その後は、人事の言葉を信じて、我慢の毎日だった。1日1日が、ただ無難に過ぎるのをただ待つだけの毎日だった。3月の初めだったか、直属の上司に呼ばれ異動の話がある旨を伝えられた。まだ決まっていないような口ぶりで、どうするか選択しろとのニュアンスだった。内心ほくそ笑んだが、表面には出さず、神妙なふりで受け止めた。同時に、頭ごなしに人事に話をつけたことを厳しく批判された。そんなやり方は、この会社では通用しないと。部長からも同じ形の批判を受ける事になったが、全く動じることはなかった。むしろ、新しい職場への期待で胸が膨らんだ。もしかしたら、この時の異動が、今までで一番うれしかった異動かもしれない。この後も…
転職初日は緊張した。この時は、仕事の実績もなく、自信もないため、不安感で一杯だった。上司との対面、同僚になる人たちへの紹介。一連の行事が流れるが、終始、緊張感で満たされていた記憶がある。仕事は、特に決まったものがあるわけではなく、しばらくは、新しいプログラム言語の習得や上司との客先同行という感じだった。その日、上司の計らいで、近くの居酒屋で有志だけの小さい飲み会が設定された。ほぼ同年代の人間が集まったが、皆、既に仕事に馴染み、各々自信を持っており、気おくれを感じたものだ。唯一、同じ日に転職してきた40歳になるMさんとの昼飯だけが、癒しの時間であった。当時は、40歳にもなって、子供2人もいて、転…
予想通り、合格した。初めての転職活動成功であった。退社報告は、かなり緊張し、なぜか声がかすれた。上司は、引き留めることもなく、逆に、私の能力のなさをあげつらった。今なら、これは、ポジションパワーを持つ上司の責任に帰するものであると、言い返すこともできるが、当時は、ただ黙ってうなずくことしかできず、長い間、トラウマになった。例えば、コミュニケーション不足について。これこそ、”双方”の問題であり、上司にも大きな 責任がある。自分が上司になった時には、この言葉は絶対に言わずにおこうと強く思った。 仲の良い同期達に退職の報告。ちょど同時期に辞める男が1人おり、彼とは、色々話し合った。30年以上経つ現在…
買ったことのなかった技術者向けの転職雑誌を買い込み、すぐに見つけたのが、その後、仕事人生を変えてくれた次社の案件であった。会社は前職より10倍ほど大企業だ。職種はSE業務であったが、SE営業としての仕事の可能性もあるようだ。自分の能力が通用するかどうか大いに不安であったが、なんとかなるだろうと、高を括った。 1次面接は、事業部人事課長であり、話は、トントン拍子に進む。今から思えば、とにかく人が足りない状況であったようだ。2次面接は、先方5名と私1名の面接。特に難しい話はなく、最後に、”なぜ○○さんは、学生時代に、弊社受けなかったの?”と聞かれた時だけは、かなり戸惑い、苦笑いするしかなかった。こ…
初めての転職活動は、難航した。当時、バブル期で、日曜日の新聞就職欄は、いつも募集記事満載だった。良さそうな会社をピックアップし、応募するも、書類すら通らない。途中入社なので、”何ができるか?””何をしたいのか?”がポイントになるのだが、私が主張したのは、”経理”という抽象的で、恥ずかしいものだった。たまに、面接にたどりついても、つっこまれると、直ぐにボロがでる。そもそも、”経理”とは何か、わかっていないのだから。この当時、滑ってがっかりした会社の多くが、その後のバブル崩壊に巻き込まれ、消失した。 ある日、ふと、思いついた。経理ではなく、”SE”で勝負したらどうだろうか? 当時、先輩が転勤した後…
そのような状況下、当然、会社を辞めることに目は向き、まずやったのは、新聞記者試験を片っ端から受けることだった。記者になりたいわけではない。ただ、何かをしなければやってられない気持ちからである。当然、全落ちである。次に、目を付けたのが、公務員試験。1年目は、勉強もせず、全落ち。2年目は、受験勉強並みに勉強し、10倍近くの倍率を突破する。(思えば無駄な労力を費していたものだ。。)2次の集団面談も、さすがに学生相手のディスカッションに負けるわけはなく、撃破。3次の個人面談に臨む。そこで、またまた悩ましい一言が、面接官からでる。”3年も民間でやって、公務 員になるのは、もったいない”心からの思いで言っ…
