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ポエムな言の葉パラダイス
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少女ジーザスが詩を書いています。本を読んでいます。ぜひ伝えたい言葉があります。
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少女ジーザスさんの新着記事

1件〜30件

  • 言の葉(地球市民村);殺すなかれ。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

    多くの国で、女性は、性交渉や避妊薬、避妊具を使う決定権を持っていません。望まないで妊娠は中絶につながります。安全でない人工中絶は毎年2千万人。7万8千人の女性が死亡しています。(「私にできることはなんだろう」地球市民村編)☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★あなたは女性だろうか?それとも男性だろうか?人工妊娠中絶をどのように思っているだろうか?「女性の3人に1人は望まない妊娠をしている」という、この事実をどう思われるだろうか?「そんなのって仕方ないんじゃないの?」「人工妊娠中越なんて、今どき当たり前じゃないの?」そういう意見の方もおられることをわたしは知っている。わたしは一人のフツーのクリスチャンとして言う。「人工妊娠中絶は人殺しだ」と。わたしはヒドイやつだろうか?頭のおかしいクリスチャンに過ぎないのだろうか?しか...言の葉(地球市民村);殺すなかれ。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

  • 言の葉(日本のことわざ):石の上にも。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

    石の上にも三年☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★上記のことわざは、コレッと思ったことは辛抱強く確信が与えられるまでこだわれという意味合いであるが、まさにわたしがフツーのクリスチャンにしていただいた年月を物語っている。わたしは主イエス・キリストへの信仰を聖書を読み始めたときから持っていたわけではない。聖書をパッと開いて目についた文章を読んでそれなりに感動したことはあったと思う。しかし、主イエス・キリストを自分の神さまとして礼拝することは、よほどの宗教的な天才(旧約聖書に出てくる預言者のように)でないかぎり、そうそう出来ることではない。わたし自身のことを言えば主イエス・キリストへの確信は「石の上にも三年」どころか、三十年かかった。宗教的天才どころか、よほどの馬鹿である。まさに「石の上にも三年」よろしく「聖書の上にも三...言の葉(日本のことわざ):石の上にも。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

  • 言の葉(『新倫理』=高校の参考書):差別というものについて・2主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

    大切なのは、この現実(差別があるということ)を直視し、自分もまた差別や偏見の囚われ人であり、この問題と無縁ではありえないという事実をふまえることである。☆★★☆☆★★☆☆★★☆☆★★☆「差別」とはなんだろう?ごくごく簡単に言ってしまえば、(差別されている人には申し訳ないが)、たくさんの「われわれ」が自分たちとは違うとみなした「彼ら」を「われわれの集団」から排除することだ。「てんぼう」などというヒドイあだ名で呼ばれた野口英世を知っている人は多い。彼は幼少期に過って囲炉裏で片方の手をやけどし、指と指がくっついてしまい上手く物が持てなくなる状態になった。その子供を周囲の大人も子供も「てんぼう」と言って「差別」し、排除したのだ。つまり苛めにイジメた。しかし彼はのちにそのやけどの手を手術してもらうことによって医学のすばら...言の葉(『新倫理』=高校の参考書):差別というものについて・2主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

  • 言の葉(澤田和夫):差別というものについて。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

    思えば、イエスさまの苦しみは3年前からもう始まっていました。何が悪かったのですか。エルサレムの指導者たちは中央の安楽椅子におさまっていたのでしょうが、イエスさまはガリラヤの漁村にまで出かけられていって、シモン・ペテロの家にまで訪ねていかれる。だいたいそれが気に入らない。(中略)罪の女と言われる人とかかわりを持つこと、それも気に入らない。思い皮膚病にかかっている人とかかわりを持つ、それもよくない。(「ヨハネによってイエスの福音を読みとる」:女子パウロ会)☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★上記の引用文は何を意味しているのだろうか?主イエス・キリストはまず「差別されている人」と深い関係を持った(愛し合った)ということだ。あなたの周囲にも「差別されている人」、あるいは「イジメられている人」はいないだろうか?「あいつはよく...言の葉(澤田和夫):差別というものについて。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

