フェデリコ・フェリーニ監督のイタリア映画「道(ラ・ストラダ)」も円環する時間の中で2回目を見た。
山林・畑つきの1軒家に出会い、農のある暮らしを深めている最中であったが、原発事故にあう。
東京生まれ。20代のとき岩手県で3年間農業研修生として慣行農法を学ぶ。その後、仙台の郊外に家庭菜園を借り有機農法や自然農法を実践する。平成18年より宮城県角田市で山林・畑つきの1軒家に出会い、農のある暮らしをさらに深めている最中であったが、原発事故後は仙台市内に戻る。
永吉希久子著『移民と日本社会 データで読み解く実態と将来像』(中公新書)
永吉希久子著『移民と日本社会 データで読み解く実態と将来像』(中公新書)読んで非常に参考になった著書であり考えさせられた。タイトル通り、外国人、移民、外国人労働者について冷静に分析している内容なので、決して声高に政策や主張をしているのではない。そこが余計に説得力がある。
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フェデリコ・フェリーニ監督のイタリア映画「道(ラ・ストラダ)」も円環する時間の中で2回目を見た。
この舜若多という虚空神の、その存在が悲しい。他からの光に照らされてはじめて存在する。そういう悲しい存在の存在を想像した、その想像力こそが尊い。仏教神話は、そういう悲しい透明な存在物を想定し得たから、人間は悲哀をまぬがれえていたのかと思う。今はそういう悲しい存在物を想定しえない。だから人間そのものが悲哀を背負っていかなければならない。
本当の智慧、苦しみを乗り越え平穏な心境にたどり着くための智慧は、以心伝心でしか伝えることができないことや、その伝え方の尊い有り様を示した問答である。機に適う一期一会の瞬間を実に色彩豊かに感動的に描いている。だが、スブーティの「わかった」は、天人の知る所となった。これではまだ不十分だ。天人にも悟られず、一切の痕跡を消すことが求められる。
正しい認識が得られれば、意識は滞留することはないということ。そうすれば、生死の境を脱却できるということ。
世界の中でモノ自体が本来を露わにしている。しかし、そこに親疎を立て分別するのが人間の認識。私たちの認識の閾値を低め、低めてモノ本来が露わになるようにしてやる。そこではモノがモノ本来の本然の姿で現れている。
「打成一片(だじょういっぺん)」という言葉がある。区別・差別を建てないものの見方だ。われわれに入ってきた外界の事物は、われわれの中で区別される。善・悪という道徳的な判断がされ区別が建てられ、好・悪という感情的な判断がなされる。
死中に活路を求めること、ぎりぎりの状態に追い込まれた死地からどう生還するか、それを教えるのが禅だ。死中に活を求めるには、思惟を働かせてはだめだという。思惟の働きは遅い。一瞬の閃電光のひらめきのように即断即決できれば、死地から生還できる行動を起こせる。
「日日是好日」は禅から出た有名な句で、日常生活の中でも目にすることが多い。私は、一日一日が素晴らしい、活力あふれる清新な日のなかに生きることの心境を述べたものだと思うが、しかし、こういう句は、本当はその場その場で、その場にいる人や発話した人の機境に応じて発せられた言葉であって、その瞬間に意味があったものである。
雪峰は、砂を洗い去って米をとぐのか、米を洗い去って砂をとぐのかの、公案を胸に、修行を重ねた。徳山に参禅し、痛棒され、少し突き抜けた気がし、その心鏡を言葉に託したが、それは外からやってきたものであった。外から来たものは自己本来のものではない。
洞山の雪峰への問いは、相対的な分別についての禅の見解を、興味深い逸話で示唆してくれる。食事をするには、米を炊かねばならぬ。米を炊くには、米に混じった砂を水でゆすいで取り除かねばならぬ。米と砂を分別して、残すための米をしっかり見て、かつ不要の砂にも目を付けて、必要な米は選び、不要な砂を取り除く。
極大の世界に極小の世界は宿り、極小の世界には極大の世界が広がる。(極小と極大は融通無碍(ゆうづうむげ)に往き来する)ゆえに、極大を極小の世界にいれこむことができる。さて、その時、その世界をどう認識するのか。
禅は常に生死にかかわる所ぎりぎりのところで行われている。時に行者は、危険をも顧みず、虎のひげにさえ手をかけ、虎口に飛び込まなければならない。生死の境、そのあわいを透脱できれば死地を挽回し生地におもむける。
もちろんここで言っているのは、本当に物理的に人を殺めることを言っているのではない。修行者と力量ある師である作家との問答は、命を懸けた真剣勝負なのである。
「死中得活(死中に活を得る)」。この語句は禅を考えるうえで重要な契機を与えてくれる。このような語句が多く登場することは、禅が生死に渡ることを示す。
龍潭和尚は、徳山が仏の化身である老婆によって提起された「過去心・現在心・未来心」の公案を、徳山自身が体得できるよう、徳山の機微に合わせて接してやったのである。この徳山の説話は、禅における「わかる=悟る」の契機とその体験を垣間見させてくれる。
この問答も傑作だ。「心」の問題を取り扱っている。「点心」と「点那箇心」がひっかけてあり機知にと富む問答になっているが、徳山にとっては、おばあさんの言葉は、「心」の問題を突き詰めてくる容赦のない問いとして迫ってきたであろう。
禅では、形にとらわれない、執着しない、拘泥しないということが求められる。そのためには、時にこの徳山のような激しい行動が必要だ。心は行動に現れる。行動は心を形作る。形に捉われない心は、時にこんな奇矯とも取れる行動となって現れるし、奇矯な行動はとらわれのない心の表れでもある。
禅に「向上」「向上一路」という語がよく登場する。禅が目指す究極の境地を言う語でもあるし、また一つの境地に決してとどまることをしない(たとえ、それが究極の境地であっても)禅が、常に現状を打破し現在をつき抜けていく時のやむことのない努力を表す語でもある。