迷いながらも入社を決めた会社ではあったが、入社当初は、一生お世話になるつもりだった。半年間の新入社員研修を終え配属されたのは、関西ではあったが、通勤に1時間半以上かかる本社からは離れた事業所だった。文系で配属されたのは私1人だった。当初は、関西に配属されたことに、安心感を覚えたものだ。配属された初日に、事業所人事から、”こんなとこ嫌だろ?”と、いきなり言われ、最初の違和感を感じた。その後、数週間たった頃だろうか、事業所NO2常務に、”こんなとこ長くないから、勉強だと思い我慢しなさい”と言われ、そんなに変な所なのかと思うと同時に、上は、見ていてくれているとうれしく思ったものだ。 初めての職場は、…
10/5、午前中、精密機器メーカに到着。受付の人事がピンポイントでタイプの女性であり、それだけで会社の印象がアップした。(入社時、既に結婚退社していることを知り、少なからず、ショックを受けた)面接は、人事部長と1対3のグループ面談で、手ごたえはあった。おそらく、入社したいという気持ちが勝ったからだと思われる。 面接後、仲良くなった3人で、喫茶店で長話をしたのだが、その中のひとりが気になる事を話し出した。彼も既に、ある会社に内定しており、試しに面接に来た様子だった。彼曰く、「この会社の社風が温いのは有名だ。そんな会社は危ない。俺は、既に内定している厳しいベンチャーに行くつもりだ」というものだった…
就職活動も一段落した頃、当時、コマーシャル等で先進的イメージのあった東京のメーカから面接の引き合いがきた。興味本位だけで、面接に参加したところ、(就職が決まって力が抜けたせいか自分の素の姿を出せ)いつになく絶口調で、トントン拍子で合格が決まった。素の姿が出せたのは、この会社の企業力のおかげと感心したりした。新聞等を見ても、毎日のように関連記事が載っている。ゼミの女の子連中の評判もいい。東京勤務が少しひっかかったが、(当時、関西を離れたい気持ちもあり)目をつむった。ゼミの先輩へのお断りの電話は、非常に心苦しかった。しかし、自分の判断は正しいと信じて、決断、実行した。ちなみに、長い社会人人生の中で…
80年代半ば大学4回生当時、まだバブル前夜であったが、少なくとも、私の大学学部の就職率は、ほぼ100%近い状況だったと記憶している。ただし、皆が自分の希望する会社に入社できたということはなく、私の友人達も7割が満足、3割は不満を持ちながらの就職だった。残念ながら、私は後者で、その時の心境も、後の転職回数に 、大きな影響を与えている。30年以上たった今でも、”もしあの時、あの会社に入社していたら。。”という妄想はぬぐえず、今でも時々、入社するはずだった会社のホームページのチェックをすることがある。 私の時代、4回生夏 休み中には、内定を獲得する必要があった。その後、10/1の就職解禁日を迎えるの…
4月、50代後半になった私は、8社目になる会社に、初出社した。3カ月の無職期間があったが、入社挨拶では、いつもどおり、若干のワクワク感と、かなりの緊張を感じた。思えば、大企業から、中小、ベンチャー、果ては、ブラック企業まで多くの会社で、同じことを何度も経験した。履歴には残らない実質的転職も何度もしてきた。 転職は、高速道路のインターチェンジで乗り換えをするよう なものである。一度、乗り換えると、元の道には戻れない。渋滞を避けて、別の道を選択した結果、より時間をくってしまう事も、当たり前にある。一方、遠回りした結果、高速で車線変更しながら進むことでは経験できないすばらしい景色や出来事に会うことも…
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