  • 言の葉(エイブラハム・J・ツワルスキー):信仰と人生。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

    問題は、彼らが人生はこうあるべきという幻想を抱いている点である。(「いいことから始めよう」エイブラハム・J・ツワルスキー)☆☆★★☆★☆★☆★★★★★★★あなたは自分で、あるいは周りの大人たちに「こうあらねばならない」と言われて成長してこなかっただろうか?周囲のこうした圧力であなたの人生はあなたではなく、あなたの周囲の人々に決められてしまった、ということはないだろうか。わたしはごくフツーのクリスチャンとして「相互愛」を説く主イエス・キリストの御前に常に自分自身を置いて、主イエス・キリストに祈り求めながら「自分の人生はを自分で決めてきた」。ここにキリスト教だけではなく、他宗教の人たちも陥りやすい問題点が浮き彫りにされる。つまり「愛し合う」ことを、ただ単に「周囲の人の言うとおりにする」ということにすり替えてしまう事...言の葉(エイブラハム・J・ツワルスキー):信仰と人生。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

  • 主イエス・キリストのいやし。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(新約聖書)

    それは、時々、主の御使いがこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いていた時真っ先に(池に)入る者は、どんな病気に罹っていても、いやされたからである。(ヨハネによる福音書第5章4節)☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★これは主イエス・キリストが、ベテスダの池(恵みの家という意味)のそばで38年間病気に悩んでいた人をいやしたエピソードである。ここでは現代でも流行している「天使への信仰」が書かれている。この38年間病気で悩んでいた人は「救いの天使」が自分をいやしてくれるのを待っていたのだ。「信仰」は本来とても自由なものだ。「天使」を信仰して拝んでも構わないと思う。しかし「救いの天使」ではなく、その「天使」という霊的存在を創造した主イエス・キリストが、結局この人をいやすのである。「天使」はわたしたち人間とは全く別...主イエス・キリストのいやし。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(新約聖書)

  • 神の国を見る。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(新約聖書)

    だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない。(ヨハネによる福音書第3章3節)☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★わたしたち人間は、たとえば美しい星空を見たり美しい地球や山や川を見たりしたあと、「ああ、生まれ変わったみたいに気持ちいい」などと言う。それはわたしのようなフツーのクリスチャンに言わせれば、「主イエス・キリストがあなたをご自分のところに招いている」のである。つまり神が自然を通してあなたに語りかけたのだ。上記の聖書の言葉で主イエス・キリストが言っている「新しく生まれる」ということは誰でも経験していることなのだ。なにも教会というところへ行って、聖書を学び、洗礼を受けて教会員としていただくことだけが「新しく生まれる」ということではない。大切なのは主イエス・キリストを自分の意志で自分の神としてこの方に...神の国を見る。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(新約聖書)

  • 神殿は三日のうちに起きる。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(新約聖書)

    「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起こすであろう」。(ヨハネによる福音書第2章19節)☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★ここで主イエス・キリストが言っている「神殿」とはなんだろう?キリスト教の伝統的な考え方では、まず「主イエス・キリストの体」つまり教会である。教会といえばわたしたち一人一人が教会なので、だからわたしたちは皆が神殿であり、教会である。上のエピソードでは、イエス・キリストが十字架にかかったのちに三日目によみがえることを預言している。そしてわたしたちも一度死んでも三日目に(期間は問題ではないけれど)、復活することを約束してもらっているのだ。拙文を読んで下さっている皆さんも同様である。わたしたちフツーのクリスチャンの考えかたでは皆が主によって創造されたのだからである。人間はすべて神殿であ...神殿は三日のうちに起きる。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(新約聖書)

  • 言の葉(萩原朔太郎);大きな海のような感情。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

    愛をもとめる心は、かなしい孤独の長い長いつかれの後にきたる、それはなつかしいおほきな海のやうな感情である。(「萩原朔太郎詩集「青樹の梢をあふぎて」岩波文庫)☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★あなたは愛を求めるだろうか?親、兄弟姉妹、友人、恋人などからの愛だろうか?わたしはフツーのクリスチャンとしてハッキリ言うが、親、兄弟姉妹、友人、恋人のほかに神さまの愛を、「神の愛」をなぜ多くの人は求めないのだろうか?と不思議に思っている。わたしの信仰からすれば、まず「神の愛」を求めてはじめて親、兄弟姉妹、友人、恋人と愛し合えるのだという考えである。「神の愛」はすべてのものの「根源」だから。上記の言葉に”それはおほきな海のやうな感情である”とあるが、わたしはここにわたしの信仰する主イエス・キリストの創造した宇宙が「神の愛の感情」...言の葉(萩原朔太郎);大きな海のような感情。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

  • 言の葉(平塚らいてう):根本的な疑問。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

    なぜ世の多くの婦人たちには女は一度は必ず結婚すべきものだということに、結婚が女の唯一の生きる道だということに、すべての女は良妻たり、賢母たるべきものだということに、もっと根本的な疑問が起こって来ないのでしょう。(「平塚らいてう評論集:「世の婦人たちに」岩波文庫)☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★わたしはひとりのフツーのクリスチャンとしてどうして上記の平塚らいてう女史のような疑問をフツーの女性たちは持たないのだろうかと不思議でならない。そして「女性論」(フェミニズム)というカテゴリーが存在しなければならないほど「男女差別」がひどいのかと不思議だ。わたしの信仰している主イエス・キリストのほかにもいろいろなお名前の神さまへの信仰が存在し、「男女差別」をなくそうとしているのに。主イエス・キリストも、この上記の引用文を書い...言の葉(平塚らいてう):根本的な疑問。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

  • 大いなる光。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(旧約聖書)

    大いなる光を造られた者に感謝せよ。そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。(詩篇第136編7節)☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★あなたにとって上記の聖書の言葉のような”大いなる光”とはなんだろう?わたしにとってはもちろん”大いなる光”は主イエス・キリストだ。フツーのクリスチャンのわたしはこの方に向かってお祈りをし、この方にわたしはすべてのことを、良いことも悪いことも何もかも感謝している。フツーの日常生活の中でしばしば”主よ、感謝したします。主イエス・キリストの御名によって感謝いたします。アーメン”、と唱えることにしている。”何事が起こっても”、である。これは主イエス・キリストに対するわたしの信仰の務めだと思っている。フツーのクリスチャンのわたしは人間としてまず一番たいせつなことは、「自分にとっての大いなる光...大いなる光。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(旧約聖書)

  • 主イエス・キリストの神殿:主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(新約聖書)

    「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起こすであろう」「ヨハネによる福音書第2章19節」☆★★☆☆★★☆☆★★☆☆★★☆主イエス・キリストを自分の個人的な神さまとして信じお祈りをする者は、たとえ主イエス・キリストのように死んでも主イエス・キリストのように「復活」する。自分のいのちは「復活の主イエス・キリストのいのち」に変えて頂けるからである。え?自分も主イエス・キリストみたいになれるんですか?という疑問を持たれるかもしれない。ごくフツーのクリスチャンのわたしに言わせれば、それは絶対に可能なことだし、それこそごくフツーのことだ。主イエス・キリストと同じ者に変えて頂ける。ここにクリスチャンにとっての大きな「希望」が現実のものとして「存在」する。この拙文を読んで下さっている「あなた」も、主イエス・キリス...主イエス・キリストの神殿:主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(新約聖書)

  • 自分の家に帰れ! 主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(新約聖書)

    「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。」「ヨハネによる福音書第10章7節」☆★★☆☆★★☆☆★★☆☆★★☆門は、人間が「自分の家」に入る時必ずくぐるもののことだ。(実際には門のない家も多い日本であるが、エルサレムに入城するときは必ず通った)。わたしはフツーのクリスチャンなので、上記の聖書の言葉を信じ、主イエス・キリストに「自分の家」の「門」になっていただいた。ごくフツーのクリスチャンのわたしにとって「自分の家」とは「主イエス・キリストの家」のことを指す。主イエス・キリストが生まれ、勉強をし、成長した家だ。ここで、ごくフツーのクリスチャンのわたしのような者が主イエス・キリストと同じ者、同居人にして頂ける。「自分の家」であれば、あなたは一体何をするだろうか?学生なら、まずよく食べよく眠り、よく勉学...自分の家に帰れ!主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(新約聖書)

