chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

黒田裕樹
フォロー
住所
北区
出身
北区
ブログ村参加

2012/08/07

arrow_drop_down
  • 冷戦体制の崩壊 その18

    また、現在の皇后陛下のご尊父でもある小和田恒(おわだひさし)外務事務次官(当時)も、平成4(1992)年3月にアマコスト駐日米大使(当時)に対して「過去の清算は現天皇の訪中によって初めて可能になる」との認識を示しています。さて、天皇陛下のご訪問に「感激」した当時の中国は「今後は歴史問題について言及しない」と我が国に対して確かに表明しましたが、そもそも日本を「家来」扱いした中国がそんな口約束を守るはずがあ...

  • 冷戦体制の崩壊 その17

    天安門事件による世界からの孤立に悩んでいた中国は、日本の天皇を自国へ招いて友好的な姿勢を演出することで国際世論を軟化させようと目論(もくろ)みましたが、これは我が国にとっては到底(とうてい)受けいれられないことでした。なぜなら、東アジアにおいて、周辺の国が中国を訪問することが「朝貢(ちょうこう)」とみなされていたからです。ということは、もし天皇陛下が中国の都を訪問されれば、それは我が国が「中国の傘...

  • 冷戦体制の崩壊 その16

    ソ連や東欧の共産主義国家が民主化に向かって進み始めた世界の流れは、同じ共産主義国家である中国の国民にも大きな刺激となり、1989(平成元)年4月の胡耀邦(こようほう)元共産党書記長の死去をきっかけとして、学生や市民が民主化を求めて北京の天安門広場でデモを展開するようになりました。しかし、中国は同年5月20日に北京に戒厳令(かいげんれい)を発すると、6月4日には人民解放軍が学生や市民に対して無差別に発砲するな...

  • 冷戦体制の崩壊 その15

    大東亜戦争以前より我が国にとって最大の脅威となっていたソ連が消滅したことで、我が国の保守系の識者の多くは「これで我が国の思想や言論の流れが変わるだろう」と安堵(あんど)しました。しかし、そんな保守系の「油断」の隙を突くかたちで、左翼系の「進歩的文化人」と呼ばれた人々が自らの思想を満足させるために、ソ連解体以前から続けていた「日本の歴史から中国や韓国の好みそうな問題を取り上げ、両国に『御注進』する」...

  • 冷戦体制の崩壊 その14

    しかし、ロシア共和国大統領であったエリツィンの呼びかけもあってクーデターが失敗に終わり、それをきっかけにソ連共産党が事実上解体されると、ソ連そのものの弱体化が一気に加速しました。そして、同年12月までに「ソビエト社会主義共和国連邦」を構成していた共和国のすべてが独立を宣言したことでソ連は解体し、新たにロシア共和国などからなる独立国家共同体(=CIS)が誕生したのです。ソ連解体後の新生ロシアでは1917(大...

  • 冷戦体制の崩壊 その13

    国家財政の立て直しを図ったゴルバチョフ大統領はペレストロイカなどの改革を次々と行ったものの、経済の停滞は依然として続き、1990(平成2)年に入るとソ連都市部の食糧不足が深刻化するようになり、ゴルバチョフは西側諸国を訪問して経済援助を懇願(こんがん)しました。また、第二次世界大戦中にソ連に併合されたエストニア・ラトビア・リトアニアのいわゆる「バルト三国」がそれぞれ独立を主張するようになり、ソ連は軍事介...

  • 冷戦体制の崩壊 その12

    大東亜戦争で我が国は敗北しましたが、欧米列強の植民地であった東南アジアの国々は戦後に次々と独立を果たし、日本を目標に新たな国家の運営を行いましたが、経済大国となった我が国がアジア全体にその技術力を伝授したことによって、マレーシアやインドネシアなども次々とハイテク製品をつくり、東欧諸国に輸出するようになりました。黄色人種どころか、自分たちが人間扱いしてこなかった旧植民地の被支配者層がつくった製品です...

  • 冷戦体制の崩壊 その11

    かつて我が国は明治維新から日清・日露戦争を経て、短期間で世界の大国にまで駆け上りました。しかし、それによって欧米列強の白色人種国家に目の敵(かたき)にされ、近代国家の運営に不可欠な石油を禁輸されたことなどをきっかけに我が国は大東亜戦争を戦い、そして敗れました。その後、占領期から朝鮮特需、そして高度経済成長を経て見事に復興を成し遂げ、世界有数の経済大国となった我が国は二度にわたる石油危機も乗り越え、...

