自身が主観的に描くのではなく、受け身的な姿勢で偶然性を取り入れようとし、客観的立場で描くこと、自身の意図しない要素を作品の中に介在させ折り合いをつけていくことは重要だと思われる。デカルコマニーやドリッピングなど。絵の中に、歯車の遊びのようなものが生まれる余地を残す、心のありようである。歯車の遊びと偶然
オブジェではなく平面であるためには、絵でなくてはならない。絵描きは時として絵であることを忘れて描きがちである。絵の中に入り込み、自分の世界に酔ってしまう。絵が絵であるためには、平面化や省略などが必要になってくる。平面であるために
「塗りムラを作る」とは、地色を見せるということ。塗りムラを筆致だけで作ろうとしても、ただの粗い仕事になってしまう。「塗りムラを作る」とは、事前に地塗りをしたうえでしなければいけない技法である。塗りムラと地色
平面を立体的に描くのに「立体物をコラージュしてしまえばよい」という発想は、目からウロコかもしれないが、そういった発想の選択をしてこなかった平面作品が「近代」と呼べるのかもしれない。フランク・ステラの人生が頭をよぎる。発想の転換は大切だが、あえて「平面を描く」という道を選びたい。作品に平面という制約を課して、逆説的に自由をつかむ。補色と白しか使わないと決めて、色幅の深さを見せていくような。ひらめきが過去の自分の作品を無意味にしてしまうのなら、それは悪魔のささやきにほかならない。立体化の発想
具象画における最小限の描写とは、空間が適切に表現できたときだと思われる。平面に一色塗ると、地塗りとの空間が生まれる。それに対して色を重ねていくと、さらに明快な空間が表現できる。平面化についてはさらに考察する必要があるが、二色以上の空間関係を発生させられたときに、最小限の描写と言えるのだと思う。最小限の描写と空間
消すのも描くうちに入る。描くことと消すこと
平面化とは、造形描写の一つの手段であって、目的ではない。平面化
アイデアを出すにはデッサン力が必要だ。それは、デッサンの合格書をもらうことではない。見て描くことによる発明(発見)がアイデアに活きてくる。アイデアとデッサン力
理論とは、あとからついてくるものでなければならない。スキップを踏むのに、理論を学んでもできるようにならないのと同じで、絵においての理論とは、身についたあとの気づきであると思う。理論
実景をそのまま描くのではなく、焦点をしぼり、リアリティが生まれる瞬間の状態を描く。それはハレーションの発生のように最小限でよい。それが実景よりもリアリティのある絵になる。また、実景をそのまま描いても、雰囲気は出せない。雰囲気は定規で測るものではなく、感じ取るもの。よって、多かれ少なかれデフォルマシオンは必要になってくる。リアリティの発生
テーブルの上にリンゴがあるが、このテーブルはテーブルであってテーブルではない。テーブルの世界では、テーブルとしての奥行きをリンゴがあることによって暗示させているが、リンゴは空間でもあって、テーブルの世界が平面的であることを強めている。リンゴは空間を否定されることによって、リンゴとなり、テーブルの上のリンゴがあると言える。このテーブルはテーブルであってテーブルではない。よって、リンゴもないのであって、テーブルもない。あるのは「空間」だけである。テーブルの上のリンゴ
シュルレアリスムはポエムの運動であったから、視覚的な共通点はなく、決まった画風というものはなかったが、現実をより現実として客観的にとらえようとしていることがうかがえる。マネキンが人に見えたり、物質が空間化されたり。無作為に描くデカルコマニーなども特徴にあげられる。無意識に描くのではなく、無意識を用いて描くのである。ポエムの技法としては、自動記述が挙げられるが、基本的な倒置法、転置法、反復、直喩、隠喩なども挙げられる。非合理な逆説も加えておく。シュルレアリスム考
細密画には求心力がある。観者は、より近づき、凝視する。絵を見てもらうために求心力が必要だというのも分からなくはないが、画面全体の調和のほうを優先して描いていきたい。そんためには離れてみたときの魅力がなければならない。家主が自宅を離れて眺めるように。この「眺める」という行為を促すためには、大きな世界観と疎密の疎の比率が大切になってくる。細密表現と疎密
石膏デッサンで細部よりも、構図や全体の形やトーンを優先しなければいけないように、タブローでも細密描写よりも、全体の構成やフォルム、色価を重視しなければならない。理屈で考えるのではなく、空間を眺めていく。それは文字言語的ではなく、感覚的なとらえである。眺める感覚
西洋絵画における密度とは、細密描写することではなく、彩度差が発生したときだと思われる。モノトーンの風景画を描いたとき、チタニウムを混ぜたときと、つやありやつや消しグロスメディウムを塗ったときに密度が出てきたと感じた。明度差しかないモノトーンの絵に彩度差が生まれたときに、深みが増したのである。細密描写することでも密度は出るのかもしれないが、彩度差というのは、密度を出すときの重要な要素だと思われる。絵の密度と彩度差との関係
ハレーションとは、二色の間で、その輪郭が白くぼやけて見える現象。明度対比や彩度対比、そして色相対比以外でも起こりうる現象で、レンズの問題である。明度が近く、彩度も近く高いときにおこる現象。作り方としては、明度対比と彩度対比を起こさないようにする。抑え方としては、明度差や彩度差を作る。ハレーションとは
キュビスムとは、多重視点を平面化した作品で、決まった様式はない。細密描写の代わりに面分割を行った、二次元の具象である。キュビスム考
フォーヴィスムとは、極彩色豊かな色調で、新印象主義のような光学的な正しさを求めず、感情としての色を使った、現代のコンピュータグラフィックスとは一線を画す運動であった。補色対比から始まり、色相環全てを使ったような色合わせが、現代絵画の基礎となっている。フォーヴィスム考
一般的なコミュニケーション力が高まると、相互の意図が分かるようになってしまので、絵のコミュニケーション能力が低下しがち。全く関わったことのない人の意見こそ大切にすべきである。絵のコミュニケーション
基本的に絵は自由ではあるが、日本においては表現してはいけない暗黙の制約がある。それはヌードを描いてはいけないというようなことではない。偶像崇拝に思える主役の描き方が問題となるのである。よって、無や空間が主題となる。何もないことを、主役が不在だということを、無が存在することを、平面によって表現する。けれど、テーマが「無い」ということは理解しがたいので、空や大地や土壁がテーマの代役になってくる。存在する無
イメージは平凡なものでよいと考えている、結果的に突飛な絵になってしまうかもしれないが。誰しもが想像し得る共通のイメージにまで落とし込む。それを「石膏像のマルスの顔は暗い」など、誰しもが通る発見でこしらえるのである。人間のイメージと意図
芝居に間が必要なように、絵にも余白と空間が必要である。いかに描かずに表現するかが大切になってくる。余白と空間
調和の問題が発生するのは二色から。一色に塗られた作品は、その色の好みはあるにしても調和していると言える。二色の調和のために、色数が増えていくものだと思われる。不調和の発生
「ブログリーダー」を活用して、照井正邦さんをフォローしませんか?