国鉄があった時代blog版
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住所
寝屋川市
出身
和歌山市
ハンドル名
blackcatさん
ブログタイトル
国鉄があった時代blog版
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/blackcat_kat
ブログ紹介文
日本国有鉄道にこだわったblogです。 国鉄の歴史その他鉄道の話題で盛りだくさんです。
自由文
国鉄というかって存在した組織を徹底的に多方面の角度から検討するサイトです。 姉妹サイトとして、「国鉄があった時代」というサイトも運営しております。 http://freett.com/blackcat_kat/index.html
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blackcatさんのブログ記事

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blackcatさん
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国鉄があった時代blog版
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国鉄があった時代blog版
  • 大阪駅にマイナス1番線があった?

    今日は、大阪駅のトリビアなお話をさせていただこうと思います。現在の大阪駅は、環状線を1番線として11番線までのホームがありますが、かつては現在ルクアの部分もホームが有ったことを覚えておられる方も多いかと思います。かつては、大阪環状線専用ホームが無かった今回は、大阪環状線ホーム、現在の1番線・2番線に関するお話です。西成線・城東線と呼ばれた大阪環状線が誕生するまでは、現在の環状線電車は、当時の城東線電車【内回り線】並びに、西成線【外回り線】は直接、現在の福知山線ホーム【3番線】に発着していました。0番環状線ホーム誕生昭和34年12月21日になって、内回り電車用のホームとして、0番線が誕生します。昭和31年の国鉄部内誌交通技術(s31)3月号を参照しますと、昭和35年までに0番線を設けて大阪駅ホームの緩和を図ると書...大阪駅にマイナス1番線があった?

  • EXPO70 よもやま話、国鉄で運転された臨時列車のお話を中心に

    EXPO'70昭和45年、大阪府吹田市千里山丘陵で開催された万国博覧会2025年、大阪舞洲での万国博覧会開催が決定しましたが肝心のアクセスが、地下鉄一本だけで、かつ桜島からまだ先というのはかなり遠く、埋め立て地であることから、今年の台風で関空が被害に遭ったように名ことに成らないかという懸念も持たれています。さて、今回は今から半世紀近く前に、吹田市の千里丘陵で行われた万国博覧会の旅客輸送について少しお話をさせていただこうと思います。既に、ご存じの方も多いかと思いますが、1970年の万国博覧会では、道路からのアクセス以外に、中国自動車道の一部を占有して、複線の線路を延長して会場前のお祭り広場まで線路を延長しました。万博閉幕後は、線路を撤収して現在の千里中央に行き先を変更しましたが。当初心配された、万博輸送後の旅客数...EXPO70よもやま話、国鉄で運転された臨時列車のお話を中心に

  • 国鉄気動車の塗色、戦前に試験塗装が行われたという話

    戦前は、客車はもちろん、電車も褐色【ぶどう色1号】と呼ばれる、茶色の濃い色が採用されていました。戦前は、蒸気機関車の牽引による列車が殆どで、明るい塗装の車両などを導入することは考えられていませんでしたので。気動車も、導入当初の車両はぶどう色1号だったのですが、試験的にキハ42000等に試験塗装を行ったと、国鉄の部内誌、交通技術という雑誌にでていましたので、ここで紹介させていただこうとおもいます。戦前の気動車に試験的に、特別な塗装を施したという記事です。この記事によりますと、キハ42000が4両製造されて、西成線(現在の桜島線)と武豊線に配属され、試験的に特別の塗装が行われたと書かれています。それによりますと、西成線配属のキハは、濃褐色と黄褐色の塗り分け、武豊線配属車は、濃コバルトと灰白色との塗り分け出会ったと書...国鉄気動車の塗色、戦前に試験塗装が行われたという話

  • 国鉄が行ったこんな割引、あんな割引

    学割とは別に、勤労者割引なるものがあった。国鉄時代から、学生割引というものがあるのは皆さんよくご存じだと思います。ウィキペディアを参照しますと、下記のように概要が書かれています。指定した学校の学生・生徒が、旅客鉄道株式会社各社(JRグループ)の鉄道と、JRバスグループ各社の一部の高速バス路線の乗車券購入時に窓口に学割証を提出し、かつ学生証を提示すると、片道の営業キロが101km以上の区間を乗車する際の片道乗車券・往復乗車券・該当する連続乗車券の券片が2割引となる。私自身は、就職するまでは、父親が国鉄職員でしたので、もっぱら家族割引を利用しており、学割とは縁がなかったのですが、国鉄民営化を前にして、こうした割引制度も廃止になり、昭和61年、郵政省の中等部訓練で初めて学割なるものを使ったことがあります。郵政省の中等...国鉄が行ったこんな割引、あんな割引

