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プロフィール
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blackcatさんのプロフィール

住所
吹田市
出身
和歌山市

国鉄というかって存在した組織を徹底的に多方面の角度から検討するサイトです。 姉妹サイトとして、「国鉄があった時代」というサイトも運営しております。 http://freett.com/blackcat_kat/index.html

ブログタイトル
国鉄があった時代blog版
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/blackcat_kat
ブログ紹介文
日本国有鉄道にこだわったblogです。 国鉄の歴史その他鉄道の話題で盛りだくさんです。
更新頻度(1年)

22回 / 365日(平均0.4回/週)

ブログ村参加:2009/06/20

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ハンドル名
blackcatさん
ブログタイトル
国鉄があった時代blog版
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国鉄があった時代blog版

blackcatさんの新着記事

1件〜30件

  • 紀勢本(東)線の夜行列車、紀州5号のルーツを探ってみる。第1回

    実は、本日親友から質問を受けまして、母を訪ねて三千里ではないですが、その答えを探して色々と調べていました。実は、最初に見せられたのは1枚のtwitterに上がっていた1枚の写真、新宮駅に到着した、キユニ26を先頭にした、荷物列車、後方にはきは28・58が連結されており、twitterの見解では紀州5号ではないかというお話しだったので。実際の所はどうなのと調べてみた次第。そこで、何回かに分けて、山陰本線のお話とは別に、紀勢本線の東線側の列車について歴史を辿っていきたいと思います。ちなみに、名古屋発の夜行列車、紀州5号ですが、誕生は昭和43年10月のダイヤ改正です。元々は「うしお2号」という列車でしたが、愛称統合で紀州に統合されたものでした。廃止時期なのですが、手元にある時刻表では、昭和56年10月の改正までは残っ...紀勢本(東)線の夜行列車、紀州5号のルーツを探ってみる。第1回

  • 山陰本線、京都夜行「山陰」物語 第4話【戦後編】

    気がつけば1ヶ月以上更新していませんでしたが、改めて昭和33年10月のダイヤ改正以降をご覧いただこうと思います。昭和33年10月号時刻表昭和33年10月の時刻表を参照しますと、東京発の急行出雲は、東海道区間は夜行列車として、大阪からは昼行列車として大社まで運転される列車であり、昭和31年12月改正のダイヤをそのまま踏襲しています。昭和33年10月のダイヤ改正では、寝台特急客車用の20系が、運転を開始したダイヤ改正でした。昭和33年10月号時刻表内開きの20系客車を紹介する記事電源車を連結し、潤沢な電力で変性全体の空調は元より、電化食堂車が誕生しました。それまでは、2等A寝台・B寝台、食堂車のみが冷房付であったのですが、この車両では三等寝台は元より、三等座席車も冷暖房完備であり。特急「つばめ・はと」よりも豪華な車...山陰本線、京都夜行「山陰」物語第4話【戦後編】

  • 山陰本線、京都夜行「山陰」物語 第3話【戦後編】

    皆様こんばんは、本日も京都夜行山陰物語として、昭和28年から昭和31年を見ていこうと思います。この頃になると、終戦の混乱期も落ち着きを取り戻してきますので、京都夜行に限定せずに、京都・大阪発の優等列車なども参照しながら、皆様をご案内したいと思います。最初にご覧いただくのは、昭和28年の時刻表です。こちらをご覧いただくと、京都発の夜行列車は下関行きの普通列車となっており、東京からの急行を受けて大社というルートはなくなっています。その代わりと言ってはなんですが、東京発の「急行せと」宇野行きに大社行き編成を組み込んでいました。時刻表を参照しますと、宇野・大社となっているのを確認いただけるかと思います。東京を22:30、終着大社には18:30ですので、20時間かかっていた計算になります。なお、急行せとの前身は、昭和25...山陰本線、京都夜行「山陰」物語第3話【戦後編】

