かみさんが癌で闘病中のことだった。癌とは診断されたけど、まだ入院する前のことだった。彼女は笑顔で俺に言った。私は幸せだよ…この言葉は、今でも俺の宝物になっている。20年間、一緒に暮らしてきた。二人はいつでも寄り添っていた。この言葉は、俺たち夫婦の「絆」の証
たった一人の家族、最愛の妻を癌で喪った。独り遺された男やもめが、暗闇の中でもがき続ける日々の日記。
現在6月29日の午前7時05分。昨晩と同様、今朝も夜中の3時半に目が覚めてしまった。だが、その後は(うっすらとだが)眠れたようだ。俺は浅い眠りの中で夢を見ていた。かみさんの夢だった。かみさんの姿が見えたわけではない。かみさんの声が聞こえたわけでもない。俺は夢の中
6月27日の火曜日。先日の記事に書いたとおり、かみさんの祥月命日だった。俺は休暇を取って、仏前で静かに一日を過ごした。午前6時52分。かみさんが息を引き取った時間だ。例年どおり、俺は「奇跡」が起こることを期待した。かみさんの声が聞こえるんじゃないだろうか。かみ
6月24日の土曜日のこと。菩提寺において、かみさんの祥月命日の法要を行った。そのあと、法要に参列してくれた義弟たちと一緒に会食をした。かみさんが亡くなってから、毎年繰り返してきた儀式のようなものだ。そして…義弟たちは北海道に帰っていった。俺は再び「ひとりぼっ
誰にでも最愛の人がいる。また、誰にでも自分のことを最愛の人だと想ってくれる人がいる。夫にとっての妻、妻にとっての夫がそうだろう。また、親にとっての子ども、独身の子にとっての親がそうだろう。お互いがお互いにとって、代替不可能な存在なのだ。最愛というのは、文
かみさんが死んでしまった。いちばん大切な人を亡くしてしまった。俺は心と身体の半分をザックリ削ぎ落とされた。心にポッカリ大きな穴が開いた。俺は呆然とした。悲しかった。とても悲しかった。俺は咽び泣き、あるいは慟哭した。泣くから悲しくなるのであって、悲しいから
やっぱり俺にはわからない。俺はいったい何のために生きているんだろう。俺はいったい何のために頑張っているんだろう。ある「上から目線」の人からは、アンタは会社での立場があるんだから、頑張るのは当たり前だと言われてしまった。管理職は経営者側の人間である以上、会
6月27日は、かみさんが亡くなった日だ。例年、かみさんの祥月命日には休暇を取り、仏前で静かに過ごしている。かみさんが息を引き取ったのは午前7時直前だったが、その時間には、かみさんに線香をあげ、位牌に手を合わせている。かみさんが亡くなった時間。俺は「奇跡」を期
かみさんが息を引き取った直後のことだった。俺の心に大きな穴がポッカリ空いてしまった。これは決して比喩ではない。現実にある身体感覚だ。自分の大切な部分が欠落してしまった感覚だった。自分と周囲の世界の間に見えない壁ができて、自分だけが孤立してしまった感覚だっ
通勤だとか、出張だとか。あるいは通院だとか、飲み会だとか。もしくは墓参りだとか。俺はいろんな街を練り歩く。かみさんもよく知っている街だったりもする。一方で、かみさんが元気だった頃は、一緒に来たことのない街だったりもする。そんな街を歩くたび、「容ちゃんと一
かみさんが元気だった頃。かみさんができないことは、代わりに俺がやっていた。一方、俺のできないことは、代わりにかみさんがやってくれていた。俺たち夫婦は、お互いを補いあって、お互いを支えあって生きてきた。かみさんと俺が揃えば、できないことは何一つ無かった。か
毎日がつまらない。どんな時でもつまらない。何をするのも億劫だ。どうにも意欲が湧いてこない。どうしようもなく退屈だ。クソ面白くも何ともない。そのせいだ。一日がとても長く感じられる。いつまで経っても夜になってくれないのだ。早く夜が来て欲しい。夜になって眠りに