言葉は、自分の心境を表したり、自分に対する境界(環境)の様を描写して名付けるものである。山河大地は、自然とそこにあり、私たちに対峙するものである。自然とそこに存在するものをどうやって我々は認識するのか。
禅では、私が世界に対峙して、その世界(境界)の見方が求められるし、そういう見方ができるように修練することが禅でもある。そのものの見方とは、世界(境界)をありのまま、ありのままに見るということだ。
森鴎外の原作を小さいころに子供向け文庫本で読んだような気がする。子供向け文庫にとられていたのは作中の安寿と厨子王が人買いにさらわれた可哀想な子どもということで子どもの共感を引きやすかったからなのだろうか。
安部公房さんが書いた『砂の女』。これを読んだのはかれこれずいぶん昔の事。読んでこの小説の不思議さ、そして安部公房さんの書く不思議な世界に魅了されていった。安部公房さんはこの『砂の女』で、海外でも谷崎や三島に匹敵する日本文学の作り手として認知されていった。
ジョージアと言ってもアメリカのジョージア州ではない。旧ソビエト連邦の共和国だったジョージアだ。昔は「グルジア」という国名だったが、ロシアへの反発から「ジョージア」という国名にしたと聞いた。
国民の政治離れが言われている。たとえば、選挙に参加する有権者は3割から4割以下だ。その原因の一つに、自分が何をしても、何を言っても政治は変わらないというあきらめの気持ちや徒労感がある。
軍事的緊張が高まっているところで、相手から先制攻撃を受けて被害が出ている、やむを得ず反撃せざるを得ないと言って、ずるずると侵攻を開始することがある。現在ロシアがよく使う作戦として知られているが、日本軍もかつて中国や満州で用いたものだ。
永吉希久子著『移民と日本社会 データで読み解く実態と将来像』(中公新書)読んで非常に参考になった著書であり考えさせられた。タイトル通り、外国人、移民、外国人労働者について冷静に分析している内容なので、決して声高に政策や主張をしているのではない。そこが余計に説得力がある。
2023年2月24日付の河北新報に掲載された保坂正康氏の論考に刺激を受けた。この論考はロシアのウクライナ侵攻が1年になるのにあたって「戦争」について考察したものだ。古い「戦争論」は、軍事学者のクラウゼビッツが書いたもので、「戦争」とは、相手にこちら側の政治的意思を押し付ける暴力行為であった。
人間の「安全保障」を高めることが必要だと考える。それは、変化する国際情勢などに対応し、国民の生活や生存に関して、将来はますます不安が募るからだ。もし、私たちに国の方針を決める政府や代議士を選択する力があるのであれば、私は人間の「安全保障」を大切にしてくれる代表者を応援したい。
私は国防費を増やすことに賛成だ。それは、こんな記事に触発されて考えた。
問題は「音」をどうするかです。日本語でもそうですが、実は言語は、音も一定せず発音も時とともに変化するのです。奈良時代の日本語と現代の日本語では発音が違っていた、特にハ行音の変化などはよく知られたところです。中国語もそうで、その詩が作られた当時の中国語の発音と現代の中国語では発音が全く変わっています。
自分が好きな漢詩を選んで、勝手に解釈し勝手に思ったことを書きます。でも、同じように中国で生まれ漢字で書かれた「漢詩」を好きになってくれる人が増えればうれしいのです。
チャップリンが演じる独裁者は、もちろんヒットラーの戯画化された姿だ。同時代的につくられたものだから、これを見たら本物のヒットラーはどう思っただろうか。映画の中では、独裁者が収容所を逃げ出したユダヤ人の床屋と間違われ、そのユダヤ人の床屋演じるチャップリンが独裁者と勘違いされ、オーストリア併合の場面で演説をすることになる。
どうせなら、(残された人生の中で)古典的名作映画は見ておきたいということで見たのは、日本の「鉄道員」ではなく、イタリアの「鉄道員」イタリアはなぜか「自然主義」の作風が強い。自然主義とは、現実を現実のままに描くこと。イタリア語では「リアリズモ」だろう。すると、労働者の生活や貧困や薄汚い現実をありのままに描くことになる。V・デ・シーカの「自転車泥棒」もよかったし、それより前のプッチーニの「ラ・ボエーム」も一種のリアリズムだろう。
昨年末だったか、『映画監督が選ぶ史上最高の映画べスト100』というのが、英国映画協会(BFI)から発表された。その第1位がスタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』だった。これは難解な映画だったが、映像、特に宇宙の映像場面が素晴らしく、映画を作る方の立場の人からすれば、その苦労や凄さが分かるので、高評価なのだろうと思った。
映画「青い山脈」は石坂洋次郎の小説を映画化したもので、出演者をかえて何度も映画化されている。戦後間もない1949年の今井正監督の版は、女学校の教師島崎先生役を原節子さんが演じている。小津映画の原さんばかり見ていると、こういう新しい時代の自立する女性を演じる原さんがとても新鮮だったし、さらにはとても似合っていると思った。
昭和残侠伝は、1965年公開の東映映画。高倉健、池部良、三田佳子、松方弘樹らが出演。健さんの魅力が存分に堪能できる映画。しのびにしのんだ健さんが、ついに一人で立ち上がる健さんのたたずまいの美しさや寡黙さの魅力と言ったらない。
もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし最終的には、政策を決めるのは国の指導者であって、民主主義であれファシスト独裁であれ議会であれ共産主義独裁であれ、国民を戦争に参加させるのは、常に簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ。
国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ。