さて、したがって大乗仏教・菩薩・摩訶薩になるには禅定が必須である。そのことをはっきりと語っているのが、相行品第十の次の言葉である。是菩薩、是の諸の三昧を見ず、亦是三昧を念ぜず、亦我れ当に是三昧に入るべく、我れ今、是三昧に入り、我已に是三昧に入れりと念ぜず、是菩薩・摩訶薩、都て分別の念無きなり。』つまり「私は瞑想をしている」というふうに思わない。瞑想をしているときはもう「瞑想をしている」とか「私」ということを忘れるのがほんとうの三昧なので、「私が/坐禅をしている」と思っている間はほんとうの坐禅ではない。また坐禅をするときに、「さあ、今から坐禅するぞ」とか「お、坐禅・禅定が深まってきた」「集中してきたな」と思っている間は、まだ全然ほんとうの三昧ではない。「もう私は完全に禅定状態に入った」と思ったりはせず、「私...般若経典のエッセンスを語る54――智慧と瞑想と菩薩