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2006/09/29

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  • 原宿駅舎

    (東京都渋谷区神宮前)大正13年(1924)山手線原宿駅移転に際し築造された、木造平屋建塔屋付、ハーフティンバー様式(柱梁が露出)の駅舎である。長らく原宿の玄関口として時代の変化を見続けてきたが、新駅舎築造により動向が注目される。原宿駅舎

  • 井田八幡宮

    (愛知県岡崎市井田町中屋敷2007年1月9日)誉田別尊(ほむたわけのみこと)を祀る。創始は不明であるが、井田城主酒井氏が享禄元年(1528)に再建したと伝わる。井田八幡宮

  • 港南

    (東京都港区港南)明治時代に埋め立てられたこの地は、品川駅の東、港区の南端に位置し、昭和40年(1965)までは高浜と呼ばれた。海岸側は下水処理場や屠畜場が設置され、駅に近い場所は貨物操車場がされたが、操車場は昭和55年(1980)に廃止されて、後に住居、オフィス、商業施設が入る品川インターシティや品川グランドコモンズが再開発により誕生した。港南

  • 井田坂

    (愛知県岡崎市井田町2007年1月9日)井田坂

  • ノアビル

    (東京都港区麻布台)桜田通りと外苑東通りの交わる飯倉の交差点に楕円形の黒いビルがある。昭和49年(1974)に竣工した、SRC造15階地下2階塔屋付、延床面積10,386m2のオフィスビルである。角地という立地と、黒い壁、窓が小さいことにより、形状とサイズ感が他のビルとは違う。ノアビル

  • 小望天満宮

    (愛知県岡崎市昭和町天神2007年1月9日)旧碧海郡小望(こもう)村の鎮守である天満宮は、享保五年(1720)原田弥右衛門という武士が、真菰(まこも)の生い茂る土地を有志と共に開墾して数十町歩の田を作りその地を「真菰村」と称し、享保七年(1722)鎮守として祖先の菅原道真を祀ったのが始まりという。小望天満宮

  • 飯倉熊野神社

    (東京都港区麻布台)養老年間(717-24)芝浜に鎮座したのが始まりという。その後現在地に遷座し、文明年間(1469-87)太田道灌により再建されたと伝わる。飯倉熊野神社

  • 有海岩倉神社

    (愛知県新城市有海字小呂道2007年1月5日)有海(あるみ)村の鎮守であるこの神社は、誉田別命(ほんだわけのみこと)を祀るが、境内には古神道の信仰対象物である磐座(いわくら)があり、自然崇拝から始まったことが分かる。有海岩倉神社

  • 八雲の石地蔵

    (東京都目黒区八雲)氷川神社の参道脇に石仏を祀る祠がある。中の石仏は地蔵であるが、原形を留めず顔の表情すら分からない。これは、参拝者が自分の痛い場所と同じ地蔵の場所を擦ると治るという言い伝えにより、すり減ったものである。八雲の石地蔵

  • 第二東名予定地

    (愛知県新城市乗本・有海2006年12月27日)間もなく第二東海自動車道の築造工事が始まる。これにより長篠の戦いの中山砦が失われ、新昌寺境内の鳥居強右衛門墓が分断される。予定地には樹木にビニールテープが巻かれ、変わるときを待っている。第二東名予定地

  • 鉄砲坂

    (東京都港区西麻布・南麻布)坂の下に江戸幕府の鉄砲練習場があったことに由来する。鉄砲坂

  • 大晦日の岐阜

    (2006年12月31日)背後には金華山岐阜城大晦日の岐阜

  • 日本橋川神田橋

    (東京都千代田区内神田・神田錦町・大手町)日本橋川に架かるこの橋は、かつて神田明神がこの場所に鎮座したことに由来し、江戸城拡張により外神田の現在地に遷座した。この場所には江戸城神田橋門が設けられ、また、門前に土井大炊頭(おおいのかみ)利勝の屋敷があったことから、大炊殿橋の別名がある。明治6年(1873)門が撤去され、明治17年(1884)に架け替えられている。関東大震災によって焼失し、大正14年(1925)KR形式(ラーメン構造)橋に架けられたが、現在の橋は昭和55年(1980)に架け替えられたものである。日本橋川神田橋

