後悔は気付き、気付きは教訓、教訓は学び、学びは成長。 後悔も気付きも傷付きも、すべては自分という人間を築かせてくれるゲームである。 日常の発見や思想の記録。 主に研鑽と啓発を目的とした自己対話ブログです。
「分かる」か「分からない」かが重要じゃない。 「分かりたい」と思える心向けが肝なんです。
「自分が分からない」と言う事も、 「どうしたいのか分からない」と聞く事だってありますが、 生まれてからものの数年や数十年で自分を分かれる筈が無いんですよね。 回を重ねて相手の人となりを知って行くのと同じ様に お母さんが我が子と一緒に母親になって行く様に 自分だって【自分初心者】です。 分からない感情があって当たり前です。 戸惑う気持ちを持っているのが普通なんです。 「分からない」という言葉はきっと、 「分かりたい」という真意を根底に持っているからこそ滲み出る心の音(ね)だと思うんです。 だから別に分からなくたって良いんです。 完全に理解して行けなくたって良いんです。 寧ろ「分かっている」と句点…
「倣う」、「倣わない」を「意見する」、「しない」の判断材料にはしていない。
基本的に相手に意見する時は、自分が相手に期待する時。 これは相手が自分の考え方を「許容してくれる」という意味での【期待】であって、 自分の発言に「倣ってくれる」という紙背を含んだ【期待】という意味では断じて無い。 そもそも「倣う」、「倣わない」を「意見する」、「しない」の判断材料にはしていない。 元より言葉の根に「直して欲しい」という趣旨が無い。 根本が違うし門(かど)が違う。 【矯正】は時に【強制】だ。 意見とは選択肢を増やす一翼にこそ成ろうとも 人ひとりの可能性を【強制する】権利は持っていない。 人は体感する事で、身を以て実感する事で、 初めて納得という【身】を腑に落とせる。 相手が納得を…
スポーツでも文学でも宇宙探査でも音楽でも、 決して誰かに求めらて生まれた訳でもなければ要望されて作り出されたものでもない。 必要だから生まれたんじゃない。 「やりたい」から生まれたもの。 【好き】や【好奇心】が生み出し、究め、探求し、 その時代の色を載せながら生活に根差し心に根付き、 そうして脈々と継がれるのが伝統であり文化であり、 娯楽という命のハリだと思うのです。 能もダンスも歌も野球も、 伝統とは遊び心から生まれるもの。 文化は「やりたい」という人の心が汲み出す物。 手紙でも絵でも必ずそこに心は宿る。 心からの声が棲む。 それを人は「アート」と呼ぶ。 だから心は動くんです。 必要だから受…
一週間程前、 生まれて初めてカード情報を盗まれるという経験をしました。 相手方はどうやら女性物の服を購入されようとしていたそうですが、 不正利用モニタリングに検知された為に購入はキャンセル。 カードも直ちにロックが掛かり私自身への実質的な被害も無く、事なきを得たようです。 カードはその日の内に廃止。 後日改めて再発行する運びとなり、パスワードもよりセキュリティー強度を高めたものに設定変更しました。 自分の預かり知らぬ所で自分の情報を悪用しようとする方が居る一方で、 自分の意図せぬ場所で、自分は守られているのだなと改めて体感した一日です。 人との触れ合いや衣食や労働というコミュニティを介して守ら…
「出来ない」を知るという事は、 底尽きた足元に【穴】を開けてくれるという事。
「知っている」という事は、まだ知らないものを「知らない」という事。「知らない」という事は、まだ知らないものを知っていく事が出来るという事。出来ない事だらけ。知らない事だらけ。分からない事だらけ。「出来ない」を知るという事は、底尽きた足元に【穴】を開けてくれるという事。可能性を拓いてくれるという事で、成長の【足場】が増えるという事。書き込む為の【余白】が追加されるという事で、【マス目】を増やして行けるという事。「分からない」という事は、分かりたいものがあるという事。「出来ない」を知るという事は、「出来る」の足掛かりを持つという事。「知っている」で句点を付けられるなら、そこで話は完結する。「分かっ…