生きている意味は何なんだ?何のために俺は生きているんだ?かみさんを亡くし、ひとりぼっちになって以来。俺はさんざん問うてきた。だが…この問いに対する答えなんて無いのかもしれない。伴侶やお子さんを亡くした人には答えが無い…ということではない。おそらく家族のい
とても静かだ。空気の流れる音まで聞こえてきそうだ。人の気配がないからだ。周囲には誰もいない。話しかける相手はいないし、話しかけてくる人もいない。俺はひとりぼっちだ。死ぬのは怖くないにも関わらず、孤独は怖い。すべての関係から排除されたのに、それでも生きてい
月曜日から火曜日にかけて。俺は久しぶりに熟睡できた。イヤな夢を見ることもなかった。中途覚醒することもなかった。朝までグッスリと眠ることができた。毎晩こんなふうに眠れたら、毎朝の絶望的な感覚から自由になれるに違いない。だが…今週の火曜日の夜からだろうか。毎
俺は耐えられなくなるかもしれない。かみさんのいない世界の中で、”ひとりぼっち”で生きていくのに耐えられなくなるかもしれない。だが、そんなことは誰にも言えない。誰かに言えば、その誰かは俺を嗤うだろう。あるいは、その誰かが俺を心配してしまうだろう。その誰かに
毎晩、睡眠導入剤を飲んでいる。かみさんが亡くなってから、眠れなくなった俺にとって、睡眠導入剤は「御守り」のようなものなのだ。しかし、必ず薬が効くとは限らない。しょせんは「御守り」に過ぎないためか、効き目を実感できないこともある。なかなか寝付けないことは少
イヤな予感がしている。何かロクでもないことが起こりそうだ。俺の朝は毎日がこんな気分で始まる。その予感が当たることも少なくない。一方で、(クソ忙しいけど)無事に退社時間を迎えることもある。予感は当たる日もあれば、外れる日もあるのだ。おそらく毎朝の予感は“い
身体がダルくて重たい。全身が小刻みに震えている。脂汗が滲んでくる。朝から体調が悪いのだ。梅雨のせいだろうか。気圧が低いからだろうか。だが、街を歩く人々や電車の中にいる人々は、みんな俺より元気そうに見える。どうやら気候とは関係ないらしい。たぶん週末にウィス
かみさんが元気だったころ。会社に入って最初の2年は別として、3年目からは残業も多く、土日や祭日も出勤せざるを得ないことが多かった。会社の中枢部門ばかりに配属されていたからだ。辛くはあった。だが、不満はなかった。その理由は二つある。ひとつ目は、そういう部署
かみさんが亡くなってからの数年間。俺は異常なほど自暴自棄だった。かみさんを守れなかった自分が憎かった。大切な家族と幸せに暮らしている全ての人々が憎かった。かみさんのいない余生を呪った。世界は意外に「伴侶を亡くした人々に冷淡であること」を痛感し、この世界を
もしも先に死んだのが、俺ならば…もしも遺されたのが、かみさんならば…かみさんはいつまでも哀しみ続けることだろう。毎日、俺の仏前にお供えをしてくれるはずだ。毎日、線香をあげてくれるはずだ。だが…かみさんならば、俺のように壊れたりはしない。かみさんならば、俺
かみさんが死んでしまった。俺のいちばん大切な人が死んでしまった。俺はとても悲しい。俺はとても寂しい。生きていてもつまらない。生きていると面倒くさいことばっかりだ。そんなネガティブな言葉ばかりが頭をよぎる。ネガティブな余生なのだから仕方がない。だが、少しは
就寝前には必ず睡眠薬(ハルシオンとレンドルミン)を飲んでいる。そして、遅くとも午後11時には就寝する(ように努めている)。そのまま朝まで熟睡できたら良いのだが、どういうわけか、真夜中には目が覚めてしまう。これが睡眠障害というヤツだ。もう一度、眠りたい…と思
