1972年に日本の仏教徒によって扶余の地に建てられた「仏教伝来謝恩碑」をツアーコースにはなかったので特別に頼んで訪問しました。逆光だったので正面の文字がよくわかりませんが、裏面に由来が書いてありました。「ツアーコースにない所」韓国7仏教伝来謝恩碑
1972年に日本の仏教徒によって扶余の地に建てられた「仏教伝来謝恩碑」をツアーコースにはなかったので特別に頼んで訪問しました。逆光だったので正面の文字がよくわかりませんが、裏面に由来が書いてありました。「ツアーコースにない所」韓国7仏教伝来謝恩碑
日本敗戦(韓国では光復日)の翌日1945年8月16日にここ西大門刑務所から多くの反日、独立運動をした囚人たちが出獄しました。ここ西大門は植民地時代(韓国では日帝時代)多くの政治犯が収容されていました。4月30日に紹介した柳寛順ユガンスンもここに収容され拷問で死亡しました。その後普通の刑務所になりましたが、1998年歴史館になり一般公開されています。冒頭写真は入り口です。博物館内は薄暗くノーフラッシュのカメラで腕も悪く、日本語の説明文も少なく良い写真は有りませんが、以下4点を紹介します。皇国教育。獄中で皇国教育がなされていたのですね。蛇足ながら戦後教育の皆さんに「皇国」とは「天皇の統治する国」という意味であることを注にしておきます。担当者も本気で彼らに皇国教育ができると思っていたのでしょうかね。朝鮮語学会事...「ツアーコースにない所」韓国6西大門刑務所歴史館
前回は女子生徒の人気ナンバーワンの柳寛順ユグアンスンを紹介しましたが、今回は男子生徒のナンバーワンの李舜臣の紹介です。釜山の龍頭山公園に彼の銅像があることを司馬遼太郎の著書に書かれていたのでツアーコースになかったのですが行きたいと思いました。ツアーコースにはなかったのでおねがいしました。いったんは拒否されましたが、結局行きことになりました。時間的余裕は充分でした。ここを訪れてもその日のホテル到着は午後4時頃でした。銅像の足元に日本語による李舜臣の業績の説明がありました。次のように書かれています。「この銅像は朝鮮時代に起きた壬辰倭乱(文禄・慶長の役)で、危機に瀕した国を救った、救国と忠節の象徴である忠武公李舜臣(1545年~1598年)将軍を称えるために1955年に建てられたものである。李舜臣将軍は1592...「ツアーコースにない所」韓国5李舜臣
少し古い記録ですが、1993年の朝鮮日報紙に淑明女子大学のキム・クアナン教授の「尊敬する歴史上の人物」というテーマで国民学校から高等学校までの生徒1800名に対するアンケート調査の結果が載せられました。男子生徒1李舜臣2世宗大王セジョン(朝鮮王朝4代の名君で作りハングルを作りました)3エディソン4シュバイツアー5リンカーン女子生徒1柳寛順ユグアンスン2世宗大王3ヘレン・ケラー4シュバイツアー5李舜臣(「ある日韓歴史の旅」竹国友康著、朝日選書p216より)ここで注目していただきたいのは韓国人の名前が3人ですがそのうち2名までが日本の侵略に抵抗した人であることです。皆さん、女子生徒がトップに挙げた柳寛順をご存じですか。韓国のジャンヌダルクとも呼ばれています。以下柳寛順ユグアンスンについての記述は主に「観光コー...「ツアーコースにない所」韓国4柳寛順ユグアンスン
意図的に削除されと思われる代表的な場所がソウルにあるパゴダ(タブコル)公園です。ソウルの仁寺洞(インサンドン)商店街の隣り合わせにパゴダ公園があります。この商店街には1時間以上の散策の時間を与えながら、パゴダ公園への案内にはありませんでした。1910年に日本は韓国を併合しました。「1919年3月1日(中略)民族代表者33名の名前で独立宣言を発表(中略)ソウルではタプコル(パゴダ)公園に集まった各級学校学生と市民が市街地に出て万歳示威を(中略)」大極旗の波と大韓独立万歳を叫ぶ声全国に***日帝は憲兵警察はもちろん、陸海軍まで緊急出動させた。平和的な示威によって正当な要求を主張したわが民族は、無差別の銃撃によって殺傷**」(国定韓国高等学校歴史教科書日本語版1996年版p405~406)もちろん日本の歴史教科...「ツアーコースにない所」韓国3パゴダ(タブコル)公園