  • 山陰本線、京都夜行「山陰」物語 第2話【戦後・混乱期編】

    本日も、山陰本線、京都夜行「山陰」物語を始めさせていただこうと思います。今回は、昭和21年から昭和28年までの、戦後の混乱期と言われた時代を中心にお話を勧めさせていただければと思っております。太平洋戦争【大東亜戦争】が1945(昭和20)年8月15日に終結し、国有鉄道【当時は運輸省】の鉄道はGHQの管理下に置かれることとなったのは、すでに皆様もよくご存じのとおりです。GHQ/SCAPは第8軍が東日本、第6軍が西日本を占領すると言うことで、京都烏丸四条の京都丸紅本社屋(現在のCOCONKARASUMA)に司令部が置かれることとなりました。当初は、中国軍が来るという話もあったそうですが、結局アメリカの第6軍が和歌山から進駐することになり、和歌山線を使って京都まで入ったそうですが、直接「山陰」の話とは関係がないので、...山陰本線、京都夜行「山陰」物語第2話【戦後・混乱期編】

  • 山陰本線、京都夜行「山陰」物語 第1話【戦前編】

    はじめに現在は、寝台列車と呼べるものが殆ど存在せず、僅かにサンライズ出雲・瀬戸がJR各社直通の在来線特急列車として残っています。国鉄時代には、寝台列車は多数運転されていたわけですが、高速道路の延伸、さらには飛行機運賃の自由化などで、列車の運賃と飛行機の運賃格差が小さくなり、徐々に寝台車の利用者は減少を続けることとなりました。かつて、鉄道にはブルートレインと呼ばれた寝台特急の他に、夜行列車と呼ばれる普通列車も多数走っており、一部の普通列車は寝台車を連結していた列車もあり、これらの普通列車は昭和50年3月の改正以降は、マルスに寝台券を収納し、全国で発売できるようにしていたため、夏期のような愛称が付けられていきました。からまつ小樽~釧路間南紀天王寺~名古屋(寝台連結は、天王寺~新宮)山陰京都~出雲市ながさき門司港~長...山陰本線、京都夜行「山陰」物語第1話【戦前編】

  • 特急つばめ 愛の臨時停車顛末記 5

    本日も、続きを書かせていただきます。特急つばめは、1分の臨時停車の後、再び加速していきます。四分半後には「臨時特急さくら」が追いかけていますので、後続の列車にまで遅れを出すわけにはいきません。私は、自らの意思で列車を止めたという事実を今一度思い返していました。大変なことをしてしまった。自らの意思で、病人への救護措置とはいえ、特急列車を止めてしまったという悔悟の念が大きく頭をもたげました。おそらく帰区してから助役・区長からの事情聴取があるだろう、厳しく叱責を受けること、もしかしたら、始末書を出さざるを得ないであろう、そんなことが頭によぎります。しかし、自分は少女のためにという純粋な気持ちからの行動であり、例え叱責されても始末書を出して処分を受けたとしてもそれは甘んじて受け入れようと心に決めたのでした。不思議と、そ...特急つばめ愛の臨時停車顛末記5

  • 特急つばめ 愛の臨時停車顛末記 4

    ほぼ1ヶ月ぶりの更新になりますが、しばしお付き合いください。私は、先ほどの親子に今一度会いに行くと、二人を特ロ【現在のグリーン車】に案内して、少しシートを倒して少しでも楽な姿勢になるようにするとともに、車掌室に戻り、マイクでお医者さんが乗り合わせていないか声をかけてみるのですが、あいにく乗っていませんでした。そこで、途中駅での停車をと思い、前述の通り黒田運転車掌と打ち合わせの上、蒲郡に列車を止めようとしたわけです。早速、運転車掌の黒田君が通報依頼書に臨時停車の旨を書いて、通過する西古佐改易ホームの助役にマッチ箱に依頼書を入れて投げてくれたのでした。私も通過監視しながら見ていますと、フルスピードで通過する駅から投げられたマッチ箱は列車が通過することで巻き起こる風に翻弄されながら、ホームをコロコロと転がっていくのが...特急つばめ愛の臨時停車顛末記4

  • 国鉄改革とは?新幹線保有機構とJR各社

    国鉄時代を知らない世代の人から、JRになったからローカル線が廃止になったとか、不便になったという声を聞きます。実際に、会社間の乗り入れや、会社間をまたぐ長距離列車の減少、国鉄時代に使えた電話予約が使えないなどの弊害もありますが。国鉄から新生JRになるとき、本州各社も本当にJRで上手く行くのだろうかという疑心暗鬼もあったと言われています。そこで、国鉄の部内紙。国有鉄道という冊子の中から「貨物会社の収支について」という記事がありますので、sここから資料等を引用させてもらいながらお話を進めさせていただこうと思います。最初に見ていただくのは、JR貨物の輸送量の予測でした。年々、5%程度減少すると見込まれており、66年(平成3年)度では、発足当初の5,777万トンから570万トンほど減少した、5,209万トンと予測されて...国鉄改革とは?新幹線保有機構とJR各社