かみさんが元気だった頃。俺には“やる気”もあったし、“生きがい”もあった。かみさんの存在そのものが“生きがい”だったのだ。だが、それだけではないはずだ。仕事にだって、趣味にだって、“生きがい”を見いだしていたはずだ。かみさんが亡くなって、俺の“生きがい”
4月に入ってから調子が悪い。身体ではなく心のほうだ。鬱がひどいわけではない。不安感が強いわけでもない。気力が湧かないのだ。何をするのも億劫なのだ。目を開けるのが面倒くさい。布団から出るのも面倒くさい。風呂に入るのが面倒くさい。飯を食うのも面倒くさい。スー
誰もが何かを持っている。他のモノとは違う「特別な何か」を…だ。決して代替できない何かを持っていること。自分の命よりも大切な何かがあること。それは、人間に生きる力と意味とを与えてくれる。だが、その「特別な何か」を失ってしまうこともあるらしい。そんなことがあ
かみさんが亡くなってから。俺はずっと”ひとりぼっち”で生きてきた。年に数回、義母や2人の義弟たちに会える以外、俺には共に過ごせる家族がいない。休日なんて、一日中、誰とも話すことはできず、声を発する機会もない。面白くもない、クソみたいな毎日だ。だが、面白く
現在6月2日の午前7時9分。いつものとおり、通勤途中でブログの記事を書いている。今日が終われば週末の2連休だ。普段であれば、連休前には憂鬱になってしまう。やるべきこともなく、やりたいこともなく、“ひとりぼっち”で過ごす週末は、他人が想像する以上に寂しいの
俺と同年代の人々。俺より年上の人々。あるいは俺より年下の人々。たくさんの知り合いがいる。その中には義母や二人の義弟もいる。大学時代の友人や、会社で知り合った友だちもいる。こんなに大勢の人々がいるのに、俺だけが異質な立場に置かれている。いつでも話のできる家
かみさんが亡くなってから。俺は心療内科に通院し始めた。気が狂いそうな悲しみに耐えられなかったからだ。1ヶ月間も眠れなかったからだ。以前、主治医に俺の病名を聞いてみたことがある。すると「適応障害・死別反応・睡眠障害」という診断を受けた。それらの病を抱え、苦
「ブログリーダー」を活用して、プーちゃんさんをフォローしませんか?
指定した記事をブログ村の中で非表示にしたり、削除したりできます。非表示の場合は、再度表示に戻せます。
画像が取得されていないときは、ブログ側にOGP(メタタグ)の設置が必要になる場合があります。
かみさんが癌で闘病中のことだった。癌とは診断されたけど、まだ入院する前のことだった。彼女は笑顔で俺に言った。私は幸せだよ…この言葉は、今でも俺の宝物になっている。20年間、一緒に暮らしてきた。二人はいつでも寄り添っていた。この言葉は、俺たち夫婦の「絆」の証
俺より2歳年上の男性がいる。同じ会社の先輩で、俺が管理職になってから3年後、その男性も管理職になったと聞いている。彼と俺とは本社ビルの同じフロアで仕事をしていたことがあり、顔と名前くらいは知っている。だが、同じ部署で仕事をしたことはないため、ほとんど接点
人間は、仕事をするために生きているんじゃない。生きるために仕事をせざるを得ないのだ。かみさんが元気だった頃。俺は生きるために仕事をしてきた。だが、かみさんが亡くなってから、目的と手段が逆転してしまった。俺は今、仕事をするために生きている。だからこそ問うの
かみさんが亡くなった後。周囲の人々の一部が、よく言っていた。せめて子どもがいれば良かったのにねぇ…俺がとても悲しんでいること。俺が慟哭していること。俺が心を病んでしまったこと。精神疾患が原因で会社を休職したこと。そして…俺が“ひとりぼっち”になってしまっ
