いた。まるで血液が凍りついたようで、同時に逆流したようだった。周囲の世界が足元から崩れてしまった。かみさんが、その場にいなかったことは不幸中の幸いだった。医者か
このブログに書いたとおり、最近、睡眠の質が落ちている。先日の3連休以降は、毎晩、午前3時に目が覚めていた。だが、それ以上に睡眠の質が悪化してしまった。昨晩はまったく眠れなかったのだ。頭はぼんやりしていたが、朝まで意識があったのだ。寝る前の酒は控えた。睡眠
3連休に出勤してからだ。俺は毎晩、午前3時に目覚めるようになった。それ以降は、眠ろうとしても眠れない。意識はぼんやりしているが、頭の中は仕事のことでいっぱいだ。仕事がクソみたいに忙しいからだ。眠ろうとしながら仕事のことを考えていると、とても惨めな気持ちに
身体が重たい。別に太ったわけではない。むしろ体重は減っている。とても眠たい。別に夜更かししたわけではない。昨晩はたっぷり寝たはずだ。だが、身体がダルいのだ。半端じゃなくダルいのだ。仕事がクソみたいに忙しいせいかもしれない。あるいは睡眠の質が良くないせいか
11月2日の木曜日。夜遅くまで残業した。疲れが半端じゃなかった。もう若くないんだな…と痛感した。3連休。ゆっくり休めば疲れも取れるだろう。しかし、仕事が貯まっていた。俺は11月3日と4日、休日出勤をした。朝の8時から夜の9時まで働いて、なんとか仕事をやり終えた。11
生きている限り、辛いことがいっぱいある。やらなければならないことはたくさんあるし、無理をしなければならないことも少なくない。イヤなこと、不快なこと、腹の立つことも起こるだろう。逃げ出したくなることもあるし、厭世的な気分になることもある。人間を嫌いになって
かみさんと付き合い始めたのが1990年。翌91年には同棲を始めていた。あの頃の俺たちは勤労学生で、学費も生活費も自分で稼がなくてはならなかった。かみさんと俺には自由になるカネが多くはなかったのだ。そんな二人の見つけた楽しみが「散歩」だ。散歩にはカネがかからない
現在11月3日の午前7時09分。会社に向かう途中でブログの記事を書いている。予想していたとおり、休日出勤になってしまった。昨晩は終電ギリギリまで残業した。全身が痛かった。身体がフラフラした。こんなに疲れたのは久しぶりだった。眠りに就いたのは午前0時を過ぎていた
現在11月2日の午前7時22分。いつものとおり、通勤途中でブログの記事を書いている。明日からは3連休だ。今日1日がんばれば、明日から長い休みが待っている。世間の空気が軽い。いつもの殺伐とした雰囲気が消えて、人々は解放感の中にいる。俺も11月の3連休を楽しみにして
かみさんが亡くなったとき。俺は自分の人生も終わったな…と思った。やりたいことが無くなった。夢も希望も失った。そして、かみさんのいない余生を早く終わらせたいと願った。あれから月日が経った。俺はいまだに喪失感に囚われている。かみさんの死とともに、俺の心にポッ
俺は今、追い詰められている。自分の置かれた状況が耐えがたいのだ。だから逃げ出したい。少しでいいからサボりたい。だが、俺にはサボる度胸もなければ、勇気もない。俺はそんなヘタレなのだ。どうして逃げ出せないのだろうか。たぶん他人の目が気になるからだろう。そんな
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かみさんが亡くなった後。周囲の人々の一部が、よく言っていた。せめて子どもがいれば良かったのにねぇ…俺がとても悲しんでいること。俺が慟哭していること。俺が心を病んでしまったこと。精神疾患が原因で会社を休職したこと。そして…俺が“ひとりぼっち”になってしまっ
かみさんと俺は、いつも語り合っていた。死ぬときは、二人一緒が良いよね…そうは言うものの、俺は多分、自分が先に死ぬだろう…と思っていた。女性のほうが、男性より平均寿命が長いからだ。だが…かみさんが癌になってしまった。とても進行の速い癌だった。かみさんは俺を
