(399)遅すぎる気づきなのだが、生についてまわる寂しさや寄る辺なさに自覚的になるからこそ、自分とは何ぞやという自問が始まるのではないか。その行き着く果てなき自問の末にあるもの、それが<自分らしさ>への希求だ。だから、<自分らしさ>とは、間断なき自己への問いかけである。自問なき人生など無意味だと思う思考回路は、たぶんいまだ健全?なので、もう少しは生き続けるとして、これから先も<自分らしさ>を求め続けることでなければ、生きる意味を感じない。少なくとも僕はそうだ。みなさんは、どうなんだろうか?文学ノートぼくはかつてここにいた長野安晃(399)<自分らしさ>を求めて。
(398)自分の人生に後悔はない、とおっしゃる人もいるが、そういう人の爪の垢でも煎じて呑んでみたい。心底そう思う。僕は後悔でいっぱいなのだ。人生は後悔の蓄積と同義語である。洒落にもならない僕のくたれた箴言である。文学ノートぼくはかつてここにいた長野安晃(398)戯言としての後悔
(397)僕は思う。無関心や無知ほど人の心の退廃を深めるものはないのである。無知・無関心で装われた何気ない日常性の中から、いったい、未来を生き抜くためのどのような展望が育まれるのだろうか?未来への展望とは、ヘラヘラとした無自覚・無思想の生活感覚の中からは、決して視えてはこない。プロスペクト(prospect)を有するとは、現状の中に内在している、見たくもない猥雑物の中から、未来へと繋がる有用なファクターを見出す力に自覚的であるということだ。無論、それには、エナジーと苦痛と疲弊感がついてまわる。どうせ生きるなら、退廃と汚辱にまみれた生き方などしたくもないだろう。人は一旦無自覚で無関心を決め込めば、容易に退廃の坂道を転げ落ちる。楽な側面もあるが、そんな人生、つまらない。事実かどうかは定かではないにしても、トルストイ...(397)何気ない日常性など唾棄していたい、と僕は想う。
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