  • 言の葉(M.モンゴメリ):祈りの言葉。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

    「お祈りの言葉を唱えることと、祈ることは、厳密には違うわ」(「赤毛のアン」ルーシー・M・モンゴメリ松本侑子訳集英社文庫)☆★★☆☆★★☆☆★★☆☆★★☆上記の言葉は、主人公アンという11歳の少女が言った言葉だ。この言葉はわたしにとってまさに主イエス・キリストのみ言葉そのものだ。み言葉の剣としてわたしの魂の奥底までグサリとつらぬく。この言葉の中で言っている”祈ること”とは一体何だろう?わたしは主イエス・キリスト教会に属するフツーのクリスチャンとしてハッキリ言うが、これは”単に決まり切ったお祈りの言葉”ではない。ひとりの人間が神さまに向かってごく自然に口をついて出てくる叫びだと思う。それはただ「神さま!」という一言だけでも構わない。祈る人の心がこもっていさえすればいい。あとは主イエス・キリストご自身が祈ることそのも...言の葉(M.モンゴメリ):祈りの言葉。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

  • 神さま、助けて!主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(新約聖書)

    「主よ、お助けください、わたしたちは死にそうです」「マタイによる福音書第8章25節」☆★★☆☆★★☆☆★★☆☆★★☆あなたは心の奥底から全身全霊をもって「神さま、助けて下さい」と叫んだことがあるだろうか?人間はどのような悪いやつでも追い込まれて、「自分自身の力ではどうしようもない」と心底、人間としての自分の力は弱いものだ、「人間である自分はどうしようもなく弱いものだ」と思えば、上記の聖書の言葉のような「神さまへの祈り」が与えられる。ごく自然に人間ならどのような人でも、「神さま!助けて下さい」というお祈りの言葉が口をついて出てくるものだ。この一番大切ないちばん単純な「お祈りの言葉」がまったく出てこない人間をわたしは知らない。わたしはごくフツーのクリスチャンだが、この全宇宙を見渡してもいわゆる「無神論者」といわれる...神さま、助けて!主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(新約聖書)

  • 祈りの家。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(新約聖書)

    わたしの家は、祈りの家ととなえられるべきである。「マタイによる福音書第21章13節」☆★★☆☆★★☆☆★★☆☆★★☆ここで主イエス・キリストが「わたしの家」と言っている場所は「教会」という場所に限らない。わたしの体と心と魂のことだ。そしてあなた自身の体と心と魂のことだ。ここに主イエス・キリストが「わたしの家」と言って住んでくださるのだ。だからわたしたちフツーのクリスチャンはそしてクリスチャンでなくとも、主イエス・キリストに向かってお祈りすれば必ず主イエス・キリストは来てくださる。これはわたしのクリスチャンとしての実体験である。お祈りの場所は「自宅」とは限らない。道を歩いていても、あるいは電車に乗っていても、自動車に乗っていても、あるいは飛行機の中でも、「ありとあらゆる場所が、お祈りの場所」となる。自分にお祈りを...祈りの家。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(新約聖書)

  • 言の葉(アルバート・アインシュタイン):戦争反対。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

    わたしが戦争に反対するのは直感的な感情によるものです。わたしは人間を殺すことがたまらなくいやなのです。わたしのそうした姿勢は論理的なものではなくあらゆる残虐行為と憎悪に対する直感的な反発によるものです。(「アインシュタインにきいてみよう」弓場隆・編著)☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★これは「相対性理論」を発表し世界的に有名なったアルバート・アインシュタイン博士の言葉だ。博士は敬虔なユダヤ教徒だった。わたしは一人のフツーのクリスチャンとして上記のアインシュタイン博士の言葉にもろ手をあげて賛成し、頭を垂れてアインシュタイン博士を「神のしもべの一人」として尊敬する。上記の言葉が載っている一冊の小さな本はわたしの聖書の次に大切な「座右の書」となっている。折に触れては博士の言葉をかみしめて、わたしのフツーのクリスチャンと...言の葉(アルバート・アインシュタイン):戦争反対。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

