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JOSHUAのブログ https://cgxpw508.hatenablog.com/

人は真実を知る権利があります。真実を解明し、カルト教祖の嘘を明らかにします。

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2025/04/26

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  •  2025年6月1日 (復活節第7主日)「キリストの昇天」

    2025年6月1日 (復活節第7主日)アジア・エキュメニカル週間(7日まで) 宣教黙想 「キリストの昇天」 ルカによる福音書24章44節~53節 イエスは言われた。 44「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」 45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、 46言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、 …

  • 2025年5月25日 (復活節第6主日)「イエスの祈り」

    2025年5月25日 (復活節第6主日) マタイによる福音書6章1節~15節 「イエスの祈り」 主イエスが弟子たちに、かく祈れと命じたもうた「主の祈り」について、黙想します。 「偽善者のようであってはならない 主イエスは、「偽善者のようであってはならない」と言われました。 「偽善者」というのは、「人にみてもらおう」という動機で、祈り時にも「会堂や大通りの角に立って祈りたがる」と、偽善の動機を鋭く指摘されました。 「善行」や「施し」と同様に、「祈り」も、他者から賞賛を得たいという名誉心が動機となる場合は、その他者からの評価や賞賛という「報酬」を目的とする動機がある以上は、それらはすべて「偽善」だ…

  • 2025年5月18日(復活節第5主日)「父への道」ヨハネによる福音書14章1節~11節

    2025年5月18日(復活節第5主日) 坂下教会にて、東濃3教会合同礼拝 10:00開始 蘇原教会で地区会が午後から開催なので、午前中に礼拝を合同としました。 来週より、送迎開始。 ヨハネによる福音書14章1節~11節 「父への道」 1「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。2わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。3行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。4わたしがどこへ行くのか、その道をあなたが…

  • 2025年5月4日(復活節第3主日)「主イエスの弾劾こそ救いへの招きなり」

    2025年5月4日(復活節第3主日) マタイによる福音書12章38節~42節 「まさるもの」 すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。39イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。40つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。41ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものが…

  • 2025年4月27日(復活節第2主日)「エマオ途上」

    2025年 04月 27日 2025年4月27日(復活節第2主日)労働聖日(働く人の日) ルカによる福音書24章13節~35節 「復活者主イエスの顕現」 本日の聖書箇所は、いわゆる「エマオ途上」です。 まず思うことは、聖餐へと続く連想です。 弟子たちは、家についてから、復活の主イエスは食事の席についたときのことでした。 そのときの所作を見て、「イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(21節)。 「イエスはパンをとり、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」(20節)という所作です。 弟子たちは、この時に至るまで、旅の道中を共にしてきた人がイエスであるとは気付かなかったのです。 こ…

  • 2025年4月20日(復活日)「キリストの復活」マタイによる福音書28章1節~10節

    2025年4月20日(復活節第1主日・復活日)14:00坂下・東濃3教会合同礼拝 マタイによる福音書28章1節~10節 「キリストの復活」主の復活をお慶び申し上げます。主の復活の日が週の初まりとなったことは、人類歴史において、主の甦りが、わたしたち人類の新しい創造が開始されたことを意味します。仏教徒であろうと、イスラム教徒であろうと、ヒンズー京都であろうと、無神論者であろうと、この日が、新しい1週間のはじまりである事実は、共同的に共有しています。 すべての人が、この日から、新しい時を生きるということなのであります。主観的には、主イエスを知る人も、知らない人も、この事実を共有して、時を旅している…

  • 2025年4月13日(四旬節第6主日)「主イエスの十字架を仰げば」マタイによる福音書27章32節~56節

    【4月13日】(四旬節第6主日)◎田瀬・付知合同 14:00 四月十三日は付知教会で礼拝をします。◎坂下教会 10:00 「主イエスの十字架を仰げば」マタイによる福音書27章32節~56節 32兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。 33そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、 34苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。 35彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、 36そこに座って見張りをしていた。 37イエスの頭の上には、「これはユダヤ…