景福宮は朝鮮王朝をおこした李成桂(太宗)(在位1392年~1408年)が1394年に建てた王宮です。1592年の文禄の役(韓国では壬辰倭乱)で破壊、1865年再建されました。1895年国王の妃、明成皇后(閔妃)がこの宮殿で日本によって暗殺されました。当時日本とロシアは朝鮮への影響をめぐって互いに対立していました。(結果は日露戦争)その時日本は明成皇后を親ロシアとみなし日本の駐韓公使三浦梧楼の指示を受けた人たちがこの宮殿の坤寧閣に乱入し虐殺しました。「日韓交流の歴史」は「より深くするために」で以下のように記述しています。「明成皇后殺害事件の重要性を学んでほしい。日本の朝鮮侵略は、日露戦争から本格化するが、その前に高宗国王の后を王宮内で殺害するという重大事件を起こしている。この事件は、日本の公使が関与していた...「ツアーコースにない所」韓国2景福宮キョンポックン明成皇后殺害現場
韓国旅行(2011年)は10日間という比較的長いパックツアーでしたが、韓国と日本との関係を示すところにはほとんど案内されませんでした。意図的にそのような歴史的な場所への観光は削除されているようでした。そこで旅行最終日の38度線の観光をキャンセルしてこうしたところを訪れました。そのいくつかを紹介します。まずは前回紹介した安重根のソウルにある記念館です。安重根義士記念館については現地手配会社の高さんは「今後とも日本人のツアーコースには絶対に入らないでしょう。なぜならば安重根は韓国では国民的英雄だが、日本ではと、ここで言い淀みました」。そこで私が続けて「日本ではテロリストですか?(私がそう考えているのではありません)と尋ねましたが、答えは返ってきませんでした。さてホテルでタクシーの手配を頼みました。ところが驚い...「ツアーコースにない所」韓国1安重根義士記念館
安重根(朝鮮語読みアン・ジュングン1879~1910)は朝鮮の大韓帝国時代の朝鮮独立運動家で1909年朝鮮を日本の保護国にした責任者として伊藤博文をハルビン駅構内で射殺した人物です。その「安重根義士記念館」がハルビン駅構内にも隣接してありました。ツアーコースにはありません。事前ににもの存在を知りませんでした。それは「観光コースでない『満州』」(高文研2011年第3刷p165)の以下の文章によります。「**暗殺現場は、終戦まで***円形のガラスがはめられ***解放後も目印があると聞いていたが***我々が訪れた時は***駅員に聞いてもどのホームかさえもわからなかった。**考えてみれば、日本人がロシア人に会うために訪れ、朝鮮人に殺された場所など中国人には全く関係が無いのだから、なにも残ってなくても当然かもしれな...「ツアーコースにない所」ハルピン安重根
ギリシアの地図を見ていただければ分かりますが、アテネからアドリア海に抜ける海路はペロポネソス半島を迂回しなければなりません。そこでコリントスの所で運河を通すことが考えられました。古くはBC6世紀コリントスの僭主ペリアンドロスが運河開鑿を計画しますが断念します。AD67年にはかのネロ皇帝が6000人のユダヤ人囚人を使って開鑿を始めましたが、ゴール人の侵入で頓挫します。結局(1883~1893年)スエズ運河の開削に刺激されフランスの会社によって開通されます。この運河は全長6436メートル、幅23メートル、高さは高い所で90メートル、水深8メートルです。第二次世界大戦中ドイツ軍が運河を利用するのを阻止するためには意図的に運河を破壊せざるを得ないこともありました。この復旧には5年あまりかかりました。現在は幅が狭い...「ツアーコースにない所」編5コリントス運河の前身ディオルコス
写真は何の変哲もないドイツのポツダムある風車です。私はドイツ旅行を決めたとき、もしこの風車がまだ存在していればぜひ見たいものだと期待しました。勿論観光コースに入っていませんので、現地のガイドに尋ねると現在も存在しているとして場所を教えてくれました。見たかった理由は今から約140年前に岩倉使節団(注1)の一員としてここを訪れた久米邦武(注2)が書いた「米欧回覧実記」という本の以下のような一節です。「宮殿の西に1つの風車がある。フリードリッヒ・ウイルヘルム(大王)が宮殿の修築を行った際、このあたりの土地を買い増したところ、そこに風車があって庭園の風景の邪魔になるので、風車の持ち主に命じて取り壊させようとした。ところが風車の持ち主がこれを聞き、ベルリンには法律家は1人もいないのかと言って、返事をせず、取り壊そう...「ツアーコースにない所」4ポツダム風車