  • 新形標準貨車の構想 昭和37年 交通技術の資料から

    国鉄が未だ貨物輸送にあっても、陸上輸送の主力であった頃、少しでも現行設備のままで輸送力を増やすため、新標準貨車の基準を策定することとなり、その検討が昭和37年に行われました。当時の部内誌、交通技術を参照しますと、昭和37年6月号を参照しますと、本社で新標準形と言うべき貨車を製作することととなりました。当時の経緯などを国鉄線昭和37年6月号の記事を参照しながら綴ってみたいと思います。新形貨車の構想を決めるまでに検討された事項1)当初の構想では、貨車も新車両限界採用を目論んでいた。当初の構想では、地方鉄道に乗り入れるため古い車両限界に拘ってきたが地方鉄道でも改修が進んでいるので、新車両限界を採用し車体幅を少し広げると共に、長さを切り詰めることで輸送力の増大を図れるのでは無いかと考えていたようです。さらに、国鉄として...新形標準貨車の構想昭和37年交通技術の資料から

  • 国鉄が行った宅配便事業 「ひかり宅配便」

    昔は小荷物輸送は国鉄が行っていた現在、宅配便といえば、クロネコヤマトに代表される宅急便や、佐川急便、郵便局のゆうパックと言ったあたりが三強ですが。ヤマト運輸が宅配事業に参入する前は、もっぱら小荷物輸送も国鉄がその任をになっていました。郵便局も扱っていましたが、6kgまでであり、再配達制度も無し。玄関に置き去り・・・みたいな配達の仕方であり、ちょっとした大きな荷物を運ぶとなると、駅まで荷物を運ばなくてはなりませんでした。到着した場合も同様で、駅から荷物到着の電話、もしくは電話がない家庭の場合は「はがき」で、荷物の到着が伝えられ、駅まで取りに行くシステムでした。まぁ、今から考えればなんともノンビリした時代と言えますが、昭和50年頃までの鉄道輸送のスタイルでした。国鉄が行った宅配便ひかり宅配便R昭和60年5月号から引...国鉄が行った宅配便事業「ひかり宅配便」

  • 線区経営改善研究会と国鉄ローカル線 第三回

    線区経営改善研究会が発足した背景長々と書いてきましたが、やっと経営改善研究会のお話をさせていただけることになりました。線区別改善研究会のお話をさせていただきます。国鉄では昭和39(1964)年の赤字決算となるのですが、その背景には、自動車の保有台数の増加という側面がありました。経済が発展し、可処分所得が増加することで、自家用車を保有する家庭も増えていきました。自家用車などの普及と相まって、昭和30年代に普及した割賦販売【いわゆるクレジット】が普及したこともあって、自動車を購入しやすくなったのも、一つの要因でした。また、高速道路の開通などで鉄道が陸上輸送における独占的輸送を占めることはなくなり、そのシェアも貨物を中心に少しずつ減らしていくこととなりました。昭和41年監査報告書から引用、昭和40年からの旅客輸送は長...線区経営改善研究会と国鉄ローカル線第三回

  • 線区経営改善研究会と国鉄ローカル線 第2回

    道路行政と鉄道行政本日は、道路法と鉄道行政に特化した部分でお話をさせていただく予定です。これ道路行政と鉄道行政ということで、少しお話をさせていただこうと思います。鉄道と道路の費用負担と言う視点で考えますと、鉄道が軌道その他の施設を一括して保有する反面その建設・維持はすべて自前ですることとされています。最近は鉄道建設は膨大な費用がいることから建設主体と運行主体を分ける上下分離方式が鉄道でも一般化していますが、従来の路線の多くは、私鉄・JRを含めて維持管理は鉄道会社で行われています。これは、明治初期の鉄道に成り立ちにその原因があると思われます。それは、鉄道建設は膨大な費用がかかりますが、開通後は独占的な利益を得られることから、その費用負担を事業者に委ねたと言えそうです。実際に、明治政府が主要幹線の経営を独占させて、...線区経営改善研究会と国鉄ローカル線第2回

