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  • 里山の石神端書286 鳩(茨城県行方市根古屋)

    行方市根小屋・八幡神社の鳩行方(なめかた)市は西の霞ヶ浦と東の北浦の挟まれた古くて新しい市。西浦に流れ出し雁通川周辺を訪ねました。八幡神社は雁通川が北浦の河口にある根古屋集落の北側、中世に相賀城という山城に建てられた神社。現地の案内には「寛永十六年(1639)龍翔寺九世住職の祐守法印の時に再建したと伝えられている」とありました。龍翔寺は山城の麓に建つ真言宗の寺。八幡神社の鳥居をくぐって登り出すと、手水石と道祖神が並ぶ崖に突き当たります。道祖神は駒形の石に「道祖神」銘があり、この雁通川一帯でよく目にする道祖神です。境内には勧請された石祠が並び、「淡島大明神/元文四未(1739)」銘の石祠もあり、根古屋の鎮守といった感じの八幡神社です。鳩は神社の本殿脇障子に二か所に彫られています。白い鳩です。鳩は八幡神社の使...里山の石神端書286鳩(茨城県行方市根古屋)

  • 昭和の石仏写真館(173)川口市の寺社⑧

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市不動院(榛松)庚申塔・延宝六年(1678)不動院(榛松)庚申塔・寛保三年(1743)真浄院(石神)提頭羅神王真浄院(石神)国常立命三仏寺(戸塚)三神①三仏寺(戸塚)三神②三仏寺(戸塚)三神③三仏寺(戸塚)三神④桶ノ瓜地蔵堂(桶ノ瓜)①桶ノ瓜地蔵堂(桶ノ瓜)②昭和の石仏写真館(173)川口市の寺社⑧

  • 里山の石神端書285 月待塔(茨城県行方市石橋)

    行方市石橋・熊野神社の月待塔行方(なめかた)市は西の霞ヶ浦と東の北浦の挟まれた古くて新しい市。西浦に流れ出し雁通川周辺を訪ねました。熊野神社は石神集落の中心部にある神社で、近くに観音堂や浄泉寺もあります。境内には庚申塔や月待塔が並び、この神社が集落の信仰の中心だったことがわかります。月待塔は「廿三夜供養塔」「奉待廿□」「十九夜/奉廿三夜/廿日待」の三基。いずれも風化がひどく、この場所に立て替えたような印象の月待塔です。その中の「十九夜、廿三夜、廿日待」を並べた月待塔はどういう背景があっての造立なのか、考えてしまいました。中央に「奉廿三夜」とありますからこれが主で、あわせて十九夜と廿日待を行っていたということだと思いますが、十九夜も廿日待も信仰や石造物の事例の少ない月待です。そのなかでも茨城には若干あったよ...里山の石神端書285月待塔(茨城県行方市石橋)

  • 里山の石神端書284閻魔王、地蔵(茨城県行方市石橋)

    行方市石橋・養源寺の閻魔、地蔵行方(なめかた)市は西の霞ヶ浦と東の北浦の挟まれた古くて新しい市。西浦に流れ出し雁通川周辺を訪ねました。初めは石神集落の養源寺。養源寺は、山門に変わりに石柱を台座しその上に石仏を乗せて対にした所が入口。石仏は閻魔王と地蔵菩薩。寺の境内に閻魔と奪衣婆、あるいは六地蔵が並ぶ光景はよく見ますが、山門かわりに閻魔と地蔵が座すのは初めてです。寺に向かって左側の像は、風化のため表情はわかりませんが冥府の裁判官十王の着衣である道服(道教の道士の服装)姿なので十王であり、その中心の閻魔王としました。本来なら笏を持つのですが、これも欠けています。石柱には篆書で「禁葷酒」銘がありますからこれは結界石も兼ねています。養源寺は禅宗・曹洞宗の寺でした。右は右手に錫杖左手に宝珠を持ち、左足を踏み出そうと...里山の石神端書284閻魔王、地蔵(茨城県行方市石橋)

  • 昭和の石仏写真館(172)川口市の寺社⑦

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市庚申塔・東本郷路傍如意輪観音・東養寺(東本郷)六地蔵1・東養寺(東本郷)六地蔵2・東養寺(東本郷)出羽三山供養塔・金棟寺(東本郷)六地蔵1・東養寺(東本郷)六地蔵2・東養寺(東本郷)六地蔵3・東養寺(東本郷)六地蔵4・東養寺(東本郷)青面金剛・正源寺(新堀)勢至菩薩・正源寺(新堀)昭和の石仏写真館(172)川口市の寺社⑦

  • 里山の石神端書 千葉県成田市旧下総町

    里山の石神端書276十九夜塔(成田市下総町大和田・龍安寺の十九夜塔)里山の石神端書277男根(成田市下総町小野・八幡神社)里山の石神端書278道祖神(成田市下総町大和田路傍)里山の石神端書279天神(成田市下総町高・月輪神社)里山の石神端書280阿弥陀、観音(成田市下総町冬父・迎接寺)里山の石神端書281石坂供養塔(成田市下総町中里・楽満寺)里山の石神端書282道祖神石祠(成田市下総町中里)里山の石神端書283川崎大師(千成田市下総町青山・東光寺)里山の石神端書千葉県成田市旧下総町