自分の感情に一番繊細で一番影響を受けて一番振り回されるのは自分なんです。誰よりも【自分】を感じてるのは自分なのだと思うんです。「夢を叶えたい」「大切な人の笑顔を見たい」その意思も願いも、元を辿れば「自分の幸せを感じたい」という根本に辿り着く筈なんです。何よりも誰よりも【自分】の幸せを願っているのは、他でもない自分なのだと思います。人生に於いて自分の一番のファンって、産まれた時からずっと【自分】なんですよ。
皆の幸せを願う時、その「皆」には自ずと【自分】も含まれる。自分を除外したら、それは【皆】にはなれない。親であれ友達であれ恋人であれ、自分が誰かの幸せを願う様に自分の幸せを願ってくれている人は必ず居る。だから自分の幸せを後ろ回しにした時、自分の幸せを願ってくれている誰かの「願い」を叶えられない事になる。その人の【幸せ】を叶えられない事になる。つまり自分の幸せを願えないという事は、「皆の幸せ」を願えられないということ。「皆の幸せ」を叶えられない。皆が幸せになれない。だから【皆】の幸せを願うなら、そこには【自分】も居なきゃいけない。
動画を開いた瞬間、感情が動くのかも知れませんし 耳を傾けた途端、人生が動くのかも分かりません。 例え43秒の内の一瞬でも 皆さんの分けて下さる数秒が、 翔真さんと皆さんを引き結ぶ可能性を生んでくれるのだと思います。 どうか、翔真さんに【希望】を結ぶチャンスを頂けないでしょうか? ------------------------------------------ 楽曲名 / 紫陽花の上で蹲る 作詞 : 作曲 / 佐藤 翔真 さん 引用元 / Twitter @syomagoodnight⬇️https://twitter.com/syomagoodnight/status/1412728043…
平日お昼に利用しているお店の冷蔵ショーケースが昨日は故障していたのですよ。その為普段買っている副食類が置いてなかったのでお弁当だけ持ってレジへ向かったのですが、その際の店員さんの一言。「え。今日食欲ないんですか?」いや自分絶対「よく食べるお客さん」で認知されてるじゃないですか。そんないつもお世話になっているコンビニの店員さんですが、普段のお会計とは別のやりとりを一枚分、その日は挟んで下さいました。「僕、ここ辞めるんですよ」来週の月曜日で最後なのだと告げて、「今までありがとうございました」とカウンター越しの私にご挨拶をしてくれたんです。後ろにまだ並んでいるお客様も居たので私も一言二言しかお返しす…
梅雨の時期と重なるという事もあり、 七夕は例年、曇りや雨のイメージがどうしても拭えませんが、 雲の上は天気も関係ありませんから。 7月7日に雨が多いのは、 一年に一度だけ逢える織姫と彦星が何ぴとにも邪魔される事なく二人の時間を育めるよう、 雲という空のカーテンが守ってくれているのかなとも思ったり。 七夕の今日、空の上はきっと優しさや幸せで満ちているのだと思います。 織姫と彦星が互いに心を結び合い溢れ出した「喜び」や「笑顔」や「嬉し涙」が、 この空の下で願いや祈りを持つ誰かへと、 【お裾分け】という名の雨や光を降らして下さいますように。
初期設定で既に完成されているのなら、 【頑張る】必要もないんです。 力を生み出す必要がない。 痛みを伴わずとも大成出来てしまうなら、 誰かの痛みに共感する事も同調する事も、 感情を分かち合う事もありません。 完璧じゃない人が「完璧」を目指すから、 そこに【力】は生まれるものだと思うんですよね。
「私のこと、好き?」と相手の気持ちを聞くよりも、「あなたが好きだよ」と自分の気持ちを【渡せる】人を目指していたいと切に思う。
コロリや肺病、スペイン風邪に天然痘。 今よりほんの少し昔、或いは遥か昔の方々が乗り越えられて来た災害や感染症。 当時はその場ですぐ連絡を取れる様な媒体は確立されてもいない時代で、 会いたい人に会う事はおろか、 連絡一本叶わなかったその頃の人々は一体、どれほど心細かっただろう。 どれほど不安だったろう。 どれほど胸を詰まらせて、 どれほどの眠れぬ夜を越えたんだろう。 だからこそ思う。 どれだけ災害に遭っても会えない夜が続いても、 電話やメール、SNSを介して会いたい人の顔が見れて近況が知れて、地球の裏側からでさえ繋がって行ける【糸】を私達は持っていて、連絡する事も声を聞く術も【地盤】に持ってい…