  • 線区経営改善研究会と国鉄ローカル線 第一回

    国鉄と赤字ローカル線の問題国鉄の赤字は昭和39(1964)年度から始まりました。国鉄時代は黒字に転換することはなく【正確には、国鉄最後の決算、昭和61(1986)年度には特定人件費などを除けば黒字決算を行っており、国鉄最後の意地を見せたと言えそうです。さて、国鉄の赤字問題は、複雑な要素を含んでおり、労働組合が原因とか、ローカル線が問題と言った単純な問題ではありませんでした。特に初めて赤字決算を計上した昭和39年度の頃は下記のような複数の要素が絡んでいました。経済成長に伴う輸送力増強に伴う設備投資【新幹線の建設や首都圏の輸送力増強など】動力近代化などに伴う設備投資【北陸本線や山陽本線、東北本線などの電化など】赤字ローカル線問題踏切支障対策に関する投資といった大きな問題があり、それ以外にも、過度な通勤・通学に対する...線区経営改善研究会と国鉄ローカル線第一回

  • 観光団体専用列車のお話、事始め

    昭和36年から始まったオーダーメイドの団体輸送観光団体輸送列車は、当時の資料を探してみますと、昭和36年2月号の記事に次のような記述を見ることが出来ます。これは、36年3月のダイヤ改正で誕生したと書かれています。少し、本文から引用してみようと思います申し訳ありません、私の勘違いで、南紀観光団体専用列車には、ナハネ11が投入されたと書きましたが、これはその後の九州観光団体その他では確かに寝台車を使われているのですが、南紀観光団体列車は座席車による夜行列車でした。【昭和36年3月鉄道ピクトリアルで確認しました。】ここにお詫びして訂正すると共に、更に資料の精査を行えるようにしたいと思います。重ねてお詫び申し上げます。******引用開始団体旅客の輸送は、輸送力の不足している現在の国鉄にとって非常に難かしい問題である。...観光団体専用列車のお話、事始め

  • 遜色準急 第2摩周

    古い資料を探していて、大変面白い記事を発見しましたので、ここで披露したいと思います。鉄道ファン昭和36年12月号の記事で下記のような内容です。05準急快走す・・・キハ05という気動車は、キハ04と同じグループの車体であり、こうした気動車を準急列車に使ったと良いうのも・・・いやはやなんともという感じなのですが。国鉄のぼったくり商法だと書いています。苦笑キハ04幸い当時の時刻表などもありましたので、併せて確認してみますと。ありました、「準急第2摩周」という列車。途中で分割する普通列車だが・・・。鉄道ファン昭和36年12月号から引用この準急気動車の時刻表がありましたので、それを参照しますと、釧路16:00出発終着網走には、19:29となっていますが、途中の標茶駅で、キハ05を切り離します。切り離されたキハ05はそのま...遜色準急第2摩周

  • 陸送屋とキセル乗車

    昭和30年代、自家用車はメーカーから販売店には運転手が一台ずつ運転して配送していました。当然のことながら、帰りは車では無いので鉄道で帰ることになるのですが、このときにキセル乗車をしている輩が多発していたということで、問題になったという記事です。この記事によりますと、乗車券の使い回し、改ざんなどが行われていたようで、急行券などの日付などを改ざんして使っていたようなことが書かれています。なお、具体的にどのような手口があったのか、下記に関連する記事がありましたので引用させていただきます。国鉄線昭和40年8月号の記事から抜粋です。乗車券の使い回し、定期券と入場券による典型的な詐欺行為、他には、乗車券の偽造などもあるようです。今でもそうですが、キセル乗車は、通常運賃の三倍を請求されることになります。その根拠は、鉄道営業法...陸送屋とキセル乗車

  • 電子レンジ、名付け親は国鉄だった?

