スサノオ・大国主ノート159 『太陽を南から登らせる』邪馬台国畿内説
わが国の古代史研究は「天皇家建国論」が大勢を占めているように思いますが、私は記紀・風土記と魏書東夷伝倭人条分析を通して、スサノオ・大国主7代による百余国の「葦原中国・豊葦原水穂国」=「委奴国(ふぃなのくに)」の建国からこの国の古代史研究は始めるべきと分析を続けてきました。―『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』等参照そして未だに決着がついていない邪馬台国論争については、百余国の「委奴国(ふぃなのくに)」から乱により30国が分離し、この30国は「相攻伐歴年」の後に卑弥呼を共立して「邪馬壹国連合」の「倭人国」となり、70余国の「天鄙国(あまのひなのくに)」と並立状態となり、卑弥呼の後継者争いに敗れた男王派のニニギは薩摩半島南西端の笠沙・阿多に逃げ、その4代目の山人(やまと)族の若御毛...スサノオ・大国主ノート159『太陽を南から登らせる』邪馬台国畿内説
2024/06/27 15:51