鎮痛・免疫力向上のお役に立ちます<br>takasaki@p1.cnh.ne.jpまでお気軽に(*^^*)
長州に「猪木は絶対俺が倒すから」と言われ立場が危うくなりかけた(?)猪木は凄い形相で、長州に「今ここでやってやる」と宣言控室に戻った長州に対し「5分待ってやる」と時間の猶予を与え猪木自身も一旦控室に戻りました。すると、入れ違いに長州が走ってリングに登場逆にコーナーを背に猪木を待ちます。5分後に猪木が登場こうして一度は流れた猪木対長州の試合が実現したのでありました。逸る長州に対し、じらして前に出ない猪木しかし一瞬のスキをついて延髄斬りをヒットさせます。更に場外に落としての鉄柱攻撃で長州の顔面を割りました。顔面血ダルマで落ち武者のような長州に対し猪木は徹底したストンピング攻撃を浴びせます。眼底骨折して、まだ40日弱の長州には大ダメージでありましょう。そして卍固めをガッチリ決めました。もはや絶対絶命の中セコンドの馳が...A猪木とビートたけしによる(?)両国暴動事件顛末記(後編)
おはようございます。4月最終日本日もよろしくお願いいたします今日のパンダの一言
おはようございます。本日もいい天気。頑張っていきます。よろしくお願いいたします。今日のパンダの一言
お笑い、ドラマ、司会、俳優、脚本家、歌手、編集家、映画監督…と、ありとあらゆる分野で天才ぶりを発揮し「巨匠」の名声をほしいままにしてきたビートたけし彼がプロレス界に進出したのは1987年秋のことでしたTPGたけしプロレス軍団を結成して新日本プロレスのA猪木に対し挑戦状を送り付けたのです。最初は相手にしなかった新日ですが12月4日の両国国技館にM斎藤を後見人としてガダルカナル・タカとダンカンが登場猪木に対し、直接挑戦をアピールしました。すると猪木は「お前らが本気なら受けてやる」と、挑戦を受けたのであります。そして3週間後「イヤー・エンド・イン国技館」と銘打たれた12月27日、両国国技館に於いて11090人の大観衆の中、真っ暗になった館内に不気味な鋼鉄の鎧を被った「TPGの刺客」が登場その名もビックバン・ベイダーで...ビートたけしを巻き込んだ両国暴動事件
困ったときはお互い様の精神で頑張ります。本日もよろしくお願いいたします。今日のパンダの一言
スタッフ一人一人の個性を生かしながら、今週も頑張ります。どうぞよろしくお願いいたします今日のパンダの一言
今日はゆっくり休みます今日のパンダの一言
1993年1月4日東京ドームにおいて約7年半ぶりに実現した長州力対天龍源一郎の一戦18分の激闘の末、WARの看板を背負う天龍が渾身のパワーボムで見事にカウント3長州からタッグも含め初めてフォールを奪ったのでした。この状況を見届けて、リングに上がったのは解説席にいた猪木以前、天龍から対戦要望書を受け取った時「今度のドームで勝ったら、俺が挑戦してやる」と、言ってたのですがマイクをつかむや「天龍選手、先日預かった対戦要望書、今日この場において対戦を受諾いたします。」と、叫んだのです。男と男の約束から1年経った1994年1月4日新日・東京ドーム大会に於いてついに両者は対戦しました。長州、橋本、馳、蝶野、藤波と新日主力選手を次々と撃破しかなり勢いに乗っている天龍に対し一方の猪木は、1年7ヶ月ぶりのリング復帰という事で調整...「試合後に逮捕される」と、マジで心配した天龍戦
おはようございます。今日はいい天気。よろしくお願いいたします今日のパンダの一言
私がプロ野球を真剣に見るようになったのは小2の秋1976年の日本シリーズ・巨人対阪急からでした。当時はしては当たり前に巨人ファンでありシリーズにリリーフで活躍した小林繁のファンになったんです。小林はペナントでも当年に続き、翌77年のペナントで18勝を挙げ優勝の立役者となりました。翌々78年、巨人は2位でペナント優勝を逃し小林も13勝とやや不本意であったもののそれでもまだ十分エース的存在であり巨人には必要不可欠な存在のハズだったのに…秋のドラフトにおける「江川卓・空白の一日問題」に巻き込まれ江川が巨人に巨人に入団する代わりに江川をドラフトで指名した阪神になんと小林が電撃トレードする形となったのです。いやあ~、これはショックでしたね。更にもっともっとショックなことに79年、阪神タイガースの投手としてマウンドに上がっ...小林の阪神移籍以上にショックでした