  • 特急つばめ 愛の臨時停車顛末記 3

    特急つばめ愛の臨時停車顛末記3しばらく更新できませんでしたが、早速お話を始めたいと思います。浜松駅での停車時間は3分ほど、電化区間が浜松までの頃は、機関車の付け替えなどで長時間停車したものですが、最近はその時間も短くなり、弁当販売員にしてみれば,個々が腕の見せ所とばかりに張り切っているようです。ホームでは発車ベルが鳴り響き、旅立ちの慌ただしさを盛り上げてくれます。12:37定時ベルが鳴り止み、助役が旗を大きく振り上げているのが見えます。汽笛一声、EF58の甲高い汽笛とともに軽いショックが乗務員室にも伝わり、特急つばめは大阪に向けて歩み出すのでした。弁当販売員は、最後の1個をとばかりに小走りに走りながら弁当と釣り銭を渡しています。浜松駅のハモニカ娘にも見送られながら、汽車は徐々に加速していくのでした。さて、再び私...特急つばめ愛の臨時停車顛末記3

  • 特急つばめ 愛の臨時停車顛末記 2

    皆様、久々に投稿させていただこうと思います。9:00定刻に東京駅を出発した下り特急つばめ号は、有楽町の日劇を横に見ながらどんどん加速していきます。私は、車内放送を済ませると、車内改札に向かうのでした。私と同僚の専務車掌黒木君と手分けして、車内を回ることにしました。車内は、用務客と思しき人が大半で、2等車では、国鉄パスを持った管理局の課長クラスや、会社の重役、時には国会議員も乗車しています。それでも、特急つばめは2等車も3等車もほぼ満員の乗車率でした。私は普通車から順次検札をしていたのですが、3等車に乗車していた親子連れに声をかけられました。聞けば、子供の気分がよくないとのこと、そこで私は、列車内に常備の酔い止めの薬を手渡したのでした。横浜9:27定刻出発下、特急つばめの次の停車駅は、沼津、しばし時間的にも余裕が...特急つばめ愛の臨時停車顛末記2

  • 特急つばめ 愛の臨時停車顛末記

    こちらは、史実として残る、「特急つばめ」臨時列車に対して。当時の専務車掌が回想記を寄稿しており、その話をモチーフに展開した、小説になっています。指名等は仮名ですが、ほぼ史実に沿った内容となっています。東京から乗車した少女の容体が急変、車掌の機転で、蒲郡駅で臨時停車させるて病院に搬送することが出来たとして、後日新聞にも「愛の臨時停車」として美談が載ったというお話なのですが、当たり前のことをしただけなのに、これを美談として取り上げられることに多少の違和感を持ってしまったということで、当時の手記が書かれていました。この記事はその内容をベースに創作したお話になります。初めまして、私は大阪車掌区の勤務する中村というものです。私は、15歳で大阪鉄道管理局に採用され、大阪城東線の京橋駅を振り出しに、車掌試験を受験、特急つばめ...特急つばめ愛の臨時停車顛末記

  • 本州・四国連絡橋のお話し諸々

    計画された、本州と四国を結ぶ鉄道ルート本州と四国を結ぶ吊り橋として、現在鉄道が通過しているのは、南備讃瀬戸大橋、北備讃瀬戸大橋を含む瀬戸大橋が唯一ですが、計画当初は、明石海峡大橋も鉄道橋として建設して、既に開通している、鳴門大橋を経由して四国と関西を結ぶ路線も計画に入っていました。色々と調べていますと、興味深いblogを見つけました。南あわじ市の市政と県病についてと言うタイトルの記事で、「明石海峡大橋が「道路専用橋」となってしまったいきさつ(失われた鉄道併用の利点)と言う記事がありました、こちらを参照しますと、鉄建公団としては技術的には、可能であったと書かれています。当該ブログから引用させていただきます。その後、昭和50年(1975年)8月、三木内閣の下で、改めて合意がなされる。そのとき、「児島坂出ルート(瀬戸...本州・四国連絡橋のお話し諸々