    電子レンジ、今では生活必需品とも言えますが。その開発は新しく、アメリカのレイセオン社のレーダー技師が偶然発見したといお話もありますが、同じ時期にマイクロ波兵器として日本でも大日本帝国海軍は海軍技術研究所と島田実験所(現島田理化工業の前身)にて、マイクロ波を照射して航空機などを遠隔攻撃するための殺人光線研究されていたそうで、文献によっては兵器からの民生品応用と言う記述をしている場合もありますが、いずれにしても歴史は比較的新しく、商品化としては、アメリカでは、レイセオン社が(1947)昭和22年に製造が開始され好評を博したと言われています。レイセオン社が、軍需製品メーカーであることから、電子レンジが民生品転用といわれるのかもしれません。日本でも同じような研究は上述のように行われていたものの小型化は困難を極め、日本に...電子レンジ、名付け親は国鉄だった?

  • 1960年代に検討された、コンテナ輸送とフレキシ・バン輸送

    昭和35年の国鉄線の記事から昭和35年3月号「さんだんまど」の記事から見つけたものをアップさせていただきます。現在の貨物輸送は、コンテナ輸送が一般的であり一部石油などで車扱い輸送が残るものの、コンテナ輸送が一般的です。昭和62年頃には、パルプ輸送などで車扱い輸送が行われていましたが現在は車扱いは石油が6割以上占めています。紙、パルプ等がコンテナ輸送に移行したことはコンテナ輸送品目内訳からも判別できます。輸送品目内訳JR貨物データから引用URLJR貨物データ昭和59年に大々的な輸送改変(ヤード系輸送からコンテナ輸送がメインに変更)されるまでは、貨物輸送のメインは車扱いと呼ばれる昔ながらの貨物輸送が一般的でした。ただし、ヤード系輸送は操車場の広い構内を必要とする上、貨車の入換組成に時間がかかるうえ、構内掛(係)のよ...1960年代に検討された、コンテナ輸送とフレキシ・バン輸送

  • 気動車 昔話 機械式気動車の話

    非電化区間を走る電車のことを一般的には「気動車(ディゼルカー)」と呼びますが。鉄道ファンの間では、気動車と電車は全く別物であることは周知のことですが、一般の人からすればみんな電車ですからね。苦笑液体式気動車さらに、昔の人だったら電車と言わず、汽車ですから。「記者は汽車で帰社した」・・・なんていう書き取りをした記憶がありますが、同じ音で漢字が違うので外国人泣かせですよね。特に中国人にしてみれば、なまじ漢字が似ているだけに余計に混乱するようです。気動車の方式は?さて、そんな無駄話はともかくとして、一般的に気動車と呼ばれるものは、液体式が圧倒的多数を占めています。最近は、電気式なんていうのも出てきていますが、まだまだ液体式があっと的多数を占めているようです。軽量化という点では電気式よりも有利であることに変わりはないで...気動車昔話機械式気動車の話

  • ローカル線の寝台車 ナロハネ10

    珍しい2・3等寝台合造車本日も国鉄線から見かけた記事からアップさせていただきます。昭和33年に中央線向けにナロハネ10と呼ばれる新型客車が誕生したと言う記事について書かせていただきます。ナロハネ10記事現在は、寝台列車と呼べるものは、サンライズ出雲・瀬戸に使われている。285系電車だけですが、新幹線等が無かった国鉄時代は数多くの寝台列車が運転されていました、特に高速道路もない時代、長距離の移動は鉄道の独占であり、また物流も充実しておらず、荷・貨物輸送も国鉄の大事な業務であったこともあり本線では、夜行列車が多数運転されていました。準急穂高に連結された寝台車当時の時刻表と思ったのですが、昭和33年の時刻表がない(昭和32年から昭和35年12月まで全くないので・・・(^^♪)のでその前後と言うことで、昭和31年12月...ローカル線の寝台車ナロハネ10

  • なんとも珍妙な気動車貨車、キワ90

    熱心な国鉄ファンの方なら、キワ90という貨車をご存じの方も多いかと思います。気動車を貨車と合体させました・・・みたいな。8mの車体床下にDMH17Cエンジンを積んだ2軸貨車でした。国鉄線、昭和35年の記事が載っていましたので、ここに披露させていただきます。この記事にも書かれていますが、妻線(現在は廃線)で試用されましたが、貨車としては中途半端な大きさであり、ワム車を2両けん引して20‰の勾配を20km/hで登れると計画されていますが。実際にはほとんど役に立たなかったようです。その程度の荷物なら、積替えの手間を考えるとトラックで運んだ方が効率が良いわけで、最高速度65km/hという制限を含めても本当に製作する意味が有ったの?と思わせてしまいます。国鉄部内誌、交通技術(s35年5月号)に、落成時の写真がありましたの...なんとも珍妙な気動車貨車、キワ90

