私は自分のことをK小学校では『わたし』と言っていたが、東京のS小学校転校後は即級友を見習って『あたし』に変えた。ちなみに母姉妹は『わたし』じゃなく、『うち』、祖母は『わて』と言う。男児は関西も東京も『俺』と『僕』。父も『俺』だが、弟の四郎叔父は『わし』だ。広島育ちの夫も、...
食後の『ごちそう様』は『ごっつぉうさん』と発音する。東京ではそれに対して『お粗末様』と返すが、関西では『よろしお上がり』と言う。食事を一応満足して食べていただけてよかったです、というような意味だと思う。上京して『お粗末様』を初めて耳にしたとき、『ごちそう様』を真っ向から否定...
東京弁の『しょっぱい』は共通語の『塩辛い』に当たる。でも関西では『塩辛い』を単に『辛い』と言うことが多く、唐辛子やワサビのスパイシーな辛さと塩の辛さの違いに鈍感だ。『辛い』と『熱い』の両方をhotと言う英語圏の人が両者の違いに鈍感なのと同じで、言葉は思考に大きな影響を及ぼ...
共通語と同じ言葉でも、発音の違うものがある。『寒い』はサブイ、『冷たい』はツベタイ、『こむら返り』はコブラガエリと言って、マ行がバ行になるが、逆に『危ない』はブをムにしてアムナイと言う。『難しい』や記章の『バッジ』は、濁音のズ・ジがツ・チに変わり、ムツカシイ・バッチと発音...
『鳥肌』という言葉を初めて聞いたとき、羽根ををむしり取った鶏の姿が思い浮かんでぞっとした。関西では『さぶいぼ』と言う。寒いとできるいぼだから。ちなみに共通語は『鳥肌が立つ』だが、さぶいぼは『できる』と言う。『シラタキ』も関西弁の『糸こんにゃく』の方が分かりやすい。今月9日...
東京に転校して、私は毎日級友の話し声に耳を傾けながら、東京の言葉をせっせと覚えた。まず罰点の記号『×』は関西弁では『ペケ』だが、こちらでは『バツ』と言う。『肥えている』は『太っている』──小太りの私は、今まで使っていた『肥える』の方が、締まった体に聞こえてうれしい。『太る...
東京からK小学校に都落ちした島田君のように、『百』をシャクと発音する子はS小学校にいない。新宿区は山の手で、島田君は下町育ちの江戸っ子なのだろうと思う。山の手の住人はよその地域からの移住者が多く、3代も東京に住んでいないから江戸っ子ではない。 でも級友の東京弁を聞き取る...
タオちゃんは私に『ナカちゃん』とニックネームを付けてくれた。K小学校では『中澤さん』か『キリコちゃん』と呼ばれていたので、『ナカちゃん』に少し違和感を覚えたが、3組の同級生はニックネームで呼ばれている子が3割近くもいる。だから私も彼女を『タオちゃん』と呼ぶことにした。タオ...
翌日からタオちゃんと一緒に登校した。K小学校は、上履きを入れる草履袋も給食袋も要らず、母が作った布製の手提げかばんだけ持っていけばよい。上履きは下駄箱に入れて持ち帰らないし、給食の食器は学校に備わっている。アルマイト製の食器で、K小学校で使っていた持参のプラスチック容器と...
私の担任は吉村成子先生。名前の『成』を見て、K小学校の南先生が黒板に書いてくれた上杉鷹山の『成せば成る』を思い出した。吉村先生に転入の手続きをしてもらっていると、「転校生?」と言いながら男の子が入ってきた。「名前はなんていうの?」 東京の新しい環境に圧倒されっ放しの私は、...
東京都新宿区の社宅に転居後すぐに2学期が始まった。9月1日に私と妹のマイコは父に連れられて新しい学校へ向かった。マイコは中学校も高校も転校することになるが、いつも父がついていく。父は参観日などの行事にも毎回出席する。それでも40日の有給休暇を消化できないと嘆いていた。残業...
夏休みの林間学校を最後に、K小学校を転出し、8月下旬に東京に向かった。 長距離列車に乗るのは初めてで、けちの父が奮発して二等車の指定席に乗せてくれた。二等車は今のグリーン車に当たり、普通車は『三等車』といった。『一等車』はない。2年後の1960年(昭和35年)に、二等車を『...
