バイクに乗ることが好きな 独身中年男性です。 和歌山市から日帰りなどで 行ける範囲(大阪や奈良、和歌山南部など)行った先々の場所や食べ物(主にラーメン)を紹介していきたいです。
波太神社は平安時代の法典『延喜式(えんぎしき)』に記載されていることから 「式内社(しきないしゃ)」として知られています。 波太神社の末社三神社本殿は、寛永15年(1638年)の建立で 国の重要文化財に指定されています。 // //
大阪府阪南市尾崎町[尾崎神社(おざきじんじゃ)]までツーリング
尾崎神社は石燈籠に、元禄10(1697)年の銘があることや、 本殿の建築様式からこの神社がおよそ300年前には この地にあったことがわかります。 // //
大阪府阪南市貝掛[指出森神社(さしでもりじんじゃ)]までツーリング
指出森神社は、もともとは貝掛神社と言われていました。 神功皇后の三韓征伐の時、ここに舟をつなげて武内宿彌が皇子を 抱いて海辺を逍遥した場所といわれ、応神天皇を祀る八幡宮でした。 // //
加茂神社は社伝によると弘仁4年(813年)に創建されたものと言われています。 京都賀茂神社改修の際、御霊箱を加茂川に流したところ箱作の海岸に 漂着したので箱着里(はこつくり)と言われ、その地に加茂神社を建立しました。 // //
大阪府阪南市箱作[田山稲荷神社(たやまいなりじんじゃ)]までツーリング
稲荷神社は祭神は保食神、菅原道真・高龗神、創建寛保年間、 伏見稲荷より分霊を勧請したと伝えられています。 明治26年6月1日当地に移り明治40年11月7日南近義村の村社菅原神社を 合祀して村社となり明治43年3月神神饌幣帛料供進社に指定され 明治44年4月21日に無格社貴船神社(山中)を合祀しました。 // //
和歌山県岩出市赤垣内[山崎神社(やまさきじんじゃ)]までツーリング
山崎神社は、人皇七五代崇徳天皇の御代大治元(1126)年丙午5月、 鳥羽天皇が根来寺を下山され熊野三山へ向われる途中、 真田の里まで進まれたとき、にわかに天候が変わり、 雷雨はげしく行列を進めることが出来なくなました。 // //
和歌山県岩出市森[荒田神社(あらたじんじゃ)]までツーリング
荒田神社は天正の兵火(秀吉の根来攻め)による焼失の為、 古文書は残っておらず、創祀時などは不明です。 『紀伊続風土記』(江戸時代の紀伊国地誌)では、 祭神を荒田直の祖である高魂命と剣根命とし、 のちに兵庫県の廣田神社と同じく天疎向津姫命・神功皇后 ・応神天皇としました。 // //
和歌山県岩出市根来[坂本神社(さかもとじんじゃ)]までツーリング
創立年代等詳らかではないが今尚寛文12(1672)年辰5月(皇紀2332年)と 記された棟札を保存しています。 当根来地区(旧西坂本)には他に御船明神社・山宮大明神社等の 神社があったが次々と今宮神社に合祀され、明治40年坂本神社と改称されました。 // //
和歌山県岩出市北大池[上岩出神社(かみいわでじんじゃ)]までツーリング
上岩出神社は、昔から「白山さん」と呼ばれ、「子安の神」として 信仰を集めてきた神社であり、現代も「白山さん」の名で親しまれています。 旧上岩出村七か字(北大池・東坂本・新田広芝・南大池・水栖・野上野・山田)の氏神様です。 // //
和歌山県紀の川市穴伏[名手八幡神社(なてはちまんじんじゃ)]までツーリング
名手八幡神社は紀伊ノ国紀北御開拓の祖神、丹生津比売大神が 御降臨なされた聖地であり古来より産土神として御奉斎されています。 紀ノ川のほとり、名手に鎮座する古社で江戸時代には名手大明神といい丹生明神、 狩場明神、八幡宮の三社を祀っていて、古来より名手荘十一ヶ村の産土神でした。 古くは社頭は荘厳をきわめていましたが、天正の兵火で社殿が焼失しました。 // //
和歌山県紀の川市東野[王子神社(おうじじんじゃ)]までツーリング
