江戸時代、東海道五十三次「赤坂宿」エリアは天領で、赤坂代官所が治めていました。治安も良く、遊興の地としても、吉田、御油と主に栄えていました。 赤坂宿の中心エリ…
テーマは「歴史と旅」です。日々の街歩きや小旅行から得たヒントを公開していきたいと思います。
最新号は、「杉下右京は、寅さんを超えた!」 一つ前号は、「日本国債の格下げ」 もう一つ前号は、「神楽坂で花粉症予防」です。 宜しくお願いします。
寛政8年(1796)津軽藩第9代藩主:津軽寧親(やすちか)公は、藩校「稽古館」を開校しました。「稽古館」は、その後「弘前漢英学校」に継承されましたが、明治4年…
弘前の「山車」は、藩政時代の「弘前八幡宮祭礼」の際、神輿の露払いとして、各町内会の人々により繰り出されたことが始まりだと言われています。後に、「ねぷた祭」にも…
ルネサンス様式を基調としながら、漆喰の外壁や軒下の蛇腹など、随所に「和の様式」を採り入れた、弘前らしい見事な洋館です。木造3階建てです。 明治39年の建築で、…
「青森銀行記念館(旧第五十九銀行本店本館、国指定重文)」です。明治37年に第五十九銀行本店本館として建設され、昭和18年に「青森銀行弘前支店」となりました。昭…
煉瓦造りがとっても好感出来る「弘前昇天教会(県重宝)」です。 明治29年の日本聖公会の宣教開始で、1920年に建てられた教会堂です。設計者は、明治村にある「聖…
「弘前れんが倉庫美術館」は、明治・大正期に建設され弘前の風景を造形してきた「煉瓦倉庫」を「近代産業遺産」として「美術館」に改修したものです。築100年に及ぶ煉…
「旧弘前偕行社」は、旧陸軍第8師団が弘前に設置された際に、「将校たちの社交場」として明治40年に建設された洋館です。 ルネサンス様式を基調とした、東西約50m…
太宰治が、旧制弘前高校時代に下宿していた「太宰治 学びの家(旧藤田家住宅、外観のみ)」です。 太宰(津島修治)は、この家に、昭和2年4月から昭和5年3月まで下…
弘前市民には「弁天さま」と呼ばれ、親しまれている「胸肩神社」です。「胸肩」は同じ水に関係が深い「宗像(大社)」に通じ、御祭神は、「宗像大社」と同じ「宗像三女神…
JR弘前駅前の「アートホテル弘前シティ」客室から岩木山が一望出来る宿ですが、食事も美味しいホテルでした。 「鉄板焼き」ですが、新鮮な帆立やお肉、魚、地元産の野…
高浜虚子門下で青森県出身の増田手古奈ゆかりの「永泉寺」です。「子等のとき 登りしという 花楓」との句が残っています。 その「花楓」。推定樹齢400年といわれる…
「長勝寺構」内にある禅林街33カ寺。黒門から長勝寺までを「上寺通り」と称するに対し、赤門から「宗徳寺」までを「下寺通り」と称しています。 「下寺通り」の最も奥…
昭和31年、「壁の花」で直木賞を受賞した今 宮一の生家「蘭庭院」です。「ダンディーで、ハイカラで、ロマンチックで、そのくせ現実主義文学に、十分に触れている」と…
弘前城追手門の南部「茂森山」一帯を削り、堀と土塁を構築した「長勝寺構」には、曹洞宗の寺院33カ寺が整然と並んでいます。その最も奥まった処にある「長勝寺」です。…
「鳳松院(ほうしょういん)」です。御本尊は「釈迦如来さま」。やはり、立派な山門です。 「種里山」という山号が示すとおり、かつては西津軽郡種里村(現:鯵ヶ沢町)…
弘前城下町/禅林街。長勝寺構の中に、曹洞宗の寺院が33カ寺も集中しています。 まずは、「京徳寺」です。享禄3年(1530)に五本松(現:青森市浪岡)にて創建さ…
弘前城下町の「禅林街」です。 弘前城の西南部の防衛のために津軽一円から集められた「曹洞宗寺院33カ寺」が「長勝寺構」の中に整然と並んでいます。寺町は何処の城下…
津軽氏は戦国時代の末期に南部氏から独立を果たしましたが、以来、南部氏とは犬猿の仲となりました。津軽氏、南部氏共に壮大な「弘前城」そして「盛岡城」を築城しました…
弘前城の東門を出ると、文化センター前に、津軽藩祖:津軽為信の像が建っています。雄々しい姿です。 津軽の地は、もともと南部氏の支配地でした。当時の大浦為信は南部…
東日本では唯一の現存天守(江戸時代の建築物)を有する「弘前城」です。よく「現存12天守」といわれますが、中部地方では、松本、犬山。四国以外の西日本で、姫路、彦…
弘前城の城地は、東西約800m、南北約1Km。東と西に、土淵川と岩木川が流れ、西から南にかけては急崖、東側は緩やかな洪積台地で、3重の堀を巡らせる平山城です。…
弘前城にも近い「藤田記念庭園」です。水と緑が溢れ、四季折々の風景を愉しむことが出来る庭園です。津軽人の心のふるさと、岩木山も一望で出来ます。 「藤田記念庭園」…
「ブログリーダー」を活用して、嵯峨野の青竹さんをフォローしませんか?