  • 冷戦体制の崩壊 その10

    アメリカとの冷戦終結を実現したソ連のゴルバチョフは、同時に国内における改革を継続するため、1988(昭和63)年に憲法を修正して翌1989(平成元)年には国会に相当する人民代議員大会を開設すると、さらに翌1990(平成2)年には新設された大統領に自ら就任しました。しかし、アメリカと和解するために軍縮に踏み切ったことは、ソ連の軍事力が低下したと同時に、他の東欧諸国に対する締め付けが弱くなったことを意味していました...

  • 冷戦体制の崩壊 その9

    アメリカとの軍拡競争によって経済状況が極端に悪化したソ連でしたが、何とか体制を立て直そうとする政治家があらわれました。1985(昭和60)年に共産党書記長に就任したゴルバチョフです。就任当時54歳の若さだったゴルバチョフは、それまでの社会主義体制の立て直し(これを「ペレストロイカ」といいます)に着手し、情報公開(これを「グラスノスチ」といいます)を軸とした政治や社会の自由化を推進しました。また、アメリカと...

  • 冷戦体制の崩壊 その8

    私有財産を認めない社会主義国家では、経済の運営を国家が計画的に管理するという、いわゆる「計画経済」が行われました。ということは、仮に事業に成功しても国民は私産を一切得られませんし、それどころか、どれだけ頑張って働いたとしても、計画経済の下ではノルマのみを実現させた人間と同じ価値としか見られないのです。このような体制で、どうやって労働意欲を高められるというのでしょうか。計画経済が長く続いたことが必然...

  • 冷戦体制の崩壊 その7

    さて、ソ連との軍拡競争によって先述したように世界最大の債務国に転落したアメリカでしたが、自由主義(資本主義)国家であったことから、景気の回復などによって財政再建を実現できる余地が残されていました。なぜなら、自由主義社会を本当に回しているのは、他でもない資産家すなわち「金持ち」だからです。金持ちが産業を創造し、人を雇い、また贅沢(ぜいたく)をすることによって、国の資産が循環するとともに新たな文化が栄...

  • 【ハイブリッド方式】第102回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和6年5月)

    「黒田裕樹の歴史講座」は対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。準備の都合上、オンライン式の講座のお申し込みは事前にお願いします。対面式のライブ講習会は当日の参加も可能です。メインの主催者である「国防を考える会」のQRコードはこちらです。(クリックで拡大されます)(クリックで拡大されます)第102回黒田裕樹の歴史講座...

  • 冷戦体制の崩壊 その6

    ところが、後述する冷戦の終結とソ連解体後の1990年代に入ると、それまで「世界の警察」を自任していたアメリカが、それに伴う国際的な非難や軍事費の莫大(ばくだい)な増強もあって、かつての勢いに陰りが見られるようになりました。我が国もバブル崩壊(詳しくは後述します)後の不況が長引いたこともあって、国内総生産(=GDP)が30年以上もほとんど上昇していないほど経済が停滞(ていたい)し続けましたし、またイギリスも...

  • 冷戦体制の崩壊 その5

    イギリスと日本との連携によって、アメリカはソ連との軍拡競争に結果として勝ち抜くことになったのですが、裏を返せば、1980年代後半の世界は日・米・英の3か国で動かすことが可能であったということを意味していました。なお、我が国が戦後に「国際情勢をも動かすことができる大国」として本格的に復活したのは中曽根内閣の頃からです。中曽根氏には「靖国(やすくに)神社への公式参拝を取りやめた」という大きな失点があり、評...

  • 冷戦体制の崩壊 その4

    さて、イギリスのサッチャー政権と協調したレーガン大統領でしたが、日本に対して貿易摩擦に対する厳しい姿勢を見せた一方で、外交面では我が国との関係をむしろ強めました。当時の我が国は中曽根康弘(なかそねやすひろ)首相の時代でしたが、中曽根首相はレーガンと愛称で呼び合う(いわゆる「ロン・ヤス」)ほどの関係を構築し、日米関係は一気に緊密化しました。レーガンが日本を味方に引き入れたのには大きな理由がありました...