今日出勤すると、ふと所長から訊かれました。 「実家の方は大丈夫だったか」と。 自分が実家に居た頃利用していた最寄り駅の路線は、地域によっては線路がちょっとした崖に面している場所もありまして、 地盤も決して頑丈ではなかったので、雨が続く日は土砂崩れもよく起こしていたんです。 高校時代に片道2時間掛けて通学していた当時の自分にとっては相応の影響もありましたし、 電車が止まる度に父の車で高校まで送り届けて貰っていた事もよく覚えています。 そんな家族の支えもあって、小、中学時代は不登校だった自分が高校3年間は無遅刻無早退無欠席の皆勤賞を取れた訳ですが、 まぁそれは余談として。 所長から「実家は大丈夫…
ハッピーエンドが決まっている物語の上で起こるハプニングなんて、【見せ場】以外の何ものでもありません
「幸せ」という文字は『一』と『十』の間に『立つ』事で組み上げられる一つの言葉。人生はハッピーエンドにしか成らんのですよ。一から十の間に立っている以上、生きている以上、人は【幸せ】にしか成らんのですよ。「結局幸せになる」というベースの上で、私達は日々を生きるんです。それは例えば一本の映画。それは例えば一篇の漫画。仮に自分の人生を一冊のハッピーエンドの物語だとするのなら、「逆境」や「苦難」や「葛藤」のシーンは物語で言う所の【ここ一番】の盛り上がりでありスパイスなんです。見る側の目を離さぬ程にハラハラさせドキドキさせて、心臓の動きも落ち着かせないし呼吸も変化し続ける。人生を決して飽きさせないし新鮮さ…
黒いジョーカー 佐藤翔真 J-Pop ¥204 provided courtesy of iTunes 伝えなければ伝わらないし 渡さなければ届きません。 そして「伝う」事が出来るのは、 発信者の想いが【器】から溢れているからです。 翔真さんが何度でも伝えて下さるのは、 留め切れない気持ちがあって 留めたくない自分の声があるからです。 届かせたい想いが誰かの心に結びますよう、願いを込めて。 -------------------‐ 引用元 / Twitter @syomagoodnight 楽曲名 /折り合い 作詞:作曲 / 佐藤 翔真 さん https://twitter.com/syom…
与えるのは魚ではなく竿の使い方。教えるのは答えではなく考え方。
時には叱りも意見する事もあるけれど、「従順」になって欲しい訳では無い。「正解」にしたい訳でも「ディベート」をしたい訳でも無い。只、自分から見える【視点】の一つをお裾分けしてみたいと思うだけ。【選択】や【可能性】の一端を共有する事で、噛み合わせて発展して開拓して、裾野を広げたいと思うだけ。規則や規律や秩序や規範は、一定の安心や安定や平穏や安寧を守る為に重んずるべき【模範】ではあるけれど自分の中で重んずる規則や規律が正義や正解になった時、それは「権威」や「武力」の様なものを持ち始めるのではないかと思う。そこに不和や隔たりや、軋轢や歪みは生まれる訳で。正義や正解は【自分】を貫く為の「信念」や「誇り」…
自分の経験した結果を提示するよりも、相手自身の実感と体験の方が余程【価値】になり【身】にも成る。
普段は姉から「水溜まりには入らないでね」と言われていた姪っ子。ある日、雨の中二人で郵便局へ行った帰り道、「私がママに謝るから水溜まり入って良いよ」と言った時に長靴で思い切り水溜まりの中へ飛び込みはしゃいでいた姪っ子は本当に嬉しそうだった。子供の好奇心は【心を育てる種】だと思う。
今日みたいな雨を『沛雨(はいう)』や『そぼ降る雨』と言うのでしょうか。 同じ雨、同じ天気でも、 言い表し方によって一気に【趣】を持たせてお洒落にしまうのが言葉の力。 言葉の魔力ですね。 今日もきっと、【良い日】をつくって行けますね。
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