かみさんと俺は、いつも語り合っていた。死ぬときは、二人一緒が良いよね…そうは言うものの、俺は多分、自分が先に死ぬだろう…と思っていた。女性のほうが、男性より平均寿命が長いからだ。だが…かみさんが癌になってしまった。とても進行の速い癌だった。かみさんは俺を
かみさんが元気だった頃。毎年の夏休み、俺たち夫婦は海外を旅行した。会社からは5日間の夏季休暇が与えられる。7月から9月までの間のどこかの週で、月曜日から金曜日までを休みにすると、土日を入れて9連休になる。その9連休を海外でゆったり過ごすのだ。どこの国に行
物心がついたばかりの幼少期。俺の実家の近所に仲の良い夫婦(Kさん夫妻)がいた。俺は不思議だった。Kさん夫妻は、とても似ていたからだ。夫婦である以上、血はつながっていない。それなのに、何故こんなに似ているのだろうか。一方、俺の両親は似ても似つかない。似てい
かみさんと俺は、散歩が大好きだった。俺が休日出勤をしなくてよい土曜日。雨が降っていない土曜日。二人のどちらかの体調が悪くない土曜日。毎週土曜日のたび、俺たち夫婦は散歩ばかりしていた。6時間から7時間もブラブラ歩いていた。目的地も決めずにブラブラ歩いていた
かみさんが亡くなってから。俺は毎日、泣いていた(と言うより“哭いていた”)。あまりにも強烈で激しい悲嘆に、俺の心が耐えられなかったのだ。そんな日々が、2年から2年半ほど続いたと記憶している。それを過ぎた頃、ようやく俺は、毎日泣くことがなくなった。ときおり
2010年4月28日のこと。癌研有明病院の医師は、俺にかみさんの余命を告げた。医師は悲痛な表情を浮かべながら「余命は年単位ではない」と言った。この言葉を聞いた瞬間、血の気が引いた。俺の全身の血液が、頭から足元に下がっていくのを感じた。気が遠くなった。全身が凍えて
かみさんが元気だったころ。あの20年間を振り返ってみれば、賑やかだったけど、わりと平凡に生きてきたのだと思う。劇的な「変化」があるわけではなかったが、俺たち夫婦は満足で、いつでも穏やかに生きてきたな…と思う。どこにでもいる普通の夫婦。だが、それで良かったの
現在6月26日の午前7時15分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。この記事がアップされるのは6月27日。かみさんが息を引き取った日だ。毎年かみさんの祥月命日には、必ず休暇を取っている。今年も休暇を取ることになるだろう。たぶん俺は、飲酒欲求を抑圧し
断酒を始めてから、そろそろ1か月が経つ。アセトアルデヒドによる覚醒作用もないし、強烈な倦怠感も影を潜めている。睡眠導入剤の効果もあって、寝つきは良いし、熟睡できてもいるようだ。だが、良いことばかりではない。目覚めてからの数時間、強い鬱(うつ)と全身の筋肉
テレビを点けていると、ときおり葬儀会社のCMを見かけることがある。CMからは、「さようならが温かい」だとか、「30%の割引中です!」という声が聞こえてきた。大抵の人々は「良いCMだなぁ…」なんて思っているのだろうか。しかし、そこに最愛の人を亡くした悲しみは
6月21日(土)のこと。午前11時から、かみさんの法要が始まる。俺と義弟はタクシーに乗り、午前10時半には菩提寺に到着した。お供え物と花束をご住職の奥様に渡したあと、俺と義弟は待合室で時間が来るのを待っていた。毎年のことではあるが、かみさんの法要の日は厳かな気持
運の悪いことに、俺は「親ガチャ」に外れてしまった。毒親の下に生まれてしまったため、虐待されて育つことになった。俺の過去には悪夢のような記憶が山積している。虐待されてきた幼少期の記憶は、身体の中心から末端にまで染みついた。そのトラウマが、俺の人生に暗い影を