  • 言の葉(ロバート・L・ショート):罪人とわたし。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

    ドイツの宗教改革者ルターは書いています。「人々の生まれながらの堕落や無分別があまりにもひどいために、どれほど自分たちが罪深いか、見ようともせず、感じようともしない」。(「スヌーピーたちの聖書の話」ロバート・L・ショート著講談社)☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★わたしはフツーのクリスチャンとして12歳の時に初めて聖書を読んだ。聖書の中には「罪人(つみびと)」という言葉が頻繁にこれでもかこれでもかと出てくる。幸いにもわたしはこの「罪人(つみびと)」という言葉にあまり反感を抱くことがなかった。ある牧師さんの話によると、教会の門をたたく求道者の多くの人が「罪人」という言葉に反感を覚えるのだそうだ。ある求道者は怒り出し「わたしは罪人(ざいにん)なんかじゃない。警察のやっかいにだってなったことなど只の一度だってないぞ」と、...言の葉(ロバート・L・ショート):罪人とわたし。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

  • 言の葉(ニケヤ信経):コンパクトなまとめ。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

    わたしたちは、唯一の神、全能の父・天地とすべてのものと見えないものの造り主を信じます。また、世々の先に父から生まれたひとり子・主イエスキリストを信じます。主はまことの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られず、生まれ、父と一体です。すべてのものは主によって造られました。主は私たち人類のため、またわたしたちを救うために天から下り(くだり)、聖霊によっておとめマリアから肉体を受け、人となり、ポンテオ・ピラトのもとでわたしたちのために十字架につけられ、苦しみを受け、死んで葬られ、聖書にあるとおり三日目によみがえり、天に昇り、父の右に座しておられます。また、生きている人と死んだ人を審くため栄光のうちに再び来られます。その国は終わることがありません。また、主なる聖霊を信じます。聖霊は命の与え主、父と子から出られ...言の葉(ニケヤ信経):コンパクトなまとめ。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

  • 言の葉(わたしの俳句):万年のコタツ。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

    万年のコタツで書を読み文を書き☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★あなたの家ではコタツはもうとっくの昔にしまったにちがいない。真夏なんだから当然。ところが、わが家ではコタツが1年中出ている。そしてわたしはこのコタツの上で食事をしたり、コーヒーを飲んだり、読書をしたり、このような文章を書いたりしているのである。もう日本語では死語に近い言葉だが「文机」というものがある。読んで字のごとく「文」を読んだり書いたりするのに使う小型の机である。わたしにとってはコタツからコタツ布団を取り去ったものがまさに文机になっている。それで上記のような俳句が出来上がった。わたしのコタツは多くの名作(?)を生み出した。これからも主イエス・キリストの弟子として、できうる限り多くの勉強をし、多くの文章を書いていきたいと思っている。主イエス・キリス...言の葉(わたしの俳句):万年のコタツ。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

  • 地球のために、あなたのために。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(旧約聖書)

    あなたは家畜のために草をはえさせ、また人のためにその栽培する植物を与えて、地から食物を出させられる。「詩篇第104篇14節」☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★主イエス・キリストが創造した「地球の生態系」のありがたさが、しみじみと伝わってくる詩篇の言葉だ。何と言うみごとな「いのちのシステム」だろう。主イエス・キリストは、まず地上に草をつまり植物を生えさせたのだ。人間のために。その人間が飼う動物たちのために。そして自然界のありとあらゆる生き物たちのために。ここで食物連鎖という大自然の法則が存在することとなった。この連鎖の頂点に人間がデンと座っているのだ。だから人間こそが尊くて「万物の霊長」だなどと言って威張りたいのなら、まずはこの詩篇の作者のように主イエス・キリストが創造した「地球の生態系」の仕組みを知り、大自然を自...地球のために、あなたのために。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(旧約聖書)