夏休みは5年生と6年生の希望者を対象に、林間学校と臨海学校の行事がある。私の組は林間学校を選ぶ子が多いので、私も林間学校にした。事前説明で南先生が「2泊3日」と言ったとき、この言葉を知らない私には『203日』と聞こえて、一瞬びっくりしたが、級友が2泊3日の意味を教えてくれ...
夏休みに自由研究の宿題が出ることは、私達の時代はまだなかった。5年生になって初めて自由研究の発表会が学級内で催され、私も発表者の一人になる。テーマは思い出せないが、珍しい鳥を紹介したことを覚えている。4年生になったときに買ってもらった保育社の『学習百科大事典』の鳥の絵をノ...
クラシック音楽には関心がなかった父だけど、テレビの歌番組は私と一緒に見ていた。雪村いづみさんがよく出ていて、『ブルー・カナリー』、『オウ・マイ・パパ』、『ケ・セラ・セラ』などを歌っていた。越路吹雪の『ラ・ヴィ・アン・ローズ』や江利チエミの『テネシー・ワルツ』もよく聞いた。...
父が歌ってくれたのは三高の寮歌と『琵琶湖周航の歌』だけ。どちらも長いのに最後まで歌えるらしい。やがて私が大学生になって、京都大学の学生達と交わり始めてから、彼らと父の歌はメロディが少し違うことに気付いた。三高の寮歌の最初の『紅もゆる』で、彼らはクレナイのレをク・ナと同じ高さ...
音楽で習った『こいのぼり』を私が歌っているのを父が聞いていて、「イラカて何や知ってるか?」「知らん。何?」と尋ねると、屋根のことだと教えてくれた。『いらかの波と雲の波、重なる波の中空を』の歌詞は、屋根瓦と雲の両方を波と捉え、その間をコイが泳いでいる様子を表現している。なんと...
夏休みに自由研究の宿題が出ることは、私達の時代はまだなかった。5年生になって初めて自由研究の発表会が学級内で催され、私も発表者の一人になる。テーマは思い出せないが、珍しい鳥を紹介したことを覚えている。4年生になったときに買ってもらった保育社の『学習百科大事典』の鳥の絵をノ...
理科の時間に校庭にある百葉箱へ引率してもらった。校舎に囲まれた芝生の上に建っているので、私はそれまで百葉箱の存在に気付かなかった。ドアがよろい戸になっているのが興味深い。直射日光を避け、通風をよくするためだと南先生が説明した。教室にも乾湿球湿度計がぶら下がっている。乾湿球湿...
社会科は日本の歴史を勉強することになったので、聖徳太子以降の十数人の偉人の逸話が載っている本を買ってもらった。それまで名前を知らなかった人物も多く、例えば二宮忠八がライト兄弟より12年も早く飛行機を飛ばしたのに、スポンサーがいなくて資金が調達できず、有人飛行でライト兄弟に先...
5年生になってまもなく、東京から転校生の島田君が入ってきた。当時の地方の子供にとって、東京は月のような別世界だった。大人達が欧米の白人に憧れたのと同じ心境だと思う。現在は日本を過大評価して他国を見下す人もいるが、敗戦後の貧しい国に住む日本人には欧米人がまぶしかった。欧米人...
家庭科は南先生が教えるのではなく、専任の先生が担当した。年配の女の先生で、『な』を『奈』と板書する。小学校の先生は皆楷書で丁寧に書くが、彼女の字はくずれていて読みにくい。旧仮名遣いになるときもある。でも私にはそれが新鮮で興味深かった。ある日、「電気掃除機が家にある人、手を...
5年生から8教科になった。4年生までは国語、社会、算数、理科、音楽、図工、体育の7教科だったが、新しく家庭科が加わり、セルロイド製の裁縫箱を買う。運針の練習用の布やくけ台も入っていた。運針の練習なんて退屈だからこの布は使わず仕舞い。まっすぐ縫うだけなら、ミシンの方が速くて...
南先生から、『数人』とかの『数』は『5、6』の意味だと教わった。以来そう思って使ってきたが、『2、3』のつもりで話す人の方が多いような気がする。英語の『a few』の日本語訳が『数』だからか? 『2、3』と『5、6』では随分数に差がある感じ。私も最近は『2、3』の場合も『...
