絵としてとらえる人、言葉としてとらえる人(創作絵日記的雑記)
絵を描いていると、形としてとらえる時代、光としてとらえる時代、線としてとらえる時代などがくる。それらは、文章力では上達しづらい。絵の先生ではない場合は、文章で絵の説明を求められる。多くの人は会話が必要ですから、文章を言葉としてとらえる。絵はいつでもそこにあるのに、なかなか見てはくれない。絵描きは絵に対して正直であるのだけれど、見る人の役職や経歴や宗教や政治思想に配慮して説明することができないので、言葉としては常に嘘つきに思えるのかもしれない。描いてみせるしかない。けれど、それは英語が広がっていったように、望まない描く以外のパフォーマンスを広げることになってしまう。パフォーマンスを見られて、また絵を見てもらえない。解説により、絵から目を離して人は考える。それは、文章の文字がもう一度絵からはじめなければならなくなる...絵としてとらえる人、言葉としてとらえる人(創作絵日記的雑記)
良くないことを、良くないと提示した場合に、その条件が全てクリアされたとき、良くないことを推進する側になってしまう危機感を感じています。それを回避できるか分かりませんが、良いか悪いか以外の、矛盾を含んだ価値感で描くように心がけています。矛盾のある絵(絵の雑記)
CMソング「ハイヌーン・ボディ」などを歌われている、鮎川麻弥さんのアルバムを聴いてから描いてみました。肝心の花を描くのを忘れて、最後に加筆。「フローラ」の習作も兼ねて。渚のメロディー(アクリル画)
「少年よ、スケーターになれ!」少年よ、スケーターになれ!(似顔絵)
河の流れの交響曲を聴いて。「フローラ」シリーズの習作も兼ねて。河の流れの交響曲(アクリル画)
タンゴのようなリズムのなかの、弦楽器の流れていく旋律が好きだ。刻まれた音はノイズになってしまうのか、音が拾えない音源が多い。好きな滑らかなメロディーが聴けることよりも、タンゴであることのほうが大事だと思って聴いています。それが自分の絵がデザインよりだと思われてしまう理由かもしれません。弦楽器とタンゴ(アクリル画)
席描きというイベントのスタイルがそのまま今後成立するのかはわかりませんが、それと併用していくつかの可能性も模索していこうと考えています。「色を用いた似顔絵」もその一つ。常に描く前に問題になるのが、「固有色を用いるのか」ということだと思います。今回は固有色を用いないで描いてみました。メディアのジャーナリストの報道の「笑い」というものが、「人を馬鹿にしている」という意味として扱うことが自明となってきていることを考えると、不可能なことなのかもしれませんが、人を馬鹿にする意味なしに笑って頂ければ嬉しいです。それは、「笑い」が「馬鹿にする」以外の意味合いもあると考えられることに繋がっていくのかもしれません…と、真面目に書いてしまうと笑えませんね。「青鬼平」の似顔絵です。固有色をあまり用いない似顔絵「青鬼平」(似顔絵)
青鬼平。固有色を用いないで描いてみました。青鬼平(似顔絵)
似顔絵を長く描いていると、「似顔絵とは○○である」と説明を求められる機会に出会いそうになることがありますが、クライアントが「企画が盛り上がるなら、似顔絵でなくてもよいのですけれど…」という心の声が聴こえる気がして、描くときにブレーキペダルに足を常に乗せながら、今日も散歩。さらさらっと描き似顔絵3(筆ペン似顔絵)
ふわっとした雰囲気。さらさらっと描き似顔絵2(筆ペン似顔絵)
カフェで、遠くに座っている人のふと一息ついた雰囲気を描きたくなることがある。コロナ下でそれは現実的には難しいですが、場所が表現を熟成させてゆく。カフェなどの、あまりかしこまらないことをコンセプトとしたスペースで描くという設定で、少し表現を模索していこうかと考えています。さらさらっと描き似顔絵1(筆ペンでの似顔絵)
「ハイパウント!」ラグビーで、蹴り上げたボールを自分で走ってキャッチするプレーをさしますが、そのプレーが若新氏の企画の立案方法と「似ている」と思ったので描いた作品です。大学ラグビーをテレビ観戦するのが好きでした。大学によってプレースタイルが明確に違っていたからです。勝ち負けだけにこだわるのであったら、どのチームも同じようなスタイルになってしまう。今は違うかもしれませんが、慶応大学のハイパウントの精神は仕事のアイデアにも活かされている、そう思えると愉しく感じてきます。週刊朝日「山藤章二の似顔絵塾」掲載!!(若新雄純)
以前、トゥクタミシェワ選手を描いてアップロードしたところ、似顔絵の誇張や特殊な表現と受け取られず、骨格として赤ペン先生のように勝手に添削されたものをアップロードされたことがあります。似顔絵は顔が主役ですので、大きく描いた顔から枠内におさめた足までを、階調でつないだ表現として描きました。けれど、似顔絵を知らない画家、あるいはアーティストにとって醜い描き方に思えるのは至極当然で、似顔絵としてではなく、アートとして馬鹿にされる必要があったのかもしれません。パラリンピックもあり、似顔絵であるとはいえ、誇張が現実であると判断してしまう方がいらっしゃることを想像できなかったことを反省しています。この似顔絵も、頭身は短いです。似顔絵としては、顔が認識できなくなってしまうので、この頭身が(私の画力の中では)限界かもしれません。...似顔絵なのに骨格を見られてしまう問題(似顔絵)
ムジカピッコリーノムジカピッコリーノ(似顔絵)
今週の週刊朝日「山藤章二の似顔絵塾」に、私の作品が掲載されました。週刊朝日「山藤章二の似顔絵塾」掲載!!(志茂田景樹)
第一印象(ファーストインプレッション)で、描いてみました。表現(エクスプレッション)しないように、蛇足を描かないように線をひきました。第一印象-ファーストインプレッション(似顔絵)
もし矢印記号を知らなかったならもし矢印記号を知らなかったなら(色鉛筆画)
Title:空間のオブジェ/アクリル画以前、具象の作品「私ではない誰か2」の表彰式で、抽象専門の批評家の先生に、「絵描きはカナリア」という主旨の希少なご意見を伺える機会に出会えました。具象画でカナリアになれるかは分かりませんが、また自らカナリアになりたいと思うのも間違いですが、「自分で何を描いているのか分かっていない」作品が描けなければならないのかもしれません。それが意味するのは、学生時代の教授の「絵描きは分かっていない」という痛烈な批判に、自ら怒られるのを承知で向かっていってしまうシーンが浮かんでしまいます。もし、そのときそれを描いてしまっていたなら、卒業できずに今の自分はいません。小さい頃、西洋写実表現を写実主義にまですすめず、あるいはすすめられず、自然主義的な現象に重きを置いてデッサンを描いていた理由の一...搬出が終わり(美術雑記)
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