足利義氏は別箇所で奮闘していたものの朝比奈義秀に見つかり、足利義氏は立ち向かえないと考えて逃亡を図るも、政所の前にある筋替橋のそばで朝比奈義秀に捕まりそうに…
鎌倉幕府の成立後も平安時代は続く。平安時代の終わりは承久の乱。 ドラッカー講座 日曜18時 / 平安時代講座 土曜18時
<フィクション> ・わかりあえるはず ・あおひとくさ ・ほしがき ・せむかた -restart- ・ほむらみさき ・苦悶の捕虜 ・ほむらみさき、そして… <ノンフィクション> ・獅子光臨〜三原修の足跡 ・朴正煕の野望 ・共喰 トモグイ〜連合赤軍事件の全貌。 ・蟹工船の時代 ・平安時代叢書
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先に一つの希望と二つの絶望と記した。 希望は新たな官職を手に入れるかもしれないという希望、二つの絶望のうちの一つは新たな官職を手にできなかったという絶望であ…
源頼家が征夷大将軍となったことで源頼朝から源頼家への権力継承が完成した。 後鳥羽院政はもう完全に確立している。 この二つが合わさったとき、京都で一つの希望と…
源頼家が従二位に昇叙して征夷大将軍に就任したことは、本来であれば喜ばしいことであるはずであったが、位階の高さがかえって鎌倉幕府を混乱に招くことになった。 特…
つまり、源頼家の身に何かが起こった瞬間に征夷大将軍の継承が失敗し、鎌倉幕府は瓦解するのである。実際、源頼家の長男である一幡は建久九(一一九八)年生まれであり…
源頼家が正式に征夷大将軍に就任したのは建仁二(一二〇二)年七月三日のことである。この日、源頼家を従二位に昇叙させたと同時に征夷大将軍に任命することが決まった…
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建仁二(一二〇二)年のその後の記録は、後鳥羽上皇については和歌、源頼家に関しては蹴鞠と、歴史資料の上側だけをなぞっていたら、いったいいつどこで政務をしていた…
年が明けた建仁二(一二〇二)年一月、朝廷から源頼家に対して一つの答えが示された。正三位への昇叙である。求めていた征夷大将軍への任命の話は片鱗もなく、左衛門督…
また、源頼朝が手に入れた征夷大将軍という官職は、壇ノ浦の戦いで海中に没してしまった天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)の新たな形代(かたしろ)でもある。生きた…
さて、源頼家は鎌倉幕府第二代将軍という接頭辞が付く人物であり、その認識は間違いではないのだが、厳密に言うと建仁元(一二〇一)年時点ではまだ征夷大将軍ではない…
これには裏がある。 当初は内大臣土御門通親が入る予定であったのだ。醍醐天皇以来の国家的事業に乗り出すことを踏まえると内大臣を加えるのはおかしなことではないが…
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建仁元(一二〇一)年一〇月一七日、後鳥羽上皇が熊野詣に出かけている最中に信じられないニュースが飛び込んできた。 宜秋門院九条任子が出家したのだ。 九条兼実と…
源頼家が政務を無視して蹴鞠に興じていたとするのが建仁元(一二〇一)年後半の吾妻鏡の記事である。 そう言えば後鳥羽上皇の院政が始まったばかりの頃、藤原定家は後…
それから後の吾妻鏡は不自然なまでに源頼家が蹴鞠に興じていたことの記録が連続している。あたかも、自身とその後の火災に遭った人達、そして、台風の被害に遭った人達…
後鳥羽上皇はなぜこのタイミングで新古今和歌集の撰集を命じたのか? 後鳥羽上皇自身が和歌を愛する人であるからという点以外にも、理由は二つ考えられる。 一つは古…
鎌倉幕府が越後国の反乱を鎮圧している頃の京都であるが、一言でまとめると平穏である。記録を残しているのが藤原定家であるという点と、藤原定家と後鳥羽上皇との関係…