江戸時代、東海道五十三次「赤坂宿」エリアは天領で、赤坂代官所が治めていました。治安も良く、遊興の地としても、吉田、御油と主に栄えていました。 赤坂宿の中心エリ…
「長福寺」の少し御油寄りに「関川神社」が鎮座しています。なお、もう少し御油寄りに進むと、有名な「御油の松並木」が広がります。 街道沿いに鎮座する素朴な神社です…
赤坂宿の中ほどに「長福寺(浄土宗)」があります。 長保年間(999~1004)に、此の地の長者の宮路弥太次郎長富が、娘の力寿の為に此の寺を建立し、三河国司:…
往年は、旅籠62軒、家数349戸の繁栄を見た「東海道・赤坂宿」。「参勤交代利用大名数(文政期)」では、中山道=41家に対し、東海道=146家と、東海道が優勢の…
「東海道五十三次」とは言っても、駿府や浜松、掛川、吉田(豊橋)宿のような交通至便の宿場は別として、なかなか電車では行き辛い宿場が殆どです。 そんな中で、吉田宿…
秀吉が総力を結集した「小田原・北条氏攻め」で北条氏が滅び、秀吉は家康を関八州へ移転させます。その後の東海道筋(旧家康領)には、駿府に中村一氏、掛川に山内一豊、…
「岡崎宿二十七曲がり」に沿って建つ「岡崎信用金庫資料館」です。此の日は月曜日で、資料館は生憎お休みでしたが、その外観は本格的なルネッサンス様式で、辺りでも、ひ…
天正18年(1590)家康の関東移封後に岡崎城主に赴任した「田中吉政(関ヶ原の戦いまでの10年間を岡崎城主で)」は、豊臣系大名として、関東の家康に対する備えを…
岡崎城内に建つ「神君家康像」です。「しかみ石像」ではなく、昭和40年に没後350年を記念して建立された銅像です。高村泰正氏の製作で、堂々としています。 家康公…
岡崎公園内、岡崎城天守閣の袂にある「八千代本店」です。 地元の八丁味噌と備長炭で焼き上げた「木の芽田楽」は、絶品です。家康公も愛されたとか。 八千代は、創業1…
天文11年(1542)12月26日、岡崎城内で神君家康公が生誕されました。時あたかも、城楼上に雲を呼び風を招く金の龍が現れ、昇天したという伝承もあります。 産…
岡崎城天守閣の脇に鎮座する「龍城(たつき)神社」です。家康と忠勝を祀っています。 家康公生誕の朝、城楼上に雲を呼び風を招く金の龍が現れ、昇天したという伝承が残…
世に有名な神君家康公の「しかみ像=三方ヶ原戦役画像」の石像です。 浜松城を出て三方ヶ原で信玄軍に挑み、大敗を喫しつつ、自戒の念を忘れないようにと絵師に描かせた…
岡崎城内に建つ「本多忠勝像」です。本多忠勝は、天文17年(1548)、岡崎生まれです。 忠勝(通称:平八郎)は「徳川四天王」のひとり。「家康に過ぎたるものが二…
「神君家康公御出生の岡崎城」です。家康公は、天文11年(1542)岡崎城内で生まれました。6歳から他国で人質生活を続けていましたが、永禄3年(1560)の桶狭…
「神君家康公の御出生のお城=岡崎城」です。 家康公は、御誕生から6歳までと20代の頃を、此の御城で過ごされました。乱世の頃で、松平家とその郎党たちは、強力な隣…
岡崎松平家菩提寺「大林寺(浄土宗西山深草派)」です。岡崎城の北にあります。 明応2年(1493)に松平光重が、明大寺にて創建しました。享禄3年(1530)に松…
彼方此方で、家康像を見ます。東京は江戸東京博物館裏で、静岡は駿府城内で、浜松は浜松城内で。 大樹寺境内にある家康像は、これです。 ポーズは、良く見るポーズ。お…
松平家・徳川家の菩提寺として世に名高い「成道山松安院大樹寺」です。文明7年(1475)松平4代親忠(家康から6世の祖)の創建です。将軍のことを「大樹」といいま…
豊橋は、海山の食材に恵まれ、食事が美味しい街でした。宿泊したホテル内のレストラン「穂のはな」で、「松茸釜飯会席」を戴きます。(時期は、10月下旬) 魚介類は、…