かみさんが元気だった頃。毎年の夏休み、俺たち夫婦は海外を旅行した。会社からは5日間の夏季休暇が与えられる。7月から9月までの間のどこかの週で、月曜日から金曜日までを休みにすると、土日を入れて9連休になる。その9連休を海外でゆったり過ごすのだ。どこの国に行
物心がついたばかりの幼少期。俺の実家の近所に仲の良い夫婦(Kさん夫妻)がいた。俺は不思議だった。Kさん夫妻は、とても似ていたからだ。夫婦である以上、血はつながっていない。それなのに、何故こんなに似ているのだろうか。一方、俺の両親は似ても似つかない。似てい
かみさんと俺は、散歩が大好きだった。俺が休日出勤をしなくてよい土曜日。雨が降っていない土曜日。二人のどちらかの体調が悪くない土曜日。毎週土曜日のたび、俺たち夫婦は散歩ばかりしていた。6時間から7時間もブラブラ歩いていた。目的地も決めずにブラブラ歩いていた
かみさんが亡くなってから。俺は毎日、泣いていた(と言うより“哭いていた”)。あまりにも強烈で激しい悲嘆に、俺の心が耐えられなかったのだ。そんな日々が、2年から2年半ほど続いたと記憶している。それを過ぎた頃、ようやく俺は、毎日泣くことがなくなった。ときおり
2010年4月28日のこと。癌研有明病院の医師は、俺にかみさんの余命を告げた。医師は悲痛な表情を浮かべながら「余命は年単位ではない」と言った。この言葉を聞いた瞬間、血の気が引いた。俺の全身の血液が、頭から足元に下がっていくのを感じた。気が遠くなった。全身が凍えて
かみさんが元気だったころ。あの20年間を振り返ってみれば、賑やかだったけど、わりと平凡に生きてきたのだと思う。劇的な「変化」があるわけではなかったが、俺たち夫婦は満足で、いつでも穏やかに生きてきたな…と思う。どこにでもいる普通の夫婦。だが、それで良かったの
現在6月26日の午前7時15分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。この記事がアップされるのは6月27日。かみさんが息を引き取った日だ。毎年かみさんの祥月命日には、必ず休暇を取っている。今年も休暇を取ることになるだろう。たぶん俺は、飲酒欲求を抑圧し
断酒を始めてから、そろそろ1か月が経つ。アセトアルデヒドによる覚醒作用もないし、強烈な倦怠感も影を潜めている。睡眠導入剤の効果もあって、寝つきは良いし、熟睡できてもいるようだ。だが、良いことばかりではない。目覚めてからの数時間、強い鬱(うつ)と全身の筋肉
テレビを点けていると、ときおり葬儀会社のCMを見かけることがある。CMからは、「さようならが温かい」だとか、「30%の割引中です!」という声が聞こえてきた。大抵の人々は「良いCMだなぁ…」なんて思っているのだろうか。しかし、そこに最愛の人を亡くした悲しみは
6月21日(土)のこと。午前11時から、かみさんの法要が始まる。俺と義弟はタクシーに乗り、午前10時半には菩提寺に到着した。お供え物と花束をご住職の奥様に渡したあと、俺と義弟は待合室で時間が来るのを待っていた。毎年のことではあるが、かみさんの法要の日は厳かな気持
運の悪いことに、俺は「親ガチャ」に外れてしまった。毒親の下に生まれてしまったため、虐待されて育つことになった。俺の過去には悪夢のような記憶が山積している。虐待されてきた幼少期の記憶は、身体の中心から末端にまで染みついた。そのトラウマが、俺の人生に暗い影を
土日や祭日。家族のいない俺は、完全な孤独だ。話しかける相手もいないし、話しかけてくれるはずのかみさんもいない。そんなとき、友人たちのことを思い出す。今頃みんな、どうしているんだろう…なんて考えてみたりする。Aくんは子どもを諦めたけど、奥さんと仲良く暮らし