アイルランド旅行に出かける前にガイドブック「LONELYPLANETIreland」を見ていたらコークの市内地図に“Hiroshima&NagasakiMonument“と書いてありました。説明はありませんでした。日本語のガイドブック「地球の歩き方ダイヤモンド社」にはありませんでした。このパックツアーの観光コースにも入っていません。そこで宿泊のホテルの近くだということを確認して早朝出かけることにしました。しかし私は稀代の方向音痴(この時ダブリンで集合場所を間違えて皆さんにご迷惑を掛けました)なのでホテルの受付で場所を尋ねました。係りの人は暫し首を傾げていましたがようやく分かったか説明してくれました。しかし方向音痴と英語力の不足のためよくわかりません。ままよ、と出かけ途中でたずねましたが殆どの人は知りません...「ツアーコースにない所」3コークの原爆追悼碑
イタリアのポンペイ遺跡は有名でイタリア旅行では必ず行くところです。そこに売春宿跡があるのを皆さんご存じですか。ツアーコースにはありません。ガイドブックにもありません。偶然旅行前にその存在を知り、現地ガイドに話をしたところ紹介してくれるということになりました。ところがその後がいけません。添乗員が「女性の参加者はそのようなところに行くことを嫌います。困ります」と抗議をわたくしにしてきました。しかし本音はどうやら先に現地ガイドに話をして添乗員を無視したところに激怒したようです。写真がその売春宿跡です。上部にちょっと見にくいですが男根(ペニス)がありますね。「米欧回覧実記」は「一区ニハ花街アリ***戸ノ上頭ニ画ヲ存セルアリ、多ク淫褻(インセツ)ノ図ナリ」(岩波文庫p334)と記しています。ポンペイにはかなりの数の...「ツアーコースにない所」2ポンペイ売春宿跡
わたくしが利用した海外旅行はほとんど自由時間がありませんでした。したがってコースにない所の観光はほとんどできません。しかし、関心があるところに行きたいところがあったときには、添乗員または現地ガイドにお願い、少ない自由時間の利用、一同から外れて単独行動という方法があります。それらの方法で「ツアーコースにない所」を観光したところをいくつか紹介します。イスラエルに黒人のユダヤ教徒がいるのをご存じですか。その起源はエチオピアです。エチオピアには以前10万人を越す黒人のユダヤ教徒がいました。彼らはファラシャと呼ばれていましたがその意味が「よそ者」「流浪人」であることから当人たちはその言葉を忌避していてベター・イスラエルと呼ぶ場合があります。その起源には種々な説があり不明ですが1975年イスラエル政府がユダヤ教徒(人...「ツアーコースにない所」編1黒人ユダヤ教徒ファラーシャ
JapaneseJewモロッコのマラケシュでは自由時間があったのでシナゴーグ(ユダヤ教礼拝場)に出かけました。lonelyplanetにはシナゴーグに行くには現地ガイドが必要と書いてあったので路上にいた現地ガイドに案内を頼みました。その彼は私に”JapaneseJew?”(日系ユダヤ人か?)と尋ねました。多分シナゴーグを訪ねる日本人は珍しいのでしょう。。香港2007年に香港経由でナイロビに向かいました。その最初の香港までの機内で3人掛けの窓際に若夫婦(恋人?)がいて年寄りの私を気遣ってくれて手荷物の収納などを手伝ってくれました。日本人ではないようなので「チャイニーズ?」と尋ねてみました。答えはそれを否定する語調でホンコン(香港)でした。「!?なるほど」が私でした。最近の香港情勢を考え写真は紹介しません。c...「忘れられない」編一言
ロベン島は南アフリカのケープタウンの沖合い12kmにある島です。アパルトヘイト(人種隔離差別政策)時代、主に政治犯黒人専用の刑務所島だったところです。1959年から1991年まで述べ約3000人が収容されていました。当時の写真です。一人ひとりかなりの間隔があけられて作業をしていますね。其の中には後にノーベル平和賞受けるネルソン・マンデラもいました。1999年島全体が世界遺産登録されました。広島の原爆慰霊碑とともに負の世界遺産です。ケープタウンから船に乗って20分くらいでした。ちょっと余談話このアパルトヘイト白人優位時代の日本人は「名誉白人」という不名誉な名前をもらい白人に準じた扱いを受けていました。ただ白人女性と結婚した日本人が「雑婚禁止法」で国外退去になったことがありました。それに対してプレトリアの日本...「忘れられない」編ロベン島とマンデラ