  • 冷戦体制の崩壊 その3

    ソ連によるアフガニスタン侵攻を受けて、1981(昭和56)年に新たに共和党のロナルド・レーガンが大統領となったアメリカでは、大幅な減税や規制緩和による経済再建が図られました。また、当時のイギリスのサッチャー首相(保守党)は、経済に対する政府の過度の介入を避け、民間の活力に重きを置いた「小さな政府」をめざそうとする「新自由主義」を唱えていましたが、レーガンはサッチャー政権と協調したうえで「強いアメリカ」を...

  • 冷戦体制の崩壊 その2

    ソ連の暗躍(あんやく)によって親ソ政権が誕生したアフガニスタンでしたが、1979(昭和54)年9月に再びクーデターが起こって政権が倒れると、ソ連は同年12月にアフガニスタンに軍事介入を行いました。ソ連による軍事介入は、中東包囲網の一環であるアフガニスタンを手放さないというソ連の意思を世界に示すとともに、ソ連の武力進攻がこの後もあり得るという厳然たる事実を明らかにしましたが、北方領土におけるソ連の軍事力増強...

  • 冷戦体制の崩壊 その1

    ※今回より「平成時代」の更新を開始します(6月2日までの予定)。第二次世界大戦終結後から激しくなったアメリカとソ連による冷戦は、1962(昭和37)年のキューバ危機をきっかけとして核軍縮の動きがみられ、1970年代に入ってアメリカがベトナムから撤退する頃になると、米ソ両首脳は緊張緩和へと向かうようになりました。この動きを「デタント」といいます。しかし、デタントによってアメリカの国防費が低く抑えられたのに対して...

  • 文明開化 その6

    ※「第101回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(5月14日)からは「平成時代」の更新を開始します(6月2日までの予定)。文明開化の風潮が様々な分野での近代化をもたらしたことで国民の生活に大きな変化が起こりましたが、それらは決して良いことばかりではありませんでした。例えば、旧来の風習が文明開化によって一新されたことで、我が国の歴史や伝統を軽視する風潮が見られるようになり、仏像や浮世絵などの...

  • 文明開化 その5

    太陽暦の導入が国民に発表されたのは明治5(1872)旧暦11月9日(新暦12月9日)でした。新暦の正月まであと3週間という押しつまった時期に、何の前触れもなくいきなり知らされたのです。国民の生活に深くかかわった暦の変更は、多方面に様々な影響をもたらしました。すでに翌年の暦を販売していた業者が出版のやり直しを強(し)いられて大きな被害を受けた一方で、福沢諭吉が太陽暦の解説本を新たに発行してベストセラーになるとい...

  • 文明開化 その4

    政府が西洋の風俗を積極的に採用し、また推奨(すいしょう)したことで都市部を中心として国民の生活は大きく様変わりしました。始めは軍隊、後に官吏や巡査が着用したことがきっかけで洋服や靴の習慣が広まったほか、明治4(1871)年に政府が散髪令を出したことで、髷(まげ)を切った「ざんぎり頭」が増えました。「ざんぎり頭を叩いてみれば文明開化の音がする」という言葉が現代でも有名ですね。それ以外にも、牛鍋が人気とな...

  • 文明開化 その3

    明治維新の変革は、宗教界においても例外ではありませんでした。神道によって国民意識の統一をはかることを目指した政府は、明治元(1868)年に「神仏分離令」を出し、我が国古来の神仏習合を否定して神社から仏教色を排除しようとしました。しかし、政府のこうした動きは国民による仏教の否定にもつながり、全国各地で仏像が破壊されるなど「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」の嵐が吹き荒れる騒ぎとなってしまいました。その後、明...

  • 文明開化 その2

    教育面では、明治4(1871)年に新設された文部省(現在の文部科学省)によって、翌明治5(1872)年にフランスにならった「学制(がくせい)」が公布され、「学問は国民が身を立て智をひらき産をつくるためのものである」とする近代的な実学主義による教育観が説かれたほか、政府は特に小学校教育に力を入れ、全国各地に小学校がつくられました。政府によるこうした「国民皆学」の精神は、経済的負担や子供の労働力が奪われることで...

