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二 新田義貞謀反の事 付けたり天狗越勢を催す事 ~4~
こういうことだったので、国々の早馬が鎌倉へ続けざまに急を知らせる事は、櫛の歯を挽くように絶え間ない。これを聞いて、時の変化を思い計らない者は、「なんと大袈裟な、何ほどの事があろうか。中国やインドから攻めてきたとでもいうなら、なるほどまっとうなことだろう
2021/06/30 10:23
二 新田義貞謀反の事 付けたり天狗越勢を催す事 ~3~
この数ではどうだろうかと思っているところに、その日の夕方、利根川の方から馬や武具の颯爽としてみえた兵二千騎ほどが、砂煙を上げて馳せて来る。さては敵だと目をこらしてみると、敵ではなくて越後国の一族で里見、鳥山、田中、大井田、羽川の人々でいらっしゃった。義
2021/06/29 08:58
二 新田義貞謀反の事 付けたり天狗越勢を催す事 ~2~
義貞はこれを聞いて主だった一族を集めて、「このことは、どうするのがよいか」と相談なさったところ、異なる意見が様々に出て、まとまらない。ある者は、「沼田の庄を要害として利根川を前にして敵を待とう」という意見もある。また、「越後国にはほぼ当家の一族が満ち
2021/06/28 08:59
二 新田義貞謀反の事 付けたり天狗越勢を催す事 ~1~
こうしているところに、新田太郎義貞が去る三月十一日、先帝から綸旨をいただいたので、千早城から仮病を使って国へ帰り、気心の通じた一族を密かに集めて、謀反の計略を巡らせていた。こういう企てがあるとは思いも寄らず、相模入道は弟の四郎左近大夫入道に十万余騎を添
2021/06/27 10:56
一 千寿王殿大蔵谷を落ちらるる事
足利治部大輔高氏が敵におなりになったことは、道が遠いので、飛脚がまだ到着せず、鎌倉ではまったくそれについての話はなかった。こうしているところに、元弘三年五月二日の夜半に足利殿の次男千寿王殿が大蔵谷を抜け出して行方知れずにおなりになった。これによって鎌倉
2021/06/26 08:41
十 千剣破城寄手敗北の事
その頃、昨日の夜六波羅がすでに攻め落とされて主上と上皇が皆関東に逃がれて行かれたと、翌日の正午のころに千早城に連絡が入ったので、城中では喜び勇んで、まるで籠の中の鳥が出て林で遊ぶような喜びようで、寄せ手は生け贄になる羊が追われて祭壇に近づくような思いを
2021/06/25 08:53
九 主上・上皇五宮のために囚われたまふ事 付けたり資名卿出家の事
そういうことで五宮の官軍たちは主上と上皇を捕らえ申し上げて、その日まず長光寺へお入れ申し上げ、三種の神器と、玄象、下濃という琵琶の名器、清涼殿のご本尊までが、帝ご自身から五宮に渡された。秦の子嬰が漢祖のために滅ぼされて天子の印の玉を首に懸け、白馬の引く
2021/06/24 09:07
八 越後守仲時以下自害の事 ~3~
越後守仲時は、しばらくは時信を遅いとお待ちになっていたが、来る時刻が過ぎて時間が経ったので、さては時信はすでに敵になったのだ、もはやどこへ引き返しどこまで逃げ延びられようか、到底できはしないのだから、いさぎよく腹を切ろうとかえってきっぱりと決心して、様
2021/06/23 08:54
八 越後守仲時以下自害の事 ~2~
越後守は前陣が戦をしていると聞いて馬を速めて駆け付けなさる。糟谷三郎が越後守に向かって、「弓矢を取る者が死ぬべき所で死ななければ、恥を見ることになると言い習わされているのは、もっともなことでした。我等は都で討ち死にすべきでしたが、一日の命を惜しんでここ
2021/06/22 08:43
八 越後守仲時以下自害の事 ~1~
その頃、両六波羅が京都の合戦に敗れて関東へ逃げるということが噂になったので、安宅、篠原、日夏、老曾、愛智川、小野、四十九院、摺針、番場、醒ヶ井、柏原、その他伊吹山の麓、鈴鹿川の辺りの山賊、強盗、ならず者たち二、三千人が一夜のうちに集まって、先帝第五の宮
