ルカ16.1-13ルカだけが伝えるたとえ話です。この時は弟子たちの他に、ファリサイ派の人たちも聞いていたそうです。不正な管理人のたとえ話は、なかなか納得のゆく解釈ができませんでした。証文の書き直しは、もともとこのころの証文は割増しで書かれていることが多かったので、主のとり分にはあまり影響がなかった。書きなおした管理人の取り分が減ったくらいだとありました。不正にまみれた富は、別に不正ではなくても、この世の富はしょせん穢れているものだということでした。友達を作りなさいとは、援助をして貧しい人を助ける意味もある。そうしてこの世の金がなくなっても天の国に迎え入れられる。もう一つは、この管理人はイエス様である。証文に書かれているのは私たちの罪そのものである。それを書き替えているとは、私たちに罪を帳消しにしてくださっている...年間第25主日
来年のオリンピックの準備が始まっているようです。築地本願寺でプレイベントがありました。その一つとして、「文化の多様性と平和の尊さを感じよう」という場が設けられました。世界の普遍的な宗教宗派が集い、それぞれのやり方で世界平和とオリンピックの成功を記念しました。カトリックでは私たちの教会が参加を要請されたそうで、神父様と聖歌隊がミサ形式の祈りを行いました。神父様はダライラマの話題なども含めて楽しいお説教でした。世界平和願いの祭典
「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」ルカ14.27あなたにとっての十字架は何であるかを考えてみよ。それを背負って、私についてきなさい。神父様は信仰は仕事より、家族より、介護より大事かもしれませんね・・・と、さらっとおっしゃいました。仕事は定年があるでしょう、でも信仰には定年がありませんから・・・生きることは毎日に積み重ねだけれど、ただ頑張ればよいというものでもないですね。たとえば介護など、のしかかってきますよね。どれほど頑張っても・・・真剣に取り組んで、何かを獲得すればよいというものでもない。努力を積み重ねて、これだけ頑張ったという・・・それよりも、一切を捨てる、ゆだねる、任せる・・・真剣になればなるほど、手放さなければならない・・・そうして恵みの世界に入れる...年間23主日
周りの人々に目を向けなさい。自分と共に生きている周りの人の喜びを見て生きていきたい。自分だけが肯定されるためだけに生きてはいけない。人の喜びを見て自分の心が温かくなる。そこに心の成長がある。神がどれほど偉大な人かを考えたら、自分が高ぶることなど出来はしない。神の愛の前にあったら自分はどれほど謙虚にならなくてはいけないか。神の愛はご自分の子供の命を投げ出したほどである。人間同士が愛し合うのに際限はない。ミサでの神父様のお説教です。謙虚と遠慮とは違うと、前に読みました。謙虚は、神様のことを考えたらできそうです!年間主日22日愛を生きなさい
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