ポーランドに行くことを決めた時、ちょっと迷いました。「アウシュヴィッツには行きたくない、いや行くべきだ」と。この気持ちは私だけのものではないようで、聞くところによればアウシュヴィッツのときだけ欠席する人がたまにいるそうです。アウシュヴィッツはドイツ語名でポーランド語ではオシフィエンチムです。またアウシュヴィッツの名前が有名ですが、すぐ隣にはここより大きいビルケナウ強制収容所があります。二つ一緒にして考えることが多いようです。ここはあまりにも有名なので説明の用は無いと思いますが、少しだけ触れておきます。第二次世界大戦中ヒトラーナチスドイツがユダヤ人を中心として28民族(人種)の人たちを強制収用所に入れました。そのうちもっとも規模の大きいのがアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所です。ここで殺された人は150万人...「忘れられない」編アウシュヴィッツ
ガーナ共和国のケープコーストに奴隷一時保管所が残されていました。アメリカへ積み出され迄の一時保管場所です。Maleslave(雄奴隷)のdungeon(土牢)。一度に100に程度の奴隷が閉じこまれていました。内部は全く薄暗く陰気な感じでした。2009年7月にオバマ大統領がここを訪れています。オバマさんは奴隷の子孫ではありませんが、ミッシェル夫人はアフリカからの奴隷の子孫です。「忘れられない」編雄奴隷収容所
写真はアフリカナミビア共和国からアンゴラにかけての砂漠に自生する地上で最も過酷な環境で2000年も生きている植物ヴィルヴィッア、日本名「奇想天外」です。この葉の最長記録は8.8mだそうです幼少な?「ヴィルヴィツア=奇想天外」もいるので保護のため石で囲っていました。(写真下)「忘れられない」編ヴィルヴィツア=奇想天外
カンボジアのプノンペンではポル・ポト政権が作ったトゥースレン刑務所(現在虐殺犯罪記念館)を訪れました。そこでの写真です。ここに約2万人が収容され6人だけが生還しました。虐殺された人の写真です(写真上中)写真下は何だと思いますか。虐殺された人たちの頭蓋骨で形作られたカンボジアの地図です。あまりにも残酷なので2004年に撤去されました。1975年に成立したポル・ポト政権は1979年までの4年間に200万~300万人(国民の約三分の一)の自国民を虐殺しました。特にインテリ層が対象になりました。メガネをかけているだけでインテリとみなされ処刑されました。いままでナチスのユダヤ人虐殺、トルコによるアルメニア人虐殺を紹介してきましたが、カンボジアでは自国民虐殺です。アフリカのルアンダ、ダンフールの虐殺も他民族です。その...「忘れられない」編トゥースレン虐殺犯罪記念館(元刑務所)
写真はスイスのルッチェルンにあるライオン記念碑です。フランス革命時の1792年衛兵としてフランス王家に仕えていたスイス傭兵が、革命派によって殺されたことを追悼する碑です。奇妙ですね。外国の傭兵なっていた人を追悼するとは。これには理由があります。スイス傭兵部隊とは(スイス)国家管理の輸出産業だったのです。「金のないところスイス兵なし」といわれるほど金と略奪品を求めてスイス兵はヨーロッパ各国の傭兵として活躍しました。余談ですがスイスの銀行の秘密性は有名ですがこれは傭兵から送られてくるお金の秘密保護に由来しています。スイスで外国軍隊への軍務が禁止されたのは第一次世界大戦が終了して10年後の1927年のことです。「古来戦争とは忠誠、祖国愛といった観念とは対極に位置していた傭兵たちによって担われていたのである。それ...「忘れられない」編スイスのライオン記念碑
写真はインドのジョードプルで見た城塞の門です。ジョードブルは1459年マルワール王国の首都として建設され1947年インド独立まで藩王国の主都として機能しました。この写真は王国メルハンガル城塞の鉄鋲の門にある女性の殉死(サティー)の手形です。インド(ヒンドゥー教徒)ではつい(最近まで)、夫に先立たれた妻は、夫を葬る荼毘の火中に身を投じて殉死することが美徳とされました。これをサティーといいます。19世紀以来たびたび禁止命令が出されましたが最近では1987年のサティーが話題を呼びました。賛美者が毎日数千人参拝に訪れました。賛成派、反対派で議論が沸騰しました。私は今でも非公然の形で行われているのではないかと疑っています。ついでにインドの女性に関する風習を紹介しておきます。結婚時に、花嫁の家族から花婿および花婿の家...「忘れられない」編サティーとダウリー