王子神社は、古くは若一王子権現社と呼ばれていました。 本社は一間社春日造りの社殿に、天忍穂耳命を祭神としてお祀りしています。 若一王子とは、熊野権現の若王子のことなので、熊野信仰が盛んになる平安時代末、 いまから900年以前の創建と思われます。 祭神の天忍穂耳命は、正式には「正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命」という たいへん長い名前の神で、天照大神の日継の御子であり、 天孫ニニギノ命の父神にあたり、稲の豊作の霊をもつ神といわれています。 // //
和歌山県紀の川市北志野[志野神社(しのじんじゃ)]までツーリング
志野神社は、天言代主命・加具土命・息長帯姫命を祭神とし、 紀の川市北志野の桜池の近くに鎮座し『紀伊国続風土記』によれば、 徳川南龍公の御代にこの北志野の地に人工池(桜池)を創ろうと したところ夜毎に、奇妙な光が辺りに発せられた。 // //
和歌山県紀の川市神領[海神社(うみがみのやしろ)]までツーリング
海神社は平安の時代初期には当地に鎮座していた古い宮です。 祭神は豊玉彦命・国津命の二神で人皇11代垂仁天皇の御代、 明神が熊野の楯が崎に出現するのを見た忌部の宿弥(いんべのすくね)が、 当時に創立したと伝えられる神社です。 第一の鳥居 第一の鳥居を抜けて500メートルほど先に第二の鳥居があり境内があります。 // //
和歌山県紀の川市打田[東田中神社(ひがしたなかじんじゃ)]までツーリング
東田中神社は旧田中村8社の中、日吉神社、一之宮神社、若宮神社、 中村神社を昭和20年に日吉神社の社地に併せ祀り翌21年東田中神社と 改稱したものであり、本殿4社が並んで居たが、旧中村神社、若宮神社の2殿が 焼失、台風に依り倒壊し復舊出来ず現在の2殿となって居ます。 // //
和歌山県紀の川市中井阪[西田中神社(にしたなかじんじゃ)]までツーリング
西田中神社は田中荘8社と云われた神社の中、羊之宮・尾崎八幡神社 ・上野妙見神社・住吉神社の4社を昭和21年に羊之宮の宮地に合せ祀って 西田中神社と改稱されたものです。 // //
和歌山県紀の川市貴志川町[氣鎮神社(けちんじんじゃ)]までツーリング
前回のブログで紹介した大多羅乳女神社(おおたらちめじんじゃ)の となりにある氣鎮神社の紹介です。 当神社は、氣鎮講の講社として祀られ、社伝によれば、 唐和2年2月に鎮座、以来千百年の間、講中の守護神として現在に至ります。 // //
和歌山県紀の川市貴志川町[大多羅乳女神社(おおたらちめじんじゃ)]までツーリング
当神社は、貴志川町丸栖の中心に位置して境内地は550坪を有し御祭神として 伊邪那美命・市杵島姫命を斎き祀っています。 古文書『當大明神宮留書』によると丸栖邑の氏神として 正保元(1644)年からの神社の経歴神事行事が詳細に書かれ、 県史編さん室より貴重な史料とされました。 // //
和歌山県紀の川市貴志川町[大國主神社(おおくにぬしじんじゃ)]までツーリング
大国主神社は貴志川左岸にある陽向山に鎮座し 通称(おくにっさん)と呼ばれています。 // //
熊野神社は天治2(1125)年鳥羽上皇の熊野三社へご参詣の途中、 当地の弘誓山における奇瑞の御感応によって塔堂、伽藍を建立し 弘誓山大天王院満願寺として開山し、熊野三山の神々を勧請し当地方の 守護神として熊野神社を奉祀せられました。 // //
湊神社の由緒は『木國神名帳』に「従四位豊海の神」と称へられてあり 往時和田浜(千軒)の大地主神として湊奥の坪「カツカ丘」に 鎮座して社殿も誠に壮麗でありしとあります。 しかし明応年間(1492)の大津波により砂中に埋もれ一時前記「カツカ」丘に 移し奉りしが元和の始め(1615)に再びもとの奥の坪に鎮座し奉り更に // //
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