現在7月20日の午前7時16分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。今日は定時で退社する。義弟(かみさんの弟たち)が上京してくれるからだ。そして21日には菩提寺に行く。例年通り、義弟と一緒にかみさんの墓参りに行くのだ。かみさんの祥月命日は6月27日だ
かみさんが亡くなったのは、6月27日のことだった。この記事がアップされる20日は、かみさんの祥月命日の1週間前になる。毎年、祥月命日の直前の土曜日には、かみさんの法要を行ってきた。今年も20日の金曜日、義弟が上京してくれて、21日の土曜日には、俺と一緒に菩提寺に行
かみさんが亡くなってから。俺は希死念慮に囚われた。世界でいちばん大切なモノを失ってしまったからだ。人生を共に歩んでいく伴侶を喪ったからだ。暖かい家庭を失ったからだ。未来に絶望してしまったからだ。そうだ。俺は消えてしまいたいのだ。だが、自死する度胸なんてあ
毎朝5時半くらいに目が覚める。だが、すぐに目を開けられるわけではない。光を見るのが疎ましい。身体を動かすのが億劫だ。なぜだか頭痛もしている。全身を不快な「何か」が満たしている。しかし、いつまでも目を閉じているわけにはいかない。苦痛を堪えて目を開き、俺は身
6月13日と14日。土曜日と日曜日で、仕事は休みだった。いずれの日も朝6時に目が覚めた。これまでであれば、目覚めた直後から酒を飲んでいた。カラッポの胃に流し込むウィスキーは、効果てきめんだった。すぐに酔いが回り、数時間後には意識を失った。しばらく眠った後、不快
平成22年の6月17日。かみさんが癌研有明病院に入院していたときのこと。かみさんが俺に言った。めぐりあえて良かった・・・・・・かみさんは、俺と出会えて良かったと言ってくれた。かみさんは、俺と一緒に暮らしてこられて良かったと言ってくれた。かみさんは、俺とともに人生
明日は今日より良い日だろう。もし明日がダメだとしても、1週間後あるいは1か月には良い日がやって来るだろう。1か月後がダメだとしても、1年後には、事態は好転しているはずだ。かみさんと出会って以来。俺はそんなふうに思って生きてきた。かみさんの生前。俺は意外と
今朝も早く目が覚めてしまった。時計を見ると、まだ午前4時過ぎだった。せめて5時半くらいまで眠っていたい。だが、最近は暗いうちに目が覚めてしまう。仕方がないので布団の中にいるのだが、心の底から沸き上がる「不快感」に耐えられない。俺は「死にたい… 死にたい…」と
生きてはいても楽しいことがあるわけじゃない。苦しみに耐えても報われるわけじゃない。死んじゃったっていいのだが、自ら命を絶つ度胸もない。仕方がないから生きている。それはとても虚しくて苦痛な日々だ。面白くもないクソみたいな日々だ。そんな俺に対し、せめて子ども
かみさんが癌研有明病院に入院していた時期のこと。最初で最後の抗癌剤治療が行われた日のことだった。かみさんは病室のベッドで眠っていた。俺はベッドの横に置かれた椅子に座り、かみさんの寝顔を見つめていた。かみさんが目を覚ました。そして、かみさんが言った。プーち
毎週の土曜日と日曜日。俺は自宅の中で“ひとりぼっち”だ。会話をする相手はいない。触れあうことのできる相手もいない。まるで世界には、俺しかいないみたいだ。とても寂しい。とても不安だ。溶けて崩れてしまいそうだ。俺は自分を保つため、ウィスキーに手を伸ばす。ちび
ある方から頂いたコメントを読んで、思い出したことがある。ごく最近のことだ。俺がテレビを見ていたら、出演者が言っていた。夫婦はいずれ死別するんだから。早いか遅いかだけの違いだよ。俺は愕然とした。言っていることに間違いはない。だが、それが夫や妻を亡くした人に
とっくに諦めていたはずなのに…俺は心の底から思ったのだ。かみさんがいた頃に帰りたい。6月29日の午前3時前。真夜中に目覚めた直後のことだった。哀しかった。淋しかった。心細かった。だが、こればっかりは、どうしようもないのだ。誰かが手を差しのべてくれるわけではな