ガンディーは世界的な人物でした。例えばアメリカの黒人牧師、人種差別撤廃運動家、ノーベル平和賞受賞者のキング牧師(1929~1968)も彼に強く影響を受け尊敬していました。彼の記念館にはガンディーの銅像があります。(2017年9月23日に紹介)ガンディーの遺灰は世界各国に分骨されました。その一つをアフリカ・ウガンダのナイル河源流のヴィクトリア湖畔に見ました。写真はその記念碑ですが、ちょっと見にくいのでその英文を転記します。MAHATMAGANDHI(2101869–301119489)Universalapostleofpeaceandnon-violencewhoseasheswereimmersedintheRiverNilein1948.*****************UnveiledbyH.EMr...「忘れられない」編ガンディー2
ガンディー(1859~1948)は非暴力の抵抗でインドの独立を勝ち取った人としてインド建国の父として世界的にも著名な人物であるかとは常識ですね。その彼の火葬場がデリー郊外に残されていて(写真)インド人の礼拝の場となっています。ヒンズー教は墓を作りません。したがって彼の墓もありません。ついでの話ですがヒンズー教の親戚の仏教徒にも墓はありません。日本では「仏教=墓」というイメージがありますが、日本だけが特殊で日本以外の仏教徒は墓を作りません。「お墓があるのは、仏教国では日本だけである。日本人は仏教と言えば、お墓を連想するほど、仏教にとっては不可欠なもの、仏教の一部だと思い込んで、お墓のない仏教など夢想だにしない。しかし、現在仏教が信奉されているアジアの各地を訪れれば明らかのようにお墓はどこにもない」(今枝由郎...「忘れられない」編ガンディー1
インドムンバイ(旧称ボンベイ)の街中をバスで走っていると銅像が見えたので現地ガイドのセチさんに尋ねるとアンベードカルという人でインド独立後初代の法務大臣という説明でした。慌ててバスの中から写真を撮りました。私が写真を撮った理由は彼が法務大臣であったからではありません。彼は不可触民出身でその解放に一身を捧げその方法について、かのガンディーと鋭く対立しヒンドゥー教を捨て、最晩年に仏教徒へ改宗しました。それが理由でした。不可触民についてはご承知の方が多いと思いますので簡単に説明しておきます。ヒンディー語でアチュート(触ってはいけない)が英語のuntouchableになりそれが日本語訳で「不可触民」になったようです。ガンディーが名づけたハリジャン(神の子)は当該の人たちには不評のようです。彼らはインド独特のカース...「忘れられない」編アンベードカル
写真上は前回紹介の子供の仕事です。遊びではありません。下の写真はデリーでの撮影ですが、これも遊びではありません。大道芸人です。エローラの観光後ホテルに帰ると強烈な下痢がはじまりました。翌日まで続きその日のアジャンタの観光を取りやめホテルで休みを取りました。部屋のトイレのペイパーは2,3回使用するとなくなるなど不便がありました。その時このホテルの従業員(中高生ぐらいの男の子)がいろいろと世話をしてくれました。翌日ホテルをバスで出発するときこの少年は手を振って見送ってくれました。その時初めて気が付きました。なぜお礼を言ってチップを渡さなかったのかと。27年たった今も胸が痛み後悔反省をしています。ごめんなさい。「忘れられない」編インドの子供2
私はこの写真の撮影後に起きた事柄を27年たった今も忘れることは出来ないし、一生忘れないでしょう。この写真はインドのジャイサメールというところのキャラバンサライ(隊商宿)がホテルになった、そして多分その昔、隊商たちのラクダを繋いだと思われる中庭でのものです。私と同行の1人とその中庭のテーブルでビールを飲んでいました。と見ると庭の片隅に父子が地べたに座ってみやげ物らしきものを広げていました。そこで私たちは子供にはつまみ、お父さんにはビールを勧め椅子に座るよう言いました。ところが二人とも椅子に座ろうとしません。地べたに座り込みました。どうやら彼らは不可触民(次回紹介)で同席は出来ないと思ったようです。同行の人が写真を撮りお父さんに送るから住所を書いてくださいといいました。お父さんは書けません。ホテルの人に書いて...「忘れられない」編インドの子供たち1