「高岡御車山会館」の直ぐ近くに、タカジアスターゼ・アドレナリンを発明・発見し世界の医学・薬学界に貢献した「高峰譲吉の生誕地」があります。譲吉は1歳まで、此処で…
山町筋を更に進みます。富山銀行本店のはす向かいに「高岡御車山会館」があります。1年中「高岡御車山祭」を味わえる、とても贅沢なプレミアム・スポットです。 「高岡…
「土蔵造りの町並み(山町筋)」の真ん中あたりに「室崎琴月生誕の家(室崎家)」が残されています。琴月は、大正10年に「夕日」を作曲しました。「夕日」は♬ギンギン…
「滝の白糸文学碑」から、もう1筋奥へ。土蔵造りの町並みが現れます。「山町筋」です。明治後期の高岡大火の後に建てられた土蔵造りの旧家が立ち並びます。「重要伝統的…
電停通り(片原町)へ出ると、「滝の白糸の文学碑」があります。泉鏡花の名作「義血侠血(後に川上音二郎により浅草座で上演された際に「滝の白糸」)」の冒頭場面。 秀…
高岡関野神社から高岡大仏へ通じる通り(商店街)を「御旅屋通り」と言いますが、その謂れは、此の「高岡御旅屋」です。江戸時代の初期、加賀藩では、藩主の鷹狩、民情視…
柔和なお顔が特徴です。青銅製の「阿弥陀如来坐像」は、奈良、鎌倉と並ぶ「日本三大仏のひとつ」に数えられます。高岡は、日本有数の鋳物技術を有する都市で、全国の青銅…
奈良時代前の創祀とされ、越中国内唯一の「名神大社」である「射水神社」です。 「名神(みょうじん)大社」とは、律令制下において、「名神祭」の対象となる神々(名神…
加賀藩前田家第2代:前田利長が隠居城として、高山右近に命じて築城させた「高岡古城」です。利長没後、「一国一城令」に従って廃城とされ、天守閣や櫓があるわけではあ…
高岡駅前にある「大伴家持」像です。 家持は「万葉集」に最多の歌を残し、編者のひとりとも言われています。風景と情感を調和させた繊細な歌風で、代表的な万葉歌人です…
加賀藩前田家第2代藩主:前田利長は、秀吉没後の徳川家台頭の風雲期に、母の芳春院(松)を江戸へ人質に出す一方、加賀藩主の地位を弟の利常に譲り、自らは高岡城にて隠…
最近、「勝興寺」が国宝に指定されましたが、永い間、富山県唯一の国宝建築物として高みにあり続けました。「国宝:高岡山瑞龍寺(曹洞宗)」。加賀藩第2代藩主:前田利…
高岡といえば、この人。加賀前田家第2代:前田利長公です。この像は、国宝:瑞龍寺の参道に立っています。 利長公は隠居後、富山城へ入城しました。ところが、慶長14…
お寺巡りの後は、お寿司です。北陸4県(越=高志の国)福井、金沢、富山、新潟。何れも東京から見れば、お寿司が美味しい町ですが、富山のお寿司は群を抜いているような…
「清源寺」の筋向かいに2寺がありました。まずは「大雲寺(浄土真宗本願寺派)」です。 そして、水掛地蔵(浄行菩薩)さまがいらっしゃる「本証寺」です。水掛地蔵…
光厳寺から少し西へ行くと、入り口に「力強い仁王像」が見えました。「清源寺(曹洞宗)」です。 くっきりした山門で、見過ごしは出来ません。参拝させて戴くことに。 …
富山の市街地に突然に三重塔が現れ、びっくりしました。「春日山光厳寺(曹洞宗)」。富山藩前田家の菩提寺で、当然に、7寺のひとつに選定されています。能登の総持寺の…
円隆寺の西隣にある「浄禅寺(時宗)」です。県内唯一の時宗寺院とのことで、当然ですが、「合寺事件」では7寺院に選定されました。 ご本尊は、「歯吹の阿弥陀如来像(…
富山藩前田家初代:前田利次以降、代々、富山藩前田家の祈願所とされてきた「正覚山円隆寺(天台宗)」です。創建は寛文6年(1666)です。 古来より婦女子の参詣が…
まずは「真興寺(真言宗)」です。明治3年の「合寺事件」では、旧富山藩内の真言宗寺院は、古義・新義派を問わず、此の「真興寺」に合寺されました。 そして、…