2021/06/21 08:47
七 主上・上皇御沈落のこと ~6~
そこで粗末な網代の輿を求め出して、徒歩の武者たちは急に駕籠舁きのようになって御輿の前後を担ぎ申し上げた。 天台座主梶井二品親王は、ここまでお供なさったが、この先も道中が無事に過ごせそうだともお思いになれなかったので、どこかしばらく隠れようとお思いになっ
2021/06/20 08:43
七 主上・上皇御沈落のこと ~5~
六騎の兵は六方に分かれて逃げる者を追うこと各々数百mである。弥八はあまりに長追いしたので、野武士二十余人が引き返してこれを取り囲む。しかし弥八は少しもひるまず、その中の首領と見えた敵に馬を並べてむんずと組み、馬二頭の間にどっと落ちて十五mほどの高い崖の
2021/06/19 08:42
七 主上・上皇御沈落のこと ~4~
帝の篭が遠く四宮河原をお過ぎになると、「落人が通るぞ。討ち取って武具を剥ぎ取れ」と叫ぶ声が前後に聞こえて、雨のように矢が射てこられた。これではこの先どんなことが起こるだろうかと思って、東宮を初めとし申し上げてお付きの殿上人はばらばらに散っておしまいにな
2021/06/18 10:46
七 主上・上皇御沈落のこと ~3~
五月闇のころなので前後も見えないほど暗く、苦集滅路のあたりに野武士がおびただしくいて四方八方から射た矢に左近将監時益は首の骨を射られて馬から逆さまに落ちた。糟谷七郎が馬から下りてその矢を抜くと、すぐに息が止まった。 敵がどこにいるのか分からないので、馬
2021/06/17 08:29
七 主上・上皇御沈落のこと ~2~
越後守仲時は、奥方に向かって、「日頃は、たとえ思いがけず都を去ることがあるとしても、どこまでも一緒でいようと思っていたが、敵が東西にあふれていて道を塞いでいるということなので、安心して関東まで落ち延びられるとは思われない。あなたは女の身だから大丈夫だろ
2021/06/16 08:25
七 主上・上皇御沈落のこと ~1~
この時糟谷三郎宗秋が六波羅殿の前に参って、「お味方の御軍勢は次々に逃げて今は千騎に足らないほどになっております。この軍勢で大軍を防ぐことはできないと思われます。東の一方を敵はまだ包囲していませんので、主上と上皇をお連れして鎌倉へお下り願って後、再び大軍
2021/06/15 09:54
六 六波羅攻めの事 ~4~
勢いに乗って逃げる兵達を追う四方の寄せ手は五万余騎、みな一隊となって押し寄せ、五条の橋詰めから七条河原まで、六波羅を取り囲む兵は幾千万とも知れない。しかし東の一方はわざと開けられていた。これは敵の心を一つにしないで、容易に攻め落とそうという計略である。
2021/06/14 09:15
六 六波羅攻めの事 ~3~
東寺へは赤松入道円心が三千余騎で寄せていった。楼門が近くなった時、信濃守範資が鐙を踏ん張り左右を見渡して、「誰かあの木戸と逆木を引き破って捨てよ」と命じたところ、宇野、柏原、佐用、真島の血気盛んな若者たち三百余騎が馬を乗り捨てて走り寄り、城の構えを見渡
2021/06/13 09:07
六 六波羅攻めの事 ~2~
また、源氏の陣から紺の唐綾おどしの鎧に鍬形を打った兜の緒を締め、百五十㎝あまりの太刀を抜いて肩に担ぎ、敵の前五十mほどに馬を駆け寄せて、大声を上げて、「八幡殿よりこのかた源氏代々の家臣としてさすがに家名は高いが、当代名を知られていないのでしかるべき相手
2021/06/12 08:37
六 六波羅攻めの事 ~1~
一方、六波羅では、六万余騎を三方に分けて、一手を神祇官役所の前に置いて足利殿を防がせなさる。一手を東寺へ差し向けて赤松を防がせなさる。一手を伏見の北へ向かわせて千種殿が寄せられる竹田、伏見を守らせなさる。朝九時ごろ、正面と搦め手同時に戦いが始まって、馬
2021/06/11 08:27
五 高氏願書を篠村の八幡宮に籠めらるる事