K小学校では、5年生になると受験態勢に入る。5組中女の担任は2人だけ。3年生のときに私を『算数博士』と言ってくれた先生と、私の担任の南先生。南先生は最初の授業で、『なせば成る、なさねば成らぬ何事も、成らぬは人のなさぬなりけり』と黒板に書いた。上杉鷹山の言葉だ。子供達はノー...
多くの小学校がそうだと思うが、K小学校も2年ごとに組替えがあり、私は4年2組から5年5組になった。4年生の3学期に席が隣どうしだった男の子とは別の組になり、謝り損なった。2人共用の机に描かれた境界線から彼男の持ち物がしょっちゅうはみ出すので、私はそのたび怒った。すぐに引っ...
4年生の2学期からプールの授業が始まった。学校にプールができたのだ。前年宇高連絡船が沈没して、修学旅行中の小学生が大勢死亡する事件が起きたことから、子供達を泳げるようにせねばとプールの設置がにわかに全国で始まったのだそうだ。でも水泳の指導はされず、毎回水遊びを楽しんだ。京...
私は算数だけはできたから、『いじめられっ子』のレッテルを辛うじて貼られずにすんだのかもしれない。3年生のとき、よその組の先生が担任の代わりに授業して、「中澤さんは算数博士やね」と言ってくれた。担任の富山先生は私の算数の能力に気付いてくれていなかったけれど。4年の永井先生は...
4年生の教科書に、『若草物語』の作者のルイザ・メイ・オルコットの話が載っていた。彼女の心に正義と悪がいて常に戦っているのだそうだが、私は正義と悪の違いがよく分からない。彼女は忍耐、義務、愛情などが正義で、怠惰、わがまま、憎悪などを悪とみなす。私は元々人に対して憎悪の気持ちを...
4年生の社会科は自分の住む都道府県を学習する。兵庫県の立体的な地図を作る作業は、地図に興味のない私も面白かった。等高線で囲まれた図形がボール紙にたくさん描かれており、それを切り取って、高さごとに色を塗り分けて台紙に貼っていく。妹のマイコは4年のとき東京に転校していたので、...
4年生の夏休みも家族で琵琶湖の一郎伯父の別荘に泊まりに行った。ある日映画のロケが浜辺であり、興味津々の私は熱心に見た。中村錦之助(萬屋錦之介)と東千代之介が主役の『曾我兄弟・富士の夜襲』という映画で、鎌倉時代に起きた仇討ちの話である。『世界名作全集』の『曽我兄弟物語』を読...
私に買ってくれる本のほかに、父の本棚からも面白そうな本を引っ張り出して読んだ。『写真でみる原爆の記録』、『光ほのかに アンネの日記』、波多野勳子の『少年期』と『幼年期』の4冊は、子供時代の懐かしさから父の死後我が家に持ち帰って今も保管している。『写真でみる原爆の記録』は4...
小学館の学年別学習雑誌のほかに、前に書いた講談社の『世界名作全集』を次々と買ってもらっていたが、4年生になって童話っぽい話に飽き始め、同じ講談社の『世界伝記全集』に乗り換えた。『アムンゼン』、『エジソン』、『二宮金次郎』、『ワット』(ジェームズ・ワット)、『野口英世』など...
父が購読していたのは、『週刊朝日』と『文藝春秋』である。 『週刊朝日』にアメリカの漫画『ブロンディ』が日本語と英語の両方で載っていた。4年生からローマ字の授業が始まって、アルファベットの文字は知っていたが、英語はちんぷんかんぷん。日本語訳を読んでも何が面白いのか分からな...
少女雑誌は級友から借りて単発的に読むだけで、私が定期購読していた月刊誌は小学館発行の学年雑誌である。小学校に入学したときから父が会社に取り寄せて持って帰ってくる。4年生まで取り続けた。買ってもらった本は端から端まで読まないといけないと思って、つまらない記事もきちんと読んだ...
童謡歌手はほかに、古賀さと子や伴久美子などの活躍を思い出す。「キリコちゃんはカリヤヒデコに似てる」と級友に言われたことがあるが、彼女については全く知らなかった。インターネットで情報を得られるようになってから調べても分からなかった。ところが数日前にググってみたらなんと、私と...