  • 「十字架の勝利なき人倫なし」事前黙想その2

    事前黙想その2 マタイによる福音書20章20節~28節 「十字架の勝利なき人倫なし」 「堕落論の解明」という主張こそ罪の極み 神と人との交わりが断たれ、関係が喪失していること、これを「罪」という。 われわれ人間は神と人との関係を一望する視座を持ち得ない。 人は被造者であるから創造者と被造者の関係を一望する身分をもたないのである。 ゆえに、「罪」をわれわれは、その存在の本質からして、そもそも「認識」できない。 われわれ人間にとって、「罪」を認識すること自体が、「神」を認識することができないのと同様に、 不可能なのである。 「罪」は、ゆえに、その影のようなもの、比喩としてただ、示されるままに、知ら…

  • 2025年4月6日(日)四旬節第5主日 マタイによる福音書20章20節~28節 「十字架の勝利なき人倫なし」

    2025年4月6日(日)四旬節第5主日 マタイによる福音書20章20節~28節 「十字架の勝利なき人倫なし」 神と人との交わりが断たれ、関係が喪失していること、これを「罪」という。われわれ人間は神と人との関係を一望する視座を持ち得ない。人は被造者であるから創造者と被造者の関係を一望する身分をもたないのである。ゆえに、「罪」をわれわれは、その存在の本質からして、そもそも「認識」できない。われわれ人間にとって、「罪」を認識すること自体が、「神」を認識することができないのと同様に、不可能なのである。「罪」は、ゆえに、その影のようなもの、比喩としてただ、示されるままに、知らされるのみなのである。 当然…

  • 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である。これに聞け」という御声を三人の弟子が同時に聞いたことの大切さ

    変貌の主イエスの出来事は、主イエスが神に独り子なる神、キリストでありたもうことを、神御自身のみ言葉によって認証・確証された出来事であった。 文鮮明が15歳だか16歳だか資料によって異なる自分だけの証言、しかもイースターの日にイエスさまから使命を託されたというデタラメとは決定的に異なっていることに人は気付くべきである。 まず、既に証明されていて、誰も否定することができないことであるが、文鮮明が15歳の年も、16歳の年も、彼がいうところの4月17日は、いずれもイースターではないことから、この彼の自己証言は単なる嘘である。 これに対する統一教会(当時)の強弁は、実は4月17日こそが、本当のイエスが復…

  • 2025年3月30日(四旬節第4主日)「変容したもう主イエス」

    2025年3月30日(四旬節第4主日)14:00東濃3教会合同・坂下教会消火礼拝マタイによる福音書17章1節~13節「変容したもう主イエス」 事前黙想 「キリストの変容」の出来事を、どこまでも合理的な解釈をしないと気がすまない人々は、教会が後のキリストの復活体との出会いを、主イエスの生前の出来事として物語化して伝承したのではないかなどと、自己の理性の限界内におさめようとする。 しかし、わたしは、主イエスが「まことの神」でありたもうという現実を、繰り返して無理解を重ねてきた弟子たちが、それでも繰り返し神の奇跡を経験せしめられてきたのであるから、それにもかかわらず、なおも重ねて物語を創作する必要が…

  • 2024年3月23日 (四旬節第3主日) 〈受難の予告〉 マタイ 16:13~28、 詩編 86:5~10 黙想 サタンの視点、「キリストは決して殺されてはなりません

    黙想 サタンの視点、「キリストは決して殺されてはなりません」 ペトロの信仰告白を、主イエスは「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と、信仰は人のわざではなく、天与の賜物だと、祝福されます(幸いだ) ところが、ペトロの信仰告白を祝福した直後から、主はご自身の受難の予告をかたり始めるのでした。 「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」 ペトロの信仰告白は、主イエスが「だれであるか」という事柄に…

  • 2024年3月16日 (四旬節第2主日)マタイによる福音書12章22節~32節 ベルゼブル論争

    ベルゼブル論争について触発される黙想 以下は、キリストを主と信ずる人に向けてのブログからの引用です。 yakedake2455.exblog.jp 本日の黙想はベルゼブル論争と言われる有名な箇所です。 主イエスが弱き人々の病を癒し、障害を取り除き、悪霊を追放するみわざを行うと、パリサイ人らは、それは「悪霊の頭ベルゼブルによるものだ」と断定して、中傷しました。 パリサイ人が、主イエスを攻撃する材料として、主イエスの行われる奇跡に対して、その解釈、意味づけを、そのようにしたことは、ある意味で当然だったことでしょう。 しかし、彼らの内心は、決して主イエスへの敵意・憎悪で一色だった訳でもなかっただろう…

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