  • 万博こぼれ話 新大阪駅が簡易宿泊所になった話

    国鉄の部内誌、国有鉄道という雑誌から見かけたお話から。今回は、1970年に大阪千里山丘陵で開催された日本万国博覧会(EXPO'70)のこぼれ話として、新大阪駅での話です。駅での宿泊は、当時も今も営業時間以外は開放されておらず、最終列車が到着すると駅を閉鎖してしまいます、当時のお話では新大阪駅は24時間開放していたようです。現在は廃止されていますが1階飲食店街(味の小路)付近が団体待合室となっていたそうです。この団体待合室が、万国博見学者の臨時宿泊所になったというお話です。当時の雑誌を参照しますと、万国博覧会が始まった3月15日以降に、団体待合室で夜を明かす人が出てきたそうで、これが日に日に増えていったそうです。その殆どが、万国博を見学するためにやってきた人たちで、駅舎に宿泊することで旅館代を浮かそうということだ...万博こぼれ話新大阪駅が簡易宿泊所になった話

  • 特急つばめガールは、GHQの置き土産?

    皆様、特急「つばめ」と言えば、若い方ですと、九州新幹線の「つばめ」を思い出される方も多いかと思います。我々の年代ですと、岡山から九州方面に走っていた列車、もしくは、新幹線開業前に東京~大阪間を走っていた列車名と言うことで覚えている方も多いかと思います。国鉄にとって、「つばめ」は特別な列車であり、これは戦前の世界恐慌時(1929年)昭和4年に行われた特急列車の愛称一般公募結果をもとに命名されたものもので、超特急の愛称として。「つばめ」が選ばれました。もっとも、当時は、「燕」と漢字で書かれていたのです。戦前から国鉄を代表する特急列車の愛称名であることは、変わりなく、国鉄では球団を作ったときもスワローズ(現在のヤクルトスワローズは、国鉄スワローズが身売りされたため)を名乗ったほか、国鉄バスも「つばめ」マークが取り付け...特急つばめガールは、GHQの置き土産?

  • 食堂車と営業事業者割り当てのお話

    1960年代、優等列車には食堂車は必ず連結されていた。1960年代の国鉄では優等列車と呼ばれた急行以上には原則として食堂車が連結されていました。当時は、特急列車の本数も少なく、特急は文字通り、「特別な急行」でありおいそれと乗れると言う雰囲気ではありませんでした。そこで、一般には急行(普通急行)を利用するのが一般的であり、夜行列車・昼行列車に限らず、多くの食堂車がこれら列車に連結されていました。さて、この食堂車ですが、当然のことながら国鉄が直接経営していたわけではなく、業者に委託する形となっていました。その代表格は、日本食堂でした。日本食堂【通称にっしょく】は、列車食堂を営業していた伯養軒(仙台)と駅構内で食堂などを経営していた精養軒(上野)・東松亭(大阪、後の水了軒)・みかど(神戸)・東洋軒・共進亭が共同で出資...食堂車と営業事業者割り当てのお話

  • 国鉄時代の二条駅、備忘録

    二条駅とは、山陰本線にある駅ですが、実はこの駅のことを調べて行くと色々と面白いことが見えてきました。二条駅は、日本で二番目に古い現存駅舎だけでなく、戦前はある荷物の取扱量でも日本で2番目だったそうです。ちなみに、1位は、秋葉原だったそうです。ちょっと考えてみてくださいね。実は、二条駅で日本2位の到着を誇ったのは、薪炭(炭)でした。二条駅は、京都の中心部になるのでここから西陣地区を中心に洛中と言われた京都市内に配送されたそうで、二条駅の北側にはそうした薪炭を扱う問屋が軒を並べていたそうです。鉄道が開通するまでは、高瀬川(運河)で洛中まで運ばれていたそうですが、鉄道の開通により鉄道で運ばれるようになったと言われています。同じように、京都市内の暖房用などの石炭も一手に引き受けていたそうで、駅構内には貯炭場が設けられて...国鉄時代の二条駅、備忘録

  • 昭和30年代における、自動車の鉄道輸送

    皆様こんにちは、今回も国鉄線見つけた面白い記事について書かせていただこうと思います。国鉄における自動車輸送と言えば、ク5000を使った自動車輸送を覚えておられる方も多いかと思います。画像Wikipedia自動車専用列車として、新車を運ぶのに使われ自動車の移動には汚れや傷を防止するため、車カバーがかけられていたのを写真で見た記憶があります。ただ、古い写真を見ていますと移送時はカバー等を被せずに運転していたこと写真もあり、カバーしていたのは写真撮影用なのかそれとも・・・・と思うのですが、自動車カバーを収納させる場所を設けていたと言う記述もあるのでその辺はご存知に方おられましたらご教示いただければ幸いです。百済駅における車両積卸風景天鉄局30年史のアルバムから引用なお、国鉄時代のク5000は1900CCまでの車を10...昭和30年代における、自動車の鉄道輸送