当時は少女月刊誌を皆愛読し、松島トモ子さんは『少女』、鰐淵晴子さんは『少女ブック』、小鳩くるみさんは『なかよし』という雑誌の表紙を飾っていた。低学年向けの『なかよし』は、妹のマイコがときどき母に買ってもらって読んでいた。近藤圭子さんの『少女クラブ』も人気があった。私は買っ...
級友の平野さんが鉄棒に座る方法を教えてくれた。端に座って片手で支柱につかまっていないと不安だが、ちょっと良い気分。昔木の枝に座ってびくびくしながら周りの景色を眺めていたときと同じ気持ちかも。平野さんは弁も立ち、私達のアイドルだった童謡歌手の松島トモ子さんと鰐淵晴子さんを比...
クラスの半数近くの子の手の平に血豆がある。親指以外の4本の指の下にできた血豆が硬いタコになっている。いつも鉄棒で遊ぶからだ。逆上がりもできない私は、たまに鉄棒を長時間握るときに手の平が痛くなるが、血豆に進むことはない。代わりに私はペンダコができた。右手の中指の第一関節の人...
映画はテレビで放映されない。プロ野球の中継がときどきあり、正規の番組が潰れて残念だった。野球に興味のない我が家はテレビを消すが、相撲は熱心に見た。京都の祖母父の家で、祖母が相撲をラジオで聞きながら針仕事をするので、相撲には幼い頃からなじんでいた。元力士の神風正一の解説が分...
民放の大阪テレビが56年(昭和31年)12月から放送を開始し、コマーシャルソングを繰り返し聞くことになった。『カンカン鐘紡、赤ちゃんのときから鐘紡毛糸』とか『ワ、ワ、ワ、輪が三つ、ミツワ石鹸』とか『カステラ1番、電話は2番、3時のおやつは文明堂』は、今でも歌える。『明るい...
当時のNHK番組は『私の秘密』のほかに、『ジェスチャー』、『親子クイズ』、『チロリン村とくるみの木』、『お笑い三人組』、『危険信号』、『おいらの町』、『プラスさんマイナスさん』、『私だけが知っている』などが思い出される。『チロリン村とくるみの木』は子供向けの人形劇で、黒柳...
当時のテレビは、正午を挟む1時間ほどと、夕方6時頃から9時過ぎまでの時間しか放送しない。鏡台のように幕状の布製カバーがテレビの画面を覆っていて、テレビを見るときだけ幕を上げる。アンテナは室内にある。普段はテレビの上に載せているが、映りの悪いときは場所を変えて、鴨居の上に置...
『私』の訓読みは『わたくし』で、『わたし』とは読まないと学校で教わったのに、『私の秘密』の『私』をテレビで『わたし』と言っていて、違和感を覚えた。翌年(1957年)始まった『私だけが知っている』も、『わたし』と発音している。『わたし』とも読むことになったのは、2010年(...
『私の秘密』は当時トップクラスの人気番組だったが、今考えるとつまらない秘密を持つ人もけっこう出演した。10歳くらいの姉妹2人が、一人は卵の黄身が好きで白身が嫌い、もう一人は逆だというだけの秘密には、当時の私もこれでテレビに出られるのとあきれた。爪を長く伸ばした年配の男性─...
4年生(1956年、昭和31年)の5月にテレビを購入した。近所にテレビのある家は皆無で、楽しい物かどうか分からない私は欲しいと思わなかったが、父が購入に積極的で、賛同しない3人を、近所からちょっと離れた高級住宅街にある上司の家に連れていった。テレビはオーケストラの演奏を生...
妹のマイコは幼稚園からバレーを習っている。ちなみに夫の姉は、森下洋子さんと同じバレー教室に通って、一緒にレッスンを受けたそう。彼女のほかにもう1人、夫の実家の近所に有名人が住んでいた。画家・エッセイストの宮迫千鶴。夫と同い年で、幼稚園か小学校低学年かのときに同じ組になり、...
4年からそろばんの授業があると知って、そろばん塾に通う気になった。絵画教室は既に解散しており、嫌いな習字もやめた私に、母は何か習わせたいと思ったのだろう。当時の小学校は九九を3年生で教えるので、そろばん塾は4年生以上でないと入れてもらえない。M小学校の学区にある塾だから、...
