題を「困った時はダンマパダ」から「困った時はダンマパダ、スッタニパータで悟りを開く」に変更しました。
ダンマパダ423詩の解説を何回か終えた段階で、少し趣を変えて、異なるお経の勉強を始めようという思いに至りました。どのお経を選択するかいろいろ迷いましたが、毎日少しずつ勉強するのに都合がよく、仏教を勉強する人たちに人気のあるお経として、スッタニパータを選びました。
(以下引用) 【功徳を積むには】(3) ● 修行者は、決して自分を捨て去ってはならない。自分自身こそが功徳の拠り所である。もし自分を捨て去ってしまうならば、覚りも何も意味をなさない。覚りは、自分を決して捨て去らないところに存在しているからである。もちろん、自分にこだわる余り、他の人を傷つけたり悲しませたりしては本末転倒である。すなわち、自分を含めて誰の居場所を奪ってもならない。ここにおいて…
(以下引用) 【功徳を積むには】(2) ● 修行者は、悲しみを熟知し、しかも悲しみを知らぬ人であれ。そうでなければ、解脱しないからである。これは、悲しみに打ちのめされてはならないという意味である。この世には悲しみが多いことを知ったとき、ある人はどうすればよいのか分からなくなり、立ちすくんでしまうだろう。しかし、それでは仏道を歩むことはできない。修行者は、悲しみを超えて道を歩まなければならな…
私は、この世に生を受けてもうじき70年になります。平和だった、日本という国の歴史上一番良い時代に生まれ育ち、戦後の高度成長期も経験し豊かな日常が築かれた事を思い出します。 私は覚り以前にも、自分自身が生まれ育った境涯を「天上界」に近いものであったと振り返っています。読者の皆様は、自分自身の境涯をどの様に捉え・考えておられるでしょうか? 仏教には、境涯を表す言葉として六道(ろくどう・りくどう)と…
(以下引用) 【功徳を積むには】(1) ニルヴァーナを目指して修行する人にとって、どうすれば功徳を積むことができるのかということは重大な関心事であろう。その具体的なことを述べたい。 ● 修行者は、自分を含めて、誰も悲しませてはならない。悲しみあるところには、決して功徳は生じないからである。これは、逆に見れば人は知らずに他の人を悲しませている恐れがあることを指している。したがって、何かを…
(以下引用) 【功徳を積むこと】(7) ● 功徳は、功徳を呼ぶ。この意味において、修行者は小さな功徳を軽んじるべきではない。実際には、功徳を積むことによって他の人を覚り(安らぎ)に近づけることになるであろう。そして、そのことによって自分の安らぎがいや増し、巡り巡ってさらなる功徳が積まれたことになるわけである。 (以上引用) *法津如来のコメント 「功徳は、功徳を呼ぶ。」これは、「…
(以下引用) 【功徳を積むこと】(6) ● 功徳は、これで功徳が積まれるだろうなどと意識して積むものではない。しかしながら、仏道を歩む修行者は功徳を積むことそれ自体は意識すべきである。これは、功徳ということを知らずに無邪気に功徳が積まれるものではないという意味である。例えば、勉強は意識して行わなければ身につかない。つまり、漫然と勉強するなどということは意味をなさない。それと同様である。 …
(以下引用) 【功徳を積むこと】(5) ● 功徳は、想念の帰趨ではない。功徳を積もうとして何を想い、何を念じても、それによって功徳が積まれることはないということである。つまり、功徳はこころに積むものであるが、それは想念によるものではないという意味である。逆に言えば、想念によって功徳が損なわれることもないということでもある。このため、観(=止観)を為すときには善だけでなく悪についても想念を巡…
(以下引用) 【功徳を積むこと】(4) ● 功徳は、行為の帰趨ではない。要するに、功徳は気持ちの問題であるということであり、功徳はこころに積むものであると知られるということである。このため、行為の多寡とは無関係に功徳は積まれる。ある場合には、何一つ行為せずに功徳が積まれる。つまり、やさしい行為が功徳になるわけではなく、やさしさの追究が功徳を積むことの本体であるということである。この真理は、…
(以下引用) 【功徳を積むこと】(3) ● 個人の性格傾向と功徳とは関係がない。すなわち、どんな性格の人でも等しく功徳を積むことができる。これは、そもそも解脱がこの名称と形態(nama-rupa)の脱落・終滅という根本の現象であるためである。性格傾向は、このうちの名称(nama)作用に関わることがらであり、どのような性格傾向の上にも功徳を積むことができる。そして、解脱によってこの余計なもの…