6月27日。かみさんの祥月命日だった。この日、俺は一日、自宅にいた。夕方から軽い不安感があり、俺はウィスキーを飲み始めた。グラスを傾けるスピードが、いつもより速かった。俺はすっかり泥酔してしまった。意識が朦朧とし、夜8時半には寝床に就いた。最初に目覚めたのは
会社から帰ってくると、いつでもかみさんが俺を出迎えてくれた。遅くまで残業し、午前0時を過ぎて帰宅しても、「先に寝てな」という俺の言葉をスルーして、かみさんは俺を待っていてくれた。かみさんはいつでも笑顔だった。いつでも家の中は明るくて、俺を包み込む「何か」に
6月27日。かみさんの祥月命日がやってきた。あれから、ずいぶん時間が経った。だが、俺には「ずいぶん時間が経った」という実感がない。1日という時間はとても長い。毎日を乗り切ることがとても苦しい。淋しくて、虚しい時間は、長く感じられるってことなんだろうか。それな
かみさんが癌だと診断されたとき。俺は主治医と二人きりになる機会があった。そして俺は、主治医に質問をした。かみさんは、どのくらい生きられますか?主治医の回答は残酷なものだった。余命は年単位ではありません…俺が期待した答えではなかった。俺は、奥さんは治ります
かみさんの祥月命日の法要が終わり、義母と2人の義弟は、北海道に帰っていった。法事という大きなイベントが終わり、少しは緊張もほぐれるだろうと思っていた。そうすれば、俺の交感神経の興奮も治まって、久しぶりに熟睡できるだろうと期待していた。だが、やはり眠れなか
かみさんが亡くなってからの数年間。俺はかみさんを探していた。かみさんの姿を求め、何もないはずの虚空に向かって腕を広げていた。かみさんの気配を探り、静まり返った空間の中で意識を研ぎ澄ませていた。だが…探したところで見つかるはずはない。確かに俺は、かみさんを
心と身体は区別できるんだろうか。精神と肉体とを別々に論ずることは正しいのだろうか。たしかに心理学のベースには「心身二元論」がある。身体とは別に、心という実体があるという前提に立たない限り、心を対象にした科学は生まれないはずなのだ。だが、心理学は科学ではな
かみさんが元気だったころ。俺にはたっぷり「自分の時間」があった。今より遥かに残業が多かったし、休日出勤も少なくなかったが、それでもたくさんの「自分の時間」があった。かみさんがいてくれたからだ。かみさんと一緒にいる時間。それは俺にとって「自分の時間」だった
この記事がアップされる6月21日の金曜日。俺が会社から帰宅すると、家の中には義母と2人の義弟がいるはずだ。3人は「おかえり~」と言って、俺を出迎えてくれるだろう。6月27日は、かみさんの祥月命日だ。この日の早朝7時前、かみさんは、俺と義母に看取られながら逝った。
かみさんが亡くなってから。俺は睡眠導入剤を飲まないと眠れなくなってしまった。ずいぶん長い間、薬に頼り、身体が慣れてしまったせいだろうか。それとも、ここ数ヶ月、精神的に追い詰められているせいだろうか。睡眠導入剤が、あまり効いていないようなのだ。寝付きは良い
6月17日の月曜日。いつものとおり、睡眠導入剤を飲んでから寝床に就いた。就寝時間は午後11時頃だった。それから何時間が経っただろうか。また夜中に目が覚めた。いつもの中途覚醒とは違い、決して不快な気分ではなかった。その直前まで、俺は夢を見ていたのだ。かみさんの夢
いつも夜中に目が覚めてしまう。その後は朝まで、ほとんど眠ることができない。さすがに疲労が溜まってきた。ダルくてダルくて仕方がない。どうにかして朝まで熟睡したい。ここ最近、ずっとそう思ってきた。16日の日曜日。夜の10時には眠気が襲ってきた。だが、俺は寝床に就
かみさんは神々しい笑顔で逝った。痛がることもなく、苦しむこともなく、眠るように穏やかに息を引き取った。最初に入院していた癌研有明病院であれば、あんなに穏やかには逝けなかっただろう。かみさんの転院を受け入れてくれた帯津三敬病院には本当に感謝している。転院は