  • 里山の石神端書283 川崎大師(千葉県成田市旧下総町)

    千葉県佐倉市(旧下総町)青山・東光寺の川崎大師利根川下流の下総町が成田市と合併したのは2006年。旧下総町の丘陵地帯の青山を訪ねました。ここは東光寺を中心に、薬師堂や北辰神明社が建ち、そのなかに石造弘法大師を納めた小社が二社並んでいました。その一つはこの地方に組織された成田組十膳講八十八所霊場の一つ。千葉県北部と茨城県南部の下総地方には、江戸時代中期以降四国八十八霊場を移したミニ霊場が各地につくられました。ミニ霊場は大きな寺を起点としてはいますが、その多くは小さな木祠に石造弘法大師(一部に木彫もある)を祀ったものです。もう一つは川崎大師を祀った小社です。社内には川崎大師からいただいてきたお札がきれに並んでいました。川崎大師の本尊は弘法大師。青山の集落では「誠心講」という川崎大師の講をつくって、毎年川崎大師...里山の石神端書283川崎大師(千葉県成田市旧下総町)

  • 里山の石神端書282 道祖神石祠(千葉県成田市旧下総町)

    千葉県佐倉市(旧下総町)中里の道祖神石祠利根川下流の下総町が成田市と合併したのは2006年。旧下総町の丘陵地帯を訪ねました。ここで紹介するのは下総町で中里の道祖神としている場所です。集落外れの畑に土手を利用したこの場所には小型の石祠が山ほど積まれていて、その数の多さに驚きました。ほとんどが土手に寝かされ重ねられた異様さにも驚きです。石祠のほとんどは屋根から室部と台座が一体となった30センチ前後の高さで、室部正面に「道祖神」銘のあるものが若干あるだけ。見た目には同じような石祠ですが、詳細に調べればみな違っていて同じものは無いとも言えそう道祖神です。しかしこれほどの道祖神石祠を、石工あるいは手馴れた人が造ったのかの判断は難しいところです。推測ですが、奉納された時代が短期であれば専門の石工がいたともいえる数の多...里山の石神端書282道祖神石祠(千葉県成田市旧下総町)

  • 昭和の石仏写真館(171)川口市の円通寺

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市赤井の寺円通寺圓通寺の六地蔵地蔵菩薩阿弥陀如来板碑群板碑・至徳元年(1386)板碑・応永五年(1408)板碑・文正二年(1467)板碑・文明十二年(1480)板碑・文明十八年(1486)僧像十三仏昭和の石仏写真館(171)川口市の円通寺

  • 里山の石神端書282 石坂供養塔(千葉県成田市旧下総町)

    千葉県佐倉市(旧下総町)中里・楽満寺の坂道供養塔利根川下流の下総町が成田市と合併したのは2006年。旧下総町の丘陵地帯にある楽満寺を訪ねました。山門にユニークな像容の観音石仏が座していました。三十三所観音の一部で、残りは境内に並んでいます。近郷の女人講は造立したものです。三十三所といっても、像容をみると西国ではないものです。境内にはこれとは別の観音石仏もあり、こちらには西国札所二十二番のご詠歌が刻されていました。これら女性が造立した観音石仏があるのは、この寺が子授け・安産・子育ての如意輪観音を本尊としているからでしょう。寺ではこの本尊を源頼朝の妻政子の念持仏だったとしています。政子から如意輪観音を譲り受けたのはこの寺を開山・国一禅師(1233~1321)。国一は常陸生まれで鎌倉・臨済宗建長寺派の僧。もっと...里山の石神端書282石坂供養塔(千葉県成田市旧下総町)

  • 里山の石神端書281 阿弥陀、観音(千葉県成田市旧下総町)

    千葉県佐倉市(旧下総町)冬父・迎接寺の阿弥陀、観音利根川下流の下総町が成田市と合併したのは2006年。旧下総町の丘陵地帯の冬父にある迎接寺を訪ねました。迎接寺は平安時代末から鎌倉期にかけて造られた阿弥陀・観音・勢至の来迎阿弥陀三尊を本尊とするこの地方の名刹。来迎阿弥陀は、臨終の阿弥陀信者を西方極楽浄土へ迎えに来る姿。迎え方には生前に積んだ功徳により九つの区別があります。いわゆる上中下の三品と上下中の三生の組み合わせの九品(くほん)で、阿弥陀の手に位置と印相で現しています。絵図や石仏では迎えに来る阿弥陀の印は上品下生(じょうぽんげじょう)が多く見受けられます。迎接寺の古い墓地にそのような弥陀と観音の美しい墓石が並んでいました。写真は来迎印の阿弥陀如来、十一面観音、如意輪観音です。(地図は国土地理院ホームペー...里山の石神端書281阿弥陀、観音(千葉県成田市旧下総町)