  • 文明開化 その1

    欧米列強からの侵略や植民地化を防ぐためには、西洋文明を積極的に取り入れることによって近代化を目指すことが重要であると考えた明治政府は、西洋の産業技術をはじめとして、社会制度や思想あるいは生活様式などを率先して取り入れましたが、こうした風潮は民間のジャーナリズムを通じて大都市を中心に広がり、国民の日常生活にまで大きな影響をもたらすようになりました。これを「文明開化」といいます。思想面では、それまでの...

  • 殖産興業 その3

    政府は新しい交通や通信の制度にも力を入れました。明治5(1872)年には新橋~横浜間に官営の鉄道が開通し、その後も神戸~大阪~京都間が結ばれました。海運業では土佐藩出身の岩崎弥太郎(いわさきやたろう)の経営する郵便汽船三菱会社が、国家機密である軍事輸送を行わせる目的もあり、政府の手厚い保護を受けて発展しました。岩崎の三菱は三井などとともに政府から特権を与えられ、やがて「政商」と呼ばれて海運や貿易・金融...

  • 殖産興業 その2

    当時の我が国の貿易の輸出品は生糸(きいと)が中心でしたが、貿易自体は大幅な赤字となっていたため、政府は明治5(1872)年に生糸の生産拡大を目指して群馬県に「富岡製糸場(とみおかせいしじょう)」を設けました。なお、富岡製糸場は平成26(2014)年にユネスコの世界文化遺産として登録されています。明治6(1873)年に設置された内務省は、警察組織だけでなく殖産興業にも大きな役割を果たし、各地に製糸や紡績(ぼうせき)...

  • 殖産興業 その1

    徴兵令の公布によって我が国の軍事力の基礎が固まりましたが、欧米列強に負けないくらいの兵力を養うためには「富国強兵(ふこくきょうへい)」といわれるように我が国の経済力を高める必要がありました。経済力を高めるには、生産力を増やして産業を盛んにすることが重要です。このため、政府は「殖産興業(しょくさんこうぎょう)」に力を注いで産業の近代化を目指しました。まず政府は江戸時代までの封建的な制度を撤廃するため...

  • 地租改正と貨幣制度の改革 その5

    明治5(1872)年、政府は太政官札などと交換のために「明治通宝(めいじつうほう)」と呼ばれた新紙幣を発行しました。これによって国内における紙幣の統一が進みましたが、明治通宝もこれまでと同じく金貨や銀貨と交換不可能な不換紙幣でした。そこで政府は、商人など民間の力で金貨と交換できる「兌換(だかん、銀行券を正貨と引き換えること)銀行券」を発行させる目的で、同じ明治5(1872)年に渋沢栄一(しぶさわえいいち)が...

  • 地租改正と貨幣制度の改革 その4

    明治政府はその成立当初から財政難に苦しんでおり、京都や大坂の商人から300万両の御用金を徴発したほか、金貨や銀貨と交換ができない「不換紙幣(ふかんしへい)」であった太政官札(だじょうかんさつ)や民部省札(みんぶしょうさつ)を発行しました。しかし、成立したばかりの政府に対する信用が低かったので、紙幣の流通が滞(とどこお)るなど混乱したことや、4朱(しゅ)で1分(ぶ)、4分で1両(りょう)という貨幣単位が外...

  • 地租改正と貨幣制度の改革 その3

    地租改正の結果、全国同一の基準で収穫の豊凶にかかわらず金銭での地租の徴収が実現したことによって、近代的な税制が確立するとともに、政府の安定した財源の基礎となりました。しかし、政府が旧幕府の頃の年貢収入を維持することを前提として地価を定めたり、あるいは全国的な測量の際に地価に対する高額な査定を受けたりしたことで、農民の不満が高まりました。また、それまで共同で利用していた山林や原野などの入会地(いりあ...

  • 地租改正と貨幣制度の改革 その2

    土地制度の大変革を行った政府は、明治6(1873)年7月に「地租改正条例」を公布し、新たな地券制度を基本とする「地租改正」に着手しました。当初は農民の自己申告で作業が進められましたが、やがて太閤検地(たいこうけんち)以来の大規模な土地測量が全国で行われ、最終的に一億枚を超える地券を発行して明治14(1881)年までにほぼ完了しました。地租改正の主な内容は下記のとおりです。1.土地所有者、つまり地券の所有者を納...

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、黒田裕樹さんをフォローしませんか?

ハンドル名
黒田裕樹さん
ブログタイトル
黒田裕樹の歴史講座
フォロー
黒田裕樹の歴史講座

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用