最初のツアーは40人くらいの大人数でした。そのためトイレ休憩などで時間を無駄にしました。しかもお土産屋さんにかなり時間を使いました。その時はこれが普通かなと思いました。土産物屋さんに連れて行くのは旅行業者へのバックマージンが理由のようです。時には添乗員の判断で行くことがありますが、これは添乗員個人のバックマージンのようです。帰国後調べてみると「最大募集人員25名」「土産物屋さんにはいかない」という旅行社を見つけました。それ以後この二つを売りにしている旅行社で行くようにしています。正確なことは知りませんが大手の旅行社は「多人数」「土産物屋」のようです。したがって53回の旅行で最初だけが大手で後の52回は中小の旅行社です。「忘れられない」編最初の海外旅行3ツアーのあり方
ルクソールからカイロへの機中から見た景観は今もわたくしの脳に鮮明に残っています。です。なぜか写真がありません。この旅行で使用したカメラはインスタントカメラで40枚ぐらいしか撮影でなかったことも関係していることもあるかもしれませんが、それでもなぜ撮影をしなかったかと28年たった今も後悔しています。それはナイル河、その沿岸に緑があり、その外には広大な砂漠が広がっていました。これがエジプト文明だと叫びたくなりました。感動のひと時でした。この景観は知識としては知っていましたので、あらかじめ添乗員に窓際の座席をお願いして嫌われましたが。写真は砂漠地帯でラクダに乗って喜んでいるわたくしです。髪の毛は黒いですね。「忘れられない」編最初の海外旅行3景観
この最初の「古代文明ロマンの旅」(1995年10月26日~11月4日)で日本女性に対する見方が変わりました。カイロ空港に降り立ち汚染された空気のいやなにおいを感じていた時、我々の添乗員(女性)の声が突然聞こえました。「なぜですか?女性にだけ荷物を運ばせて。男性のあなたは手ぶらとは。それだから日本の男性はダメなんです」。夫婦の女性か懸命に荷物を運んでいるのに、男性は手ぶらで後を、でした。びっくりしました。(感想省略)ギリシアで一日のクルーズをしました。乗船人員400名ぐらいの船で日本人は100名ぐらいの国際的なクルーズでした。そこで総指揮をしていたのが日本人女性でした。ギリシアでの現地ガイドも日本人女性でした。いずれも写真がないのが残念。「忘れられない」編最初の海外旅行2日本人女性の活躍
1年ほど前からこのブログのネタ切れと私の寿命切れのどちらが先かと思っていました。ブログのネタ切れの方が早かったようです。もっとも未紹介のところもいくつかあるのですが、時間の経過に伴い老化、ボケの深化により紹介済みの部分を含めて忘却の彼方ということで紹介不能になりました。しかし、ボケてきた今も鮮明に残っていることもあります。それはたぶん地獄の閻魔さんへの土産話になるでしょう。そこで今回より今も忘れられない旅行の思い出を修正再録、紹介をしたいと思います。最初の旅は「古代文明ロマンの旅」(1995年10月26日~11月4日)というトルコ・ギリシア・エジプトの旅でした。61歳の時でした。この旅の最初の観光はトルコのイスタンブールでの「ベリーダンス」(注)でした。写真はベリーダンサーと脂下がった私です。そこでかなり...「忘れられない」編恥かしくて怖い話
救命胴衣を着用してクリアス川をクルージング。目当てはボルネオ島にしかいないテングザルです。しかし、残念ながら遠くに子ザルがかすかに見える程度でわたくしのカメラには収めることはできませんでした。翌日、キナバル国立公園へ。東南アジア最高峰キナバル山(4096m)が見えました。その後植物園に向かいましたが、わたくしにはさっぱりわかりません。今回で「マレーシア・ブルネイ」編を完結します。「マレーシア・ブルネイ」編コタキナバル4
ちょっとかっこいい州立博物館ですね。そこでわたくしにはこの絵が一番記憶に残っています。多民族の紹介ですね。街中でこんな掲示を見ました。北朝鮮の飢えた子供を救おうという表示ですね。「マレーシア・ブルネイ」編コタキナバル3
