一遍の三段目
◎仏と個人の二重の世界を生きている一遍は、「となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏なむあみだ仏」の歌を詠んで、由良の法燈国師心地覚心に印可(さとりを証明)されたと思っていたが、その先があったようだ。一段目。兵庫の宝満寺で一遍は、紀州由良の法燈国師に参禅していた。国師が、「念仏して覚醒」を公案として提示されたので、一遍は、次のように詠んだ。となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏の声ばかりして法燈国師は、この歌を聞いて「未だ徹していない。」とおっしゃった。二段目。そこで、一遍は、また「となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏なむあみだ仏」と詠じ直したところ、国師は、その歌を悟りと認めた、とかつて書いた。ところが三段目があるらしい。なるほど、この歌では仏もわれもないのは、ニルヴァーナっぽいが、南無阿弥...一遍の三段目
2024/10/31 03:29