  • 昭和の石仏写真館(170)川口市の普門寺

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市本蓮の普門寺(庚申塔は№169と一部重複)庚申塔(元禄六年・1693)庚申塔(正徳二年・1712)庚申塔(正徳二年(1712)庚申塔(寛延二年・1749)庚申塔(寛延三年・1750)庚申塔(安永六年・1777)庚申塔(享和四年・1804)六地蔵六地蔵1六地蔵2昭和の石仏写真館(170)川口市の普門寺

  • 里山の石神端書279 天神(千葉県成田市旧下総町)

    千葉県佐倉市(旧下総町)高の月輪神社の天神利根川下流の下総町が成田、市と合併したのは2006年。旧下総町の丘陵地帯を訪ねました。ここに案内するのは高集落の月輪神社金環殿の奥にある天神様木祠に鎮座する木彫の天神です。高集落外れに「月輪神社」の扁額がかかり、社殿に「金環殿」とある神社のさらに奥にある木祠が天神様。祀られているのが木彫の天神で、冠をつけ袍姿の坐像の胸に天神の象徴梅鉢紋をつけています。右手は笏を持つように握った形、左には太刀をさしているはずですが、これは見当たりません。これまで山や山麓の石仏をだいぶ見てきましたが、天神をはじめとした神像の石仏にはほとんど出会いませんでした。仏像が路地に立てられたのに対して神像は社殿に祀るという意識が強かったようで、数少ない天神石像は石祠内に祀られるケースが多い印象...里山の石神端書279天神(千葉県成田市旧下総町)

  • 『東国里山奥山の石神・石仏風土記』①

    (写真は仮の表紙です。出版は夏頃の予定)【経緯】22年9月、食道がんステージ4を告げられ抗がん剤治療に入る前に決めたのが、石仏・古文書・桜のボランティアなどの会の運営の辞退でした。山の石仏調べも出来なくなりました。こうなると自分の時間ができて始めたのが山の石仏のブログをまとめること。どうまとめるか構想は膨らんでいて、ブログ偏平足の「山の石仏案内」も千回を数え、ちょうど区切りのよい時期でもありました。いま振り返ると、がんになったのは、そろそろ自分のライフワークをまとめなさいという催促だったような気がします。それまで会の運営であまりにも忙しすぎました。『東国里山奥山の石神・石仏風土記』はブログ「山の石仏案内」から抜粋・加筆したもので、取り上げた山の石仏案内約1000、写真は新しく選びなおしたもの約1050で構...『東国里山奥山の石神・石仏風土記』①

  • 昭和の石仏写真館(169)川口市の寺社⑥

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市の寺社⑤慈林寺(安行慈林)六地蔵福寿院(赤井)庚申塔東光寺(江戸袋)観音東光寺・石幢東光寺普門寺(蓮沼)普門寺・庚申塔(元禄元年・1693)普門寺・庚申塔(正徳二年・1712)普門寺・庚申塔(寛延三年・1750)普門寺・庚申塔(安永六年・1777)普門寺・庚申塔(文化元年・1804)普門寺・庚申塔(天保五年・1834)昭和の石仏写真館(169)川口市の寺社⑥

  • 里山の石神端書278 道祖神(千葉県成田市旧下総町)

    千葉県佐倉市(旧下総町)大和田路傍の道祖神利根川下流の下総町が成田市と合併したのは2006年。旧下総町の丘陵地帯を訪ねました。そこで見たのが路傍の一角に祀られた小さな石祠の道祖神の集まり。屋根・室部・台座が一緒になった20センチ前後の道祖神です。大和田の路傍の道祖神は、土手に上に祀られた石祠を取り囲むように小さな石祠が並んでいました。高さは20~30センチで屋根の形は流造りと切妻造り。室部の掘り窪みはなく銘もありません。台座も一緒です。大きさからして個人の奉納のようです。造立目的を下総町では道祖神として、夫婦円満、安産・子育てと案内しています。同じような道祖神は冬父の集会所でも見ましたし、中里にはとてつもない大量に奉納されている場所がありました。このような小型の道祖神は成田市や佐倉市の一部でも見ていますが...里山の石神端書278道祖神(千葉県成田市旧下総町)

  • 屋上菜園2024-04闘病日記25

    屋上菜園は体力がなくなった私に変わり、カミさんがやるというのでバトンタッチです。そうは言ってもこれまで手伝いをしたこともないカミさんですから、野菜作りのイロハから教えなければと、まず3月中旬にジャガイモの種を植えました。どうなることやら……。いまはキヌサヤの収穫。今年の3月末は風の強い日が多く、キヌサヤは茎が折れネットの支柱まで折れる始末で散々です。タマネギとニンニクは順調に成長中。*緩和ケアの話が出て、春彼岸の田舎の墓参りは今回が最後かなと車で出かけました。がんの告知を受けた後、弟夫婦と私とカミさんの4人での墓参りもこれで4度目。初めはこれほど続くとは思いませんでした。墓の前での兄弟夫婦の話は、そこに眠る父母に届いているはずなどと思うになったのも歳のせい、病のせい。見慣れた阿武隈と安達太良山の山脈を見な...屋上菜園2024-04闘病日記25

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