  • 串本節こぼれ話

    串本節はとある理由から全国区になった和歌山の串本町は、潮岬を町内に持つ本州最南端の町ですが、勝浦と白浜の間に挟まれた町になります。そこで古い国鉄の部内誌を見ていますと、面白い記事を見つけましたので、ご覧いただこうと思います。串本と言えば、民謡の串本節というのがありますが、串本節が日本中に広まるきっかけとなったのが、下記のような理由だったそうです。この記事では、日本三大民謡と書かれていますが、最近は三大民謡と言わないようですね。さて、この記事によりますと、元々は、荒天がきっかけになったと書かれています。本文から引用しますと大正13年6月、アメリカの水上飛行機が世界一周で串本へ着水する予定と言うことで、新聞記者やカメラマンが30人ほど待機したが悪天候のため、飛行機は来訪しないまま10日ほど足止めされてしまい、そこで...串本節こぼれ話

  • 新生活運動と国鉄

    新生活運動と言う啓発活動若い人はご存じないかもしれないが、その昔新生活運動と言うものが積極的に行われている時代がありました。歴史を紐解いてみますと、昭和30年(1955)鳩山一郎首相が提唱した、「みずからの創意と良識による日常生活向上運動。」がその根本であり、その趣旨は下記の通りでした。戦争で荒廃した祖国や郷土再建のため、全国各地で、青年団体や婦人団体が活動の中心となって旧来の因習打破、環境衛生の改善、さらには生活や社会を合理化、民主化していくことで町や村を再建していこうとする「新生活運動」この運動を基本に、昭和31年には「財団法人新生活運動協会」が設立(現在は「公益財団法人あしたの日本を創る協会」と言う名称)が設立され現在に至っています。上記の新生活運動協会とを受けてであろうが、国鉄でも昭和31年12月13日...新生活運動と国鉄

  • グリーン車のお話

    グリーン車と1等車現在はグリーン車という言い方をしていますが、今から50年近く前の1969年5月の運賃改定で従来の2等級制を廃止して、運賃を1本化するとともに旧の1等車は特別車両としての使用料金を徴収する方式に変更したのでした。それ以前は、2等運賃の約2倍が1等料金と定められていました。計算上も面倒であったことや実質的な値下げ(長距離ではかなり安くなった)こともあり、昭和44年5月から昭和45年3月までのグリーン車乗車人員を前年同期の旧1等車乗車人員と比較すると1240万人に対して1600万人となり29%増加した。と国鉄の監査報告書では書かれています。等級制が廃止されて。運賃のみのシンプルな構成になった運賃表示これに、更に特別車両料金が付加される計算方式となり窓口事務の簡素化も図られることになりました。さて、当...グリーン車のお話

  • 寝台車と毛布の話 ヨンサントウとサービス向上

    皆様今晩は、本日も国鉄線の記事から少し興味の持っていただけそうなお話をさせていただこうと思います。5月1日からJR東日本による四季島が運転を開始しました画像Wikipedia現在、寝台列車を連結した列車はこうしたリゾートトレインの他にはサンライズ位ですが、昭和40年代にはまだまだ全国で数多くの寝台列車が運転されていました。昭和45年10月時刻表から昭和43年10月の「国鉄線」と言う部内誌lで見かけた内容から、ちょっと面白いものをアップさせていただきます。この記事では、それまで管理局単位で調達し、仕様もバラバラであった寝台車に使用する毛布の仕様を本社で、材質・形状・寸法に至るまで統一して旅客サービスの向上を図るとともに、作業性を向上させたと言う記事です。国鉄時代は結構、管理局単位で仕様等を決めて調達すると言う例が...寝台車と毛布の話ヨンサントウとサービス向上