  • 神の家。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(旧約聖書)

    何故に神が住居(すまい)にと望まれた山をねたみ見るのか。まことに主はとこしえにそこに住まわれる。「詩篇:第68編16節」☆★★☆☆★★☆☆★★☆☆★★☆わたしたちフツーのクリスチャンはすべての被造物(主イエス・キリストが創造した全宇宙のすべてのもの)は、主イエス・キリストのいのちとして見る。つまりあなたのしているパワーストーンのブレスレットや指輪の石の玉ひとつひとつも主イエス・キリストが創造した1個のいのちとしてみる。感じる。だから主イエス・キリストにとっては創造した1個のいのちはすべて主イエス・キリストの住居(すまい)だ。わたしたちの信仰では「教会」といわれる場所だけに主イエス・キリストが住んでいるのではないのだ。わたしという1個のいのちも、あなたという1個のいのちも、この猫も、この犬も、この石ころも、空の鳥...神の家。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(旧約聖書)

  • 主イエス・キリストの御力(みちから)。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(旧約聖書)

    神はひとたび言われた、わたしはふたたびこれを聞いた、力は神に属することを。「詩篇:第62編11節」☆★★☆☆★★☆☆★★☆☆★★☆フツーのクリスチャンのわたしは旧約聖書のなかの「詩篇」が大好きだ。信仰者とはこのような者だということがとてもよくわかる。「詩篇」の作者たちは何も雲の上の人ではない。あなたやわたしと同じく泣いたり、笑ったり、怒ったり、すねたり、ひがんだり、ねたんだり、とごくフツーの人間だ。ではわたしやあなたとどこが違うのかと言うと、神へのゆるぎない信頼が強いことだ。わたしのことを言えば、他者から自分の主イエス・キリストへの信仰について「ここがオカシイんじゃない?」とか「それって、ホント?」とか文句をつけられると「神への揺るぎない信頼」にすぐヒビのようなものが入ったり、時には主イエス・キリストご自身を指...主イエス・キリストの御力(みちから)。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(旧約聖書)

  • 性 。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(旧約聖書)

    主なる神は言われた。「人がひとりでいるのは良くない」「創世記第2章18節」☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★あなたは一人でいる時どのような気持ちになるだろうか?同じ旧約聖書の創世記(天と地の始まりの物語)に、主イエス・キリストがみ言葉によって天と地とを創造し終わったとき、さらに「人間」を創造することを考え付いた、とある。まず「男性」が創造された。そして「女性」が創造された。わたしの主イエス・キリストへの信仰では、「男性」と「女性」で「神のかたち」だ。「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女に創造された」(創世記1:27)。神の「かたち」とは何だろうか。神にでっぱりや穴や袋があるとは思えない。神の「かたち」とは神の性質、ということだろう。神は男と女のセットで自身のかたちに「人間」を創...性。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(旧約聖書)

  • 心の中にあるもの。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(新約聖書)

    (イエスは)、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。「ヨハネによる福音書第2章25節」☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★わたしの信じる主イエス・キリストは上記の聖書の言葉のように、わたしたちの心の中にあるものをよく知っていてくれる。だからわたしはとても自由だ。ありのままの自分で存在することができるから。たとえば心が沈んでいても、ああ主イエス・キリストもこんなことがあったんだと思える。わたしの心の隅々まで理解してくれる、わかってくれる。愛してくださる、と感じられる。主イエス・キリストこそ、わたしを丸ごと包んでくれる神さまだと実感している。あなたを丸ごと包んでくれるのは、誰?☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★↓:つつむ。にほんブログ村心の中にあるもの。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(新約聖書)