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建仁元(一二〇一)年五月一四日、佐々木盛綱の派遣した使者が鎌倉に到着した。 結果は、鎌倉幕府の勝利。城資盛率いる反乱軍は鎮圧された。 佐々木盛綱が総指揮を執…
源平合戦期、越後国で平家方として一大勢力を築いていた城一族であるが、当主の城長茂が鎌倉方に捕らえられ、梶原景時の仲介もあって平家の赤旗から源氏の白旗に乗り換…
城長茂らが起こした騒動も覚めやらぬ、そして、改元から間もない建仁元(一二〇一)年二月一七日、内大臣土御門通親にとって大打撃となる出来事が起こってしまった。 …
西面武士である可能性のついての叙述は後述するとして、情報が届くのが遅いことは気になるところである。二月一九日の出来事が鎌倉に届いたのは三月一二日である。源頼…
先にも述べたように、正治三(一二〇一)年という年は六〇年に一度の辛酉の年である。変動が予期される年であるという言い伝えも城長茂らの騒擾によって言い伝えがあな…
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この事件は九条兼実の日記にも記されており、どうやら城長茂は、源頼家に対する反発から鎌倉を脱出して京都に向かい、当初は京都在駐の小山朝政の襲撃を計画したものの…
恐れていたことは、年が明けた正治三(一二〇一)年一月に早くも発生した。 この時代、ニュースはリアルタイムで伝わるものではない。しかも、時間がかかるだけでなく…
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足利義氏は別箇所で奮闘していたものの朝比奈義秀に見つかり、足利義氏は立ち向かえないと考えて逃亡を図るも、政所の前にある筋替橋のそばで朝比奈義秀に捕まりそうに…
建暦三(一二一三)年五月二日の申刻、現在の時制に直すと午後四時頃、和田義盛がいきなり挙兵し、源実朝のいる大倉御所への襲撃を目的に動き始めた。 最初に和田義盛…
さらに、三浦兄弟は北条義時の側に立つと告げたことで、北条義時は御所に向かう時間を確保できただけでなく、御所に向かった後に源実朝を護衛しながら法華堂へと向かう…
この流れで重要なのは、別働隊となる三浦義村らである。三浦義村とその弟の三浦胤義は和田義盛の求めに応じて、御所の北門の制圧をすることについて起請文を記していた…
和田合戦は本来であれば、建暦三(一二一三)年五月三日に挙兵する予定であったのに、実際にスタートしたのは五月二日の夕方。横山時兼が軍勢を率いてやってきたのが五…
建暦三(一二一三)年四月二七日、源実朝がはじめて和田義盛謀反の噂に対する行動を見せた。この日、源実朝が宮内兵衛尉公氏を和田義盛の屋敷へと派遣した。謀反有無の…
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さらに、泉親衡の乱に関与して拿捕された和田義盛の二人の息子は助命できたが、甥の和田胤長は助命どころか後ろ手に縛られて和田義盛の前に付き出されたが、この待遇の…
ここで視点を北条義時に向けると、これはもう、穏やかな話ではなくなる。自分を敵とし、自分を武力で倒そうという勢力が誕生しているのだ。同じ権力争いであっても、選…
和田義盛の孫の和田朝盛が、父の追放に悲しむ六歳の幼女のために和田胤長を演じたことは既に記した。 ここで泉親衡の乱における和田一族を振り返ると、少なくとも三名…
鎌倉において泉親衡の乱の中心人物と扱われた和田胤長、すなわち和田義盛の甥は流罪となったが、一族もろとも流罪となったのではなく一人だけが流罪となっている。つま…
現在のカレンダーは、どんなに大雑把なものでも月、日、曜日がわかるようになっている。少し細かなカレンダーを見ると、日付だけでなく月の満ち欠けや旧暦の日付、そし…
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源実朝が従二位から正二位に昇叙したのは建暦三(一二一三)年二月二七日のこと。そして、その知らせが鎌倉に届いたのは三月六日になってからである。 大騒動が一段落…