コタキナバルには著名な2つのモスクがあります。写真上が州立モスクで、次が市立モスクです。中国系の人の信仰は仏教で、中国系の仏教寺院もありました。(写真下)マレーシアの人口の約60%マレー人で主にイスラーム教徒です。約3割が中国系の人です。マレーシアでは「ブミプトラ政策」がとられています。ブミプトラはマレー語で「土地の子」を意味します。人口の6割以上を占めるマレー系住民の経済的地位を向上させるため、経済、教育、就職面などで優遇する政策で、1971年から始まりました。中国系の現地ガイドはバスの中で私が「ブミプトラ政策」につて質問をしたところ「親戚に警察官がいるが出世はでいないでしょう」などいくつか答えた後、「このバスの運転手は日本語が分からないマレー人なのでよいのですが、もしわかれば大変なことになります」と話...「マレーシア・ブルネイ」編コタキナバル2
ブルネイを出国して再びマレーシアへ。そこはボルネオ島北部のサバ州の首都コタキナバル市でした。到着後レストランでマレーシアの名物料理スチームボートをいただきました。日本の鍋料理ですね。お酒は韓国の焼酎ジンロでした。「マレーシア・ブルネイ」編コタキナバル1スチームボート
「地球の歩き方」(p394)は「世にも不思議な水上集落」という見出しで以下のように紹介しています。「これが川とは信じられないほど大きなスケールのブルネイ川。そこに、まるで蜃気楼としか思えないような一大集落が浮かんでいる。この水上集落は600年以上(lonelyplanetp457では1000年ウイキペディアでは1300年)の歴史をもつ世界最大のもので現在も約3万人(lonelyplanetでは2万人、ウイキペディアで3万9000人)の人々生活の場としている。***」世界一周で有名なマゼランに随行したPegafettaはここを「東洋のヴェニス」と記述しています。(lonelyplanet,ウイキペディア)わたくしたちはここを水上タクシーで訪れました。観光中に現地のお菓子をいただきました。学校も病院も消防署も...「マレーシア・ブルネイ」編ブルネイ国3水上集落(カンポン・アイール)
ブルネイの一泊は「センター・ポイント・ホテル」でした。写真左はホテルの部屋の天井です。矢印がありますね。イスラーム教の礼拝の方向・メッカを指しています。イスラーム国のホテルでは普通ですね。写真右はこのホテルでは禁煙という表示ですね。違反すると罰金と書かれていますね。「マレーシア・ブルネイ」編ブルネイ国2
マレーシアに囲まれた人口約40万人、面積三重県とほぼ同じという小国ブルネイを訪れました。政体は立憲君主制ですが、実態はスルタン国王が支配する君主独裁国家です。石油、天然ガスの資源に恵まれ経済的には豊かな国です。石油、天然ガスの主な輸出国は日本です。日本との経済的つながりが強いようです。スーパーマーケットをぶらぶらしていたら、商品にリンゴがありました(写真右)。あれ!リンゴは熱帯では?と思いました。これはたぶん日本からの輸入品だと思いました。厳格なイスラーム国です。というわけで、建造物はモスクです。写真左は「スルタン・オマール・アリ・サイフデイン・モスク」です。前国王、28代スルタンの名前を冠したモスクです。イタリア人建築家の設計で、イタリアから大理石、中国から御影石、イギリスからガラスややシャンデリア、ベ...「マレーシア・ブルネイ」編ブルネイ国1
ウインドウ洞窟とクリアウォーター洞窟内をぶらぶら。見事な刺青をしたアメリカ人夫妻観光客に出会ったので了解を得てパチリ。「マレーシア・ブルネイ」編グヌン・ムル国立公園4ウインドウ洞窟・クリアウォーター洞窟
グヌン・ムル国立公園の2日目はボートに乗って少数民族プナン人の村とウインドウ洞窟、クリアウォーター洞窟の観光でした。途中、川沿いで洗濯をしている女性に出会いました。プナン人については2014年4月12日、15日にすでに紹介しているので今回は省略します。ただこの公園の現地ガイドはプナン人のフィリップさんだったので写真を再録します。なおこの日の昼食は彼の奥さんの調理でした。「マレーシア・ブルネイ」編グヌン・ムル国立公園3
グヌン・ムル国立公園観光の夜は歓迎ダンスショーでした。「マレーシア・ブルネイ」編グヌン・ムル国立公園2歓迎ダンスショウ