(以下引用) 【功徳を積むこと】(2) ● 功徳を積んでいるときにそのことが意識されることはないが、実際に覚ったときにそれまで充分に功徳を積んだことが覚知される。これは、解脱知見の一つである。たとえば、睡眠中にはしっかりと眠っているなどというような意識はないが、翌朝気持ちよく目覚めたときにぐっすりと眠ったことを知るようなものである。このとき、スッキリと目覚めただけでなく疲労が回復しているこ…
人生長く生きていると不可思議な現象に出会うことはあり得るとして、私が今日語ることも「その様な内容」で話が出来すぎているように思いますが書いてみます。 私が、不可思議な夢と題して語ろうとするのは、仏教を学ぶに当たって最初の師となった阿含宗の桐山靖雄氏の夢を見たことなのですが、その件について現在の師(SRKWブッダ)に夢の内容記事を書いたメールを発信したのは2017年10月7日です。 そこでは、「…
(以下引用) 【功徳を積むこと】(1) 前の章で述べたとおり、功徳を積むことが仏道修行の主要部分である。 「自己の本性(ほんせい)に功徳があるのだ。見性が功であり、素直さが徳である。」(六祖壇経)引用:世界の名著〈18〉禅語録(1978年)(中公バックス)柳田聖山(訳) ISBNー13:9784124006285 140ページ これは禅の六祖(=慧能ブッダ)の言葉であるが、功徳について見事に説明している。す…
(以下引用) 【修行】(10) さて、もしも覚りに向けた修行が、たとえば幾何学を理解するようなことであるならばまだ分かり易いであろう。つまり、シンプルな幾何学の証明を沢山学んでおき、その上で高度な幾何学の問題に取り組む。ここで充分に学んでいればその問題が周到に解けるものと期待され得るというようなものである。実際、素養を身につけた人は、問題を見た瞬間にその具体的な解き方がひらめくであろう。 …
(以下引用) 【修行】(9) ● 修行は、途中においても心を安んじるものでなければならない。これは、修行は怪しげなものであってはならないという意味である。 (以上引用) *法津如来のコメント 修行は始まりも善く、途中も善く、終わりも善くなければなりません。 ここでは途中について説かれています。 「心を安んじるもの」とは、心が落ち着き、静かになるものです。 「怪しげなもの」とは…
(以下引用) 【修行】(8) ● 修行は、いつでも、どこでも、どんな時代でもできるものでなくてはならない。場所や環境を選ぶものは、最高のものとは言えないからである。 (以上引用) *法津如来のコメント この引用の意味では、修行は重力のようなものです。いつでも、どこでも、どんな時代でも働いています。場所や環境を選ぶものではあります。 しかし、重力を自覚しなければそれが意味がないよう…
(以下引用) 【修行】(7) ● 修行は、誰にでもできるものでなくてはならない。これは、身体に障害がある人でも修行できることを意味している。 (以上引用) *法津如来のコメント 「修行は、誰にでもできるものでなくてはならない。」・・・これは仏教は平等を説いているからです。 「これは、身体に障害がある人でも修行できることを意味している。」・・・これは仏道修行は精神的なものだか…
(以下引用) 【修行】(6) ● 修行は、終わりのあるものでなくてはならない。果てしない修行は誰も完成させることができないからである。 (以上引用) *法津如来のコメント 「人生一生修行である。或いは修行に終わりはない。」というような考え方があります。このように考える方の修行ならば、修行に終わりはないでしょう。 しかし、仏道修行というものには終わりがあるのです。それは修行の完成、…
(以下引用) 【修行】(5) ● 修行は、時間の無駄や紆余曲折を気にせずに行うべきである。しかし、それが最短の道筋となる。 (以上引用) *法津如来のコメント 「時間の無駄」とは、良い結果に結びつかなかった時に言われますが、失敗は成功の母(元)なのです。失敗という無駄と思われることがあるからこそ、成功があるのです。時間の無駄(失敗)を気にしては成功はありません。 また、失敗がある…