  • 言の葉(高村光太郎)愛の世界。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

    私にはあなたがあるあなたがあるそしてあなたの内には大きな愛の世界があります(『高村光太郎詩集』:「人類の泉」)★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆これはわたしの信じる主イエス・キリストの言葉のようだ。主イエス・キリストは、すべての人間に上記のような言葉を伝えるために地上に来てくれたと言っても過言ではない。ここには神であり人間である主イエス・キリストのわたしたち人間に対する限りない愛と信頼がみごとに表現されていると思う。神さまは人間には限りない愛が在ると言っているのである。ただその愛を人間はうまく表現し実践することができないでいるのだ。ここにこそ主イエス・キリストの「救い」の必要性があったのだ。これこそが「生身の人間の悲しい姿」である。これを主イエス・キリストの御力を祈り求めることによって「愛のある人間」が少しずつ「...言の葉(高村光太郎)愛の世界。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

  • 神を見る者。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(新約聖書)

    神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。「ヨハネによる福音書第1章18節」☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★わたしはこのような碌でもない自分のうちに神を見る。主イエス・キリストの霊を頂いた者、主イエス・キリストの弟子にして頂いたというハッキリとした自覚をもつ者として。フツーのクリスチャンとして。主イエス・キリストの教会へ通うこととか、洗礼を受けたか受けていないかはわたしにとっては重大なことではない。それでは何が大事なのか?それは「愛」である。「愛」、神の愛、それを模した「相互愛」。そういう他にわたしには表現のしようがない。重要なのは「愛すること」と「愛されること」である。主イエス・キリストのみ言葉は、「愛」そのものである。教会に通っていても「愛」がなけれ...神を見る者。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(新約聖書)

  • バースデイプレゼント。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(新約聖書)

    初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。「ヨハネによる福音書第1章1節」☆★★☆☆★☆★☆★☆★☆★☆★わたしはフツーのクリスチャンだが、今世界中で大流行している「スピリチュアリズム」という宗教思想(と思われるもの)が知りたくて、何冊かの関係書をよんでみた。そして結局、わたしたちフツーのクリスチャンが信じている主イエス・キリストの創造の御力(みちから)の偉大さを深く知るばかりであった。「スピリチュアリズム」とは要するに主イエス・キリストの被造物である「自然と人間」についての宗教思想だと思い知った。主イエス・キリストはたとえば「パワーストーン」について「お前はどう思うか?」とか「天使や悪魔」について「お前はどう思うか?」といったみ言葉の剣をわたしに突きつけてきた。わたしは誕生日のプレゼントとし...バースデイプレゼント。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(新約聖書)

  • 羊の門。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(新約聖書)

    わたしは羊の門である。わたしよりも前に来た人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。わたしは門である。わたしを通って入るものは救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。「ヨハネによる福音書第10章7節」★★★★★★★★★★★★★★★★みなさんは「不用犬不用猫ボックス」というの変なものの存在を知っているだろうか。この日本にこのヘンテコなボックスが存在する。これはどのようなボックスかといえば、「不用な(いらなくなった)」命を「ごみのように捨てる」のを認める、公然と認めるボックスなのだ。こんなボックスの存在を「ああ、それはいい」、「あってよかった」と心底思えるだろうか?この全宇宙に「不用な(いらない)」いのちなどないのだと、わたしの主イエス・キリストは怒りを通り越し、また悲しみを通り越して、た...羊の門。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(新約聖書)

  • 人間を真に自由にするものとは。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(新約聖書)

    「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。「ヨハネによる福音書第8章31節」☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★わたしは「人間」として何より「自由」を欲する。特に「学問の自由」、「「信教の自由」「職業選択の自由」「婚姻の自由」etc.を欲する。こう書くとクリスチャンっていうのは随分と「不自由な思い」をしてきた人が多いのかなと思われてしまいそうだ。今更、そんな自由について語るのは時代錯誤だと笑われるかもしれない。しかし、信仰をもつことは時に暗黙の自由の規制を受けることはある。ことに大多数の他者と異質な(あるいは異質だというレッテルを貼られた)場合は、その規制と偏見は顕著になる。わたしの所属し...人間を真に自由にするものとは。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(新約聖書)

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