(愛媛県今治市拝志2007年3月27日)越智郡拝志郷の総鎮守として、伊予国三十二社の一社であったという。祭神は事代主神(ことしろぬしのかみ)を祀る。拝志美保神社
(静岡県富士市中央町)寛永十六年(1639)東海道吉原宿(元吉原:富士市鈴川)が高波で被災し、中吉原(富士市依田橋)に宿場が移転した際、元吉原に祀られていた木元神社を分祀したのが始まりである。然し、延宝八年(1680)再び高波により被災し、宿場と共に新吉原に遷座した。当初は慈眼寺(廃寺)の境内に鎮座したが、町の鎮守として現在の富士市今泉に遷座している。昭和29年(1954)吉原高等学校建設により現在地に遷座した。吉原木元神社
(愛媛県今治市東村2007年3月27日)南北朝の頃、同族である北朝方細川頼春が南朝方新田義貞の甥大館氏明が守る世田山城に攻め入り、氏明らは自害した。頼春らは東村の真光寺に進駐して、氏明らの「首実験」(敵方の斬った首を見て人物を見極める行為)を行い、この地に墓が建てられた。(関連記事:海松山真光寺)(愛媛県今治市東村2006年11月29日)白鳳元年(672)越智守興によって仙遊寺の別寺、法相宗新興寺として創建された真光寺は、藤原純友の乱の際に兵火に遭いその後再興され真言宗真光寺となった。更に鎌倉時代後期には華厳宗新光寺となっている。南北朝時代には北朝細川頼春が新光寺に陣を敷いて世田山の南朝大舘氏明と戦い、氏明は首級に挙げられ、この新光寺で首実験に供された。そして豊臣秀吉の四国征伐の際に再び兵火に遭い、天和元年(1...大館氏明首塚
(静岡県富士市吉原)十四年振りに東海道十四番目の吉原宿を漫ろ歩く。(静岡県富士市)富士の山裾から東海道十四番目の吉原宿へ下ってみる。当初は海岸に宿があったが、江戸初期の洪水により、現在地に移転したのだという。人口の割にこのまちは個人商店が元気な感じがした。この辺りはやはり、富士信仰と日蓮宗系の寺院をよく目にする。また、懐かしい風情は多いのだが、案内看板等が殆どなく、他所から来た者にとって非常にわかり辛いところもある。岳南鉄道線に乗ろうと辺りを見渡すと、吉原中央駅というのがあった。近づいてみると、バスターミナルであって、鉄道駅ではなかった。ここから500mほど東に行ったところに、吉原本町駅があった…。駅では駅員はいたが、非常に寂しい感じ。切符は硬券でホームはニ両分、電車は一両運転ワンマンであり、京王電車からやって...吉原宿令和二年
(愛媛県今治市東村2007年3月27日)崇峻天皇二年(589)大三島大山祇神社から勧請された東村の鎮守である。東村三嶋神社
(うるいがわ静岡県富士市)潤井川
(愛知県豊川市三上町池添2007年3月23日)三谷原との境のこの辺りは、豊川の旧流路であり、霞堤の跡であり、また、都市計画道東三河環状線の予定地である。近年、圃場整理が行われ、古くからの不揃いな農地が失われつつある。古川
(静岡県富士市本市場旧郷社)近隣の柚木天白神社同様、空から降ってきた一寸八分の米粒を祀ったのが始まりと伝わる。米之宮浅間神社
(愛知県豊橋市牛川町2007年3月23日)かつては清水で満たされた二つの池は、周辺の宅地化による排水で汚染された。その後、区画整理によって池は埋め立てられ、光景は一変した。眼鏡池跡
(静岡県富士市柚木)柚木(ゆのき)の天白(てっぱく)神社は、養老年間(717-24)空から一寸八分(約6cm)の米粒が三粒降り、その内の一粒を祀ったのが始まりと伝わる。柚木天白神社
(愛知県豊橋市下条東町古城2007年3月23日)豊川(とよがわ)左岸の旧堀之内村の低地に存在した城館である。天正元年(1573)菅沼定盈(みつ)が築いたとされ、時代を経てなだらかになった堀と土塁が残る。館跡の一部が曹洞宗宝光山金西寺となっている。同じ下条東町、白井麦右衛門の旧五井村古屋敷と混同されることがある。下条館
(東京都中央区日本橋室町)明治41年(1908)東京薬種貿易商同業組合(現公益社団法人東京薬事協会)が、東京上野の五條天神社から神棚として薬祖神である大己貴神(おおなむちのかみ)、少彦名神(すくなびこなのかみ)を分霊したのが始まりである。昭和4年(1929)には屋上に社殿が造営され、平成28年(2016)再開発により福徳神社隣に遷座した。薬祖神社