「私の発心」と言う内容で記事を書こうと、ワンギーサ先生(法津如来)とやり取りしたメールを見ながら過去を振り返りました。 メールのやり取りは、2017年7月1日から始まりましたが、先生の懇切丁寧なご返事・教え・その他諸々が無ければ現在の私は存在しませんが、今思えばやはり縁が深かったんだなと思わざるを得ません。 私は覚りを得る以前、元職業軍人であり性格的にも攻撃的なところがあり、ストレートに言いた…
(以下引用) 【修行】(4) ● 修行は、楽しいものでなくてはならない。楽しくなければ最後まで続かないからである。 (以上引用) *法津如来のコメント 前回の「修行は、自発的に行わなくてはならない。」という理由は、そうでなければ楽しくならないということもあります。 また、「ニルヴァーナは最上の楽しみ」と説かれていますが、ニルヴァーナを目指す修行も楽しいはずなのです。もしその修行が…
(以下引用) 【修行】(3) 以下に、このあり得べき修行についてポイントとなることを列記したい。 ● 修行は、自発的に行わなくてはならない。そうでなければニルヴァーナに到達しないからである。 (以上引用) *法津如来のコメント 以下八項目で、このあり得べき修行についてポイントが述べられることになるのですが、今回はその第一番目です。 それは、「修行は、自発的に行わなくてはならな…
(以下引用) 【修行】(2) ところで、前の章で仏道は一なる道であると説明した。これを一なる修行法があるのだと誤解しないで欲しい。これは、覚りの基本的な道筋が唯一であるという意味だからである。とくに、道の歩みの最後の局面たる覚りの瞬間に起こることが皆同じであるので、このように表現されるわけである。具体的には、 ● 法の句を聞き及び、それが智慧そのものであることを理解した人には直ちに解脱…
(以下引用) 【修行】(1) ずっと前の章で、 「仏道を歩み始めたばかりの人は、修行することが道の歩みそのものであろうと考えているかも知れない。もちろん、それはその通りなのであるが、知っておかなければならないことは、実のところ固定的な修行法など何一つ存在していないという事実である。 {中略} では、修行の実際とは何であるのか。読者は、知りたいであろう。 仏道を歩むための修行は、「遍歴修…
SRKWブッダ著「仏道の真実++」具体的な覚りの機縁(広義)(11)
(以下引用) 【具体的な覚りの機縁(広義)】(11) ● 経典を開いて読むことは、覚りの機縁となる。好きな経典でよい。全部読まなくてもよい。どの部分からでもよい。気になったところをくり返し読むのもよい。何となく読んでも構わない。何かにつけ経典に触れることは、覚りの機縁を喚起する大きな契機となるものである。 (以上引用) *法津如来のコメント これは一つの詩です。 ・・・・・ 経…
SRKWブッダ著「仏道の真実++」具体的な覚りの機縁(広義)(10)
(以下引用) 【具体的な覚りの機縁(広義)】(10) ● 理法(=仏が説いた言葉)について語らうこと。これが最も基本的な覚りの機縁となるものである。なお、語らうときには静かに、楽しんで、和やかに行うべきである。経が世に誦出されるのには、因縁がある。仏は、意味もなく理法を口にしたりはしない。なぜ仏がその時にその理法を語ったのかについて、発端と顛末と帰趨とを総合して吟味しなければならない。理法…
「人(ヒト)は誰でも変身出来る。」・・・それは、私自身が実際に10代後半から20代前半にかけて経験したことです。そのことについて書いてみます。 「両親の離婚」による精神的ダメージから抜け出すことの出来なかった10代の私は、「いつ、この世から消え去っても不思議ではない」存在でした。・・・それが、音楽の楽しさと喜びを通じて人生の意義に目覚め、楽器の練習を通じて「継続する力の偉大さ」に気づきます。 …
SRKWブッダ著「仏道の真実++」具体的な覚りの機縁(広義)(9)
(以下引用) 【具体的な覚りの機縁(広義)】(9) ● 三宝(仏法僧)を敬うことは、覚りの機縁となる。より具体的には、例えば法華経方便品第二に記されているようなことがらを指す。詳細については、原典を参照されたい。 (以上引用) *法津如来のコメント 「三宝(仏法僧)を敬うことは、覚りの機縁となる。」このことは、日本では古来より、言い伝えられたことです。その証拠は、聖徳太子の17条憲…
SRKWブッダ著「仏道の真実++」具体的な覚りの機縁(広義)(8)