  • 名神高速バス 最初の一歩

    皆さまこんばんは、現在は東名高速道路には昼夜を問わず、高速バスが走り、特にWILLEREXPRESSに代表される、高速バス事業者やそれ以外の中小のツァーバスを含め数多くのバスがJRの夜行列車に代えて全国にそれこそ走っています。私も、夜行バスをよく利用するのですが、夜間の高速のパーキングエリアなどでは高速バスとトラックでSA(サービスエリア)を占領しているのではないかと思わせるものがあります。WiilerExpress今は高速バスがこれほど走っているわけですが、そもそも高速バスのスタートは国鉄であったと意外に思われる方も多いのではないでしょうか。日本最初の高速道路が開通したのは、名神高速道路、栗東インターチェンジ(IC)~尼崎インターチェンジ(IC)間(71.7km)が昭和38年(1963)7月16日に開通したこ...名神高速バス最初の一歩

  • 大阪駅にマイナス1番線があった?

    今日は、大阪駅のトリビアなお話をさせていただこうと思います。現在の大阪駅は、環状線を1番線として11番線までのホームがありますが、かつては現在ルクアの部分もホームが有ったことを覚えておられる方も多いかと思います。かつては、大阪環状線専用ホームが無かった今回は、大阪環状線ホーム、現在の1番線・2番線に関するお話です。西成線・城東線と呼ばれた大阪環状線が誕生するまでは、現在の環状線電車は、当時の城東線電車【内回り線】並びに、西成線【外回り線】は直接、現在の福知山線ホーム【3番線】に発着していました。0番環状線ホーム誕生昭和34年12月21日になって、内回り電車用のホームとして、0番線が誕生します。昭和31年の国鉄部内誌交通技術(s31)3月号を参照しますと、昭和35年までに0番線を設けて大阪駅ホームの緩和を図ると書...大阪駅にマイナス1番線があった?

  • EXPO70 よもやま話、国鉄で運転された臨時列車のお話を中心に

    EXPO'70昭和45年、大阪府吹田市千里山丘陵で開催された万国博覧会2025年、大阪舞洲での万国博覧会開催が決定しましたが肝心のアクセスが、地下鉄一本だけで、かつ桜島からまだ先というのはかなり遠く、埋め立て地であることから、今年の台風で関空が被害に遭ったように名ことに成らないかという懸念も持たれています。さて、今回は今から半世紀近く前に、吹田市の千里丘陵で行われた万国博覧会の旅客輸送について少しお話をさせていただこうと思います。既に、ご存じの方も多いかと思いますが、1970年の万国博覧会では、道路からのアクセス以外に、中国自動車道の一部を占有して、複線の線路を延長して会場前のお祭り広場まで線路を延長しました。万博閉幕後は、線路を撤収して現在の千里中央に行き先を変更しましたが。当初心配された、万博輸送後の旅客数...EXPO70よもやま話、国鉄で運転された臨時列車のお話を中心に

  • 国鉄気動車の塗色、戦前に試験塗装が行われたという話

    戦前は、客車はもちろん、電車も褐色【ぶどう色1号】と呼ばれる、茶色の濃い色が採用されていました。戦前は、蒸気機関車の牽引による列車が殆どで、明るい塗装の車両などを導入することは考えられていませんでしたので。気動車も、導入当初の車両はぶどう色1号だったのですが、試験的にキハ42000等に試験塗装を行ったと、国鉄の部内誌、交通技術という雑誌にでていましたので、ここで紹介させていただこうとおもいます。戦前の気動車に試験的に、特別な塗装を施したという記事です。この記事によりますと、キハ42000が4両製造されて、西成線(現在の桜島線)と武豊線に配属され、試験的に特別の塗装が行われたと書かれています。それによりますと、西成線配属のキハは、濃褐色と黄褐色の塗り分け、武豊線配属車は、濃コバルトと灰白色との塗り分け出会ったと書...国鉄気動車の塗色、戦前に試験塗装が行われたという話