4年生になって、新校舎に移った。私の学年は5クラスだが、下の学年から7クラスに増えて教室が足りなくなり、モルタルの木造校舎が新築された。羽目板張りで黒い旧校舎と違って、新校舎は薄だいだいの明るい色である。4教室しかないので、5組だけ旧校舎に残った。前年の4年生は4クラスだ...
3年生の3学期(1956年)に地球儀を買ってもらって、私は初めて世界全体を知った。日本の近くに韓国や中国があることと、アメリカやヨーロッパの有名な国の名前は幾つか知っていたが、世界の全体像がつかめなかった。地図帳が学校で配付されるのは4年生である。地球上の国の数を父に尋ね...
真理子は、歌舞伎役者の18代目中村勘三郎や10代目坂東三津五郎と同じ学年である。私は歌舞伎に疎いが、幼児期から『勘九郎ちゃん』として有名だった勘三郎と、NHKの連続テレビ小説の『おていちゃん』に出演した坂東三津五郎の2人は知っている。勘三郎は57歳で、三津五郎は59歳で亡...
真理子は真理子は真理子は48歳で亡くなった。最期の2年間は意識がなく、病院のベッドに横たわったままだった。母親の春江と同じ関節リウマチを患い、30代から徐々に手足が動かしにくくなった。突然心臓が止まって植物状態になったそうで、リウマチが原因なのかどうか私は知らない。直接の...
真理子も翔子も短命だった。 翔子は26歳で亡くなった。歯科医の夫を助けるために歯科衛生士の資格を取り、一女をもうけて幸せいっぱいのときに。年末で夫の実家に帰省していた。突然頭痛に襲われ、意識不明になった。死因は脳内出血。翔子の葬式に駆けつけると、母親の洋子叔母は、「翔子...
真理子が4歳くらいになると、コーラを好む彼女に春江は毎日好きなだけ飲ませる。「飲み過ぎでしょう」と私が横から注意しても、「真理子はコーラが大好きやねん」と言う彼女に、「そうや、好きやもんね」と春江は同調するだけ。「大人になっても真理子は毎日飲むのや」と私に宣言した。しかし...
3年生(1955年)の9月に四郎叔父の息女の真理子が生まれたので、母とマイコと3人で産院に行った。赤ちゃんはしわくちゃの顔で全然かわいくないが、母は「今の赤ちゃんはしっかりしてるなあ。キリコらと大違いや」と褒める。戦後の栄養不足の中で生まれた私の顔はもっとひどかったらしい...
K小学校の運動会の日は、駄菓子屋の屋台が校庭に出店する。もちろん私の親は何も買ってくれない。1年生のとき、級友の真野さんが綿菓子を食べているのを見て羨ましかった。薄いピンク色でふわふわした感じ。高学年になってからようやく綿菓子を食べる機会が訪れて、一口かんだら、ふわふわじ...
3年生以上は、ドッジボールの組対抗試合の行事がある。私は勢いのあるボールを投げられないし、受けるのも下手だし、専らボールから逃げるしかない。ボールに手を出さないので、最後まで内野に残ることも多く、1人になると集中攻撃を浴びてあっけなくボールに当たってしまう。無様で嫌だった...
外遊びより家で絵や文を書くのが好きな私は、ときどき『新聞』を作って両親に読ませた。『つけもの新聞』とか『着物新聞』とか、その都度違う名前で画用紙に記事を書く。6年生のときに『発行』した『ちょっとお目を拝借新聞』を母が担任に見せたら、「名前がしゃれてる」と褒めてくれた。 ...
『シネラマ・ホリデー』を見た後、母は阪急デパートへ、父と私は父の会社に行った。ビルの中の父が働くオフィスに連れていってくれた。壁に沿って、セントラルヒーティングのパイプが這っている。タイムレコーダーがあり、父が紙に時刻を印字してみせてくれた。大きな金庫も開けてくれた。中に...
3年生(1955年)の12月30日は、家族4人でシネラマを見に行く予定だったが、1年生のマイコが「行くの、嫌や」と言い出し、急遽近所の山本さんに預かってもらうことになった。2時からのシネラマの前に、大阪の高級レストランでビフカツ(ビーフカツレツ)を食べた。父はビーフステー...
