chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
救済先行 信仰後続 https://user2018.hatenablog.com/

神は、世界の基が据えられる前から(中略)みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。(エペソ1:4~5)

シェアル・ヤシュブ
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2019/04/28

arrow_drop_down
  • 救われた者としての余裕によるアガペー実践

    人は倫理的にどうであって、そこからどうならねばならないか…といった話は、仏教僧侶の説法であれ、キリスト教司祭 , 牧師の説教であれ、大要は全部聴かずともわかりきっているものです。問題となることはそれをいかにしてなし得るのか…?という方法です。宗教は理論・教説に傾いて、実践の方が弱いのです。曖昧であり、ケースバイケースの面があるにせよ具体性を欠くのです。だから説法者や説教者は実際的な質問を嫌がるのです。人が自己中心的な状態から他者と協調してゆく状態へと変わることが大切だとか、世間的な量的価値観から実存的な質的価値観へと変わることが大切だとか、そういった趣旨の話は、宗教関係者は特に、もうさんざん耳…

  • 救済福音として要請される、「けっして自我の中に吸収され解消されることのできないもの」である「絶対的な霊的実体」としての神

    ">遠藤周作氏がエッセイ『私にとって神とは』で述べているような「神」は、私見では「自我の中に吸収され解消される神」です。遠藤氏にとって「神」は人格でもなければ実体でもなく、存在とも言えないような「はたらき」であるとのことですが八木誠一氏が指摘しておられるように単に「はたらき」と言っても現実にはその「主(ぬし)」があって三分節されるわけです。< 神ご自身とは、「神のはたらき」(作用的一)の主(ぬし)のことである。「はたらき」にはその「主」がある、とわれわれは考える。それはこういうことである。言表は必ず主語と述語とから成っていて、主語だけ、述語だけでは文にならない。だから、われわれは作用を述べると…

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、シェアル・ヤシュブさんをフォローしませんか?

ハンドル名
シェアル・ヤシュブさん
ブログタイトル
救済先行 信仰後続
フォロー
救済先行 信仰後続

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用