  • 国鉄が行ったこんな割引、あんな割引

    学割とは別に、勤労者割引なるものがあった。国鉄時代から、学生割引というものがあるのは皆さんよくご存じだと思います。ウィキペディアを参照しますと、下記のように概要が書かれています。指定した学校の学生・生徒が、旅客鉄道株式会社各社(JRグループ)の鉄道と、JRバスグループ各社の一部の高速バス路線の乗車券購入時に窓口に学割証を提出し、かつ学生証を提示すると、片道の営業キロが101km以上の区間を乗車する際の片道乗車券・往復乗車券・該当する連続乗車券の券片が2割引となる。私自身は、就職するまでは、父親が国鉄職員でしたので、もっぱら家族割引を利用しており、学割とは縁がなかったのですが、国鉄民営化を前にして、こうした割引制度も廃止になり、昭和61年、郵政省の中等部訓練で初めて学割なるものを使ったことがあります。郵政省の中等...国鉄が行ったこんな割引、あんな割引

  • 新形標準貨車の構想 昭和37年 交通技術の資料から

    国鉄が未だ貨物輸送にあっても、陸上輸送の主力であった頃、少しでも現行設備のままで輸送力を増やすため、新標準貨車の基準を策定することとなり、その検討が昭和37年に行われました。当時の部内誌、交通技術を参照しますと、昭和37年6月号を参照しますと、本社で新標準形と言うべき貨車を製作することととなりました。当時の経緯などを国鉄線昭和37年6月号の記事を参照しながら綴ってみたいと思います。新形貨車の構想を決めるまでに検討された事項1)当初の構想では、貨車も新車両限界採用を目論んでいた。当初の構想では、地方鉄道に乗り入れるため古い車両限界に拘ってきたが地方鉄道でも改修が進んでいるので、新車両限界を採用し車体幅を少し広げると共に、長さを切り詰めることで輸送力の増大を図れるのでは無いかと考えていたようです。さらに、国鉄として...新形標準貨車の構想昭和37年交通技術の資料から

  • 国鉄が行った宅配便事業 「ひかり宅配便」

    昔は小荷物輸送は国鉄が行っていた現在、宅配便といえば、クロネコヤマトに代表される宅急便や、佐川急便、郵便局のゆうパックと言ったあたりが三強ですが。ヤマト運輸が宅配事業に参入する前は、もっぱら小荷物輸送も国鉄がその任をになっていました。郵便局も扱っていましたが、6kgまでであり、再配達制度も無し。玄関に置き去り・・・みたいな配達の仕方であり、ちょっとした大きな荷物を運ぶとなると、駅まで荷物を運ばなくてはなりませんでした。到着した場合も同様で、駅から荷物到着の電話、もしくは電話がない家庭の場合は「はがき」で、荷物の到着が伝えられ、駅まで取りに行くシステムでした。まぁ、今から考えればなんともノンビリした時代と言えますが、昭和50年頃までの鉄道輸送のスタイルでした。国鉄が行った宅配便ひかり宅配便R昭和60年5月号から引...国鉄が行った宅配便事業「ひかり宅配便」

  • 線区経営改善研究会と国鉄ローカル線 第三回

    線区経営改善研究会が発足した背景長々と書いてきましたが、やっと経営改善研究会のお話をさせていただけることになりました。線区別改善研究会のお話をさせていただきます。国鉄では昭和39(1964)年の赤字決算となるのですが、その背景には、自動車の保有台数の増加という側面がありました。経済が発展し、可処分所得が増加することで、自家用車を保有する家庭も増えていきました。自家用車などの普及と相まって、昭和30年代に普及した割賦販売【いわゆるクレジット】が普及したこともあって、自動車を購入しやすくなったのも、一つの要因でした。また、高速道路の開通などで鉄道が陸上輸送における独占的輸送を占めることはなくなり、そのシェアも貨物を中心に少しずつ減らしていくこととなりました。昭和41年監査報告書から引用、昭和40年からの旅客輸送は長...線区経営改善研究会と国鉄ローカル線第三回