肌寒い日ですが、本日もよろしくお願いいたします。今日のパンダの一言
昭和から平成へと元号が変わった1989年は世界にとっても、新日プロにとっても大きな転換期を迎えた年でありました。1980年代後半からのペレストロイカ政策によりソビエト連邦(現ロシア)の国家スポーツ委員会が新日本プロレスと提携これによって4月24日新日本プロレスの東京ドーム初興行にソ連・レッドブル軍団が初登場し53800人の大観客を驚かせたのです。ちなみに当大会のメインエベントでA猪木はミュンヘン五輪の柔道・金メダリストS・チョチョシビリと対戦し裏投げ3連発を食らって、完敗しました。しかし1ヶ月後の5月25日、大阪城大会で再びチョチョシビリと対戦し、雪辱を果たした後この日を以て、第一線から退き7月の参議院選挙にスポーツ平和党を立ち上げて出馬残り1議席を扇千景と争い、薄氷の当選を果たしたのです。また世界情勢では、1...A猪木議員の闘魂外交による国際プロレス交流
午後からも笑顔で頑張ります(^)o(^)今日のパンダの一言
おはようございます今週もよろしくお願い致します今日のパンダの一言
おはようございます。皆様にとって、昨日よりも今日が、今日よりも明日が良い日でありますように今日のパンダの一言
昭和35年9月30日、本名の猪木寛至として東京都の台東区体育館で大木金太郎を相手にデビューしたA猪木(*結果は7分6秒、逆腕固めで敗退)それから30年が経ち平成2年9月30日、横浜アリーナに於いて「A猪木30周年メモリアルフェスティバル」が開催されました。メイン・エベントはA猪木とB・ベイダーのタッグマッチベイダーが、己のパートナーに指名したのは何と、あのA浜口であり「日米気合」コンビの結成です。続いて登場したのは昭和のプロレスファンなら、よ~くご存じ姿を見ただけで、誰しも体中が震え上がるという「ターバンを巻いた狂える虎」その名はタイガー・ジェット・シン!!昭和48年~56年の8年に渡り血みどろの抗争を展開してきた猪木とシンですが何と!何と!信じられない事に積年の因縁を水に流し両者が一夜限りのコンビを結成ここに...猪木、怨敵とタッグ結成。そして人質解放へ
大雨ですが、頑張っていきましょうよろしくお願いいたします今日のパンダの一言
平成23年4月~29年3月末まで、水曜深夜に放送されていた「マツコ&有吉の怒り新党」にハマっていた時期がありこの中で特に、番組の最後に放送される「新・三大〇〇調査会」が大好きでした。これは、「日本三景」「日本三大祭り」などに隠れ一般に知られていないが日本人が知っておくべき三大括りがあるとしてある分野の有識者がトップ3を決定し夏目三久の前説と共にVTRで放送しマツコ・デラックスと有吉弘行がコメントし合っていくという内容だったんです。まあそれはともかくとして・・・昭和59年5月18日、新日・広島大会に於いて「84IWGP公式リーグ戦」としてA猪木対長州力の一戦が行われました。1ヶ月前に、レフェリー・ストップとはいえ卍固めで屈辱を味わった長州開始前からリキ・ラリアットを奇襲更にはオクラハマ・スタンピートと畳み掛けサソ...「マツコ&有吉の怒り新党-新・三大〇〇調査会」の巻
おはようございます。本日もいい天気よろしくお願いいたします今日のパンダの一言
平成23年4月~29年3月末まで、水曜深夜に放送されていた「マツコ&有吉の怒り新党」にハマっていた時期がありこの中で特に、番組の最後に放送される「新・三大〇〇調査会」が大好きでした。これは、「日本三景」「日本三大祭り」などに隠れ一般に知られていないが日本人が知っておくべき三大括りがあるとしてある分野の有識者がトップ3を決定し夏目三久の前説と共にVTRで放送しマツコ・デラックスと有吉弘行がコメントし合っていくという内容だったんです。まあそれはともかくとして・・・昭和59年5月18日、新日・広島大会に於いて「84IWGP公式リーグ戦」としてA猪木対長州力の一戦が行われました。1ヶ月前に、レフェリー・ストップとはいえ卍固めで屈辱を味わった長州開始前からリキ・ラリアットを奇襲更にはオクラハマ・スタンピートと畳み掛けサソ...A猪木対長州力(1984.5.18)
午後からも頑張ります!(^^)!今日のパンダの一言