クリスマスプレゼントを家族で交換したことは全く覚えていない。マイコと2人でためた100円であめを買い、カラフルな包装紙に包んで両親にあげたと書いてある。母からは、ままごとの道具とまりとあめやガムの入った靴下をもらった。物心がついたときからサンタクロースは実在しないと父に聞...
小学校の6年間、夏休みと冬休みに日記を書いて先生に提出していたが、今手元にあるのは3年の冬休みの1冊だけである。図画工作の作品や賞状なども、通信簿以外は母が全て捨ててしまった。捨てられない性分の私と違って、家の中をすっきりさせたい母は、今いらない物は皆捨てる。必要になった...
まだ自動車の少ない時代なので、私のような鈍い子でも交通事故を気にせずに乗れた。前から歩いてくる中年女性をよけ損なって股間に前輪を突っ込み、怒り出した彼女を尻目に必死で逃げたことがある。マイコを後ろの荷台に乗せて近所を走り回るのは楽しい。マイコは後ろ向きに乗り、後方の見張り...
活発なクラスメートについていけない私は、同じくギャンググループからはみ出したおとなしい男の子達とも仲良くなった。3・4年男子のギャング度は女子よりひどい。少しもじっとしていなくて、けんかっ早い。階級社会を形成するのも男子の特徴だ。運動能力ゼロで腕力もない私は、男に生まれな...
3年生の2学期に転入してきた高野さんは、私の憧れの人になった。彼女はオーラがあるのか、転入早々から数人の女子に取り巻かれ、私はなかなかそばに近づけないのだが、家が近いこともあって、放課後にときどき2人で遊んだ。算数が得意の私に一目置いてくれたようだ。4年生になって彼女の誕...
三村さんと私があまり遊ばなくなったのは、私が運動嫌いのせいかもしれない。私はトランプとか家の中で座ってする遊びが好きで、動き回るのはせいぜいおじゃみ(お手玉)かまりつきかゴム跳び程度。ギャングエイジのこの年齢はもっと活発に走り回るおにごっこやドッジボールを好む。 3年生...
1・2年1組だった私は、組替えで3年2組になった。担任は富山先生。富山先生は1年からずっと持ち上がりだが、妊娠中の小野先生は担任から外れ、代わりに男の先生が3年の担任に加わった。1・2年の担任は全員女性で、3年になって初めて男の先生が交じることになった。富山先生は小野先生...
洋子叔母は京都市立堀川高校時代バスケットボール部に所属していて、国民体育大会に出た。運動能力抜群で容姿端麗の洋子が、私と3親等しか離れていないなんて信じられない! キャプテンだった彼女は京大生のコーチと、1955年(昭和30年)3月に結婚した。彼女に養子を取りたい祖母と少...
井村家(母方の親戚)随一の大尽だった芦屋の叔母ちゃん(母の叔母)が不幸に見舞われたのは、私が小学1年のときだった。彼女の夫が急逝したのだ。夫の死後、芦屋の豪邸から普通の家に引っ越し、女中達もいなくなった。神戸女学院大学に通っていた長女は退学して、翌年結婚した。嫁入り道具に...
私の初恋は小学1年生のときだ。同級生のAちゃんを好きになった。Aちゃんと話すときはいつもわくわくする。「歯磨き粉は辛いから嫌いや」と私が言うと、自分はバナナやイチゴの味の歯磨き粉を使っているので、今日はどの歯磨き粉にしようかと楽しみだとか、前日に見た楽しい夢の話をしてくれ...
私が1年生の3学期、1954年(昭和29年)3月1日 に第五福竜丸事件が起きた。アメリカが、太平洋のマーシャル諸島にあるビキニ環礁で水爆実験を行ったのだ。漁船の第五福竜丸はその灰を浴びた。水爆実験は5月まで続き、5月17日には日本全土が被曝した。以来雨が降るたびに、「頭が...
ハナのお産まで、よりちゃんといくちゃんは、「お母さんのおなかがぽんと割れて赤ちゃんが生まれてくるねんで」と桃太郎の話のようなことを信じていた。私は既に父から、「オシッコが出るとことウンコが出るとこの間に赤ちゃんの出てくるとこがあって、そこからキリコとマイコは生まれてきたの...
「ブログリーダー」を活用して、kirikoさんをフォローしませんか?