  • 山内一豊出生地と法蓮寺

    (愛知県一宮市木曽川町黒田字勘治西2006年12月31日)天文十四年(1545)織田氏臣山内盛豊の三男として、当地黒田城で生まれたと伝わる。また、岩倉出生説も存在する。一豊の父盛豊と兄十郎は、戦乱により討死し、一豊はその後豊臣秀吉臣となり、長浜城、掛川城の城主となっている。関ヶ原の戦い後は高知城の城主となった。明応二年(1493)年創建の日蓮宗妙王山法蓮寺境内には、盛豊と十郎の墓がある。山内一豊出生地と法蓮寺

  • 湘南海岸

    (神奈川県藤沢市)湘南海岸

  • 谷下川

    (やげがわ愛知県新城市乗本2006年12月27日)姥ヶ懐の麓、豊川水系宇連川に注ぐ川である。谷下川

  • 仏行寺

    (神奈川県鎌倉市笛田)明応四年(1495)梶原景時と子の景季(かげすえ)は、源頼朝の死後御家人の弾劾に遭い鎌倉を追放され、駿河国で討死した。その死を悲しんだ景季の妻信夫(しのぶ)はこの地で自害したとされ、信夫の霊を慰めるため村人が日蓮宗笛田山仏行寺を建てたとされる。仏行寺

  • 茂松城

    (高坂城愛知県宝飯郡御津町広石町指定史跡2006年12月21日)平安時代末期、三河守護源範頼が居城したのが始まりという。室町時代には細川勝久が居城したが、御馬城と同様、今川義忠により功略された。その日が小正月の「もちい」(餅でつくった花)で祝う日であったことから、村ではその後もちい飾りをしなくなったといわれている。その後、牧主計、菅沼定盈、長沢松平氏が居城し、天正十八年(1590)廃城となった。近隣の竹本(新宮)城も関連の城であったようである。城跡は御津高校の東側、標高60mに位置し、堀、土塁、曲輪、井戸が残る。南側の山裾は、都市計画道国府駅前赤根線によって削られたが、遺構としては、ほぼ当時の姿を残している。茂松城

  • 浅草地下街

    (東京都台東区浅草)昭和30年(1955)1月に開業した、現存する地下街としては日本最古である。浅草地下街

  • 野口城

    (愛知県豊川市野口町2006年12月21日)鎌倉時代、足利義氏が三河国守護となり、一族の足利義季(よしすえ)が額田郡細川(愛知県岡崎市)に住し、姓を細川に改めたことに始まる。義季から四代後の頼有のとき、この地方に勢力を伸ばし、応安二年(1369)先ず御馬城(御津町)を築いた。そして永徳二年(1382)の細川信氏寄進状には、宝飯郡市田(豊川市)に所領があったことが確認できる。その市田付近には頼有の曾孫、教春が永享の頃(1429-40)野口城、市田城を築城し、頼有の弟満之の曾孫、勝久が茂松城(御津町)に居城した。細川氏の後、今川氏臣の板倉主水、印宮甚蔵らが居城した。野口城は標高約70mの「城山」に本丸、二の丸及び曲輪、堀、土塁、堀切等が残るが、西側はゴルフ練習場により一部滅失している。元豊川市教委の長谷川高雄氏が、...野口城

  • 千束

    (東京都台東区千束)浅草の北西側、千束分の稲を収穫できる田があったからとされるこの地は、東に吉原を有し、周辺とは若干趣が違う雰囲気が漂う。千束

  • 小牧神明社

    (愛知県幡豆郡吉良町小牧字宮西2006年12月15日)矢作古川と矢崎川に挟まれたこの地は、戦国時代には隣接する駮馬村の吉良氏東条城を攻めるため、松平元康臣の本多広孝が砦を築いた場所である。その小牧村の鎮守が神明社である。小牧神明社