(以下引用) 【具体的な覚りの機縁(広義)】(8) ● 真のしあわせとは何であるのかを追究することは、覚りの機縁となる。この答えは実は明確に存在しているが、本人が自分自身で追究することが覚りの機縁を喚起する契機となり得るということである。言うまでもなく、仏道に勤しむ目的は真のしあわせを獲得することにある。これは、その目標をできるだけ明確化しておくことを勧めるものである。ある人が道を逸れてし…
SRKWブッダ著「仏道の真実++」具体的な覚りの機縁(広義)(7)
(以下引用) 【具体的な覚りの機縁(広義)】(7) ● 心について思惟・考研することは、覚りの機縁となる。具体的には、心理学やアビダルマなどの勉強がそれに当たる。これによって、何が人を煩わせているのかを理解する基礎を培うことができるからである。それが、ついには苦の真実を明らめることに繋がる。衆生は煩うが、覚った人は煩いが無いと言う。その理由を知る切っ掛けともなる。大人と子供では心のあり方が…
SRKWブッダ著「仏道の真実++」具体的な覚りの機縁(広義)(6)
(以下引用) 【具体的な覚りの機縁(広義)】(6) ● 仏教の話を好み、楽しむことは、覚りの機縁となる。仏教について語らうことが、覚りの機縁そのものを喚起することさえある。基本的に、覚りの機縁を意識的に喚起することはできない。しかしながら、仏教について語らう中においてそれを結果的に生じることはしばしば見られることである。実際にこれが起こったとき、覚りの機縁の不可思議さを身を以て知ることに…
SRKWブッダ著「仏道の真実++」具体的な覚りの機縁(広義)(5)
(以下引用) 【具体的な覚りの機縁(広義)】(5) ● 我執や愛執を離れた人がこの世に存在し得るということを認知することは、覚りの機縁となる。それが一時的に世に出現した化身であっても、そうである。これは、善知識の出現を見る機縁となることがらである。このとき、自分もまた我執や愛執を離れなければならない。それによって、善知識が明らかとなるからである。 (以上引用) *法津如来のコメント …
SRKWブッダ著「仏道の真実++」具体的な覚りの機縁(広義)(4)
(以下引用) 【具体的な覚りの機縁(広義)】(4) ● 苦行に近づかないことは、覚りの機縁となる。苦行は無益である。苦行は、道を汚すものに過ぎない。解脱とは何であるのかが正しく理解されていないと、苦行によって浄らかになれるという誤った見解を抱くようになる。苦行によって覚ろうとするのは、怪我した部位をさらに傷つけて治そうと目論むような愚行である。覚りにおいて苦行が無益だというのは、覚りの道は…
SRKWブッダ著「仏道の真実++」具体的な覚りの機縁(広義)(3)
(以下引用) 【具体的な覚りの機縁(広義)】(3) ● 瞑想(メディテーション)を捨て去ることは、覚りの機縁となる。これに限らず神秘的な現象はすべてその対象となる。これらは一種興味深いものではあるが、覚りとは無関係である。したがって、どこまで掘り下げて体得しても時間の無駄である。これは食物に譬えれば、瞑想は酒のようなものに過ぎないということである。飲んでも栄養とはならず、加水分解されて終わ…
石法如来の特別寄稿「少年時代の思い出・・・そして音楽に救われる。」
少年時代の思い出・・・そして音楽に救われる。 私は、仏教に関する限り35歳から自分独自の道を歩んで参りましたが、長い年月仏道を歩み続ける原動力となったのは少年時代の衝撃的なある出来事がきっかけです。 その衝撃的な出来事がなかったなら、私は仏教とは無縁の人生を歩んでいた可能性が高いです。 私の人生史上最も衝撃的な出来事とは「両親の離婚」です。私が、小学校3年生(8歳)の時の出来事で、今でこそ…
SRKWブッダ著「仏道の真実++」具体的な覚りの機縁(広義)(2)
(以下引用) 【具体的な覚りの機縁(広義)】(2) ● 仏とは何者であるかを思惟・考研することは、覚りの機縁となる。これは、自分が進む道の到達点に何があるかをイメージするのに役立つ。衆生にとって、智慧が何であるのかをいきなり考究することには本来的に無理がある。なぜならば、智慧(=仏智)は人智を超えたものだからである。この世のすべての知識や経験や思索を集め極めて知的な人が考験したとしても、智…
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