土日や祭日。家族のいない俺は、完全な孤独だ。話しかける相手もいないし、話しかけてくれるはずのかみさんもいない。そんなとき、友人たちのことを思い出す。今頃みんな、どうしているんだろう…なんて考えてみたりする。Aくんは子どもを諦めたけど、奥さんと仲良く暮らし
現在7月20日の午前7時16分。いつものとおり、通勤途中にブログの記事を書いている。今日は定時で退社する。義弟(かみさんの弟たち)が上京してくれるからだ。そして21日には菩提寺に行く。例年通り、義弟と一緒にかみさんの墓参りに行くのだ。かみさんの祥月命日は6月27日だ
かみさんが亡くなったのは、6月27日のことだった。この記事がアップされる20日は、かみさんの祥月命日の1週間前になる。毎年、祥月命日の直前の土曜日には、かみさんの法要を行ってきた。今年も20日の金曜日、義弟が上京してくれて、21日の土曜日には、俺と一緒に菩提寺に行
かみさんが亡くなってから。俺は希死念慮に囚われた。世界でいちばん大切なモノを失ってしまったからだ。人生を共に歩んでいく伴侶を喪ったからだ。暖かい家庭を失ったからだ。未来に絶望してしまったからだ。そうだ。俺は消えてしまいたいのだ。だが、自死する度胸なんてあ
かみさんが亡くなって多少の時間が過ぎた頃。俺の中に希死念慮が生まれた。そこには、いくつもの理由があった。強烈な悲嘆に耐えられなかったからだ。心身を引き裂かれたような、激しい痛みが苦しかったからだ。持っていたモノすべてを失って、自分の人生に絶望したからだ。
週末はずっと布団の中にいた。身体が半端じゃなくダルかったからだ。さらには鬱がひどかったからだ。死にたいと強烈に思った。眠っている間に心臓が止まってしまえばいいと思った。かみさんが亡くなってから。俺はずっと“ひとりぼっち”で生きてきた。だから分かるんだ。か
明日は今日より良い日だろう。もし明日がダメだとしても、1週間後あるいは1か月には良い日がやって来るだろう。1か月後がダメだとしても、1年後には、事態は好転しているはずだ。かみさんと出会って以来。俺はそんなふうに思って生きてきた。かみさんの生前。俺は意外と
今朝も早く目が覚めてしまった。時計を見ると、まだ午前4時過ぎだった。せめて5時半くらいまで眠っていたい。だが、最近は暗いうちに目が覚めてしまう。仕方がないので布団の中にいるのだが、心の底から沸き上がる「不快感」に耐えられない。俺は「死にたい… 死にたい…」と
生きてはいても楽しいことがあるわけじゃない。苦しみに耐えても報われるわけじゃない。死んじゃったっていいのだが、自ら命を絶つ度胸もない。仕方がないから生きている。それはとても虚しくて苦痛な日々だ。面白くもないクソみたいな日々だ。そんな俺に対し、せめて子ども
かみさんが癌研有明病院に入院していた時期のこと。最初で最後の抗癌剤治療が行われた日のことだった。かみさんは病室のベッドで眠っていた。俺はベッドの横に置かれた椅子に座り、かみさんの寝顔を見つめていた。かみさんが目を覚ました。そして、かみさんが言った。プーち
毎週の土曜日と日曜日。俺は自宅の中で“ひとりぼっち”だ。会話をする相手はいない。触れあうことのできる相手もいない。まるで世界には、俺しかいないみたいだ。とても寂しい。とても不安だ。溶けて崩れてしまいそうだ。俺は自分を保つため、ウィスキーに手を伸ばす。ちび
ある方から頂いたコメントを読んで、思い出したことがある。ごく最近のことだ。俺がテレビを見ていたら、出演者が言っていた。夫婦はいずれ死別するんだから。早いか遅いかだけの違いだよ。俺は愕然とした。言っていることに間違いはない。だが、それが夫や妻を亡くした人に
