(黒鉄黐愛知県幡豆郡吉良町友国字松下2006年12月15日)モチノキ科の常緑樹であり、吉良の保存木となっている。友国のクロガネモチ
(東京都渋谷区)宇田川と隠田川の合流点から始まる渋谷川は、都会の谷底を裂くかのように南下し、笄(こうがい)川合流点から古川となる。長らく水辺が放置されてきた渋谷では、再開発と共に見直しが図られている。渋谷川
(愛知県幡豆郡吉良町酒井2006年12月15日)時宗本山清浄光寺の僧徳阿弥は、還俗してこの地の酒井忠則の養子となり酒井親氏となって広親が生まれた。然し、広親の母が早く亡くなったため、広親は酒井家に残し、親氏は賀茂郡松平信重の養子となって松平親氏となった。酒井氏は後に徳川四天王筆頭となっている。酒井氏発祥地
(東京都千代田区麹町)江戸時代から商業で栄えたという半蔵門から四谷に至る通りである。麹町大通り
(神戸市中央区北野町・山本通重要伝統的建造物群保存地区)北野町山本通
(東京都渋谷区神宮前)原宿の一角にある神社は、元薩摩藩士で元帥海軍大将であった東郷平八郎を祀る神社である。東郷神社
(神戸市中央区元町通2006年12月12日)阪神淡路大震災で被災したこの建物は、昭和61年(1986)三越神戸店の跡地にホテルとして誕生した。平成2年(1990)西館(写真建物)、東館が増築されたが、平成7年(1995)1月17日に発生した直下地震により、本館、東館は再開不可能な被害を受けた。周辺の古い時期に建てられたビルより被害が大きかったことから調査が行われ、百貨店時代の基礎が十分に撤去されなかったことが被害を大きくしたのではないかとされて、施工会社と運営会社、所有会社とで係争状態となった。本館は解体が開始されたが、比較的被害の小さかった西館は補修の後、再利用される予定となっている。HotelCherena
(東京都江東区)北十間川から分かれ、竪川、小名木川、仙台堀川と交差し、大横川に合流する、万治二年(1659)に開削された運河である。横十間川
(兵庫県姫路市駅前町2006年12月12日)平成元年(1989)から開始された姫路駅付近立体交差化事業は、山陽線の切り替えが終了し、播但線、姫新線ホームの高架化が始まる。それに先立ち構内の発掘調査が行われる予定となっている。姫路駅改築
(川崎市高津区久地)二ヶ領用水の傍らに祠がある。かつてこの場所から多摩川霞堤まで横土手と呼ばれる堤防があった。これは下流側にある二ヶ領用水の樋を守るために築造された堤防であったが、この堤防により周辺に洪水が広がるため完成することはなかった。久地横土手
(愛知県岡崎市中町北野東2006年12月10日)永禄九年(1566)岡崎城白山郭の新田白山神社別当職慶安周賀が開山したものという。その際、周賀の姪で徳川家康の乳母の局の尽力によるとされ、局の文字を瓦に用い局寺と呼ばれた。天正三年(1575)現在地に移転している。大雲山極楽寺
(川崎市高津区久地)多摩川中野島、宿河原で取水された二ヶ領用水は、久地地内の久地円筒分水で川崎堀、根方堀、六ヶ村堀、久地・二子堀に分水され、多摩川右岸を潤した。二ヶ領用水久地
(愛知県新城市乗本2006年12月8日)平安時代に宝飯郡より分離した設楽郡は、周智郡、磐田郡、伊那郡と接し、三河国、遠江国、南信濃の国境いの交流が盛んであった。設楽郡は明治に入ると南北に分かれ、八名郡と合わせて八楽地域と呼ばれた。その八名郡も昭和の大合併により消滅し、南設楽郡も平成の大合併により消滅した。乗本は、設楽と八名の境にあった集落である。三遠南信八楽
(東京都大田区田園調布本町)多摩川の左岸側用水である六郷用水は、地名からの丸子川、用水奉行であった小泉次大夫から、次大夫堀とも呼ばれた。この付近は往時より規模が縮小され、親水整備されている。六郷用水沼部
(愛知県新城市有海・長篠・乗本2006年12月8日)下流から遡ると長篠城跡で二つに分かれる豊川(とよがわ)。そこに架かる渓谷の橋が二つある。大正12年(1923)鳳来寺鉄道によって架けられた寒狭川橋梁と、昭和5年(1930)に乗本(のりもと)と有海(あるみ)を結んだ牛淵橋である。寒狭川橋梁と牛淵橋
(東京都港区青山)青山霊園に大日本帝国陸軍大将であった乃木希典(のぎまれすけ)の墓がある。明治天皇が崩御し、大喪の礼が執り行われた日の夜、夫人と共に自刃した。乃木希典墓所
(天台宗大日山観昌院岐阜市美江寺町2006年12月6日)寺伝によると、養老三年(719)元正天皇の勅願により、本巣郡十六条(瑞穂市美江寺)に創建したのが始まりという。永正三年(1506)土岐成頼によって伽藍が造営され、その後、天文十八年(1546)稲葉山城の裏鬼門に位置する現在地に、齋藤道三によって移転されたという。美江寺観音
(東京都江東区白河)住宅地の狭間に鎮座する白笹稲荷は、神奈川県秦野市の白笹稲荷神社から勧請されたものという。また、隣接して建つ小堂は、明治12年(1879)当地の生田岩次郎氏が溝の中から石地蔵を発見し、祀ったのが始まりである。白笹稲荷神社と生田地蔵尊