(愛知県豊橋市多米町2007年3月23日)神亀三年(762)創建という真言宗赤岩山赤岩寺の背後には、その名の通り赤岩山がある。標高は320mで、赤石山脈弓張山系の西端の一つであり、別名三河富士という。赤岩山は堆積岩の一つ、赤いチャート岩石が露頭しているところからそう呼ばれるようになり、それが寺名にもなった。赤岩寺
(東京都渋谷区富ヶ谷)奥渋富ヶ谷
(愛知県豊川市東上町勝川2007年3月22日)勝川の城山には、創建は明らかではないが稲荷神社が鎮座する。昔、村人が当時禁忌となっていた肉を食べたところ、神社の崖に棲んでいた白狐が昼夜問わず上へ下へと動き出したため、村人はそれを恐れて今後は肉を食べないと誓い、証文を添えて祈祷師に祈祷してもらったところ、それ以来白狐は現れなくなったという。勝川稲荷神社
(東京都中野区)中野令和正月
(山梨県甲府市上積翠寺町2007年3月20日)標高780mの要害山城不動郭に建つ不動明王像は、江戸時代後期に建てられたものという。武田不動尊
(東京都千代田区飯田橋)徳川家康が入封する際、この地を案内した飯田喜兵衛の苗字に由来し、飯田町と呼ばれた。明治14年(1881)江戸城外堀に橋が架けられることになり、飯田橋と名付けられた。飯田橋
(静岡市清水区興津中町2007年3月)平安時代に勧請された漁師の守護神宗像(むなかた)神社は、奥津島比売命(おくつしまひめのみこと)を祀り、祭神が地名の起こりになったとされる。興津宗像神社
(東京都千代田区神田三崎町)かつてこの地には越後長岡藩牧野家上屋敷があり、安政七年(1860)跡地が幕府講武所となった。講武所はペリー来航後の幕府の政情から、旗本、御家人に剣術、槍術、砲術を学ばせる必要性を幕府が感じ、設けられた施設である。明治維新後は陸軍の練兵場となったが、明治23年(1890)三菱に払い下げられ、その後市街地化された。講武所跡
(愛知県知立市内幸町平田2007年3月18日)昭和30年(1955)に開業した、面積860m2の東映系映画館である。平成6年(1994)に閉業した。(2009年解体)知立第一劇場
(愛知県新城市矢部字欠下2007年3月15日)中世の山城欠下城の主郭跡に建つ、豊橋市仁連木町の企業が運営する研修宿泊施設である。昭和46年(1971)に開設され、私が初めて訪れた昭和53年(1978)施設の職員の方に城のことを尋ねたことがある。今回訪れるとひっそりとしていたが、管理のため職員が定期的に訪れている様子は見受けられた。三河青年道場
(神奈川県鎌倉市扇ガ谷・山ノ内)大晦日の鎌倉亀ヶ谷
(東京都台東区・墨田区)関東大震災以後に架橋された、浅草と向島を結ぶ長さ237mのゲルバー(橋脚間継ぎ目)橋である。隅田川言問橋
(愛知県新城市川路字宮之脇2007年3月15日)設楽氏川路端城跡の東側に鎮座する巴神社は、正和元年(1312)設楽兵庫守によって川路村天王宮(後の巴神社)に神領二反六畝を寄進している。また、境内には五輪塔や宝筐印塔の残欠がみられる。川路巴神社
(東京都台東区浅草)年の瀬の浅草
(愛知県新城市川路字小川路2007年3月15日)天正三年(1575)長篠城監視隊長であった武田勝頼臣高坂昌澄は、勝頼の命により設楽原で戦い徳川方稲生次郎左衛門に敗れ、この地で最期を遂げた。設楽原高坂昌澄墓
(東京都台東区元浅草)浅草の町のたもとを意味する元浅草には、享保三年(1718)名主の家に生まれ、初代川柳である柄井八右衛門正通が生まれ育った場所とされる。元浅草と川柳ゆかりの地
(愛知県清須市西枇杷島町小田井2007年3月13日)天文二十四年(1555)に創建された浄土宗の寺院である。所蔵品として、鎌倉時代作の絹本着彩阿弥陀如来像があり、如来の頭髪部は髪繍(髪の毛)で刺繍されている。亀岳山宝国寺
(東京都台東区台東)廃藩後、秋田久保田藩佐竹氏上屋敷跡で屋台や見せ物小屋が催されたのが始まりという。昭和44年(1969)アーケードが設置され、現在の姿となった。佐竹商店街アーケード
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