そこで改めて泉親衡の乱を振り返ると、ここに世代間対立の芽が見て取れる。 和田義盛は源頼朝の挙兵のときから鎌倉方の一員として戦った実績を有している。すなわち、…
ただ、どんなに現在まで残る説話になり現在の地名の由来になるほどの人物であるとの評判が確立されようとも、そのことと、建暦三(一二一三)年時点の泉親衡が一三〇名…
捕縛された者は流罪となったが、首謀者と見做されている泉親衡は消息不明となっている。 泉親衡の消息が判明したのは建暦三(一二一三)年三月二日のこと。鎌倉の中心…
大願を果たすためと称して逃走する者がいる一方、源実朝の和歌趣味に頼ることで命乞いをする者も出た。 吾妻鏡によると、建暦三(一二一三)年二月二五日に、渋河兼守…
鎌倉で梶原景時弾劾が始まっていた頃、建久七年の政変から三年を経て、その際に地位や権力を失った者の名誉回復が始まってきていた。 名誉回復の目的としては、土御門…
その選択肢の最初に浮かんだのが三浦義村である。結城朝光はすぐに三浦義村の屋敷に向かって梶原景時の讒言によって自分が何かしらの処罰を受ける可能性があることを告…
視点を鎌倉に移すと、正治元(一一九九)年八月までゴタゴタはあったが、その後は平穏であるかのように映っていた。しかし、正治元(一一九九)年一〇月二五日に鎌倉で…
鎌倉でゴタゴタがあった頃、後鳥羽上皇は自身の二つの趣味界への傾倒を深めていた。 一つは和歌、もう一つは熊野詣。 どうやら正治元(一一九九)年八月頃から、後鳥…
その人物は、北条政子。 彼女は息子の不祥事を母として窘(たしな)めるため、二階堂行光を使者として源頼家に思いとどまるように示した。なお、ヒートアップしている…
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吾妻鏡は安達景盛の派遣以後の源頼家について、同意しがたい行動を書き記している。 安達景盛を三河国に派遣した隙に安達景盛の愛人を奪ったというのだ。 以前から源…
源頼朝によって京都と鎌倉との間の情報伝達が七日間まで短縮されたこともあり、正治元(一一九九)年六月二二日に京都で起こった大幅な人事刷新の情報は六月末までに届…
ただし、藤原氏内部の近衛家と九条家の争いはさらに悪化させている。摂政近衛基通の長男である近衛家実が二一歳の若さで右大臣に就任したのである。 内大臣九条良経が…
その頃京都では、ようやく源頼朝死去に伴う混乱が収束したばかりであった。 これでようやく落ち着きを取り戻し、しばらくは安泰であると誰もが考えた。 その安泰を後…
こうした源頼家の政治姿勢は、亡き父である源頼朝の政治姿勢を踏襲したものである。ただし、源頼朝が源平合戦の勝利者として、すなわち、源頼朝の行使できる武力でもっ…
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源頼家の名で発令された命令として特筆すべきが、各国の守護の職掌の明確化である。地頭が荘園を管理監督しその年貢を手に入れることのできる役職である一方、守護とい…
一三人の合議制の成立と、その合議制のメンバーに含まれていない五名への特権の付与。 本来であれば対立すること間違いない構造であるが、この後の記録を追いかけてい…
建久一〇(一一九九)年四月一二日に一三人の合議制が誕生したことに対し、源頼家は反発を見せたとはすでに記したが、では、具体的にどのような反発を見せたのか? 吾…
武士である九名の本拠地を記すと、伊豆国が北条時政と江間義時の二名、相模国が三浦義澄、和田義盛、梶原景時、安達盛長の四名、武蔵国が比企能員、足立遠元の二名、常…
源頼家の起こした行動の前に、このときに選抜された一三名について記しておく必要がある。 一三名を吾妻鏡の順番に記すと以下の通りとなる。 北条時政、伊豆国守護兼…
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