  • かっぱ寺

    (曹洞宗巨嶽山曹源寺東京都台東区松が谷)天正十六年(1588)日比谷入江(千代田区和田倉付近)に創建したが、間もなく江戸城拡張により湯島天神下に移転。然し、明暦の大火により焼失し、現在地に移転した。付近は水捌けが悪く度々水害に遭ったため、商人である合羽屋喜八が私財を投じて新堀川(現在の合羽橋商店街)を開削した。その際、隅田川に棲むカッパが手伝ったと伝わる。文化十一年(1814)喜八が亡くなり、この曹源寺に葬られた。かっぱ寺

  • 藤波畷古戦場

    (愛知県幡豆郡吉良町瀬戸字藤波2006年12月15日)永禄四年(1561)松平元康(徳川家康)が吉良義昭の東条城を攻め、落城させた。その際、吉良氏の家老富永忠元を本多広孝が討ち取っている。藤波畷古戦場

  • 道三堀跡

    (東京都千代田区大手町)昭和37年(1962)築造の日本ビルが建つ場所は、天正十八年(1590)江戸城に物資を運ぶため和田倉門から日本橋川まで開削された運河があった場所である。明治43年(1909)に埋め立てられている。堀に面して幕府侍医曲直瀬(まなせ)道三の屋敷があったことから道三堀と呼ばれるようになった。付近は高度成長期に再開発が行われたが、再び再開発が計画され、日本一の高層ビルが建設されることになっている。道三堀跡

  • 四極山遠望

    (しはつやま愛知県幡豆郡吉良町駮馬2006年12月15日)万葉集巻三(二七二)高市連黒人(たけちのむらじくろひと)が詠んだ一首に、「四極山打越見者笠縫之嶋榜隠棚無小船」があり、その四極山がこの山という説がある。四極山遠望

  • 裏吉田ノラねこ通り

    (横浜市中区吉田町)平成30年まで「おいしんぼ横町」と呼ばれていたこの路地は、個人経営の店が多いことに因み「ノラねこ通り」と改名された。野毛から伊勢佐木町への裏通りである裏吉田ノラねこ通り

  • 東条八幡神社

    (愛知県幡豆郡吉良町駮馬字城山2006年12月15日)吉良氏発祥地、東条城二の丸に建つ八幡神社は、建長年間(1249-55)足利義氏によって城の守護神として八幡大菩薩が勧請されたものという。東条八幡神社

  • 大岡川宮川

    (横浜市中区)かつて野毛浦であったこの辺りは、明治時代に入ると埋め立てられて大岡川の下流部ができた。都橋の袂には子之神社が祀られ、その傍らには宮川という水路があり、宮川町という地名が付けられた。然し、空襲により神社は焼失し、伊勢山皇大神宮(西区宮崎町)に遷座して、水路も暗渠となった。昭和39年(1964)には大岡川沿いの露店を集めた都橋商店街(ハーモニカ横丁)ができ、辺りの光景は特徴的なものとなった。大岡川宮川

  • 友国春日神社

    (愛知県幡豆郡吉良町友国字松下2006年12月15日)社伝によると暦応2年(1339)足利尊氏が荒川在城の際、当地において高五百五十石の厨屋新田を開拓した。そこには伊井塚があり、同所には鎮守として大和春日社より分霊を勧請し、伊井塚大明神を創建した。また、応永七年(1400)足利義満参拝の時、四海太平子孫繁栄を祈って獅子頭、王鼻面の奉納があったという。友国春日神社

  • 中田喜直住居跡と景丘ちいさい秋公園

    (東京都渋谷区恵比寿)「ちいさい秋見つけた」や「めだかの学校」「雪の降る街を」等の作曲で知られる同氏はこの地に居住していた。父の中田章も早春賦を作曲し、兄の中田一次もファゴット奏者である。喜直はこの地に大正12年(1923)から昭和43年(1968)まで居住した。宅地跡であるため面積236m2と小さなこの公園の名前、景丘(かげおか)は旧字「欠塚」を瑞祥地名にしたものであり、昭和3年(1928)から昭和41年(1966)まで使われた景丘町に由来する。そして、同氏の作曲「ちいさい秋見つけた」と組み合わせられたものである。中田喜直住居跡と景丘ちいさい秋公園

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