平成7年3月20日、地下鉄サリン事件で、首都東京を大混乱させ日本中を震撼させたオウム真理教その1ヶ月後の4月23日には何と幹部・M井秀夫氏が東京都港区南青山に当時あった教団・東京総本部前で200人を超えるマスコミ関係者が集まる中右翼団体構成員Jに刃物で左腕と右脇腹を続けざまに刺され殺害されるという事件が起こりました。時はその事件より遡る事11年前昭和59年6月14日、蔵前国技館に於いてA猪木とH・ホーガンとの間で第2回IWGP世界大会の優勝決定戦が行われたのであります。前年度優勝のホーガンはベルトを巻いて登場この時、リング下の長州を見つけるやお互いにらみ合いました。さて試合のほうは前回同様、大変白熱したものとなりましたが17分14秒、両者リングアウトで引き分け館内からものすごい「延長」コールが沸き上がりリング上...A猪木対H・ホーガン(1984.6.14)
おはようございます。良い天気。本日もよろしくお願い致しますm(__)m今日のパンダの一言
1970年代、ボクシング世界ヘビー級王者として世界中に名を轟かした「英雄」モハメッド・アリ「ビックマウス」とも言われるほど、口も達者であり75年3月には「誰か俺様を倒す東洋人はいないのか?」と挑発このアリに対し、1枚の挑戦状が届けられました。それは日本人プロレスラーであるアントニオ猪木しかし、アリは猪木の存在を今まで知らず「イノキ?WHO?」とコメントこれに対し、猪木はメディアを通し、アリを挑発しました。するとアリは「俺に600万ドル(当時の日本円で約20億円)払えば闘ってやる」とコメント猪木側は必死でこの大金をかき集め翌年3月25日、ニューヨークで調印式を行いました。この席で、猪木を「ペリカン野郎」と罵ったアリは6月18日の外国人特派員クラブ会見において松葉杖をプレゼントそして、60人のアリ軍団を引き連れて連...A猪木対M・アリ(1976.6.26)
新日がプロレス団体として初めて東京ドームで興行を行ったのは1989年4月24日の事でした。日米の他、ソ連から柔道家、アマレスラーを多数招聘し「89格闘衛星・闘強導夢」と銘打って、開催され53600人の大観衆が集まったのですが当時21歳だった私も、大学生の分際ながらせっかくの記念だからと、3万円を奮発しロイヤルシート(だったか?)の席を購入したのです。当大会のメイン・エベントは、日ソ異種格闘技戦としてA猪木対S・チョチョシビリの一戦が行われました。チョチョシビリはこの時、現役選手ではなかったものの1972年のミュンヘン・オリンピックに於ける柔道男子・軽重量級の金メダリストであります。猪木にとってはスピンクス戦以来2年半ぶりの異種格闘技戦しかも今回は、ノーロープ円形という特殊リングでの闘いです。13年前には、同じ柔...A猪木対S・チョチョシビリ(1989.4.24)
今週もよろしくお願い致しますここ氷見市はかなり暴風ですので、外出の際はくれぐれもお気をつけ下さいませ。今日のパンダの一言
M斎藤との巌流島の血闘から3週間1987年10月25日、両国国技館に於いてA猪木はS・ウィリアムスを相手に、自らが保持するⅠWGP王座の防衛戦を行いました。ウィリアムスとは1年ぶりの対戦になりますが前回もスピンクスとの格闘技戦の直後の対戦であり大苦戦を強いられ、何となく苦手な感があります。まだ巌流島でのダメージが回復していないのか珍しく左肩に大きな絆創膏を貼って登場した猪木しかしテレビ解説者の山本小鉄氏によると「これは猪木流のブラフであって、実際は右肩を負傷している」との事ですが…(*確かに前週放送の富士大会では、右肩を痛がっていた)しかし、そんな小細工も「殺人医師」には全く意味をもたらしませんでした。危険な角度から繰り出すバック・ドロップ、デッドリー・ドライブ、パイル・ドライバー・・・と、ウィリアムスの繰り出...A猪木対S・ウィリアムス(1987.10.25)
もうここまで来たら、「コ〇ナ仮面に延髄蹴り」の心境です打倒!コ〇ナ仮面
以前から業者に注文していた個包装の消毒用綿花ですが、注文殺到によりかなり出荷が遅れ、本日ようやく当院に届きました。これでより一層、皆様に安心安全の施術を提供できます。今後とも宜しくお願い致します。消毒用綿花
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