とっくに諦めていたはずなのに…俺は心の底から思ったのだ。かみさんがいた頃に帰りたい。6月29日の午前3時前。真夜中に目覚めた直後のことだった。哀しかった。淋しかった。心細かった。だが、こればっかりは、どうしようもないのだ。誰かが手を差しのべてくれるわけではな
6月27日。かみさんの祥月命日だった。この日、俺は一日、自宅にいた。夕方から軽い不安感があり、俺はウィスキーを飲み始めた。グラスを傾けるスピードが、いつもより速かった。俺はすっかり泥酔してしまった。意識が朦朧とし、夜8時半には寝床に就いた。最初に目覚めたのは
会社から帰ってくると、いつでもかみさんが俺を出迎えてくれた。遅くまで残業し、午前0時を過ぎて帰宅しても、「先に寝てな」という俺の言葉をスルーして、かみさんは俺を待っていてくれた。かみさんはいつでも笑顔だった。いつでも家の中は明るくて、俺を包み込む「何か」に
6月27日。かみさんの祥月命日がやってきた。あれから、ずいぶん時間が経った。だが、俺には「ずいぶん時間が経った」という実感がない。1日という時間はとても長い。毎日を乗り切ることがとても苦しい。淋しくて、虚しい時間は、長く感じられるってことなんだろうか。それな
かみさんが癌だと診断されたとき。俺は主治医と二人きりになる機会があった。そして俺は、主治医に質問をした。かみさんは、どのくらい生きられますか?主治医の回答は残酷なものだった。余命は年単位ではありません…俺が期待した答えではなかった。俺は、奥さんは治ります
かみさんの祥月命日の法要が終わり、義母と2人の義弟は、北海道に帰っていった。法事という大きなイベントが終わり、少しは緊張もほぐれるだろうと思っていた。そうすれば、俺の交感神経の興奮も治まって、久しぶりに熟睡できるだろうと期待していた。だが、やはり眠れなか
かみさんが亡くなってからの数年間。俺はかみさんを探していた。かみさんの姿を求め、何もないはずの虚空に向かって腕を広げていた。かみさんの気配を探り、静まり返った空間の中で意識を研ぎ澄ませていた。だが…探したところで見つかるはずはない。確かに俺は、かみさんを
心と身体は区別できるんだろうか。精神と肉体とを別々に論ずることは正しいのだろうか。たしかに心理学のベースには「心身二元論」がある。身体とは別に、心という実体があるという前提に立たない限り、心を対象にした科学は生まれないはずなのだ。だが、心理学は科学ではな
かみさんが元気だったころ。俺にはたっぷり「自分の時間」があった。今より遥かに残業が多かったし、休日出勤も少なくなかったが、それでもたくさんの「自分の時間」があった。かみさんがいてくれたからだ。かみさんと一緒にいる時間。それは俺にとって「自分の時間」だった
この記事がアップされる6月21日の金曜日。俺が会社から帰宅すると、家の中には義母と2人の義弟がいるはずだ。3人は「おかえり~」と言って、俺を出迎えてくれるだろう。6月27日は、かみさんの祥月命日だ。この日の早朝7時前、かみさんは、俺と義母に看取られながら逝った。
かみさんが亡くなってから。俺は睡眠導入剤を飲まないと眠れなくなってしまった。ずいぶん長い間、薬に頼り、身体が慣れてしまったせいだろうか。それとも、ここ数ヶ月、精神的に追い詰められているせいだろうか。睡眠導入剤が、あまり効いていないようなのだ。寝付きは良い
6月17日の月曜日。いつものとおり、睡眠導入剤を飲んでから寝床に就いた。就寝時間は午後11時頃だった。それから何時間が経っただろうか。また夜中に目が覚めた。いつもの中途覚醒とは違い、決して不快な気分ではなかった。その直前まで、俺は夢を見ていたのだ。かみさんの夢