  • 秋葉原と力士の意外な関係

    秋葉原と力士の意外な関係秋葉原と言えば今は、電気街というよりもヲタクの街、もしくは萌の街とでも表現するほうがわかりやすい秋葉原駅ですが、昭和60年代までは電気の街としての印象がありました。元々秋葉原駅は上野駅の貨物を扱を分離することを目的に建設されたもので、更に辿れば、元々は貨物駅しかない地味な場所であったそうです。秋葉原駅が、建設されたのは、明治23年11月1日であったそうです。秋葉原と力士の意外な関係現在と異なり、荷物の積み下ろしなどは当然のことながら人力だったのですが、そうした荷物の積み下ろしをしていたのが意外なことに力士でした。元々、大相撲の起源は、両国にある回向院と言う浄土宗のお寺だそうです。ここで1781年(天明元年)以降には、境内で勧進相撲が興行されたそうで、力士も多く出入りしていたのでしょう。秋...秋葉原と力士の意外な関係

  • 旅客車の座席番号の付け方改正・・・昭和34年の部内誌の記事から

    本日は昭和34年の国鉄線の記事から、座席指定車の方式を変更したと言う記事がありましたのでそれをアップさせていただこうと思います。鉄道が陸上の輸送機関を独占していた頃、特に長距離の移動は国鉄の独壇場と言っても過言ではなく、特急列車は全列車、急行列車の2等車(現在のグリーン車)及び一部の急行・準急列車には指定席が設けられていました。ただ、昭和34年頃は、未だ指定券の発行は手作業で行われており、回転式のテーブルに載せられた台帳を引き出して、ここに消し込んでいく方式で、聞き間違いやダブル発券と言った事例は多々あったと言われています。交通技術昭和55年4月号の記事から引用また、それに輪をかけていたのは、座席番号の指定方法が下記のように4つに分かれていたことも問題でした。1)4人ボックスを一つの升に見立てて、マス単位で指定...旅客車の座席番号の付け方改正・・・昭和34年の部内誌の記事から

  • 国鉄形車両の座席の色は?

    国鉄形車両の座席の色を覚えていますか?国鉄が解体されて30年、JR西日本などでは未だ国鉄形車両が活躍していますが、JR東日本やJR東海では早々と新型車両に置換えた会社もあり、特にJR東海はその資金力もあってか国鉄形を完全に淘汰、さらにJR第1世代のキハ85も置換えの対象に入ってきたということで、そうなると383系の置換えの方がJR西の381系「やくも」より早くなるかもしれないですね。まぁ、そんな余談はさておき。客車の座席の色覚えていますか?青色でしたよね。青色の座席が一般的でしたね。思い出しましたか?実はこの青色のモケットも変遷が有りまして、私の記憶が正しければ昔は純毛だったのですが、北陸トンネルの火災事故でモケット類の難燃化が指針としてだされて、化繊系のモケットになって手触りがあまりよくなかったように記憶して...国鉄形車両の座席の色は?

  • みどりの窓口、よもやま話

    みどりの窓口と言えば?座席マークで書かれたマークで指定券を発売するコーナーと言うことで表示がなされるようになりました。画像は、神戸駅のみどりの窓口の案内板であり、Ticketsの他にハングル並びに、簡体字(中国語)で書かれています。個人的には、Ticketsだけで事足りると思うのですが・・・実際、中国に行った際北京空港でも「行李」「Baggage」程度の表示しかなくて、日本のように4か国語でと言うのは珍しいというか、そこまで必要あるのかといつも思ってしまいます。さて、余談はさておき、「みどりの窓口」では、列車の指定券を中心に窓口で対面販売される切符売り場であり、ICOCA、SUICA等のICカードが普及した現在ですが新幹線の切符などでよく並んでいるのを見かけます。さて、みどりの窓口が誕生したのはいつでしょうか?...みどりの窓口、よもやま話

  • 昭和30年代の定期券のお話

    昔の定期券は、一般・通勤・学生の3種類皆さんこんにちは、久々に更新させていただこうと思います、今では定期券と言えば大きく分けると通勤用と学生用、更に学生用は、大学生用(専門学校などを含む)・高校生用・中学生用・小学生用と分かれており小学生用は小児運賃なので別とすれば同じ大人運賃であっても、大学生と高校生、中学生で3種類の運賃があることになります。調べてみますと昭和28年1月15日に、今まで制度として残していた、2等通勤定期を廃止して、2等・3等普通定期券と言う制度を採用したそうです。これにより、3種類の定期券制度が出来たわけですが、それを再び2種類に戻しても良いのではないかと言う意見が掲載されていました。ちなみに2等と言うのは今でいうグリーン車のことであり、グリーン車利用の通勤定期券と言う制度を廃止して、2等・...昭和30年代の定期券のお話