さて、夜が明けて五月七日の朝四時、足利治部大輔高氏朝臣は二万五千余騎を率いて篠村の宿をお発ちになる。夜がまだ深かったので、静かに馬を進ませて東西をご覧になると、篠村の南に当たる所に「陰森たる故柳、疎槐」の下に社殿があるように思われ、消え残った焚き火の火
2021/06/10 08:30
四 足利殿篠村に着御すなはち国人馳せ参る事 ~3~
さて、官軍は、五月七日に京に入って合戦をしようと決められたので、篠村、八幡、山崎の先陣の軍勢は夕方から隊を整えて、西は梅津、桂の里、南は竹田、伏見に篝火を焚き、山陽、山陰の両道はすでに閉鎖されている。また、若狭路を通って高山寺の軍勢が鞍馬路、高尾から寄
2021/06/09 08:58
四 足利殿篠村に着御すなはち国人馳せ参る事 ~2~
六波羅はこれを聞いて、「それならば今度の合戦は天下を決めることになるだろう。もしたまたま敗れることがあれば、主上と上皇をお連れして関東に下向し、鎌倉に都を作って、再び大軍を興して逆賊を追討しよう」と評議して、去る三月から北探題の館を御所に改装して上皇と
2021/06/08 08:43
四 足利殿篠村に着御すなはち国人馳せ参る事 ~1~
その頃、足利殿が篠村に陣を取って近国の軍勢を集められたところ、当国の住人で久下弥三郎土岐重人いう者が二百五十騎で真っ先に馳せ参じる。その旗の紋と笠印にみな「一番」という字を書いていた。足利殿はこれをご覧になって不思議に思われたので、高右衛門尉師直をお呼
2021/06/07 08:48
三 足利殿大江山を打ち越えたまふ事
正面の合戦は今朝八時頃から始まって、馬の砂煙が東西にたなびき、鬨の声が天地を揺るがして攻め合ったけれども、搦め手の大将足利殿は桂川の西の端に下りて留まって酒盛りをしていらっしゃる。こうして数時間を経て後、正面の合戦に寄せ手が負けて大将がすでに討たれたと
2021/06/06 10:31
二 山崎攻めの事 付けたり久我縄手合戦の事 ~2~
その頃に、搦め手の大将足利殿は未明に京都をお発ちになったと知らせがあったので、正面の大将名越尾張守は、「さては人に先駆けされた」とおもしろくなく思われて、あれほど深い久我縄手の、馬の足も立たない泥土の中に馬を入れ、我先にと進んだ。 尾張守はもともと血
2021/06/05 08:56
二 山崎攻めの事 付けたり久我縄手合戦の事 ~1~
両六波羅は、度々の合戦で勝ったので西国の敵は恐れるに足りないと侮りながら、中心的な武将として頼りにしていた結城九郎左衛門尉は敵となって山崎勢に加わり、その他関東勢たちが五騎、十騎と、ある者は兵糧の運搬に疲れてそれぞれの国に帰り、ある者は時代の流れを読ん
2021/06/04 09:41
一 足利殿御上洛の事 ~2~
その後、弟兵部大輔殿をお呼びになって、「このことをどうしようか」と意見をお求めになると、しばらく考えて、「今この一大事をご決心になったことは、まったくご自身の利益のためではありません。ひとえに天に代わって道理に背く者を討ち、帝の御ために過ちを退けよう
2021/06/03 15:41
一 足利殿御上洛の事 ~1~
先帝が船上山にいらっしゃって討手を上洛させ京都を攻められているということを六波羅の早馬がしきりに発って、事態がいよいよ難しくなってきたことを幕府に報告したところ、相模入道は大変に驚いて、「それでは重ねて大軍を上洛させて、半数は京都を警護し、主力は船上山
2021/06/02 08:56
八 谷堂炎上の事
千種頭中将は西山の陣をお逃げになったということが伝えられると、翌日四月九日、京中の軍勢が谷堂、峰堂以下、浄住寺、松尾、万石大路、葉室、衣笠に乱れ入って、仏閣神殿を打ち壊し、僧坊や民家に押し入り財宝をことごとく運び取って、民家に火を懸けたので、おりから悪
2021/06/01 09:27
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