(岐阜市司町2006年12月6日)旧県庁に隣接する旧岐阜大学医学部附属病院は、明治8年(1875)に岐阜県公立病院として開設され、翌年この地に移転したことに始まる。平成16年(2004)閉鎖時点で残された建物は、昭和29年(1954)南病棟、昭和31年(1956)北病棟、昭和36年(1961)中病棟、昭和40年(1965)看護婦宿舎がそれぞれ築造され、昭和42年(1967)には、当時岐阜県立医科大学附属病院であった施設を国立移管し、岐阜大学医学部附属病院となった。そして昭和45年(1970)放射線治療棟、外来診療棟、昭和47年(1972)病棟(東側・第1期工事)、昭和48年(1973)病棟(西側・第2期工事)、昭和51年(1976)中央診療棟、昭和61年(1986)リハビリ棟、平成3年(1991)MRI-CT装...旧岐阜大学医学部附属病院
(東京都江東区白河・高橋・森下)昭和5年(1930)築造のトラス橋、西深川橋(長さ56m,幅14m)からの光景。小名木川西深川橋
(岐阜市御手洗2006年12月6日)昭和7年(1932)に築造された、忠節用水の長良川分水樋門である。平成4年(1992)制御室上部に耳状の突起物が取り付けられ、よりロボット感が増している。ロボット水門
(東京都江東区森下・高橋)森下文化センターのある場所は、近代陶磁器の製造所があった場所である。その一つ瓢池園陶磁器工場は、明治6年(1873)浅草芝崎町の磁器製造所御用係であった河原徳立が、同所の廃止を機に、この地に陶磁器絵付工場を開いた。然し、明治29年(1896)に深川東元町(江東区高橋)へ移転した後、愛知郡鷹場村(名古屋市西区則武)に製造拠点を移し、明治37年(1904)日本陶器合名会社(ノリタケ)に合併した。もう一つ、旭焼陶磁器窯は、ドイツ人ワグネルが確立した絵付法などによる新しい陶磁器窯であり、明治16年(1883)東京帝国大学理学部において釉薬の下に様々な色彩の絵柄を施す研究を開始し、明治23年(1890)渋沢栄一や浅野総一郎らの出資をうけて深川東元町に旭焼の製造所を開いたが、明治30年(1897)...近代の輸出陶磁器製造所跡
(愛知県一宮市木曽川町黒田字宝光寺東国登録有形文化財2006年12月6日)大正13年(1924)に築造された、木造2階建の議会堂である。平成17年(2005)葉栗郡木曽川町が一宮市に合併されたのを機に、山内一豊、浅野長政、兼松正吉、奥村永福等の一宮市ゆかりの戦国武将を紹介する木曽川資料館として利用された。旧木曽川町議会堂
(浄土宗道本山東海院東京都江東区白河)寛永元年(1624)雄誉霊巌によって霊岸島(中央区新川)に創建したのが始まりである。然し、明暦の大火により焼失し、現在地に移転した。境内には享保二年(1717)に建立された、江戸六地蔵の一躰である銅製地蔵菩薩像(都有形・像高2.73m)がある。地名の白河は、同寺に墓がある松平定信が白河藩主であったためである。霊巌寺と江戸六地蔵
(東京都品川区南品川・東大井)この地に仙台藩伊達家下屋敷があったことから、その前の坂を仙台坂と呼ぶようになった。現在のトンネルは、昭和63年(1988)に築造されたものである。品川仙台坂
(愛媛県今治市2006年11月30日)今治港平成十八年
(東京都品川区東大井・南品川)関東では運転免許試験場で知られる鮫洲。地名の由来は、鎌倉時代に品川沖で大鮫が死んで浮いているのを漁夫が見つけ、鮫の腹を割くと聖観音の木像が出現した。この聖観音は鮫洲観音と呼ばれ、観音像を祀るため北条時頼により補陀落山海晏寺が創建されている。鮫洲
(愛媛県今治市別名2006年11月30日)河野氏祖越智玉澄は伊予国越智郡大領(郡司長)で、別名(べつみょう)の地に館を構えていた。玉澄は大三島大山祇神社の社殿造営や、和銅五年(712)には別宮大山祇神社(今治市別宮町)を勧請。養老元年(717)には宇摩郡に三島神社を勧請(旧伊予三島市、現四国中央市)、天平元年(729)には温泉郡(松山市)の石手寺を再建している。玉澄の二男安元は大山祇神社の大祝(おおほうり)職となり、三島氏の祖となった。天平十九年(747)玉澄が没し、この別名の地に墳墓を造った。その墳墓の上に植えられたのがこの大楠といわれ、今でも「玉澄さんの楠」として親しまれている。玉澄廟
(川崎市高津区坂戸)二ヶ領用水からやや離れた路傍には寛政五年(1793)に建てられた石橋供養塔がある。昭和16年(1941)までこの位置に二ヶ領用水があり、そこに架かる石橋の安泰と通行人の安全を願って建てられた。用水流路が蛇行していたため、現在の直線流路に付け替えられ、跡地は遊歩道として今に至っている。坂戸石橋供養塔
(愛媛県今治市小泉2006年11月30日)かつての遍路道の傍らに、忘れられた弘法像が佇む。路傍の石仏
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