  • 線区経営改善研究会と国鉄ローカル線 第2回

    道路行政と鉄道行政本日は、道路法と鉄道行政に特化した部分でお話をさせていただく予定です。これ道路行政と鉄道行政ということで、少しお話をさせていただこうと思います。鉄道と道路の費用負担と言う視点で考えますと、鉄道が軌道その他の施設を一括して保有する反面その建設・維持はすべて自前ですることとされています。最近は鉄道建設は膨大な費用がいることから建設主体と運行主体を分ける上下分離方式が鉄道でも一般化していますが、従来の路線の多くは、私鉄・JRを含めて維持管理は鉄道会社で行われています。これは、明治初期の鉄道に成り立ちにその原因があると思われます。それは、鉄道建設は膨大な費用がかかりますが、開通後は独占的な利益を得られることから、その費用負担を事業者に委ねたと言えそうです。実際に、明治政府が主要幹線の経営を独占させて、...線区経営改善研究会と国鉄ローカル線第2回

  • 線区経営改善研究会と国鉄ローカル線 第一回

    国鉄と赤字ローカル線の問題国鉄の赤字は昭和39(1964)年度から始まりました。国鉄時代は黒字に転換することはなく【正確には、国鉄最後の決算、昭和61(1986)年度には特定人件費などを除けば黒字決算を行っており、国鉄最後の意地を見せたと言えそうです。さて、国鉄の赤字問題は、複雑な要素を含んでおり、労働組合が原因とか、ローカル線が問題と言った単純な問題ではありませんでした。特に初めて赤字決算を計上した昭和39年度の頃は下記のような複数の要素が絡んでいました。経済成長に伴う輸送力増強に伴う設備投資【新幹線の建設や首都圏の輸送力増強など】動力近代化などに伴う設備投資【北陸本線や山陽本線、東北本線などの電化など】赤字ローカル線問題踏切支障対策に関する投資といった大きな問題があり、それ以外にも、過度な通勤・通学に対する...線区経営改善研究会と国鉄ローカル線第一回

  • 観光団体専用列車のお話、事始め

    昭和36年から始まったオーダーメイドの団体輸送観光団体輸送列車は、当時の資料を探してみますと、昭和36年2月号の記事に次のような記述を見ることが出来ます。これは、36年3月のダイヤ改正で誕生したと書かれています。少し、本文から引用してみようと思います申し訳ありません、私の勘違いで、南紀観光団体専用列車には、ナハネ11が投入されたと書きましたが、これはその後の九州観光団体その他では確かに寝台車を使われているのですが、南紀観光団体列車は座席車による夜行列車でした。【昭和36年3月鉄道ピクトリアルで確認しました。】ここにお詫びして訂正すると共に、更に資料の精査を行えるようにしたいと思います。重ねてお詫び申し上げます。******引用開始団体旅客の輸送は、輸送力の不足している現在の国鉄にとって非常に難かしい問題である。...観光団体専用列車のお話、事始め

  • 遜色準急 第2摩周

    古い資料を探していて、大変面白い記事を発見しましたので、ここで披露したいと思います。鉄道ファン昭和36年12月号の記事で下記のような内容です。05準急快走す・・・キハ05という気動車は、キハ04と同じグループの車体であり、こうした気動車を準急列車に使ったと良いうのも・・・いやはやなんともという感じなのですが。国鉄のぼったくり商法だと書いています。苦笑キハ04幸い当時の時刻表などもありましたので、併せて確認してみますと。ありました、「準急第2摩周」という列車。途中で分割する普通列車だが・・・。鉄道ファン昭和36年12月号から引用この準急気動車の時刻表がありましたので、それを参照しますと、釧路16:00出発終着網走には、19:29となっていますが、途中の標茶駅で、キハ05を切り離します。切り離されたキハ05はそのま...遜色準急第2摩周

  • 陸送屋とキセル乗車

    昭和30年代、自家用車はメーカーから販売店には運転手が一台ずつ運転して配送していました。当然のことながら、帰りは車では無いので鉄道で帰ることになるのですが、このときにキセル乗車をしている輩が多発していたということで、問題になったという記事です。この記事によりますと、乗車券の使い回し、改ざんなどが行われていたようで、急行券などの日付などを改ざんして使っていたようなことが書かれています。なお、具体的にどのような手口があったのか、下記に関連する記事がありましたので引用させていただきます。国鉄線昭和40年8月号の記事から抜粋です。乗車券の使い回し、定期券と入場券による典型的な詐欺行為、他には、乗車券の偽造などもあるようです。今でもそうですが、キセル乗車は、通常運賃の三倍を請求されることになります。その根拠は、鉄道営業法...陸送屋とキセル乗車

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