  • 昔のDMV(デュアル・モード・ビークル)

    阿佐海岸鉄道が導入を進めるDMV以前ニュース記事で読んだのですが、阿佐海岸鉄道では、終点の甲浦駅から、室戸岬を結ぶ交通手段としてDMVを考えているとのことです。これが実現すれば、DMVの活用は、初となります。地方のローカル線問題の一つの切り札ともなるとなりそうです。画像wikipedia阿佐海岸鉄道のDMVのお話は、後日詳しくさせて頂きます。今回は、今から50年ほど前(昭和37年)に試作された、鉄道・陸上両用バス、英語の両生類を表す、アンヒビアン・バスのお話をさせていただこうと思います。バスそのものの車体まずこの写真を見ていただきましょう、バスの両側に鉄道用の台車が乗った何とも不思議なスタイルをしています。国鉄線昭和37年8月号の記事から引用させていただいたものですが、これによると国鉄バスを改造したものだそうで...昔のDMV(デュアル・モード・ビークル)

  • 交通公社の古い広告から

    昭和二七年の国鉄線と言う時刻表の裏側の広告に、交通公社(現JTB)に案内係が登場したと大々的に広告が載っています。ラナー・・・ランナーではなく、直訳すれば使い走り、伝令と言う意味だそうですが、現在の窓口に見られる案内係とは異なり、営業担当に相当するようで、当時の記事を見ますと、ラナーの仕事は「送迎、伝言、誘導案内、交渉、その他」ということで旅行の添乗員に営業担当の仕事が付加されたような内容だったのでしょうか。昭和27年当時は国鉄自らが営業を行うと言ったことは考えにくく、交通公社によるこうした制度は国鉄と言う公共企業体(実質的には戦前の鉄道省と同じ感覚でしたが、収支のバランスを図り営業を行うことも多少は意識していましたので、こうした係員の存在は国鉄にとってもメリットがあったと言われています。昭和27年国鉄線昭和2...交通公社の古い広告から

  • グリーンシートのお話

    グリーンシートのお話皆様、こちらの投稿はほとんど放置状態になってしまいまして申し訳ありません。ちょっと面白い記事を見つけたのでアップさせていただきます。グリーン車ではなく、グリーンシートのお話今回はグリーンシートのお話・・・グリーン車ではありませんので早合点しないでくださいね。昭和33年12月号の国鉄線からのお話ですから。昭和33年といえばまだ等級制を採用していた頃で、1等・2等・3等という表現がなされていました。昭和33年当時1等車と呼ばれるものは展望車のみであり、着実に国鉄としてもサービス向上は進められていました。特別2等車と普通の2等車が存在した2等車にあっては進駐軍の命によりリクライニングシート付の2等車(特別2等車)があり、元々1等車としたかったのですが連合軍の許可が下りず、2等車扱いになったのですが...グリーンシートのお話

  • 在来線における、車掌長制度の新設について

    本日は、車掌長のお話です。昔の鉄道雑誌等を読んでいますと、車掌長以下専務車掌・何名と荷物専務車掌が乗り組み…と言った記述をよく見かけたので、車掌長と言う制度は昔からあったと思い込んでいましたが、新幹線では、開業当初から有ったのですが、在来線では、昭和48年の6月1日まで存在しなかったそうです。これは正直意外だったのですが、「国鉄線・昭和48年9月号」に下記のように書かれています。車掌長の新設の理由について下記のように書かれています。少し長いですが引用させていただきます。目的飛行機には機長がおり、船には船長があるように、列車には列車長をつくるべきであるとの主張がなされて、既に久しく、今回、全国の優等列車を対象に「車掌長」を新設することとした。これは近年、輸送需要の変化に伴い特急を主体とした優等列車の増発が著しく、...在来線における、車掌長制度の新設について

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